第9話 映画に行く服が決まらない
「太一君、デートするの?」
一ノ瀬瑠理の声が、生徒会室へ響いた。
太一は、質問する相手を間違えたと即座に悟った。
「相談室の検証だ」
「何を検証するの?」
「映画を選ぶ基準と、鑑賞後の会話」
「それ、デートじゃん」
「相談業務だ」
「デートって言わない人、だいたいデートなんだよ」
「どこの統計だ」
「私調べ」
「対象は何人だ」
「今のところ太一君だけ」
「統計を名乗るな」
太一は自分の席へ戻った。
聞きたかったのは、映画へ行く際の服装だった。
瑠理は雑誌や配信で服を選ぶ機会が多い。何か参考になると思った。
しかし、質問を言い終える前にデート認定された。
相手を間違えた。
正確には、相手へ相談する場を間違えた。
「映画を見るだけなら、普段着でいいんじゃない?」
奏多が書類をそろえながら言った。
「水城の普段着って、制服だろ」
「休日は違うよ」
「見たことない」
「太一が休日に僕と会わないからね」
事実だった。
「新宮会長の普段着を、朝比奈さんは知りません」
言葉が放送部の原稿から顔を上げる。
太一の手が止まった。
「それがどうした」
「今回、初めて見ることになります」
「分かってる」
「では、普段どおりでよいかを判断する比較対象がありません」
言葉はそれだけ言い、原稿へ視線を戻した。
太一は黙る。
美月は、太一の私服を知らない。
太一も、美月の私服を知らない。
制服でもない。
撮影衣装でもない。
雑誌のスタイリストが選んだ服でもない。
本人が自分で選んだ服。
たかが服装である。
それを何度も考えている時点で、たかがではなかった。
「やっぱり、少しちゃんとした服がいいんじゃない?」
瑠理が言う。
「少しちゃんとした服って何だ」
「ちゃんとしてるけど、ちゃんとしすぎてない服」
「何も分からない」
「じゃあジャケット!」
「映画に?」
「中で脱げるよ」
「荷物になる」
「パーカー!」
「普段と同じだな」
「スーツ!」
「撮影へ行くと思われるだろ」
「太一君、注文多いね」
「役に立たない案しか出てこないからだ」
瑠理は頬を膨らませた。
「じゃあ自分で決めればいいじゃん」
「そうする」
「相談したのに!」
太一は台本へ目を落とす。
結局、普段より少しだけ整った私服にすることだけ決めた。
美月のためではない。
相談員として、外出先でだらしなく見えないためである。
本人がそう決めたので、そういうことになった。
◇
「どれがいいと思いますか」
生徒会室の反対側。
美月は瑠理へ、スマートフォンの画面を見せていた。
一着目は、淡い色のブラウスとロングスカート。
二着目は、細身のニットとパンツ。
三着目は、落ち着いた色のワンピース。
「全部かわいい!」
「一つ選んでください」
「三回映画行けば?」
美月の指が止まった。
三回。
太一と三回、映画へ行く。
一回目は相談者への検証。
二回目は比較。
三回目は確認。
理由だけなら作れそうである。
「検証は一度で十分です」
美月は、危うく生まれかけた計画を捨てた。
「じゃあ一番目!」
「理由は?」
「かわいいから」
「ほかの二つは?」
「かわいい」
「参考になりません」
「美月ちゃんが着たら全部かわいいもん」
「そういう回答を求めていません」
そう言いながら、美月は画面を消さなかった。
褒められて嫌なわけではない。
欲しいのは、太一がどう思うかに近い回答だった。
その人物へ直接聞くことは、もちろんできない。
「美月ちゃん、太一君に選んでもらえば?」
「どうして会長に聞くんですか」
「一緒に行くんでしょ?」
「相談室の検証です」
「相談室の検証なら、相談員同士で決めたほうがよくない?」
珍しく筋が通っている。
美月は一瞬、言葉を失った。
瑠理は何も考えずに続ける。
「太一君、どれがいいと思う?」
「一ノ瀬さん」
美月が止めるより早く、瑠理はスマートフォンを太一へ持っていった。
「この三つ。美月ちゃんが映画に着ていくなら」
太一の目が画面へ向く。
美月は立ち上がりかけた。
ここで止めれば、太一に見られたくないと宣言することになる。
身動きできない。
太一は三枚を順番に見た。
どれも服だけがベッドの上へ並べられている。
美月が着ている写真ではない。
安心した。
ほんの少し、残念でもあった。
「三番目じゃないか」
太一が答える。
「理由は?」
瑠理が聞く。
「映画なら楽そうだし。朝比奈が普段選ばなそうだから」
美月が口を挟む。
「私が普段何を選ぶか、会長は知らないでしょう」
「知らないから、今まで見たことない感じのがいい」
太一はそこまで言ってから、台本へ視線を落とした。
今まで見たことのない朝比奈を見たい。
言葉を正しく並べれば、そういう意味になる。
太一は、そこまで言ったつもりはない。
美月は、そこまで言われた気がした。
「参考意見として受け取ります」
「三番にする?」
「まだ決めていません」
決めてはいない。
ただし、三番目以外の選択肢は、この時点でほぼ消滅した。
◇
映画当日。
太一は約束の十五分前に、待ち合わせ場所へ着いた。
早すぎたと思う。
撮影の集合なら普通だが、映画館へ入るだけなら十分前でも間に合う。
遅れるよりはいい。
太一はスマートフォンを確認し、顔を上げた。
美月は、すでにいた。
駅前の時計台から少し離れた場所。
落ち着いた色のワンピースに、短い上着。
普段の制服姿より柔らかく見える髪は、仕事用ほど作り込まれていない。
太一が選んだ三番目だった。
美月本人が着ると、画面で見た服とはまるで違った。
似合っている。
かなり似合っている。
というより。
かわいい。
太一の思考は、一度そこで停止した。
知っている朝比奈美月である。
顔も、声も、立ち方も変わっていない。
衣装ではない服を着ているだけだ。
それだけで、学校で毎日のように会っている相手が、初めて見る女子のように思える。
近づいて声をかける。
似合っていると言う。
それだけでいい。
太一は俳優である。
台本に書かれていれば、どれほど甘い言葉でも口にできる。
相手の目を見て好きだと言い、別れを惜しみ、時には涙を流すこともできる。
しかし、今ここで必要なのは台本にない一言だった。
喉の奥が妙に狭い。
何を緊張している。
映画を見るだけだ。
相談室の検証だ。
デートではない。
その最後の一文を考えた瞬間、余計にデートらしくなった。
童貞か、俺は。
童貞だった。
まぎれもなく。
交際経験ゼロ。
初デート経験ゼロ。
女子の私服を見て、声をかける前に立ち止まった経験は、たった今一件追加された。
太一は目を閉じたくなった。
しかも現在、生徒会室では恋愛経験豊富なことになっている。
ここで私服一つに動揺していると美月に知られれば、虚勢で組み上げた城が一瞬で崩壊する。
新宮太一、十六歳。
かつて天才子役。
現在、好きな女子のワンピース一着に完敗中。
「太一君」
背後から声がした。
太一は肩を動かしかけ、どうにか止めた。
振り返ると、瑠理が立っている。
大きな帽子に、目立つサングラス。近くで撮影があったらしい。
「一ノ瀬。何でいる」
「この近くで仕事だったから。あ、美月ちゃん!」
瑠理の声で、美月がこちらを見る。
目が合った。
美月は驚いたように瞬きをし、それから二人のほうへ歩いてくる。
太一は表情を整えた。
俳優の意地である。
今まで美月を見つめ、内心でもだえていたことを悟られてはいけない。
「二人とも早いね!」
瑠理が笑う。
「一ノ瀬さんこそ、どうしてこちらに」
「仕事終わり。二人を見つけたから来たの」
「そうですか」
「美月ちゃん、それ着たんだ! かわいい!」
「ありがとうございます」
美月は素直に礼を言った。
続けて瑠理が、太一を見る。
「会長も感想は?」
太一の表情筋が反乱を起こしかけた。
頬が緩む。
目元が柔らかくなる。
たぶん鼻の下も、ほんの少し伸びる。
それらすべてを、俳優として培った制御力で押さえ込む。
美月が見ている。
期待しているようには見えない。
ただ回答を待っているだけだ。
落ち着け。
似合っている。
かわいい。
画面で選んだときより、ずっといい。
そのまま言えばいい。
恋愛経験豊富な男子なら、自然に言えるはずだ。
「別に、普通だろ」
口から出たのは、最悪の一言だった。
美月の目がわずかに細くなる。
瑠理が太一を見る。
「普通?」
「その、映画を見る服としては」
「太一君が三番選んだんでしょ?」
「一ノ瀬」
「美月ちゃん、太一君が選んだの着てきたんだよ?」
「参考意見として採用しただけです」
美月の敬語が硬い。
太一は今すぐ、時間を三十秒ほど巻き戻したかった。
俳優として、撮り直しは何度も経験している。
現実にカットはない。
「普通って、悪い意味じゃない」
太一は言い直す。
「じゃあ、どういう意味?」
瑠理が聞く。
「一ノ瀬は黙ってろ」
「私が聞かないと、二人とも進まないじゃん」
「何がだよ」
「会話」
瑠理の中では、あくまで会話の進行だった。
恋愛事情を見抜いたわけではない。
ただし結果的には、誰より正しい。
太一は美月を見る。
美月は平静な顔をしている。
だが、上着の袖を指先でつまんでいた。
「似合ってる」
今度は短く言った。
余計な言葉を足す前に口を閉じる。
美月の指が止まる。
「……ありがとうございます」
声は少しだけ小さかった。
それで十分なはずだった。
太一の胸の内側では、ようやく言えた安堵と、美月が自分の選んだ服を着てきたという事実が一緒になって大騒ぎしている。
表情へ出してはいけない。
太一は上映時刻を確認するふりでスマートフォンを見た。
画面の数字は、ほとんど頭へ入らなかった。
「じゃあ私、行くね!」
瑠理は満足したように手を振った。
「映画楽しんで!」
「遊びではなく、検証です」
美月が訂正する。
「うん。検証デート」
「一ノ瀬さん」
「ばいばーい!」
瑠理は逃げるように人混みへ消えた。
残された二人の間へ、急に静けさが戻る。
「行くか」
「はい」
二人は並んで映画館へ向かった。
肩が触れるほどではない。
離れているとも言えない距離。
美月は前を向いたまま、口を開く。
「普通ではなかったんですね」
「まだ気にしてたのか」
「確認しただけです」
「似合ってるって言っただろ」
「聞きました」
「ならいいだろ」
「はい」
美月の声は、もう硬くなかった。
太一は横目で美月を見る。
やはり似合っている。
もう一度言う勇気はない。
一回言えただけでも、今日の自分を褒めたいくらいだった。
◇
映画館の入口へ着く。
太一がチケットを表示する。
美月は売店のメニューを見た。
「飲み物はどうしますか」
「俺はコーヒー」
「では、私は紅茶にします」
二人は別々に注文した。
恋愛映画を二人で見る。
私服で待ち合わせた。
互いの服装を意識した。
それでも、飲み物まで同じにする必要はない。
そこだけは妙に冷静だった。
スクリーンへ向かう通路で、美月が尋ねる。
「会長」
「何だ」
「これは、デートではないんですよね」
太一の足が止まりかける。
「相談者のための検証だろ」
「そうでしたね」
美月は少しだけ先へ歩いた。
その声が安心したものか、残念がったものか。
太一には分からない。
第6話で決めたことを思い出す。
分からないなら、本人へ聞く。
「朝比奈は」
美月が振り返る。
「何でしょうか」
「……いや。上映、始まるぞ」
太一は聞けなかった。
約束とは、守るためにある。
ただし恋愛における約束は、たいてい守る直前が一番難しい。




