第七章「境界外」
夜。空が揺れた。
風が止まっている。
虫の音も、遠くの車の音も、妙に薄い。
「……来たな」
在真は外へ出る。神崎もすぐ並ぶ。
「……おかしいな」
「……静かすぎる」
その瞬間、——ピシッ、と乾いた音がした。
空だった。
「……割れた?」
細い線。
「……来るぞ」
レオンが前に出る。
全員が構える。
在真は目を細めた。
「……これは」
圧がない。軽すぎて、逆に足元が少し頼りなくなる。
何もなさすぎるせいで、余計に嫌な感覚があった。
次の瞬間、——パキン、と空が開いた。
音はほとんどなかった。
そこから、何かが落ちてくる。
ゆっくり。
静かに落ちてくる。
神崎が低く言う。
「……人?」
影。
「……気配がねぇ」
存在感がない。
なのに、そこにいることだけは確実だ。
「……やばいな」
神崎が小さく呟く。
レオンが一歩前に出る。
「……止まれ」
声をかける。
だが、反応はない。
影はそのまま地面へ降りる。
着地の衝撃も音もない。
「……動くぞ」
影が顔を上げる。
「……違うな」
言葉が出ない。
影が一歩踏み出す。
——ドンッ。何もしていない。
だが、地面が沈んだ。
「……は?」
神崎が笑う。
「……おいおい」
「……なんだよこれ」
レオンの目が細くなる。
「……下がれ」
短い指示。
だが、在真は前へ出た。
「……いや」
神崎が呼ぶ。
「……在真」
「……分かってる」
視線を向ける。影。
「……強いな」
それだけで、足が出た。
その瞬間、視界が消える。
「……っ?」
何も見えない。
音もない。
次の瞬間、——ドンッ、と体が吹き飛ぶ。
「……ぐっ!」
地面を転がる。
起き上がると、影は動いていない。
さっきの一撃が、本当にそこで起きたのかさえ曖昧になる。
「……見えねぇ」
神崎が構える。
レオンも前に出る。
「……今までと違う」
だが在真は笑った。
「……いいな」
「……気持ち悪いくらいだ」
剣を構える。視界が戻る。
「……さっきのは」
感覚がずれていた。
見えていたはずなのに、何も見えていない。
影は、そこにいる。
動いていない。なのに——。
「……当たる」
さっきの一撃。
未来視で拾えなかった。
未来が抜け落ちたというより、拾う前にそこへ置かれていた感じがある。
「……未来視、効いてねぇな」
ガルが低く唸る。神崎が横に並ぶ。
「どうなってる」
「……分からん」
正直に答える。
だが、このままじゃ届かないことだけは分かる。
レオンが前へ出る。
「……触るな」
短く言う。
だが、その忠告を待つまでもなく影が動いた。
音がない。気配もない。
「……来るぞ」
分かるのは結果だけ。
未来視を使う。
だが、何も映らない。
次の瞬間、——ドンッ、と神崎が吹き飛ぶ。
「……ぐっ!」
「……見えたか?」
「……いや」
神崎が立ち上がる。
「……何もねぇ」
レオンが動く。
「……止める」
踏み込む。
その瞬間、空気が歪む。
だが、影は止まらない。
レオンが一瞬だけ後ろへ引く。
その迷いで十分だった。
今まで冷静だったこいつでさえ、答えを持っていない。
「……これは」
在真は笑った。
「……面白いな」
「……どうやるか」
観る。
影そのものじゃなく、動きと存在の置き方を追う。
「……違うな」
今までの敵は、攻撃してきた。
こいつは違う。
「……攻撃じゃない」
神崎が聞く。
「……何だ」
在真は低く言う。
「……触れてるだけだ」
そこに在るだけで、周囲の現実が負けている。
触れた瞬間に傷になるんじゃない。
近づいた時点で、こっちの輪郭のほうが薄くなる。
神崎が顔をしかめる。
「……意味わからんぞ」
「……だろうな」
だが、今までと同じ見方のままじゃ、永遠に掴めない。
なら、こっちを変えるしかない。
「……こっちも変える」
剣を握る。
「……見るな」
目を閉じる。
神崎が声を上げる。
「……は?」
「……感覚だけでいく」
視覚は意味がない。
未来視も効かない。
なら、もっと手前の反応だけを信じる。
「……感じる」
静かに立つ。影が動く。分からない。だが——。
「……来る」
「……次は当てる」
踏み込む。視覚は使わない。
「……感じろ」
影が動く。音はない。
気配もない。
だが、空間の歪み方だけがかすかに残る。
「……そこ」
体が先に動く。回避。そのまま——。
「……入る」
剣を振る。——スッ。感触が薄い。
だが、影がわずかに揺れた。
「……当たった?」
「……効いてるな」
神崎が目を見開く。
「マジかよ……」
レオンが静かに見る。
「……触れたか」
「……ああ」
「……これなら触れる」
踏み込む。連続。
「……そこ」
斬る。——スッ。
「……まただ」
影が揺れる。だが、すぐ戻る。
「……浅いな」
まだ足りない。
触れただけじゃ足りない。
向こうの輪郭を崩すところまで入れないと、すぐに元へ戻る。
「……もっとだ」
踏み込む。影が動く。
今度は速い。だが——。
「……見えてる」
いや。
「……感じてる」
回避。そのまま——。
「——斬る!」
——ザッ。今度は違う。
はっきり入った。
「……入ったな」
影の動きが止まる。
わずかに。神崎が叫ぶ。
「……効くぞ!」
在真は短く言う。
「……合わせろ」
神崎が踏み込む。
「行くぞ!」
拳。——ドンッ。当たる。
「……いける!」
レオンも動く。
「……今だ」
同時。
影を挟む。在真、前。
神崎、右。レオン、左。
「……逃がさねぇ」
「……行くぞ」
踏み込む。
「……全部乗せる」
火と風、水と土を刃へ寄せる。形を保つより、今は当てることを優先した。
今触れているこの感覚ごと、まとめて刃へ押し込む。
「——叩き込む!」
——ドォォン!!
影が大きく揺れる。
神崎が叫ぶ。
「……効いてる!」
だが、まだ崩れない。
「……硬ぇな」
その瞬間、影が動く。
今までと違う。
こちらに合わせて、向こうの在り方そのものが少し変わる。
「……来る!」
空気が変わる。レオンが言う。
「……段階上がるぞ」
影が形を変える。
より明確に。神崎が呟く。
「……見えるようになった?」
在真は目を細めた。
「……違うな」
「……こっちに合わせてきてる」
「……本気だな」
息を吐いて、剣を構える。影が動く。
今度は、さっきまでよりわずかに見える。
輪郭。動き。
こちらが感覚で合わせるようになった分、向こうも形を寄せてきている。
「……見える」
「……合わせてきてるな」
神崎が構える。
「こっちのやり方に対応してる」
「……だろうな」
なら、こちらももう一段上げる。
「……さらに上げる」
踏み込む。影も動く。速い。だが、読める。回避。そのまま——。
「——斬る!」
——ザッ!!
今までより深い。
「……入るな」
影が揺れる。
だが、まだ止まらない。
「……止まらねぇな」
神崎が突っ込む。
「俺も行く!」
拳。
——ドンッ!!
当たる。レオンも動く。
「……合わせる」
圧がかかる。
影の動きが一瞬鈍る。
「……今だ!」
在真は踏み込む。
「……全部使う」
火、風、水、土。さらに——。
「……乗せる」
力を重ねる。
今の自分が持っているものを、一度ここで使い切るつもりで押し込む。
「——斬る!」
——バキィィッ!!
大きく裂ける。
「……いける!」
影が揺れる。
崩れかける。
だが、まだほどけきらない。
奥に、他より濃い場所がある。
「……奥にあるな」
「あれだ」
踏み込む。影が反応する。
今まで以上に速い。
「……速い!」
未来視。
今はもう少しだけ映る。
「……見えた」
ギリギリ。回避。
「……届く」
一直線。
「——貫け!」
剣を突き込む。
——バキィィィッ!!
奥に当たる。
「……これで」
さらに押し込む。
ここで止めたら戻る。
戻る前に、向こうの奥まで線を通す。
「——押し通す」
——パキン。砕ける。
その瞬間、影が止まる。
静寂。
さっきまでそこにいた重さだけが、一拍遅れてほどけ始める。
在真は息を吐く。
「……消えたな」
崩れる。音もなく。消える。神崎が笑う。
「なんだよこれ……」
レオンが静かに言う。
「……今のは危険だったな」
「……ああ」
空を見る。
裂け目は消えている。
だが、そこで終わった感じはしない。
「……まだ来るな」
確信。神崎も頷く。
「……まだ残ってるな」
在真は口元だけで笑う。
「……悪くねぇな」
静かだった。
何もない。
何もないのに、そこだけ見られている感じがした。
さっきまでいた影の跡すら残っていない。
神崎が周囲を見る。
「……消えたな」
在真も短く返す。
「……ああ」
レオンが小さく呟く。
「……普通じゃないな」
その時、——ピシッ、と音がした。
在真はすぐ空を見る。
「……まだあるな」
わずかに歪んでいる。
まだ閉じきっていない。
裂け目の奥が、まだこっちを見ている感じがある。
塞がったはずなのに、皮膚の上だけ向こうへ触れたままだった。
神崎が止める。
「……行くか」
「……おい」
「中、分かんねぇぞ」
在真は頷く。
「……だろうな」
だが、だからいい。
怖くないわけじゃない。
ただ、放っておくほうが気持ち悪かった。
レオンがこちらを見る。
「……行くのか」
「……ああ」
少しの沈黙。
それからレオンが頷く。
「……俺も行く」
神崎がため息をつく。
「……結局それかよ」
在真は軽く返した。
「……置いてくのも面倒だ」
ガルが前へ出る。
当然のように先頭に近い位置を取る。
在真は少し笑った。
「……気味悪いな」
そのまま裂け目へ足を踏み入れる。
次の瞬間、視界が歪んだ。
「……っ」
感覚が消える。
上下が分からない。
音もない。
息をしている感覚さえ曖昧になる。
胸が動いているのかどうかも、一瞬だけ分からなくなった。
自分の体のほうが、先に向こうへ置いていかれる。
「……なんだこれ」
次の瞬間、視界が戻る。
「……ここは」
何もない。
地面も空も、最初から置かれていないみたいだった。
ただ、広がりだけがある。
「……広いな」
無限みたいな空間。
立っているのか浮いているのか、それすら途中でどうでもよくなる。
神崎が呟く。
「……外か?」
在真はすぐに首を振った。
「……違うな」
「……内側じゃない」
「……ここだけ別だ」
レオンが静かに言う。
その時、——ドクン、と音がした。
「……来るな」
遠くで何かが動く。
形は分からない。
「……見えねぇ」
それでも、確実にいる。
しかも一つじゃない。
「……増えてるな」
「……複数だ」
神崎が構える。
「帰るか?」
在真は即答した。
「……いや」
「……進む」
背中のあたりが寒い。
それでも、戻る感じはしなかった。
剣を構える。
「……進む」
足を踏み出す。地面はない。
だが、不思議と立てている。
踏んでいる感覚だけがあり、そこに何があるのかは説明できない。
足の裏が、薄い膜一枚の上に乗っているみたいだった。
「……立てるな」
神崎が周囲を見る。
「……感覚がおかしい」
「上下、意味ねぇなこれ」
「……ああ」
重力が曖昧。方向も曖昧。
まっすぐ進んでいるつもりでも、自分が本当にどこへ向かっているのか分からなくなる。
視界の奥行きだけが勝手に伸び縮みして、距離そのものが落ち着かない。
「……慣れるしかねぇな」
歩く。
だが、距離感がずれる。
「……遠いのか近いのか分からんな」
その時、——ドクン。
「……来るぞ」
前方の何もない空間が歪む。
そして現れる。
「……なんだこれ」
形が定まらない。人型でもない。
生物ですらない。
輪郭のほうが後からついてきているみたいだった。
先に“いる”感じだけが来て、形はそのあとから無理やり追いついてくる。
「……異形だな」
レオンが静かに言う。
詳細鑑定を走らせる。
【???】
Lv???
「……出ねぇか」
在真は笑う。
「……雑だな」
異形が動く。音はない。だが——。
「……来てる」
体が反応する。横へ。——スッ。何かが通る。
風でも衝撃でもない。
ただ、触れたらまずい線だけがそこを通過したと分かる。
肌が遅れて粟立つ。
当たっていないのに、輪郭だけ削られたみたいで気分が悪い。
「……触れたら持っていかれるな」
神崎が構える。
「見えねぇぞこれ!」
「……感じろ」
短く言う。踏み込む。
「……行く」
異形へ。
だが、位置が安定しない。
こっちも、向こうも、世界ごと少しずつずれている。
踏み込んだはずの足が、半歩ぶんだけ別の場所へ着く。
自分の体まで、この空間の雑さに引っ張られていた。
「……こっちもか」
「……面倒だな」
その瞬間、後ろに気配が増えた。
振り向く。
「……増えたな」
もう一体。さらに——。
「……三か」
囲まれる。神崎が笑う。
「マジかよ……」
レオンが前に出る。
「分ける」
短く指示を飛ばす。
「在真、正面」
「……了解」
踏み込む。正面の異形へ。
「……そこ」
斬る。——スッ。
「……浅いな」
感触が薄い。
だが、すり抜けたわけでもない。
こちらが感じた線に、向こうも少しだけ揺れている。
硬いとか柔らかいとかじゃない。
触れた実感そのものが、薄くずれている。
「……効いてる」
その瞬間、異形が変形した。
「……は?」
「……適応してるな」
こちらの攻撃に合わせて、避け方ごと変えてきている。
「……そこ潰す」
踏み込む。異形が群がる。
「……邪魔だ」
風。
——シュンッ!!
切り裂く。
だが、すぐに埋まる。
倒しても、奥からまた出てくる。
「……キリがねぇな」
神崎が横で弾き飛ばす。
「数増えてるぞ!」
「……分かってる」
止まらない。
ここで足を止めたら、向こうの理屈に囲い込まれるだけだ。
「……抜ける」
踏み込む。最小で避ける。
当てる。抜ける。
余計な一撃は捨てる。
「……前だけ見る」
奥。歪み。
「……あそこだ」
空間が濃い。
他の異形がそこから滲んでいる。
「……見えるな」
レオンが並ぶ。
「……ああ」
神崎が後ろで押さえる。
「先行け!」
「……任せた」
速度を上げる。
「……風」
加速。
異形の間をすり抜ける。
「……近い」
圧が変わる。
空気というより、空間の底に触れている感じがした。
「……これだな」
そこに、穴があった。
ただの入口じゃない。
ダンジョンの門に似ているくせに、もっと深くて、もっと不安定だ。
見ていると目の奥が少し痛む。
「……繋がってるな」
さらに奥へ。
「……源か」
踏み出す。
その瞬間、——ドクン。
「……来る」
前方。何もない空間。
だが、そこにいる。
「……いるな」
異形とは違う。もっと濃い。
群れを吐き出している奥の気配だった。
「……出てきたな」
形が現れる。
「……人型か」
影よりも濃い。
存在の重さが、今までの群れとは比べものにならない。
「……こいつか」
詳細鑑定。
【???】
Lv???
「……出ねぇな」
在真は笑う。
「……面倒でいいな」
源が動く。ゆっくり。だが——。
「……来る」
体が反応する。回避。——ドンッ。空間が歪む。
ただの打撃じゃない。
存在の近さそのものが衝撃になっていた。
「……強いな」
神崎とレオンも追いつく。
「……間に合ったか」
「……これだな」
レオンが前に出る。
源が、一歩踏み出す。
その動きは遅く見えた。
だが、次の瞬間にはもう距離の意味が消える。
「……来る」
在真の体が先に反応する。
回避。——ドンッ。
さっきまで自分がいた位置の空間が、鈍く沈む。
「……重いな」
ただ速いだけじゃない。
近づかれた場所そのものが、少しだけ向こうの理屈へ塗り替えられる感じがある。
神崎が横から突っ込む。
「なら押し返す!」
拳。——ドンッ。当たる。
だが、源の輪郭は大きく崩れない。
レオンが低く言う。
「……外殻が厚い」
在真は笑う。
「……なら剥がす」
踏み込む。
「——斬る!」
——ガキンッ。硬い。
それでも、表面に確かな傷は入る。
「……通るな」
源が揺れる。
次の瞬間、周囲の空間が大きく歪んだ。
神崎が舌打ちする。
「またこの感じか」
異形の群れを生んでいた時より、さらに濃い。
源に近づくほど、こっちの理屈のほうが薄くなる。
「……面倒だな」
だが、単純に避けるだけでは終わらない。
「……見える」
在真は歪みの流れを見る。
ただ滅茶苦茶に暴れているわけじゃない。
源の動きに合わせて、一定の癖で拡がっている。
「……そこだ」
崩れる前提で踏み込む。
「——斬る!」
——バキッ。今度は深い。
源の外殻が一部剥がれた。
神崎が笑う。
「やっぱそう来るよな!」
レオンもすぐ圧を重ねる。
「……続けろ」
在真はそのまま連続で斬る。
速さじゃない。
剥がした場所へ、同じ圧を何度も通す。
「……重ねる」
——ガキンッ、バキッ、ガキンッ。
だが、向こうも黙ってはいない。
急に源の形が揺れ、別方向から圧が噛みついてくる。
「……横!」
神崎が叫ぶ。
在真は体をひねって避ける。
掠っただけで、肩口の感覚が少し持っていかれた。
「……削ってくるな」
ただの打撃じゃない。
こっちの存在の輪郭を薄くするような触れ方だ。
「……いい」
喉の奥で、短く息が漏れた。
なら、削り合いだ。
「……やることは同じだな」
源を見る。
外殻の奥に、わずかに濃い場所がある。
「……奥にあるな」
レオンも気づいたように言う。
「……あそこだ」
神崎が構える。
「じゃあ次で割るぞ」
在真は頷いた。
「……いい」
「……次で通す」
在真がそう言った瞬間、源の気配が一段重くなった。
見抜かれたと分かったのだろう。
周囲の空間が、さっきまでよりはっきりこちらを拒絶し始める。
空気そのものが、肌の上から押し返してくる。
前へ出るだけで、薄い壁を何枚も破っているみたいだった。
レオンが短く言う。
「……来るぞ」
源が動く。
今度は正面からじゃない。
空間そのものが少し折れ、そっちから現れる。
「……またその手か」
神崎が歯を食いしばる。
在真は踏み込む。
見えている位置は捨てる。
歪みがいちばん濃くなる場所だけを追う。
「……そこ」
回避。
直後に衝撃が落ちる。
——ドンッ。
「……読めるな」
まだ完璧じゃない。
それでも、体はもうこういうズレ方を覚え始めていた。
躊躇して止まるほうが危ない。
考えてから動くと間に合わない。
先に足が出るほうが、まだましだった。
神崎が横から圧をかける。
「今だ!」
レオンも空気を押さえる。
「……通せ」
在真は一直線に奥へ向かった。
「——斬る!」
——バキッ。
外殻にさらにヒビが入る。
だが、まだ足りない。
源が暴れる。
群れの異形たちも、遠くから一斉にこちらへ押し寄せ始める。
遠いはずなのに、気配だけ先に首筋へ触ってくる。
数が増えるほど、空間の奥行きまで濁っていった。
神崎が振り向きざまに殴り飛ばしながら笑う。
「ほんとキリねぇな!」
「……もう少しだ」
在真は剣を握り直す。
火、風、水、土。
全部を、細い突破口へ寄せる。
「……全部乗せる」
源がもう一度正面から来る。
だが——。
「……遅い」
歪みの内側へ潜り込む。
今度はそこだけを見る。
視界の端で何が暴れていても、そこだけ濃い。
他は全部、そこへ届くまでの邪魔でしかなかった。
「——貫け!」
——バキィィィッ!!
深い。
外殻が大きく剥がれ、奥が半分ほど露出した。
神崎が叫ぶ。
「見えた!」
レオンもすぐ言う。
「……次で通る」
在真は笑った。
「……ああ」
源の気配がさらに跳ね上がる。
最後の抵抗。
空間全体が一瞬だけ逆巻く。
足元が消えかける。
それでも、引く感じだけはしなかった。
「……来るなら来い」
剣を構える。源が動く。
最後の抵抗だった。
周囲の空間が一気に濃くなる。
足元の感覚が消え、前後左右の意味が曖昧になり、こちらの身体のほうが異物として押し出されそうになる。
立っているだけで、自分の輪郭が少しずつ外へこぼれていく。
ここに長くいたら、人の形のほうが先に保てなくなりそうだった。
神崎が叫ぶ。
「これ、さっきまでのよりヤバいぞ!」
レオンも前へ出る。
「……抑える」
源の圧を少しでもずらすために、レオンが干渉を重ねる。
止まりきらない。
だが、一瞬だけ通り道ができた。
在真はそこへ踏み込む。
「……見えた」
外殻の奥で脈打つ場所。
周囲の歪み全部が、そこから滲んでいる。
「……そこだ」
神崎が横から押し込む。
「ぶち抜け!」
火、風、水、土。
さらに今いる外側の歪みさえ、まとめて刃の流れに乗せる。
「——斬る!」
——バキィィッ!!
ヒビが入る。
だが、まだ砕けない。
在真はそのまま前へ出る。
「……まだだ」
源の圧が正面からぶつかる。
存在の輪郭を削るような重さ。
肩から腕へ嫌な痺れが走る。
押し返されれば、そのまま向こうの理屈に飲まれるのが分かった。
腕だけじゃない。
名前のついた自分ごと、少しずつ磨り減らされていく感じがする。
それでも——。
「……押す」
剣をさらに押し込む。
神崎が歯を食いしばる。
レオンも低く息を吐く。
全員の圧が、刃の先へ集まる。
「……今だ」
「——通れ」
——パキン。小さな音。
だが、それで十分だった。
砕ける。
瞬間、源の輪郭が大きく揺れた。
群れていた異形たちも、まとめて形を失い始める。
神崎が息を呑む。
「……来た!」
在真は剣を振り抜く。
源の輪郭が、そこから一気に裂けた。
「……止まったな」
静寂。
この空間そのものが、一拍遅れて息を止めたみたいに静かになる。
静かになったのに、耳の奥ではまだ嫌な圧が鳴っていた。
だが、奥の気配は消えなかった。
空間の奥。
さらに遠い場所で、別の脈動がかすかに返ってくる。
レオンが低く言う。
「……これでも入口だ」
在真は息を吐いた。
「……だろうな」
源が消えたあとも、しばらく誰も動かなかった。
在真は剣を下ろさず、奥を見続ける。
この外側の空間が本当に静まったのか、在真にもまだ分からない。
神崎がようやく息を吐いた。
「……終わった、のか?」
レオンがすぐには答えない。
少ししてから、静かに言う。
「……一つはな」
「……入口だな」
「……ああ」
神崎が苦笑する。
「ほんと、まともに終わらねぇな」
在真は口元だけで笑った。
「……だからいい」
レオンが周囲を見ながら言う。
「……戻るぞ」
「ここで長居は危険だ」
神崎が肩を回す。
「賛成だ。さすがに気持ち悪ぃ」
在真も頷いた。
「……ああ」
来た時と同じ裂け目を探す。
見上げるという感覚すら曖昧な空間の中で、現実へ通じる薄い歪みだけがかろうじて分かった。
その歪みへ向かって歩く。
歩いているのに、距離の感覚は曖昧だ。
近づいているのか、逆に遠ざかっているのかさえ一瞬分からなくなる。
だが、ガルだけは迷わず前へ進む。
「……頼りになるな」
小さく言うと、ガルは一度だけ低く鳴いた。
やがて裂け目へ届く。
神崎が振り返る。
「……また来るんだろうな」
「……来る」
在真は即答した。
「……次はもっと奥だ」
レオンも頷く。
「……ここから先は、もうダンジョンの延長じゃない」
「……嫌いじゃない」
裂け目へ足を踏み入れる。
視界が歪む。重力が戻る。音が戻る。
風の感触が肌へ戻る。
基地の空。
夜明け前の薄い色。
神崎が大きく息を吐く。
「やっぱこっちの空気が落ち着くわ」
レオンは静かに前を見る。
「……報告が必要だ」
在真は空を見上げた。
何もない。
だが、その向こうにまだ何かがあると、もうはっきり分かっている。
「……次だな」
少しだけ息が漏れた。




