第九章「頂点戦」
移動中のヘリは、妙に静かだった。
ローター音はいつも通りなのに、機内の空気だけが少し沈んでいる。
海へ向かっているはずなのに、潮の匂いより先に嫌な静けさが近づいてくる感じがあった。
神崎が地図を見ながら言う。
「……場所どこだ」
「……海上か」
「……ああ」
「……妙だな」
「……だな」
普通じゃない。
その時、前方のパイロットが声を上げた。
「……見えたぞ」
全員の視線が下へ落ちる。
「……なんだこれ」
海だ。
だが、波がない。
広い水面だけが、ガラスみたいに止まっている。
「……止まってるな」
神崎が呟く。
レオンが低く言う。
「……空間ごとだな」
ヘリが近づく。
その瞬間、在真の感覚がわずかに引っかかった。
「……っ」
「……軽い?」
「……逆か」
「……これ、やばいな」
神崎が顔をしかめる。
着陸。外に出る。風はある。
けれど、海の匂いが薄い。
足元の水面だけが、床みたいにこちらを押し返していた。
「……おい」
神崎が軽く跳ねる。
「沈まねぇぞ」
「……固定されてるな」
まず、この水面の感触を読む。
気配がない。何も感じない。
それなのに、空間そのものだけが何かを隠している。
「……変だ」
「……どこだ」
周囲を見る。
その時、——スッ、と空気が揺れた。
「……来るな」
視線の先には何もない。
だが——。
「……いる」
確実に。神崎が構える。
「……見えねぇぞ」
「……感じろ」
在真が短く言った直後、水面が大きく凹む。
——ドンッ。
「……は?」
何も見えない。
だが攻撃だけがある。
「……来てる」
回避。——ドンッ。
衝撃だけが遅れて残る。
レオンが前に出る。
「……これが特異個体か」
その時、水面がわずかに歪んだ。
「……出るぞ」
そこから、“何か”が浮かび上がる。
形はある。
だが、定まらない。
人型とも獣とも、ただの影ともつかない。
「……またか」
神崎が苦い顔をする。
在真は首を振った。
「……違う」
「……もっと上だな」
「……気持ち悪いな」
在真は口元だけで笑う。
剣を構える。
「……まず触る」
「……固定の芯を出させる」
「……静かすぎるな」
踏み込む。
特異個体は確かにそこにいる。
だが、輪郭がない。
「……見えねぇ」
神崎が構えたまま吐き捨てる。
「今までより酷いぞこれ」
「……ああ」
「……問題ねぇ」
在真は目を細める。
「……来る」
体が先に反応した。
横へ。——ドンッ。
水面が大きく凹む。
「……速いな」
次。後ろ。
「……そこ」
回避。連続。
攻撃のたびに、水面だけが不自然に沈む。
姿は見えない。
だが、ただのランダムでもない。
「……間隔あるな」
「……癖ある」
その瞬間、在真は前へ出た。
「……行く」
何もない空間へ踏み込む。
だが——。
「……そこだ」
剣を振る。——スッ。浅い。
「……触れたな」
特異個体がわずかに揺れる。
神崎が叫ぶ。
「当たってる!」
レオンがすぐ前に出る。
「……合わせる」
「……固定できるか」
だが、特異個体は逃げる。
位置が安定しない。
当たったと思えば、次の瞬間には別の位相へずれている。
「……普通じゃ無理だな」
「……なら」
在真はさらに踏み込む。
「……数で押す」
「……当て続ける」
——スッ、スッ、スッ。
少しずつ揺れる。
だが、まだ足りない。
「……足りねぇな」
斬れているのに、掴めていない。
切った手応えが、すぐ水の下へ沈んで消える。
その瞬間、特異個体が変わる。
「……来るぞ」
水面が一斉に歪んだ。
周囲全部。
神崎が顔をしかめる。
「……全部かよ」
全方向。
「……無理だな」
だが——。
「……関係ねぇ」
在真は踏み込む。
「……殺すんじゃない」
「……止める」
「……一瞬でいい」
全無視。
波立つ攻撃圧を突っ切って、特異個体が逃げる前の場所へ。
「……そこだ」
剣を叩き込む。——バキッ。
「……入ったな」
特異個体が大きく揺れる。
神崎が突っ込む。
「……効いてる!」
「今だ!」
拳が重く落ちる。——ドンッ。
レオンも圧を重ねる。
「……押し込む」
「固定は一拍だ」
空間が歪む。
特異個体のズレが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……見えた」
輪郭が、一拍だけそこに留まっている。
在真は目を細める。
「……触れればいい」
剣を構える。
「……触る」
踏み込む。特異個体が留まった場所へ。
「あそこだ」
わずかに見えるその位置へ、迷いなく刃を落とす。
壊すためじゃない。
ズレたまま逃がさないために、そこへ自分の感覚を噛ませる。
「——通す!」
剣を叩き込む。
——バキィッ!!
ヒビが走る。
「……乗った!」
さらに押し込む。
だが、特異個体はそこで終わらない。
暴れる。
水面が一斉に歪み、静止していた海が今さら怒り出したみたいにあらゆる方向へ圧を吐く。
「……来る!」
神崎が叫ぶ。
「離れろ!」
だが——。
「……鬱陶しい」
在真は止まらない。
「——そこにいろ!」
全力を乗せる。
——バキィィィィィッ!!
留まっていた場所が裂けた。
いや、裂けたというより、耐えきれず形をやめた。
その瞬間、水面の歪みが一斉に止まる。
「……止まったな」
神崎が大きく息を吐いた。
「……マジか」
レオンが静かに頷く。
「……撃破確認」
その時、ウィンドウが開いた。
【討伐】
特異個体を撃破しました
【報酬】
・固有強化:幸運(第3段階)
・特異干渉取得
・DP:5億
【レベルアップ】
Lv50 → Lv57
攻撃力:600 → 720
防御力:380 → 470
【武器成長】
天羽々斬 Lv50 → Lv57
攻撃力+700 → +900
「……上がったな」
剣を軽く振る。今までとは違う。
対象へ触れるというより、“ズレた存在をその場へ縫い止める感覚”が手の中へ残っている。
「……気持ち悪いな」
神崎が笑った。
「もう別ゲーだろこれ」
その時、基地から通信が入る。
『こちら本部!』
『序列更新確認!』
レオンが応答する。
「……どうなった」
『……2位』
静寂。神崎が吹き出す。
「……上がったな」
「マジで抜いたぞ」
「……ああ」
「……次は一つだな」
視線を上げる。
「……1位」
その時、通信が続く。
『……1位から伝達』
空気が変わる。
神崎の顔から笑みが少し消える。
在真は短く聞いた。
「……なんだ」
『……“次は本気でやる”』
静寂。神崎が笑う。
「……来たな」
レオンが目を細める。
「……来るな」
在真は息を吐いた。
「……邪魔が減る」
剣を握る手に、むしろ余計な力は入らなかった。
ようやく、本当に抜く相手だけが前に残った。
ヘリへ戻るまでの音が、少し遠い。
通信のざわつきも、兵士たちの足音も、今はただ次の戦いまでの余白にしか聞こえなかった。
夜。
基地の屋上は静かだった。
風だけが流れている。
「……明日か」
在真は空を見上げる。
何もない。
だが、そこに何もないまま終わるとは思っていなかった。
「……変わるな」
足音が近づく。
「……来たか」
振り向くと、レオンが一人で上がってきた。
「……一人か」
「……ああ」
隣に並ぶ。しばらく、無言。
妙な気まずさはない。
やがてレオンが聞いた。
「……どうだ」
「……何がだ」
「……届くか」
少し考える。
だが、答えはすぐ定まる。
「……届く」
即答だった。
レオンが小さく笑う。
「……そうか」
また静かになる。
風の音だけが通る。
レオンが言う。
「……あいつは別だ」
「……分かってる」
1位。
最初に触れたあの感覚。
「……ああ」
だが——。
「……関係ねぇ」
短く言う。レオンが頷く。
「……だろうな」
その時、別の足音が上がってきた。
神崎だ。
「お前ら、ここか」
軽く手を上げる。
「……寝ねぇのか」
「……無理だな」
神崎が笑う。
「俺もだ」
三人並ぶ。
夜風が一度、同じ方向へ流れた。
神崎が空を見上げる。
「……ここまで来るとはな」
少し笑う。
「最初、死にかけてたのにな」
「……ああ」
在真も思い出す。
「……変わったな」
「……だな」
「……まだ足りねぇ」
視線を前へ戻す。
「あいつがいる」
1位。
「……抜く」
それだけだ。神崎が笑う。
「言うねぇ」
レオンも小さく頷く。
「……いい」
しばらくまた静かになる。
風が流れる。
やがて在真が短く言う。
「……明日だ」
「……ああ」
目を閉じる。
戦いをイメージする。
動き。速度。
あの、当てさせない感覚。
あの、無造作に一段上へ行く重さ。
「……次は、越える」
目を開ける。空は変わらない。
「……静かすぎるな」
短く息を吐く。
朝。
中央フィールドは、不自然なくらい静かだった。
観客はいる。
呼吸も、衣擦れも、足音もある。
それでも、ここだけ音が先に削られているみたいだった。
足を踏み入れる。広い。何もないのに、逃げ場だけは最初から消されている感じがした。
だからこそ、誤魔化しが効かない。
「……ここか」
空気が変わる。
「……来るな」
前方。
1位はすでに立っていた。
「……待ってたぞ」
静かに言う。在真も短く返す。
「……ああ」
まだ距離はある。
「……遠くねぇな」
神崎とレオンが外へ下がる。
神崎が軽く顎を上げた。
「……二人でやるな」
「……ああ」
静寂。1位が言う。
「……行くぞ」
次の瞬間。——消える。
「……来た」
未来視を走らせる。
だが、最初から全部は見えない。
「……見えねぇ」
それでも、気配だけは拾える。
「……感じる」
回避。
——ドンッ!!
地面が砕ける。
掠っただけで、フィールドそのものが一段沈んだ。
「……速いな」
在真は踏み込む。
「——斬る!」
——スッ。抜ける。
1位は、また同じ場所にいる。
「……やっぱりな」
前回と同じ。
「……違うな」
「……“ズラしてる”」
1位がわずかに笑う。
「……見えるようになったか」
「……ああ」
在真は連続で踏み込む。
「……そこ」
——スッ、スッ、スッ。
「……触れるな」
「今日はまず一発だ」
1位の目がわずかに細くなる。
「……一発だ」
その瞬間、気配が変わった。
「……来る」
圧が上がる。
「……速い!」
未来視。
「……ギリだな」
回避。だが掠る。
ほんの薄く触れただけで、骨まで重い。
「……重い」
体勢を戻す。
「……いい」
在真は笑う。
「……通じてる」
踏み込む。
「……次で当てる」
火、風、水、土。全部を開く。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
今度は違う。
1位が一歩だけ後ろに下がる。
周囲がざわついた。
神崎が小さく笑う。
「……やるじゃねぇか」
レオンも目を細める。
「……届いてる」
1位が自分の剣を見下ろす。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「……見えたか」
「……ここからだ」
その瞬間、空気が変わった。
「……来るぞ」
「……ここからだ」
1位がそう言った瞬間、空気が一段沈んだ。
重い。
「……来るな」
1位が動く。——消える。
「……速い!」
未来視。
だが、もう視界だけでは追えない。
「……見えねぇ」
それでも——。
「……感じる」
回避。
——ドンッ!!
地面が消し飛ぶ。
「……重すぎるな」
在真はそのまま踏み込む。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
止められる。
「……受けるか」
「……いい一撃だ」
次の瞬間、押し返される。
「……っ」
距離が開く。
「……違うな」
今までとは全部が違う。
「……全部が上だ」
「……寒いな」
笑う。
寒いのは気温じゃない。
自分の輪郭が、少し遠くへずれる感じだった。
「……だから抜く」
踏み込む。連続。
単発で崩れないなら、重ねて押すしかない。
「……合わせる」
——ガキンッ、ガキンッ、ガキンッ!!
全部受けられる。
だが、まだ甘い。
1位の姿勢がわずかに揺れる。
「……崩れるな」
1位が低く言う。
「……来るぞ」
次の瞬間、世界が“ズレた”。
「……っ!?」
上下が消える。位置が変わる。
地面だと思ったものが横へ滑り、空間のほうがこちらを振り回してくる。
神崎が叫ぶ。
「……なんだこれ」
1位が言う。
「……これが俺の領域だ」
「……領域か」
レオンが低く言う。
「……空間そのものじゃない。認識の足場をずらしている」
「面倒なことを言うな!」
神崎の怒鳴り声が重なる。
在真は笑う。
「……面倒だな」
「……なら」
踏み込む。だが——。
「……遅い」
1位の声。
次の瞬間、——ドンッ、と直撃した。
「……ぐっ!」
体が吹き飛ぶ。
地面へ叩きつけられた時には、自分がどの方向へ飛ばされたのかすら半拍遅れてやってきた。
耳の奥で、遅れて鈍い音が鳴る。
衝撃より、感覚の順番が狂うほうが鬱陶しい。
吐いた息まで、自分の口から少し遅れて出ていくようだった。
「……重いな」
立ち上がる。
「……ここが上か」
その場で構える。
「……薄い」
足裏の感触が曖昧だった。
地面を踏んでいるはずなのに、半歩ぶんだけ自分が浮いている気がする。
長くいたら、立っている感覚から先に消えそうだった。
口元だけで笑う。
「……耐える」
踏み込む。領域の中へ。
神崎が外から何か怒鳴っている。
だが、言葉の半分が削れていた。
音までズレている。
レオンの声だけは妙に細く通ってくる。
「……長くいるな。固定される」
「……静かだな」
嫌な領域だった。
だからこそ、ここで止まる気にもならない。
「……超える」
踏み込む。領域の中。
「……全部ズレてるな」
神崎が外から叫ぶ。
「在真! 無理すんな!」
「……無理じゃねぇ」
在真は視線を前へ固定した。
「……やるだけだ」
踏み込む。
領域の中では、自分の呼吸まで少し遅れる。
吸ったはずの空気が、半拍あとに肺へ落ちてくる。
「……気持ち悪いな」
足を出すたび、体の重さだけが少し遅れてついてくる。
いつもの調子で動くと、自分のほうが空間からはみ出す。
だが——。
「……遅い」
次の瞬間。
——ドンッ!!
直撃。
体が大きく流される。
領域の中では、受ける衝撃の到達位置まで微妙にズレていた。
「……削られるな」
腕の感覚が一瞬だけ薄れる。
見えてはいるのに、そこに自分の肉がある実感が揺らいだ。
それでも——。
「……まだ動ける」
立ち上がる。痛い。
だが、それだけだ。
痛みがあるうちは、まだ自分の輪郭が残っている。
何も感じなくなるほうが、たぶん厄介だった。
「……痛ぇな」
笑う。
「……これが上か」
「……規則あるな」
「……癖がある」
ただの無秩序じゃない。
押し返す場所と、通してくる場所がある。
レオンの声が飛ぶ。
「……右だ。そこだけ遅れている」
「……分かってる」
外から見ている二人がいる。
それだけで、まだ全部はずれていないと分かる。
その瞬間、1位が動く。
「……来る」
未来視。
まだ全部は見えない。
「……見えねぇ」
だが——。
「……感じる」
回避。ギリギリ。
衝撃の線だけを避ける。
「……当たらねぇな」
回避したはずの場所を、遅れて寒さが撫でていく。
斬られてはいない。
だが、輪郭の表面だけ剥がされたみたいで気分が悪い。
踏み込む。
今度は自分の側を相手に合わせる。
無理やり突破するんじゃない。
まずはズレに乗る。
「……合わせる」
空間に。ずれた時間に。
「……そこだ」
剣を振る。
——ガキンッ!!
止まる。確かな衝突。
「……入ったな」
1位の目がわずかに細くなる。
「……侵入してきたか」
「……ああ」
確信になる。
「……分かる」
「……使えるな」
1位が笑う。
「……嫌な領域だな」
寒い。
皮膚だけじゃなく、感覚そのものが冷えていく感じがする。
ここに慣れすぎると、普通の場所へ戻った時のほうが薄く見えそうだった。
次の瞬間、領域がさらに歪んだ。
「……来るぞ」
在真は笑う。
「……でも慣れる」
慣れたくはなかった。
こんな場所に体を合わせるたび、普通の地面のほうが遠くなる気がする。
踏み込む。
「……外じゃない」
「……ここでやる」
剣を構える。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
正面からぶつかった。
「……届いてる」
剣がぶつかる。在真は笑う。
「……乗れるな」
「……ここからだ」
踏み込む。領域の中。ズレ。歪み。
金属のぶつかる音だけが妙に近い。
それ以外の音は、薄い膜の向こうへ押しやられていた。
「……嫌な静けさだな」
心臓の音まで遠い。
このまま踏み込み続ければ、鼓動のほうが先に置いていかれそうだった。
「……分かる」
「……乗れるな」
1位が動く。
「……来る」
未来視。
「……見えねぇ」
だが——。
「……感じる」
回避。
さらに、そのズレに沿って自分の体を滑らせる。
「……合わせる」
「……そこだ」
斬る。
——ガキンッ!!
当たる。
1位がわずかに下がる。
「……いい」
1位が笑う。
「……乗ってきたな」
「……ああ」
ここでようやく、相手の輪郭が少しだけ近くなる。
遠かったものへ、無理やり指をかける感じだった。
踏み込む。連続。
「……滑らせる」
——ガキンッ、ガキンッ、ガキンッ!!
全部ぶつかる。
「……全部届く」
その瞬間、領域が揺れた。
「……来るぞ」
1位の気配がさらに上がる。
「……まだあるか」
在真はむしろ笑う。
「……崩れかけてるな」
踏み込む。
「……もっと上げる」
レオンが外から何か言っている。
聞き取れたのは最後の一語だけだった。
「……保持しろ」
「……分かってる」
保つべきなのは姿勢じゃない。
自分が自分だという感覚のほうだ。
火、風、水、土。
「……混ぜる」
自分の外にある理屈ごと、一撃へ巻き込む。
自分の感覚まで一緒に混ざる。
そのせいで一瞬、手の中の剣が剣じゃなくなる。
それでも離す気にはならなかった。
「——斬る!」
——バキィィッ!!
今までより深い。
「……入ったな」
1位が止まる。
「……いい」
低く言う。
その瞬間、領域そのものが崩れはじめる。
「……っ?」
空間が揺れる。
上下が戻りきる前に、別のズレが割り込んでくる。
立っているだけで酔いそうだった。
神崎が外から叫ぶ。
「おい! やりすぎだ!」
その声すら、今は少し遅れて届く。
踏み込み方を間違えれば、声のほうだけが先に消えそうだった。
だが——。
「……関係ねぇ」
止まらない。
ここで手を緩めたら、たぶん領域のほうに形を合わせられる。
それが一番、面倒だった。
「……ここで決める」
踏み込む。最後の距離。
「……届く」
剣を振る。
「——踏み切る!」
「——踏み切る!」
踏み込む。最後の距離。
「……関係ねぇ」
在真は剣を振る。全力。火、風、水、土。さらに——。領域。
「……全部乗せる」
「——斬る!」
——バキィィィィィッ!!
止まる。だが——。
「……押す」
在真はさらに力を込めた。
「……まだだ!」
1位も押し返す。拮抗。火花が散る。
だが、その散り方まで半拍遅れて見えた。
ここでは何もかもが遅い。
遅いくせに、置いていかれる。
在真はその感触の中で笑った。
「……ここだ」
「……これだ」
さらに一歩。踏み込む。
「……越える」
その瞬間、わずかに1位の剣筋がズレた。
ほんのわずかだった。
だが、そのわずかだけで十分だった。
入れる隙間が、ようやく人間の感覚まで落ちてくる。
「……入った」
そのまま——。斬る。——バキン。
1位の剣が弾かれる。
静寂。
勝った、という感じは薄かった。
ただ、張りついていた何かを一枚抜いた感触だけが残る。
1位が一歩下がる。
「……勝負ありだな」
小さく笑う。
「……俺の領域を越えた」
「……負けだ」
悔しさより、妙な納得を含んだ声だった。
負けたというより、通されたと認める声に近い。
静まり返る。
誰もすぐには動けない。
神崎が呟く。
「……マジかよ」
安堵より先に、ぞっとした顔だった。
人間のまま見ていられる線を、少し越えたものを見る顔だ。
レオンが静かに目を閉じた。
「……決まったな」
ウィンドウが開く。
【世界序列更新】
【1位:大月 在真】
【2位:——】
【3位:——】
静寂。
歓声は少し遅れて来た。
遅れて来たせいで、自分に向けられたものだという感じも薄い。
遠くの別の場所で鳴っているみたいだった。
「……上がったな」
在真は軽く呟く。剣を下ろす。
「……抜いたな」
1位だった男がこちらを見る。
「……上に来たな」
「……ああ」
短く返す。相手の顔は近い。
だが、さっきまで張っていた距離の膜だけがまだ残っている。
勝ったあとでも、足の裏だけがまだ普通の地面へ戻れていなかった。
すると男が言う。
「……ここからだ」
在真も頷く。
「……分かってる」
視線を上へ向ける。
空には何もない。けれど、何もない場所のほうがこちらを見ている気がした。
何もないはずなのに、もうその奥を探している自分がいる。
終わったと息を吐く感じが、少しだけ薄い。
「……まだあるな」
そう思うほうが、体には自然だった。
上へ向けた視線のほうが自然だった。
下へ戻る感覚は、さっきより少しだけ遠い。
口元だけで笑う。
「……いい」
静かだった。
誰もすぐには動かない。
「……決まったな」
神崎がぽつりと呟く。
在真も短く返す。
「……ああ」
中央フィールドには戦いの跡だけが残っていた。
砕けた地面。
ひび割れの中に、まださっきまでの領域の気配が薄く貼りついている。
見えている景色は戻っているのに、感触だけが戻りきっていなかった。
「……見られてるな」
全員の視線。神崎が笑う。
「……1位だな」
「……そうだな」
「……上に来た」
言葉にされても、まだ少し遅れて聞こえた。
レオンが前へ出る。
「……別だ」
「……だろうな」
1位になった実感は妙に薄い。
景色のほうが先に変わって、そこへ自分が追いついていない感じだった。
人の視線も、歓声も、少し遠い。
体の奥に残っているのは、勝った熱より、まだ少しズレた感覚のほうだった。
その時。
スクリーンがまた点灯した。
「……まだあるか」
映像。黒。
「……見覚えあるな」
境界外。あの異様な空間。
画面越しなのに、皮膚の内側が少し冷えた。
まだ向こうへ触れたままの場所が、体の中に残っている。
神崎も顔をしかめる。
「……あれか」
だが、レオンは首を振った。
「……違う」
「……階層か」
レオンが言う。
「……境界外にも“上”がある」
神崎が舌打ちする。
「ふざけんなよ。やっと終わった顔できると思ったのに」
「……終わってほしかったか」
在真がそう返すと、神崎は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いや。お前はどうせ行くんだろ」
「……ああ」
静寂。神崎が苦笑する。
「終わりじゃねぇのかよ」
ぼやきながらも、目は笑いきっていない。
あの先が冗談で済まないことを、もう神崎も分かっていた。
在真は短く息を吐いた。
「……最初からだ」
「……終わらねぇな」
その時、映像が揺れる。
黒の奥に、“何か”が映った。
だが——。
「……なんだあれ」
「……強いな」
レオンが言う。
「……次はあれだ」
在真は視線を外さない。
「……ああ」
「……行く」
神崎が肩をすくめる。
「ほんと止まらねぇな」
レオンは映像から目を離さないまま言う。
「……止まらないほうがいい。あそこは途中で認識を外す」
「脅すなよ」
神崎が即座に返す。
「……強いならいい」
それだけだ。
そう口にしたあとで、自分でも少し薄いと思った。
強いものへ行くのは変わらない。
だが、勝った直後に普通なら出るはずの熱が、前より静かだった。
ガルが低く鳴く。
その声だけは妙にはっきり聞こえた。
人のざわめきより近くて、少しだけ落ち着く。
在真は小さく息を吐いた。
「……入るぞ」




