龍之介の揺れる心
翌日、龍之介は兄に会うために上屋敷へ来ていた。
「あの利久は、確かに堺を拠点として行商をしていた。反物は京から仕入れているそうだ。最近は頻繁に江戸と堺を行き来している」
「はあ・・・・・・」
龍之介が兄に対して、気のない返事をしていた。滅多にないことだった。
「どうしたのだ。元気のない」
それに気づいた正重が怪訝そうに言う。
「はっ、申し訳ございません。実を申しますと雪江が・・・・・・昨日から口を利きませぬ。もうあの家に行くなと言ったらプイッと背をむけて怒りまして・・・・・・」
正重にその様子が想像できたのだろう。笑いを我慢している。
「雪江があの家に行っても別段、不都合はなかろう。あの利久の妻女、あと三月もつかどうからしい。うちの藩医がそう言っていた。咳止めくらいしか、楽にする方法が見つからんとこぼしていたな」
「あと、三月でございますか」
龍之介がお光を思い出していた。雪江をむかえに行ったときにいたあの妻女。はかなげな笑顔を向けていた。そう言えば、顔色も悪く、体調も悪そうだった。
「それならば雪江が通ってもどうにもならぬこと。返って通いつめればますますつらくなるのではありませんか」
龍之介は誰にとでもなく、心の内を吐き出す。だから強い口調となっていた。
「それはそうだ。だがな、考えようによれば、あと三月、雪江の気の済むようにさせてやったらどうかと思ってのう」
龍之介は兄に目を剥く。
「兄上は、あそこへ雪江を行かせても平気なのですかっ」
あの利久はやはり只者ではなかった。今まで係わった忍びとは全く違っていた。普通の武士ならば、全く気がつかなかっただろう。そこまで町人に溶け込めるあの技が恐ろしかった。
正重は、珍しく感情をむき出しにしている龍之介を黙って見ていた。龍之介が興奮していれば、冷静な話ができないから待っているのだった。
それに気づき、大きな息をした。頭を冷やす必要があった。
「申し訳ございません。もう、大丈夫かと・・・・・・」
しばらくして龍之介がそうポツリと言った。
正重は、値踏みをするかのように、こっちの顔を見ていた。
「あのお光という妻女の様子、雪江たちの世界では早期に摘出すれば、助かる命も多々あるとのことにございます。しかし、ここではまだそれは無理で、その病いの存在を知った時から自らの命の火が消えるまで、ずっと抱えたまま生きていかなくてはなりません。きっと雪江は、そんなお光の死にゆく心を感じ取ったのでございましょう。それに同情しているのです」
「うむ、そうであろうな。あの雪江のことだ。気になったらもうそのことで頭がいっぱいになる。火事のこともそうだった。だから後先を考えずに飛び出して行った」
「はい」
「ならば、できるだけの手を尽くし、雪江の思うままにさせてみてはどうか。行くなと言えば行きたくなる、それは人の常よ」
「お言葉でございますが、雪江は大丈夫なのでございましょうか。あの男に感づかれて、襲われるようなことでもあればと案じておるのです」
「わかっておる。そちの感じたあの利久という男。かなりの手練れとわかった」
正重が淡々と語った。やはり利久は九州の忍びの者だと。
「うちの乱波も、うかつに近づけなかったとこぼしておった。少しでも忍びらしい氣を発するとすぐに感づくそうだ。もうそれだけで利久が只者でないとわかる。九州から来たとわかったのは、堺での行商仲間たちの素性を調べたからだった」
龍之介は再び不安に駆られていた。
「あの者がやはり、そうでございましたか」
思わず肌が粟立ったほどだった。自分が利久のことに気づいてしまったことが恐ろしかった。
「おそらく薩摩の間者であろう。あの土地からの間者は底知れぬ技を持つと言われておる。乱波の中でも恐れられている。薩摩へ出向いた忍び達は誰一人として戻ってきたものはいないと言われている」
「そんなに・・・・・・」
「薩摩はその土地の言葉を操るのも難しいからとも言われている。だが、それだけの強い組織があるのだろう」
正重は付け加えた。
「だがな、我が忍びはこうも言っていた。普通、何かの役目で町人として暮らしている間者は、滅多な行動をしないというのだ。人を殺めたり、盗んだりもしない。その反面、人助けからも身を遠ざけるとな」
「人助けからも・・・・と申されましたか」
「普通ならば、雪江を助けるような目立つことはしないそうだ。他の町人のように驚いて逃げていれば、このような関心は持たれなかった、そうであろう」
「はあ、ご最も」
兄の言う意味がわかった。
あれだけの手練れの忍び、利久が咄嗟に雪江を助けた。見て見ぬふりをすることもできた。むしろそうすることが自然な町人の姿なのだ。それをほとんど無傷状態で助け、自分の長屋へ連れて行き、武家屋敷にまで知らせに行っている。間者にしては解せぬ行動だった。
「利久は雪江を放っておけなかった。そのままではその命が奪われることになる。それを見て見ぬふりをすることができなかったのだろう。自分の妻の命は限られている。まだ生き延びられる命を庇ったのであろうな。そう言う男だ、あの利久は」
「無益な殺生はしないと」
「そう、ましてや一度自分が助けた命、それを奪うものだろうか。雪江自身は利久のことを何も知らぬ。それはその方がいい。妻女のところへ行っても利久は決して手を出すまい」
「はい」
「我らはもう手を引く。乱波も撤退させた」
「そのような状況で、雪江をあそこへ行かせてもよいのですね」
正重は、龍之介をじっと見て、
「だから、小次郎と徳田をつけよ。小次郎は氣に敏感よのう。徳田は武士ではないが、他の武道や護身術にたけている。利久ならば、二人の供がただのお付きではないとわかるであろう」
「はっ、利久も、うかつには手が出せまいということにございますな」
龍之介は、もう一つ策があった。雪江を繋ぎとめておく手だてが。
そのことも兄に、伺いを立てるつもりでいた。
龍之介は中屋敷へ戻った。
そして、雪江と夕餉をとっていた。まだ、雪江はぷりぷりと怒っていて、龍之介をまともに見ようとしなかった。
すぐに切り替える単純な娘にしては、しつこかった。それほどお光のことに執着しているらしい。
龍之介を無視しているが、全身でその意識を龍之介に向けているのがわかった。それがいじらしく、かわいく思えてつい笑ってしまった。
すると雪江はキッとにらみつけてきた。
「何がおかしいんですかっ。私は最大級に怒っているんです。お光さんのところへ行ってもいいと言うまで口を利きませんからね。今夜からご寝所も別にしてください」
というと、ぷいと顔をそむける。
そのわざとらしい仕草がおかしくて、また抑えきれずに吹きだした。まるで子供だった。
「相当怒っているのう」
「はいっ、かなりね」
「口を利かぬと申したな」
「そっ、絶対に」
「口を利かぬということは、わしの言うことにも返事をしないということなのであろうな。そうではないのか?」
にやりとして言うと、雪江は言葉に詰まり、にらみつけてくる。ますます怒った様子だった。
自分の夕餉のお膳を抱え、龍之介とは反対方向を向いて座りなおした。
からかうのはこのくらいにしないと、茶碗が飛んできても困ると思いなおす。
「わかった。もう行くなと言わぬ。兄上も雪江のしたいようにさせよとのことだ」
「え?ほんとっ」
やはり、雪江は単純だった。もう機嫌がよくなり、目を輝かせてこっちを向く。
「その代り、いつも必ず小次郎と徳田を連れて行くのだ。よいな。そして……心行くまであのお光の話し相手になるがよい」
「はいっ」
もう満面の笑顔だった。
「もう一つ、雪江が喜ぶ話がある」
「え?」
「明知殿と安寿姫が、ここへしばらく身を寄せることになった」