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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない【長話版】  作者: HATENA 
第一部「固有ダンジョン」

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第一章「門の向こう」

 その日、世界は少しだけ狂った。


 震度三。

 数字だけ見れば、大した揺れじゃない。棚が倒れるほどでもないし、窓ガラスが割れるほどでもない。けれど、あとでその揺れが世界中で同時に起きたと知った時点で、もう普通の現象じゃなかった。


 俺はその時、買ったばかりの家で寝ていた。

 大学進学を機に、一人で暮らすために手に入れた山際の家だ。周りに人はいない。駅からも遠い。大学へ通うには不便でしかない場所だったが、静かなのがよかった。

 誰かに合わせて暮らすのは、昔から苦手だった。


 「……揺れてるのか」


 眠気の残るまま起き上がる。

 段ボールはまだ開けきれていない。家具も最低限だ。カーテンも仮で吊っているだけで、部屋はまだ自分のものになりきっていない。

 そのせいか、揺れが収まったあとの部屋は拍子抜けするほど静かだった。落ちたものも、割れたものもない。

 枕元のスマホだけが、通知で何度も光っている。

 けれど、まず気になったのは家のほうだった。

 窓を開ける。

 冷たい空気が流れ込んでくる。山の匂いがした。

 まだ片付いていない部屋の中で、その匂いだけが妙にはっきりしていた。

 新しい家の匂い。段ボールの紙の匂い。足裏に触れる冷えた床板。

 どれも昨日までならただの生活の一部だったのに、揺れのあとだと少しだけ頼りなく感じた。


 「家は平気か」


 外へ出る。


 土も木も、見たところ変わっていない。鳥の鳴き声も聞こえる。遠くの道路から、かすかに車の音も混じっていた。

 だからこそ、すぐには気づかなかった。

 いつもの景色の中に、昨日までなかったものがあることに。


 「……あれ?」


 裏手の斜面。その奥。

 木々の切れ目に、暗い穴が見えた。


 洞窟、と呼ぶには少し変だった。


 いや、洞窟みたいなもの、と言ったほうが近いかもしれない。

 この家を買う前にも何度か山を歩いた。購入後も、自分の土地の範囲くらいは確かめている。あんな穴があるなら、見落とすはずがなかった。


 「こんな場所、なかったよな」


 嫌な感じはしなかった。

 怖いというより、妙に引っ張られる感覚があった。

 地震の直後で頭がぼんやりしていたのもある。人がいない場所だという気安さもあった。

 気づけば俺は、斜面を踏みしめてその穴へ向かっていた。


 入口は自然物に見えて、近づくと妙に輪郭が整っている。土や岩の崩れ方じゃない。誰かが最初からそこだけ切り抜いたみたいに、暗さの形がはっきりしていた。

 奥から薄く光が漏れている。


 「……なんだこれ」


 足を踏み入れる。


 ひやりとした空気が肌にまとわりつく。外の山の空気とは、濃さが違った。湿っているのに、土の匂いは薄い。息を吸うと、肺の奥だけが少し重くなる。

 少し進むだけで、広い空間に出た。

 そこで、さすがに足が止まる。


 「は?」


 そこに、門があった。置かれているというより、最初からそこだけ現実を押し退けていたみたいだった。


 石造りというには綺麗すぎる、場違いなくらい大きな門。洞窟の奥に置かれるにはあまりに異質で、妙に静かだった。

 目で見ているのに、頭のどこかがまだ受け取り損ねている。

 夢の中にだけありそうな光景だった。


 「……誰かの趣味にしてはデカすぎるな」


 冗談みたいに呟いても、返事はない。


 試しに近づく。

 近づくほど、外の山の音が薄くなった。

 鳥の声も、風の音も、門の前だけ少し遠い。

 門の表面には見たことのない紋様が刻まれていた。触れるとひんやりしているのに、その奥が微かに脈打っているようにも感じた。

 触れる前から、指先が冷えていた。


 「開くのか、これ」


 押してみる。


 ——ギィ。


 重そうな見た目に反して、門はあっさり開いた。

 その向こうへ視線を向けた瞬間、目の前に半透明の画面が浮かぶ。


 【名前】大月 在真

 【年齢】19

 【性別】男

 【職業】無職 Lv0


 HP:10

 魔力:2

 攻撃力:6

 防御力:4

 総合戦闘力:12


 【スキル】なし

 【固有スキル】幸運

 【称号】固有ダンジョン初/固有マスター級ダンジョン初/ダンジョン初/マスター級ダンジョン初

 【DP】3億100万


 「……いや、まんまじゃねぇか」


 ゲームの画面みたいなものが、そのまま目の前にある。

 しかも妙なのは、知らない単語に意識を向けると意味が流れ込んでくることだった。

 HPに目を止めると、生命力だと分かる。魔力、職業レベル、DPも同じだった。

 読んでいるというより、頭の奥に勝手に置かれる。

 理解できてしまう。

 それが一番気味悪かった。


 「……固有ダンジョン、マスター級」


 称号を見直す。

 初めて入った、で済む感じじゃない。

 しかも、DPの桁が気持ち悪かった。


 「三億って」


 思わず笑う。

 笑ったあとで、逆に少し冷えた。


 画面を辿る。

 称号へ意識を向けると、また意味が流れ込む。

 初めて入ったこと。

 ここがマスター級だったこと。

 その重なりで、固有スキル〈幸運〉と馬鹿みたいな量のDPが出ているらしい。


 「……いきなり大当たりってことか」


 うますぎる。

 そのぶん、どこかで嫌なものが返ってきそうだった。

 門の向こうは暗い。今すぐ奥へ進もうと思えば進める。

 けれど、さすがに何も知らないまま突っ込むほど馬鹿でもない。


 「今日はここまでだな」


 このまま入りたい感じもあった。

 でも、これ以上は頭が追いつかない。

 門から離れ、もう一度だけ振り返る。

 洞窟の中に、ありえないはずの門がある。

 夢なら、醒めたあとには消えていてほしい。

 そう思いながらも、消えてほしくない気持ちがどこかにあった。


 「……明日、また来るか」


 誰にも聞かれない場所で、小さく呟く。

 外へ出ると、山の風はいつも通りだった。

 その普通さが、逆に少しだけ薄っぺらく見えた。

 家に戻るまでの道も、何も変わっていない。

 落ち葉が靴の下で潰れる音も、遠くを走る車の音も、夕方の冷え方もいつも通りだ。

 それなのに、背中の奥だけがずっと洞窟の方を向いていた。


 朝、目を覚ました瞬間に最初に思ったのは、夢じゃなかった、だった。


 まだスマホも見ていない。

 それでも分かっていた。

 体の奥に、あの門の前で感じた空気が残っている。冷たいのに重い、山の中とは違う濃さ。

 布団から起き上がると、段ボールの山が目に入った。服、本、鍋、細かい生活用品。昨日の時点では面倒なだけだった荷物が、今朝は妙に現実側のものに見えた。

 台所へ行って水を飲む。

 コップの縁が唇に触れて、ようやく少しだけ朝だと分かる。

 冷蔵庫はまだほとんど空で、入っているのはペットボトルと適当に買ったパンくらいだった。

 パンを口に入れても、味は少し遠い。

 腹は減っているはずなのに、意識はずっと裏山の方へ引っ張られていた。


 「……先にこっちやるか」


 現実逃避みたいに箱を開ける。

 その間もテレビはつけっぱなしだった。


 『昨日未明、世界各地で同時に観測された地震について、各国の研究機関は原因不明との見解を示しています』


 『現時点で大きな被害は確認されていませんが、SNSでは異常現象との関連を指摘する投稿も増えており――』


 「まあ、騒ぐよな」


 専門家の顔より、画面の下を流れる速報やネットの反応のほうが落ち着かなかった。

 段ボールを抱えたまま、しばらく画面を見ていた。

 誰もはっきりしたことは言わない。

 ただ、知らない単語と不安そうな声だけが増えていく。


 片付けが一段落したのは夕方だった。

 日が傾き始めた頃、窓の外を見て、もう無理だと諦める。

 部屋は朝より少しましになっていた。

 それでも、棚に並べた本も、流しに置いたコップも、ちゃんと生活の形をしているのに薄い。

 山の向こうにあるものの方が濃い。

 そう感じるのが、少し気味悪かった。


 「……行くか」


 頭の片隅に、ずっとあの門が引っかかっていた。

 昨日の場所へ向かう。

 山道を歩く足取りは、昨日よりずっと速かった。


 洞窟は、やはりそこにあった。


 消えていない。


 「マジであるのかよ」


 安堵したのか、緊張したのか、自分でもよく分からない息が漏れる。

 背後では、夕方の山が普通に鳴っている。

 でも、洞窟の入口だけは音を吸っていた。


 中へ入る。

 昨日と同じ広間。昨日と同じ門。

 その門の脇に、今度は昨日気づかなかった装置があった。

 丸い筐体にレバーがついている。色とりどりのカプセルが内部を流れ、嫌でも連想させられた。


 「……ガチャ?」


 ふざけているようで、そこだけ妙に真面目な作りだった。

 意識を向けると、また意味が流れ込んでくる。

 DPを使う。

 高いものほど、出るものも違う。

 それくらいは分かる。

 分かるのが、やっぱり気持ち悪い。

 そして、ここには固有マスター級の初回限定があるらしい。


 「……だから三億もあったのか」


 価格表まで出る。


 1回1万DP。11回10万DP。110回100万DP。


 その下。


 初回限定・固有マスター級10連:1億DP。


 「いや、桁はおかしいけど……」


 称号でもらったDPの理由は分かった。

 普通なら様子を見る。

 でも、ここはまだ俺しか知らない。

 誰かの判断を待つ感じもしなかった。

 待っている間に、誰かがここへ来るかもしれない。

 それを考えた瞬間、少しだけ嫌な感じがした。


 「……今さらビビってもな」


 このまま見ていても、たぶん気になるだけだ。

 レバーへ手を伸ばす。


 「一回しかないなら、一回で当てるしかないか」


 自分でも雑な理屈だと思う。

 でも、変に外れる感じもしなかった。


 レバーを引く。


 内部でカプセルが激しく回る。

 音だけがやけに現実的で、逆に緊張した。


 「……頼むぞ」


 カラン、と乾いた音がした。

 出てきたカプセルは十個。


 色が違う。光り方も違う。


 その時点で、たぶん俺はかなりいいものを引いたのだと分かった。

 まだ中身も見ていないのに、空気が変わった気がした。

 笑いそうになって、少しだけ喉が詰まる。

 都合がよすぎる。

 だからこそ、目が離せなかった。


 ガチャの光が消えたあと、十個のカプセルはひとつずつ弾けるように開いた。

 中から出てきたものが、半透明の文字と一緒に目の前へ並んでいく。


 「……いや、待て」


 思わず声が出た。

 見れば見るほど、引きがおかしい。

 嬉しいより先に、少しだけ背中が冷える。

 都合がよすぎて、手を伸ばす前から嫌な感じがした。


 【スキル】

 ・テイム

 ・鑑定

 ・ステータス改竄

 ・成長加速

 ・大器晩成


 【アイテム】

 ・回復薬(小)

 ・回復薬(中)

 ・四大属性オーブ


 【武器】

 ・成長の刀(未命名)


 【職業】

 ・殺戮者(人型)


 「盛りすぎだろ……」


 ひとつずつ意識を向ける。

 勝手に意味が流れ込んでくる。

 テイム、鑑定、ステータス改竄。

 文字を追うだけで、使い方の輪郭が勝手に頭へ入ってくる。

 成長加速は、そのまま伸びを早める力。

 大器晩成は、少し違った。

 特に大器晩成は露骨だった。必要経験値が増える代わりに、レベルアップ時の上昇量が大きくなる。


 「序盤しんどくて、後から伸びるタイプか」


 嫌いじゃない。


 回復薬は今の時点で命綱になる。

 四大属性オーブに触れると、火、水、土、風の感覚が指先に薄く走った。

 そして、最後に残った刀。

 細身で、まだ無機質な見た目をしていた。けれど握った瞬間、手に馴染む。


 「こいつが武器か」


 未命名。持ち主とともに成長。名前を与えることで成長開始。


 「名前ね」


 少しだけ考える。

 格好つけるつもりはなかったが、適当につける気にもならない。

 最初の一本だ。たぶん、これから先も長く使う。


 「……天羽々斬」


 口に出した瞬間、刀身がかすかに光る。


 【天羽々斬 Lv0】


 ・持ち主固定

 ・討伐で成長

 ・今後、段階的に能力解放


 「いいな」


 妙にしっくりきた。

 握り直すと、手の中で重さがほんの少し落ち着く。

 ただの道具を持った感じではなかった。


 次に職業を見る。


 殺戮者(人型)


 名前だけなら物騒だ。

 人型相手に強い。

 意味が入ってきた瞬間、眉間が少し寄った。

 この先、人間に近い相手や人型モンスターが増えるなら悪くない。

 適性職業の一覧も出た。冒険者、剣士、魔法使い、格闘家。無難なのも並んでいたが、レア表記なのはこれだけだった。


 「レアだから選ぶってのは好きじゃないけど……」


 嫌いじゃない名前だった。

 物騒な響きより、隠す気のなさが引っかかった。

 綺麗な名前で誤魔化されるよりは、まだいい。


 結局、選ぶ。


 身体に薄く熱が走り、画面の表示が変わる。


 【名前】大月 在真

 【職業】殺戮者(人型) Lv0


 HP:25

 魔力:2

 攻撃力:21

 防御力:9

 総合戦闘力:33


 【スキル】殺戮(人型)Lv1/テイム/鑑定/ステータス改竄/成長加速/大器晩成


 「最初よりはマシになったな」


 数字だけ見ても、まだぴんと来ない。

 天羽々斬を鞘ごと腰に差す。手持ちの回復薬も確認する。

 使えるものは揃った。

 だからといって安心できるわけじゃないが、何も持たずに暗闇へ入るのとは違う。


 門の向こうを見る。

 奥は薄暗く、静かで、何がいるのか分からない。

 さっきまで手の中にあった高揚が、そこで少し冷めた。

 何を引いても、奥へ入るのは自分の足だ。


 「……行くか」


 ここで帰っても、たぶんまた来る。


 門をくぐる。


 空気の濃さが、一段階変わった。

 山の洞窟じゃない。もっと閉じた、別の場所の空気だ。


 「やっぱ本当にダンジョンなんだな」


 少しだけ口の中が乾いた。

 でも足は止まらない。

 帰る理由ならある。

 それでも、背中より前の暗さのほうが気になった。


 門をくぐった瞬間、外の世界の音がすべて切れた。


 空気が重い。吸うたびに、肺の奥へ別の場所の匂いが沈む。


 湿っているのに、土の匂いは薄い。洞窟なのに、どこか人工物みたいな冷たさがある。


 「……中はこんな感じか」


 目が慣れるまで少し時間がかかった。

 通路は狭すぎず広すぎず、先は闇に沈んでいる。壁を触ると石みたいな感触だが、微妙に生き物の体温みたいなものもあった。


 気持ち悪い。


 けれど、嫌悪感で足が止まるほどじゃない。

 むしろ変に静かなせいで、自分の呼吸や靴底の擦れる音ばかりが耳に残る。


 「最初はスライムとか、そのへんだと思ってたんだけどな」


 そんな甘い期待を口にした直後だった。


 ——カタ。小さな音。

 骨がぶつかるみたいな、乾いた音。

 その音がする少し前から、空気は硬かった。

 靴底が床に薄く貼りつく感じがして、喉が勝手に乾く。


 「……今の」


 耳を澄ます。また鳴る。カタカタ……。


 あまりいい音じゃない。

 それでも、どこかでまだ現実感が足りていなかった。怖いと思うより先に、確かめようとしてしまう。


 音の方へ視線を向ける。

 闇の奥に、人型の影が揺れた。

 さらに一歩進んだところで、それが何か分かる。


 「……スケルトン?」


 骨だけの人型。

 その上、簡素とはいえ鎧を纏っている。片手には剣まであった。

 反射的に鑑定を使う。


 【スケルトンナイト Lv743】


 HP:5944

 攻撃力:1246

 魔力:706

 防御力:1020

 総合戦闘力:2972


 「……は?」


 数字を見た瞬間、腹の奥が冷えた。

 強すぎる。比較にならない。

 逃げなきゃいけない。


 分かっているのに、体が固まる。


 「っ……」


 喉が詰まる。足が固まる。呼吸が浅い。指先が冷える。


 スケルトンナイトは骨を鳴らしながらこちらへ歩いてくる。

 慌てて後ずさろうとして、足がもつれる。


 「動けよ……!」


 剣が持ち上がる。

 その動きだけはやけにゆっくり見えた。

 間に合わない、と理解した直後——視界が赤く弾けた。


 「がっ……!」


 激痛。


 顔の右側が熱くて、でもすぐ冷えていくみたいな気持ち悪さがあった。

 手で触れると、血がべっとりつく。


 右目が見えない。


 「……嘘だろ」


 立ち上がれない。熱い。

 痛い。

 何が起きたのか分からない。


 立つつもりなのに、体が動かなかった。


 その時だった。——アオォン。


 遠くから、低く長い遠吠えが響く。

 空気が少し変わる。

 次の瞬間、黒い影が横から飛び込んできた。


 「っ?」


 狼。


 大きい。野犬なんて比べ物にならない。暗い毛並みのウルフ型モンスターだった。

 鑑定が勝手に走る。


 【ウルフ(骨好き) Lv561】


 意味が分からない。

 でも、考えている暇はなかった。


 ウルフは一直線にスケルトンナイトの首元へ噛みついた。

 骨と牙がぶつかる音が響く。

 完全に勝っているわけじゃない。でも、ナイトの意識は一瞬でそっちへ向いた。


 「今のうち……!」


 這うようにして距離を取る。

 みっともなくてもいい。

 出口だけを見る。


 背後で激しい音が続いていた。

 振り返る余裕はない。

 門の外へ転がり出たときには、もう全身が震えていた。


 外へ飛び出した瞬間、膝から力が抜けた。

 土の上に崩れ落ちて、しばらく呼吸もまともにできなかった。


 「……っ、は……」


 右の視界は真っ黒だ。

 顔を触ると、生温い血の感触が指にまとわりつく。

 指を離しても、そのぬるさだけがしばらく皮膚に残った。

 風が顔に当たるたび、傷口の奥がびくつく。

 草の匂いも、土の匂いも、さっきまでより近い。

 近いのに、右側だけが遠い。

 見ようとしても何も返ってこない。その空白が一番気持ち悪かった。


 うまく息が吸えない。

 喉がひくついて、肺だけが空回りしている感じがした。


 さっきまで、妙な高揚感があった。

 世界が変わった、自分だけ先にその入口に立った、みたいな。そんな浮ついた感覚が、一撃で吹き飛んだ。


 「死ぬとこだったな……」


 笑えなかった。


 あのナイトは、こっちを殺すつもりで振ってきた。ゲームでも何でもなく、本当に終わるところだった。

 その事実だけが遅れて体に刺さって、指先が震える。

 遅れて、足まで震えが下りてくる。


 立とうとしても、膝の内側に力が入らない。

 情けないと思うより先に、まだ斬られた瞬間の赤い光が頭の裏に残っていた。


 だが、そこで終わりじゃなかった。

 森の奥から、低い唸りが聞こえる。

 視線を向けると、さっきのウルフが少し離れた場所に立っていた。

 牙を剥いたまま、じっとこちらを見ている。


 敵意は薄い。


 ただ、完全に油断できる感じでもない。

 その時、頭の中へ直接響くように文字が流れた。


 【条件達成:スキル〈テイム〉が発動しました】


 半透明の表示が浮かぶ。


 ・対象:ウルフ(骨好き)

 ・状態:警戒 → 興味(低)

 ・契約可能:はい/いいえ


 「……マジか」


 さっき命を助けられたこと自体が、すでに普通じゃない。

 まだ正体もよく分かっていない。

 敵じゃない保証も、本当はない。


 それでも、こいつをここで逃がす方が嫌だった。

 ここで見送ったら、次に会えるか分からない気がした。

 次があるかどうかも分からないのに、この機会を逃したくなかった。


 「……はい」


 選ぶ。


 【契約完了】


 表示はそれだけだった。

 ウルフは一度だけ鼻を鳴らし、それから踵を返して森の奥へ消えていった。


 「……それで終わりかよ」


 拍子抜けする。


 でも、何かが引っかかった感覚だけは残った。

 あいつが来なかったら死んでいた。

 それだけで十分だった。


 問題はここからだ。

 恐怖はまだ抜けない。

 右目の痛みもひどい。

 血の匂いもまだ鼻の奥に残っている。

 吐こうと思えばたぶんすぐ吐けた。


 それでも、あの中に入らなければ何も始まらないことも分かってしまった。


 「少しずつでいい」


 立ち上がると、頭がくらつく。

 視界は半分欠けたままだし、足も重い。

 それでも家へ向かう。

 このまま外で倒れているほうが危ない。


 歩きながら、さっきのナイトの数字を思い出す。

 どう見ても今の俺じゃ無理だ。

 無理だからこそ、先に強くなるしかない。


 怖いからやめる、で終われるならたぶん楽だった。

 でも、一度あの門を見てしまったあとだと、それも違った。


 「追いつくまで積むしかない」


 山の中には誰もいない。

 だから、その独り言は妙に真っ直ぐに残った。


 家の玄関を閉めた瞬間、ようやく少しだけ緊張が切れた。

 鍵を回す音が、やけに大きく聞こえた。

 靴を脱いだ足裏に、床の冷たさがじわっと移る。

 そのまま床に座り込み、荒い息を吐く。

 右目の奥がずきずき痛んで、気を抜くと吐き気がこみ上げてきた。


 「……まだ生きてるな」


 洗面所へ向かう。

 鏡を見るのは少し嫌だったが、現実から目を逸らしても傷は消えない。

 廊下の電気をつける音が、やけに普通だった。

 洗面所の蛍光灯。水道の銀色。

 置きっぱなしの歯ブラシ。

 そういうものが全部、さっきまでいた場所と噛み合っていない。


 水で血を流す。


 赤い筋がシンクを流れていく。

 鏡の中の自分は、思っていた以上にひどかった。右目の周囲は裂けて腫れ、視線を向けてもそこだけが暗い。

 血を流しても、暗さはそのままだった。

 瞼を上げても閉じても、右だけ何も変わらない。

 顔の一部だけ、最初から無かったみたいで気味が悪い。


 「見えてねぇ……」


 口に出すと急に実感が増した。


 怖くなる。


 でも今は、怖がっている時間がもったいない。

 救急箱を引っ張り出し、できる範囲で止血と消毒をする。包帯を巻く手つきはぎこちなかった。

 巻いたそばから、布の締め付けが右側だけを別物みたいに固めていく。

 鏡の中の顔は自分なのに、片側だけまだ戻ってきていない。


 病院に行くという選択肢も頭をよぎる。

 だが、説明できない。

 山の洞窟でスケルトンに斬られたなんて、通るわけがない。

 それに今の世界は、たぶん病院も平常じゃない。


 リビングへ戻ってスマホを開く。

 通知が溢れていた。

 ニュース、SNS、動画投稿、海外メディア。


 『国内各地で謎の構造物を確認』


 『一部地域でモンスターとみられる生物が出現』


 『政府は危険区域への立ち入りを禁止』


 「やっぱ俺だけじゃないか」


 動画には、都市部に突如現れた門や、武装した連中が何かと戦っている荒い映像まで上がっていた。

 まだ全体像は見えていない。

 でも、世界が一日で変わったことだけは誰にも否定できなくなっている。


 画面の向こうで叫んでいる人間の顔が、少し前の自分と同じに見えた。

 何が起きてるのか分からないまま、無理やり飲み込まされてる顔だ。


 固有ダンジョン。


 その言葉がまた頭に浮く。


 「……使わない手はないな」


 傷の痛みと一緒に、少しずつ頭が冷えてくる。

 あのスケルトンナイトに勝てる気はしない。

 あいつがいる。

 それでも、他まで全部終わりって感じじゃない。

 むしろ、あれがいるなら他を積める。


 そう考えている自分が少し嫌だった。


 「今夜は休む」


 強がっても仕方ない。

 回復しないまま突っ込めば、今度こそ返ってこられない。

 ベッドへ倒れ込む。

 包帯の奥が熱い。右の視界はずっと暗いままだ。

 部屋の天井を見ているつもりでも、右側だけは何もない。

 視界の端にあるはずの段ボールも、壁も、そこだけ途切れている。

 眠ろうとすると、その途切れた場所からさっきの剣がまた来る気がした。


 眠れるか怪しかったが、極限まで疲れていたせいで意識はすぐ沈んでいった。

 その直前、スマホにまた速報が流れる。


 『覚醒者とみられる人物、各地で確認』


 「……覚醒者、ね」


 他人事みたいに呟く。

 もしそう呼ばれる側に立つなら、なおさら弱いままじゃいられない。


 怖さは消えない。

 でも、まだやめる気にはならなかった。

 やめる理由より、戻る理由の方がもう薄かった。


 朝、アラームの音で目が覚めた。

 最初に来たのは右目の鈍い痛みだった。


 「……っ」


 完全には治っていない。けれど、昨日のように動けないほどじゃない。


 スマホを見る。

 未読の通知はさらに増えていて、どこを開いてもダンジョンとモンスターの話ばかりだった。


 『無断侵入による死傷者多数』


 『自衛隊・警察が各地で封鎖』


 『SNSでは“覚醒者” “スキル” “ステータス”といった言葉が一気に拡散』


 「もう隠しきれてないな」


 昨日までの騒ぎ方と少し違う。

 もう驚いてるだけじゃない。


 自分のステータスを開く。

 今の俺はまだ弱い。

 それは昨日の一太刀で嫌というほど分かった。

 だが、ダンジョンの入口を家の裏に持っている時点で、動かない理由もない。


 テーブルの上に置いた回復薬(中)を見つめる。


 「……これ、使うか」


 もったいない気もしたが、片目が使えないまま入るのは自殺だ。

 小瓶の中身を飲み干す。

 喉を通った液体が、胃に落ちる前からじわりと全身へ広がる。

 熱でも痛みでもない、傷口に手を当てられているような不思議な感覚。

 右目の奥に残っていた鈍い熱が、内側から少しずつほどけていく。

 痛みが消えるというより、痛みの輪郭だけが薄くなっていく感じだった。


 「すげぇな」


 包帯の奥の痛みが和らいでいく。完全ではないが、戦闘の邪魔にならないくらいまで引いた。


 準備をする。


 水とタオル、包帯、回復薬(小)、スマホ。

 靴も、引っ越し荷物から出した厚手のものに替える。

 それでも足りる気はしないが、昨日よりはましだった。


 それから、ステータス改竄も試す。


 【偽装設定】


 ・職業:無職

 ・レベル:1

 ・戦闘力:10


 「……保険だな」


 今はまだ、見せる気になれない。


 山へ向かう。


 洞窟の前に立つと、昨日味わった恐怖が少しだけ喉元に戻ってきた。

 穴の暗さを見ただけで、顔の右側がまた熱くなる気がした。

 斬られた瞬間の赤い光が、まだ完全には抜けていない。


 でも、足は止まらない。


 「このまま弱い方が、たぶん怖い」


 門をくぐる。


 すぐに、低い唸り声が聞こえた。

 反射的に身構える。

 闇の中から出てきたのは、昨日のウルフだった。


 「……お前か」


 敵意はない。

 むしろ、こちらを待っていたみたいに静かに立っている。

 昨日のあの場面を思い出しても、今は少しだけ見え方が違った。

 怖い、より先に、隣にいてもいいやつかを確かめようとしている。


 表示が浮かぶ。


 【テイム対象】


 ・ウルフ(骨好き)

 ・状態:興味(中)→好意(低)


 「来るか?」


 試しに声をかける。

 ウルフは一瞬だけ俺を見上げ、それから当然みたいに隣へ並んだ。

 近づいてきても、足音はほとんどしない。

 ただ、隣に体温が増える。

 それだけで、昨日より通路の暗さが少しだけ違って見えた。


 「……マジで仲間なんだな」


 少しだけ肩の力が抜けた。

 さすがに一人で入るのと比べれば、心細さが違った。

 ひとりでまたあの暗さへ入るのを想像していた分、その差が大きかった。


 「じゃあ、行くか」


 昨日の失敗は繰り返さない。

 いきなり奥へは行かない。弱い敵を狙って、確実に積む。

 そう決めて進んだ先、闇の向こうから乾いた音が近づいてきた。


 カタカタ……。複数。


 「来たな」


 天羽々斬を抜く。

 ウルフも低く構えた。


 ここからだ、という感じだけはした。

 怖さはまだ残っている。

 でも、今はそれが足を止める方へは行かなかった。


 闇の奥から現れたのは、三体のスケルトンだった。

 昨日のナイトみたいな圧はない。けれど、数字を見た瞬間に油断は消える。


 【スケルトン Lv132】


 「……充分強いな」


 今の俺より上だ。

 でも、昨日のナイトほどじゃない。


 「行くぞ」


 隣のウルフへ声をかける。

 あいつは返事の代わりみたいに地面を蹴った。

 黒い毛並みが闇を裂いて、先頭のスケルトンに食らいつく。

 その動きに、変な迷いはなかった。

 こっちが踏み込む前の半拍を、勝手に埋めてくれる。

 一人で剣を握っていた時とは、呼吸の置き場所が少し変わった。


 「早ぇ」


 噛みつきで腕を崩され、スケルトンの構えが乱れる。

 その隙に踏み込む。


 天羽々斬を振る。——ガキンッ。


 手応えは軽くない。骨といっても脆いわけじゃない。

 腕に嫌な重さが残る。

 斬っているというより、硬いものを無理やり噛み割っている感じだった。


 「でも、折れないなら問題ない」


 もう一歩。

 首を狙って振り下ろす。


 ——バキッ!


 頭部が砕けて転がった。


 【撃破】


 表示が浮かぶ。


 「よし」


 初めて、自分の手で倒した。

 砕けた骨の音が、少し遅れて耳に残る。

 勝った、というより、ちゃんと壊せたのがまだ信じきれない。


 その小さな手応えを噛みしめる暇もなく、残り二体が来る。

 正面に一体。

 斜め後ろにもう一体。


 「挟まれるな」


 前へ出るしかない。

 正面の剣を避けきれず、肩が浅く裂ける。


 「っ……!」


 熱い痛みが走る。だが、致命傷じゃない。

 浅い。

 浅いが、昨日の一撃が頭をよぎるには十分だった。


 その瞬間、後ろから来ていた一体にウルフが体当たりをぶつけた。

 骨がずれて、動きが止まる。


 「助かる」


 正面へ集中。

 浅い呼吸を押し込んで、思い切り振り抜く。


 ——バキィッ。二体目撃破。


 残る一体はウルフと組み合っていた。

 タイミングを測る。


 「離れろ」


 言葉を理解したわけじゃないだろうに、ウルフはちょうどよく一瞬だけ身を引いた。

 その首へ斬り込む。


 ——ガシャッ。三体目が崩れる。静寂が戻る。


 「……勝った、か」


 息が上がっていた。

 でも、立っていられる。

 肩は熱いのに、指先だけ少し冷えている。

 それでも昨日みたいに崩れてはいない。


 すぐにウィンドウが開いた。


 【レベルアップ】


 Lv0 → Lv1

 HP:25 → 40

 攻撃力:21 → 29

 防御力:9 → 14


 【武器成長】


 天羽々斬 Lv0 → Lv1


 「伸び方、デカいな」


 大器晩成と成長武器。その重さが、やっと手に落ちた。

 体の奥が少しだけ軽い。

 数字より先に、さっきまでより踏み込みやすくなっているのが分かる。


 横を見ると、ウルフもこちらを見ていた。

 表示には好意(低)→好意(中)と出ている。


 「……ありがとな」


 言うと、小さく鼻を鳴らした。

 そのまま少しだけ奥を見る。

 まだ行ける気はした。

 でも次の瞬間、地面の奥から重い振動が伝わってきて、その気が消える。


 ズズン……。


 「デカいの来るな」


 ウルフも唸り声を低くした。

 判断は早かった。


 「撤退」


 無理をしないと決めたばかりだ。

 背後の足音が追ってくる前に出口へ戻る。振り返らない。

 外へ飛び出してから、ようやく息をついた。


 闇の奥で一瞬だけ見えた巨大な影が、まだ頭に残っている。

 今のは勝てない。

 でも、昨日みたいに何もできず終わる感じとも少し違った。


 「……今の俺じゃまだ無理か」


 悔しいより先に、まだだと思った。


 入口近くの安全圏でひと息ついてから、隣に座ったウルフを見る。

 こいつがいなかったら、昨日どころか今日も終わっていた。

 表示にはまだ【ウルフ(骨好き)】と出ている。


 「……その名前、さすがにどうなんだ」


 本人も不服なのか、少しだけ眉間にしわを寄せたみたいな顔をした。

 気のせいかもしれないが、そういうことにしておく。


 「名前、つけるか」


 速さがある。噛みつきも強い。動きが鋭い。

 それに、助けられた。

 ただの従魔、で片付ける気にはならない。


 昨日のあの瞬間、こいつが飛び込んでこなければ今ここにいない。

 あまり飾る気にもならず、短く決める。


 「……ガル」


 表示が変わった。


 【個体名を設定しました】


 ウルフ → ガル


 次の瞬間、ガルの毛並みがかすかに光る。

 光は一瞬だった。

 でも、その一瞬だけ空気の輪郭がはっきりして、こっちとあっちの線が噛み合った感じがした。


 【テイム強化】


 ・個体名付与により能力補正発生


 「名前で強くなるのかよ」


 テイムの詳細を改めて見ると、従魔は経験値共有、好感度で能力補正、個体名付与で成長率上昇と書かれていた。


 「普通に強いな、このスキル」


 ガルは何も知らない顔で尻尾を一度だけ振る。

 少しだけ空気が柔らかくなった気がした。

 名前をつけただけなのに、昨日までより隣にいる感じが濃い。


 言葉が通じているわけじゃない。

 でも、さっきからこっちの呼吸に動きが合っている。


 「今回は無理しないぞ」


 そう決めて再び中へ入る。

 浅い場所でスケルトンを探す。

 ガルの動きは名付ける前より目に見えて鋭くなっていた。先手で崩して、俺が首を折る。二体、三体と倒すごとに、その流れが形になっていく。


 噛みつく位置。身を引く速さ。

 こっちが振る前に一瞬だけ空く間。


 どれも偶然で片付けるには出来すぎていた。


 【レベルアップ】


 Lv1 → Lv2


 【武器成長】


 天羽々斬 Lv1 → Lv2


 「いい感じだな」


 剣を振るたび、少しずつ手に馴染んでくる。

 ガルが前を崩してくれるだけで、昨日よりずっと踏み込みやすい。

 ひとりで必死に生き残る感じじゃなくなるだけで、こんなに違うのかと思った。


 そう思って奥へ踏み込んだ時だった。


 カタ……。乾いた、重い音。前からじゃない。


 正面の暗がりに、スケルトンナイトが立っている。昨日見た、あの圧だ。


 「撤退だ」


 即断する。


 だが、今度は違った。

 ナイトは動かない。

 代わりに、背後で複数の骨の音が鳴る。

 振り向くとスケルトンの群れ。


 「……囲まれたか」


 ナイトが赤い目を灯す。

 ただ強いだけじゃない。指揮している。

 ガルが低く構えた。


 「やるしかないな」


 前は無理だ。

 後ろを割るしかない。


 「ガル、合わせろ」


 剣を握り直し、息を整えた。

 さっきまでの戦いとは違う。

 ひとつ踏み外したら終わる。


 でも、今はひとりじゃない。


 背後の群れが先に来る。

 前のナイトはまだ動かない。

 あいつ自身が切り込むより、逃げ道を潰してから仕留めるつもりなのが分かった。


 「性格悪いな」


 ガルが低く唸る。


 「前は無理だ。後ろを抜くぞ」


 ナイトを避ける。雑魚を崩す。


 やることは単純だが、雑になったら終わる。

 先頭のスケルトンへガルが噛みつく。

 俺は横から首を断つ。

 こっちが言う前に、ガルの体はもう半歩前へ出ていた。

 呼吸が合うというより、向こうが先に隙間を作ってくれる。


 一体。


 二体目が横薙ぎを振るう。

 しゃがんで避け、その膝を踏み台にするみたいに踏み込んで骨を砕く。


 「止まるな」


 三体目、四体目。


 骨の音が近い。視界の端でナイトもじっとこちらを見ている。

 あいつが動き出す前に抜けるしかない。


 ガルが強引に一体を押し倒す。

 その隙に振り下ろし、斬り上げ、蹴り飛ばす。剣術なんてまだ形になっていないが、とにかく流れを切らさないことだけ意識した。


 「……見えてきた」


 雑魚はまだ追える。

 最後の一体をガルと挟んで落とした時、ようやく出口までの線が見えた。

 息は上がっていた。

 肩も痛い。

 でも、逃げ切れる線だけははっきり見えた。


 「抜けた……!」


 だが、そこで終わらない。

 振り返るとナイトが歩き出していた。

 骨の音がさっきまでより速い。


 「やっぱ来るか」


 詳細鑑定を重ねる。


 【スケルトンナイト Lv743】


 正面からは無理だ。


 「走るぞ!」


 出口へ向けて全力で駆ける。

 後ろで地面が砕けた。振り下ろしがかすめただけで、背筋が冷たくなる。

 風圧だけで首の後ろが粟立つ。

 もし少しでも遅れていたら、今ので半分持っていかれていた。


 「速ぇな……!」


 明らかに雑魚とは違う速度。

 だが、わずかに出口の光が見える。

 いける、と思った瞬間だった。


 ——ギィ。


 前方で門が閉じ始める。


 「は?」


 一瞬だけ頭が真っ白になる。

 後ろにはナイト。前は閉まる門。

 足が止まりかける。

 終わった、と思うより先に身体の芯が冷えた。


 詰んだ、と言いかけたところで、ガルが先に飛んだ。


 「ガル!」


 俺も全力で跳ぶ。


 肩をぶつけながら門を抜けた直後、重い音と一緒に扉が閉じた。

 すぐ向こう側までナイトは来ていた。

 でも、出てこない。


 閉じた門の向こうで、乾いた刃先が一度だけ石を削る音がした。

 それでようやく、外にいるんだと分かる。


 「……外には出られないのか」


 その場にへたり込む。

 助かったというより、たまたま生き残った感覚のほうが強い。

 胸の奥がまだ速い。

 鼓動だけが遅れて暴れていた。


 だが、表示は容赦なく続いた。


 【レベルアップ】


 Lv2 → Lv3


 【武器成長】


 天羽々斬 Lv2 → Lv3


 「順調、ではあるか」


 乾いた笑いが漏れる。

 そして、その直後に新しい表示が開く。


 【条件達成】


 スキル〈鑑定〉が進化可能です


 「……そっちも来るのか」


 休ませる気はないらしい。

 嫌でも、次がある。

 そう思うと、さっきまでの冷えが少しだけ別の熱に変わった。

 隣でガルが短く息を吐く。

 こっちを見るわけでもなく、ただ同じ方向を見ていた。

 膝の横にある体温だけが、さっきまでの冷えを少しだけ押し返していた。

 閉じた門の向こうには、まだあのナイトがいる。

 外の山は静かで、夕方の匂いが薄く流れている。

 そのどちらも、もう別々のものには見えなかった。

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