第1話 学校公認の恋愛相談室
恋愛とは、極めて高度な情報戦である。
相手の言葉を分析し、視線の意味を推測し、返信までに要した時間から感情を読み取る。
ときには、たった一度名前を呼ばれただけで一日を過ごし、何気なく覚えられていた予定一つから、存在しない未来まで想像する。
必要なのは観察力、判断力、決断力。
そして何より、自分に都合のよい解釈へ流されない冷静さである。
新宮太一には、そのすべてがあった。
生徒会長として複数の案件を同時に処理し、かつては天才子役と呼ばれ、今も俳優として他人の感情を読み解く少年である。
朝比奈美月にも、そのすべてがあった。
風紀委員として規則と現実を調整し、五人組アイドルグループのクール担当として、人前では常に求められた振る舞いを選べる少女である。
すなわち二人は、恋愛に必要と思われる能力を、ほぼ完璧に備えていた。
なお、新宮太一は朝比奈美月が好きだった。
朝比奈美月も新宮太一が好きだった。
そして二人とも、相手の好意にはまったく確信を持てずにいた。
能力と成果は、必ずしも比例しない。
恋愛とは、そういうものである。
◇
放課後の生徒会室には、学校という場所に似つかわしくない音がいくつか混じっている。
廊下の向こうからは、舞台俳優志望の生徒による発声練習。
開け放した窓からは、校庭で撮影中らしいスタッフの指示。
机の上では、一ノ瀬瑠理のスマートフォンが、動画の再生数が伸びるたびに小さく震えていた。
ここは、私立桜映学園高等学校。
現役の俳優やアイドル、配信者から、まだ一度も仕事をもらったことのない芸能志望者までが通う、少し変わった高校だ。
芸能人である前に、高校生であれ。
仕事を理由に、友情や恋や青春を諦める必要はない。
それが、イタリア出身の学長が掲げる教育理念だった。
本人の言葉に直せば、
「勉学も芸術も青春も、すべて等しくアモーレです!」
となる。
理念は立派である。
発案者が黙っていれば、さらに立派だった。
「会長。この申請書、確認をお願いします」
生徒会室へ入ってきた朝比奈美月は、書類を新宮太一の机へ置いた。
雑誌撮影から戻ったばかりらしく、髪には仕事用に整えられた名残がある。
美月は五人組アイドルグループのクール担当であり、学校では風紀委員を務めている。
仕事にも規則にも厳しく、滅多なことでは動揺しない。
少なくとも、太一が関係しなければ。
「文化祭ステージの警備案か」
「風紀委員会側の承認は済んでいます。問題がなければ、そのまま提出してください」
「ここ、出演者の待機場所と一般生徒の通路が重なってる」
「その時間帯は、裏手の通路を閉鎖します」
「機材搬入口は?」
「反対側です」
太一が赤ペンを探すより先に、美月が一本差し出した。
太一は礼も言わずに受け取り、待機場所の脇へ矢印を書き足す。美月も気にした様子はなく、次のページを開いた。
「ここもです」
「分かってる」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
美月は太一を見る。
「では、読んでください」
「また確認を一つ飛ばしてますよ、会長」
「おおむね正解です」
太一は修正を加え、美月はその横でページを押さえる。
二人が同じ書類へ顔を寄せても、今さら誰も驚かない。
一年前、学校制作の短編映画で共演して以来、太一と美月は何度も一緒に仕事をしてきた。
今では、太一が机を動かせば美月が床のコードを避け、美月が書類へ手を伸ばせば太一が押印欄を開く程度には呼吸が合う。
本人たちは、これを単なる慣れだと考えている。
好きな相手と自然に近い距離でいられる理由として、慣れほど便利な言葉はない。
「ねえねえ、二人とも」
会計用の机から、一ノ瀬瑠理が顔を上げた。
「そこまで息合うなら、美月ちゃんも生徒会に入ればよくない?」
「入りません」
美月は書類から目を上げなかった。
「即答! 太一君、振られたよ」
「俺は誘ってない。一ノ瀬、予算表は終わったのか」
「終わってるよ。私を誰だと思ってるの?」
「締切前日に企画書をなくした会計」
「あれはなくしたんじゃなくて、保存場所を忘れただけ」
瑠理は胸を張った。
弁明とは、通常、自分の立場を改善するために行うものである。
「言葉ちゃん、議事録には『データの所在を一時的に見失った』って書いておいて」
「すでに『紛失』と記録しました」
羽鳥言葉は、画面から顔も上げずに答えた。
「待って。書記って、もっと会計に優しくする役じゃない?」
「その規定はありません」
「じゃあ今度作ろう」
「余計な規定を増やす前に、この装飾費を説明しろ」
太一が予算表を指で叩く。
瑠理は椅子の脚を鳴らしながら、太一の机まで寄ってきた。
「ハートの風船」
「見れば分かる。何に使うんだ」
「恋愛相談室の飾りつけ」
「いらん。というか、何だそれ」
「あれ。太一君、聞いてないの?」
「初耳だ」
「私も知りません」
美月も予算表をのぞき込む。
瑠理は口元へ手を当てた。
「あっ。これ、まだ秘密のやつ?」
「一ノ瀬さん」
「違う違う、今のなし! 恋愛相談室なんて存在しません!」
「自分で存在を強調してるぞ」
「気のせいだよ。私、恋愛とか全然分かんないし」
「一ノ瀬さんほど楽しそうに他人の恋愛へ入っていく人も珍しいと思います」
「相談に乗るのと見物するのは違うもん」
違ってはいけない。
「それより、この風船かわいくない?」
瑠理は商品画像を美月へ見せた。
「百個も必要ありません」
「でも、かわいいよ?」
「かわいさと必要性は別です」
「美月ちゃん、かわいいもの嫌い?」
美月の指が止まった。
「嫌いとは言っていません」
「じゃあ好きなんじゃん」
「その二択で判断しないでください」
瑠理は満足そうに頷いた。
幸い、美月の鞄の内側に隠された丸いマスコットは、誰にも見えていない。
証拠が発見されていない以上、朝比奈美月のクールな印象は守られている。
法律とアイドルのイメージは、ときに似た仕組みで成り立つ。
「それで、会計担当としてどうなんだ」
太一が尋ねる。
「何が?」
「この金額」
「無理だね」
「自分で申請したんだろ」
「申請するだけなら無料だから」
「却下だ」
「えー!」
瑠理が机へ突っ伏した。
「太一君は、かわいいものに心がない!」
「学校予算に感情を持ち込むな」
「美月ちゃんも何とか言ってよ」
「削除してください」
「味方がいない!」
瑠理は大げさに嘆き、隣の机へ手を伸ばした。
「奏多君、プリンちょうだい」
副会長の水城奏多は、瑠理の手が届く前に冷蔵庫の鍵を引き出しへしまった。
「そのプリンは来客用だよ」
「私は会計だよ?」
「来客ではないね」
「生徒会役員への敬意が足りない」
「来客用プリンを盗もうとする会計から言われたくないなあ」
瑠理は不満そうに席へ戻った。
五秒後には、また動画を見ている。
立ち直りが早いのではない。
悩みが長続きしないのである。
◇
「会長」
美月に呼ばれ、太一は申請書へ顔を戻した。
「修正は以上です」
「ああ。今日中に顧問へ出しておく」
「お願いします」
美月は書類を手放したが、その場から離れなかった。
「まだ何かあるのか?」
「ありません」
「じゃあ、何でいるんだ」
「会長が記入を間違えないか確認しています」
「信用されてないな」
「先ほど確認を一つ飛ばしていましたから」
「一回だろ」
「今日だけで、です」
太一はペンを持ち直した。
美月は隣に立ったまま、記入欄を目で追う。
監視という名目なら、好きな相手の隣にいても不自然ではない。
美月にとって、それは非常に重要だった。
太一は太一で、美月に見られているせいで、普段なら間違えない日付を書き損じた。
好きな相手へ格好いいところを見せたい。
その欲望によって、普段より格好悪くなる。
恋愛ではよくある現象である。
「会長、そこ」
「分かってる」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「先ほども聞きました」
美月の口元が、ほんのわずかに緩む。
太一がそれに気づくより先に、生徒会室の電話が鳴った。
言葉が受話器を取る。
「はい、生徒会です。……分かりました」
受話器を置き、太一と美月を順番に見た。
「学長が、新宮君と朝比奈さんを呼んでいます」
「二人で?」
瑠理の目が輝いた。
この目をした一ノ瀬瑠理は、たいてい余計なことを言う。
「何ですか」
美月が先に身構える。
「別にー。二人で呼び出しって、ちょっといいよね」
「よくありません。何か問題があった可能性もあります」
「結婚の許可とか?」
「どうして学長の許可が必要なんですか」
美月は即座に言い返した。
言ってから、否定する場所を間違えたことに気づく。
「そこじゃなくて、結婚を否定しろ」
太一が助け舟を出した。
「分かっています」
本当に分かっていたのなら、先にそちらを否定したはずである。
「行くぞ、朝比奈」
「はい」
美月は太一の机上に散らばった書類を、無意識に一つへまとめる。
「朝比奈、このあと収録だったよな。長引いたら先に帰っていいぞ」
「会長こそ、明日はオーディションでは?」
瑠理が瞬きをした。
「何で二人とも、お互いの予定そんなに知ってるの?」
「委員会活動に必要だからです」
「生徒会運営に必要だからだ」
二人の声が重なった。
「ふうん」
瑠理は、何か分かったように頷いた。
本人はたぶん、何も分かっていない。
◇
学長室の扉を開けると、拍手で迎えられた。
「ようこそ、新宮君! 朝比奈君!」
窓辺に立つ学長が、舞台の観客を迎えるように両腕を広げている。
日本語は流暢だが、会話が通じないことがある。
語学力の問題ではない。
本人に聞く意思がないためである。
「今日この瞬間、我が桜映学園の青春史に、新たなる一頁が刻まれます!」
「一ノ瀬が、恋愛相談室と言っていました」
太一が先回りすると、学長の両腕が下がった。
「一ノ瀬君には、発表まで秘密にするよう頼んだのですが」
「一ノ瀬に秘密を預けた時点で失敗です」
「会長。本人のいないところで言うことではありません」
「朝比奈君の言う通りです。人の失敗を責めるより、可能性を信じなければ!」
「学長が言わないでください」
美月の声は平坦だった。
太一には分かる。
これは少し呆れているときの朝比奈美月である。
「では、説明しましょう!」
学長が端末を操作すると、大型画面へ校内サイトが映し出された。
「私が発案した、桜映学園校内匿名掲示板です!」
「見れば分かります」
「新宮君、偉業は何度語っても色あせません」
匿名掲示板は、芸名や知名度、校内での立場を外し、生徒同士で話せる場所として作られた。
仕事や進路の相談もあれば、学食への要望、眠れない夜に見る映画の募集もある。
「利用者同士のDMも好評です。名前も肩書も脱ぎ捨て、言葉だけで信頼を築く。実に美しい!」
太一と美月は、ほとんど同時に画面を見た。
二人ともDM機能を利用している。
そのことを、隣にいる相手へ話したことはない。
そして二人とも、相手が匿名DMを使う姿をうまく想像できなかった。
根拠はない。
思い込みとは、大抵そういうものである。
学長が画面を切り替える。
共演者への好意。
仕事上の親切と恋愛感情の違い。
交際を事務所へ報告すべきか。
恋愛に関する投稿が並ぶ。
「匿名の文字だけでは、整理できない悩みもあります。そこで、生徒が直接言葉を交わせる、新たなる青春の舞台を用意しました!」
前置きが増えた。
嫌な予感の完成である。
「命名、桜映学園恋愛相談室!」
太一と美月は黙った。
嫌な予感は、当たるから嫌なのである。
「そして相談員には、新宮君、朝比奈君。君たち二人を任命します!」
二人の視線が重なった。
太一には、美月が何を考えているのか分かった。
おそらく美月にも、太一の考えていることが分かった。
こういうときだけは、妙に息が合う。
「お断りします」
「適任ではありません」
二人の声が、寸分違わず重なった。
学長は目を見開いた。
そして、満足そうに両手を打ち鳴らす。
「アモーレ! 見事な唱和です! すでに相談員としての呼吸は完成している!」
どうやら今の返事は、拒絶ではなく適性の証明として処理されたらしい。
桜映学園の学長に、常識的な拒否は通用しない。
こうして、恋愛経験のない生徒会長と風紀委員が、恋愛相談室の担当に任命された。
しかも二人とも、相談員として致命的な秘密を一つずつ抱えている。
新宮太一は、朝比奈美月が好きだった。
朝比奈美月も、新宮太一が好きだった。
ただし、その事実を知っている者は、今のところ本人たちの中にはいなかった。
お読みいただき、ありがとうございます!
恋愛経験のない両片思いの二人が、恋愛相談室の担当になりました。
人選に問題がある気もしますが、学長にとってはこれもアモーレらしいです。
次回は、タイトルにもある匿名恋愛相談が始まります。
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