かつて「敬老の日」と呼ばれたことのある日に起きたこと
「敬老の日」という祝日の呼び名が変わってから、十数年が経った。
「―――ふぉっふぉっふぉ。ワシの知恵を使えば、こんなもの造作もないわい」
『す、すごい! まるで魔法ですわ!』
「魔法ではない。先人の知恵、年の功というやつじゃよ」
『おじい様、素敵です!』
「ほほっ、そうじゃろ、そうじゃろ」
ワシはベッドに寝転がったまま、天井に向かってニヤついた。耳に響くのは、壁に埋め込まれたAI見守りサービスが朗読する、なるぞ小説の音声だ。
この物語の主人公は、ワシと同じ年寄り。異世界に転生した彼は、現代日本の昔ながらの知識を駆使して、若くて可愛い女の子たちにチヤホヤされ、尊敬され、崇められている。
そう、これだ。これこそが、あるべき姿なんだ。年長者の知識と経験に若者が感謝し尊敬する。当たり前のことじゃないか。
聞こえるように音量を上げ続けたAI見守りサービスの音声が部屋中に響き渡る。物語は、主人公のおじいさんが、国のお姫様と折り紙で遊んでいるシーンだった。当然、主人公を見つめるお姫様の顔は赤らんでいる。
その時だった。
ドンッ!
「……あ?」
壁の向こうから、何かを叩きつけるような鈍い音が響いた。
ドン! ドン!
それと同時に、ピコン、と軽い電子音が鳴る。AI見守りサービスがメッセージを受信した合図だ。
『メッセージを受信しました。読み上げます。「お隣さんへ。毎日毎日うるさくて迷惑です。これ以上続けるなら、警察に通報します」』
「……ちっ」
今どきの若者はこれだ。直接言いに来る度胸もなく、壁を叩き、メッセージを送ってくる。陰湿で、根性がない。ワシが若い頃は……
「仕方ない。おい! 朗読を中断しろ!」
『承知いたしました』
ピタリと音声が止まり、部屋に静寂が戻る。だが、ワシの腹の虫は収まらなかった。
(若造が……! 老人を敬う気持ちのかけらもねぇ!)
怒りで体がワナワナと震える。
ワシは昭和生まれの75歳。世間では老人と呼ばれる年齢だ。
ワシたちが若い頃は、もっとお年寄りを大切にしたもんだ。席を譲り、重い荷物を持ち、知恵を借りた。お年寄りに対して文句なんて言うはずもない。それが美徳であり、常識だった。
だが、今はどうだ。若者は老人を邪魔者扱いし、憎しみのこもった目で見てくる。ワシたちがこの豊かな日本を作ってやったというのに、その恩も忘れて。
「……そうだ」
ワシはベッドから体を起こした。カレンダーに目をやる。9月の第3月曜日。かつて、この国で「敬老の日」と呼ばれていた日だ。
「よし、今日は米を食うぞ」
もう何ヶ月も、本物の米を口にしていない。いつも食っているのは、味気ないゼリー状の栄養食などの工場で作られた加工食ばかり。あんなものはエサだ。食事じゃない。
今日くらいは、ふっくらと炊き上がった、白米が食いたい。日本人なら当然の願いのはずだ。
ワシはタンスからくたびれた財布を掴んだ。中には、もうほとんど見かけなくなった一万円札が数枚。現金主義のワシにとってこれが買い物ができる唯一の手段だ。
ワシは日頃の不満を叩きつけるように、玄関のドアを力強く開けた。
最寄りのバス停まで歩く。
バス停に着くと、すぐにバスがやってきた。運転席は無人。乗降口横のセンサーが青く光っており、乗客は皆、手首をセンサーにかざして乗り込んでいく。
インプラントデバイス『ウェアー』による支払いだ。
『ウェアー』とは、体の中にチップを埋め込み、個人情報から信用情報、銀行口座まで全てを紐づける、いまいましい機械のことだ。
あれさえ体に埋め込んでいれば、身分証も、財布もいらないらしい。人手不足の世の中を効率的にするためだと、若者たちは喜んで体に埋め込んだ。政府に管理されるための首輪とも知らずに愚かなことだ。
もちろん、俺はそんなもの入れていない。昭和生まれの半分くらいは、俺と同じようにウェアーを拒絶しているはずだ。
ワシは順番を待ち、有人運転のバスが来るのを待つことにした。ウェアーなんぞ埋め込んでいないワシには、あの自動運転バスはただのゴミの箱だ。
しばらくして、人が運転する旧式のバスがやってきた。運転席には、若い男が座っている。
「よし」
ワシは先頭に立ってバスに乗り込もうとした。
「あ、お客さん、お待ちください」
運転手が、感情の読めない声でワシを制止する。
「なんだ」
「運賃のお支払いを先に」
「あぁ?」
ワシはポケットを探った。財布はあるがこれは米を買うための大事なお金だ。こんなところで使いたくない。
こんな時は…………
「……財布を忘れた」
「でしたら、ご乗車は……」
「いいから乗せろ! 次に来た時払う! なあ、それでいいだろ!」
ワシは昔ながらのやり方で、少し声を荒らげて言った。昔はこれで大抵のことが何とかなったもんだ。たった数百円。「仕方ないですね」で済んだ話だ。
だが、若い運転手は眉一つ動かさなかった。運転席は、運転手を守るように分厚いアクリル板で完全に覆われている。
「申し訳ありませんが、規則ですので。お客さんだけを特別扱いすることはできません」
「特別扱いをしろと言ってるんじゃない! 融通を利かせろと言ってるんだ! その程度のことも理解できんのか、この若造が!」
ワシはドアに手をかけて怒鳴ったが、運転手は無言で首を横に振るだけだった。
プシュー、という無機質な音とともに、バスのドアが閉まり始める。
「おい! 待て! 人が話してる途中だろうが!」
ワシが叫ぶのも聞かず、バスはゆっくりと発進してしまった。バス停に取り残されたワシは、遠ざかっていく排気ガスに向かって悪態をついた。
「クソが……! 昔は、財布を忘れたと言えばタダで乗れたんだぞ!」
結局、ワシは駅まで、自分の足で15分も歩く羽目になった。
駅前に着くとちょうど昼飯時になっていた。
(そうだ、まずは腹ごしらえだ。米は後で探せばいい)
ワシは駅前の飲食店街を歩き、定食屋風の看板を掲げた店を見つけた。ガラスケースには、サバの塩焼きや生姜焼きのリアルな食品サンプルが並んでいる。今や、本物の肉や魚は貴重品だ。大方これも代替肉や代替シーフードだろうが空いた腹はそれでもいいと叫んでいる。
「ここでいいか」
ワシは店に入った。中はカウンター席だけで、客が数人、黙々と食事をしている。店員は奥の厨房に一人いるだけだ。
「生姜焼き定食を一つ」
ワシが声をかけると、店員は無愛想に顎で入り口のほうをしゃくった。
「食券、お願いします」
見ると、入り口にはタッチパネル式の券売機が一台。画面には、支払い方法として『ウェアー認証』のアイコンが表示されているだけだった。
「おい、現金は使えんのか」
「使えません。うちはウェアー払いのみです」
「なんだと? こっちは客だぞ。金ならここにあるんだ!売れ!」
ワシは財布から一万円札を取り出し、カウンターに叩きつけた。だが、店員は迷惑そうに顔をしかめるだけだ。
「ですから、うちはキャッシュレスなんです。現金は取り扱っていません」
「お客様は神様だと習わなかったのか!!神様がこう言ってるんだぞ!」
ワシがカウンターを乗り越えんばかりの勢いで詰め寄った、その時だった。
店の奥から、ゴウン、という重い駆動音と共に、寸胴型のロボットが現れた。人間の大人ほどの大きさの威圧感のある警備ロボットだ。
『警告。威力業務妨害を確認。速やかに退去してください』
ロボットの赤く光るカメラが、ワシをじっと捉えている。
「ふ、ふざけるな! ワシは客だぞ!」
抵抗むなしく、ロボットは巨大なアームでワシの体を軽々と持ち上げ、まるでゴミを捨てるかのように、店の外に放り出した。
尻もちをついたワシの耳に、ロボットの無機質な声が追い打ちをかける。
『アナタヲブラックリストニ登録シマシタ。今後、当施設ヘノ立チ入リヲ禁ジマス』
ウィン、と店のドアが閉まる。ワシは、通行人たちの冷たい視線に晒されながら、しばらく動くことができなかった。
飲食店から叩き出され、ワシは完全に打ちのめされていた。バスにも乗れない、飯も食えない。なんて生きづらい世の中なんだ。
(そうだ、役所なら……。昔の敬老の日には、記念品とか配ってたはずだ。食料の配給くらいあるかもしれん)
かすかな希望を抱き、ワシは役所へ向かった。しかし、そこでもワシは現実を突きつけられる。ずらりと並んだ受付カウンターはほぼすべて無人化され、手続きにはウェアー認証が必須だった。
唯一、「ウェアー未装着の方はこちら」と書かれた窓口があったが、そこにいるのも人間ではなかった。モニターに映し出された、AIアバターだ。
「おい、ちょっと聞きたいんだが」
ワシが話しかけると、AIアバターは完璧な笑顔のまま、合成音声で答えた。
『ご用件を承ります。まず、ウェアー、もしくはマイナンバーカードをかざして、ご本人様確認をお願いいたします』
「免許証なら持っているぞ」
『申し訳ございませんウェアーとマイナンバーカード以外での本人確認は5年前に終了しております。』
ワシは30年以上マイナンバーカードを持たずに過ごしてきた。ウェアーも同じようなものだが、得体のしれないカードの中に個人情報が集約されるなんて想像しただけで虫酸が走る。そんなもの、落としたり悪用されたらどうするんだ。未だにそんな物を使う連中の気がしれない。
ワシらのような気骨のある年代だけが昔ながらの本人確認書類を使っている。しかし、最近は“効率化”やら“偽造防止”やらを理由に昔の本人確認書類を受け付けていないところも多くなってきている。面倒だな。
『申し訳ございませんウェアーとマイナンバーカード以外での本人確認は5年前に終了しております。』
AIは同じ言葉を繰り返すだけ。ワシがどれだけ怒鳴っても、画面を叩いても、その完璧な笑顔は崩れない。まるで、分厚いガラスの向こう側にいる相手と話しているようだった。ワシは、無力感に膝から崩れ落ちそうになった。
記念品の有無確認を諦めて、ワシは大型スーパーへ向かった。もう米が手に入れば何でもよかった。
しかし、食品売り場に足を踏み入れた瞬間、ワシは絶望した。 棚に並んでいるのは加工食品ばかり。
かつてそこにあったはずの、色とりどりの野菜や果物、新鮮な肉や魚はどこにもない。米のコーナーも、空っぽの棚が広がっているだけだった。
売り場をうろついているのは、商品を補充する品出しロボットだけだ。
「おい! 誰かいないのか!」
ワシは声を張り上げた。すると、バックヤードから、面倒くさそうな顔をした若い男の店員が出てきた。
「なんですか」
「米だ! 米はどこにあるんだ!」
店員は、ワシを害虫でも見るかのような目で見ると、吐き捨てるように言った。
「はぁ? 見て分かんないんですか?そんな貴重品が入荷するわけないでしょ」
「な……なんだ、その態度は! この国を作ってきた高齢者に対して、口の利き方も知らんのか! 今日は何の日か知ってるのか!敬老の日だぞ! 最近の若いのは何も知らないんだな!きちんと敬え!」
ワシの怒声に、店員は鼻で笑った。そして、今まで抑えていた憎悪をむき出しにして、ワシに言い放った。
「敬老の日?……ああ、あんたたちが年金だの医療費だので、この国を食い潰した記念日か?」
「なっ……!」
「あんたたちのせいで、日本はこんなザマになったんだろうが! あんたたちが気持ちよく過ごしたツケを、なんで俺たちが払わされなきゃいけないんだ! 少しは責任取れよ、クソジジイ!」
言葉が出なかった。若者の目に宿る、底なしの憎しみが、鋭いナイフのようにワシの胸に突き刺さった。
ワシは、何も言い返すことができず、ふらふらとスーパーを後にした。
とぼとぼと帰り道を歩いていると、商店街の一角に、「米屋」と書かれた看板が目に入った。シャッターが下りている店が多い中、そこだけがひっそりと営業しているようだった。
(米屋……! ここなら、あるいは!)
ワシは最後の希望を胸に、店のドアに手をかけた。
「おーい!」
店の中は薄暗く、米の匂いがかすかに漂っていた。奥から出てきたのは、50代ぐらいの人の良さそうな店主だった。
「はいはい、なんでしょう」
「米を……米を売ってくれんか。ほんの少しでいいんだ」
ワシの必死の形相に、店主は困ったように眉を下げた。
「ああ、申し訳ないですけどねぇ。今、お分けできるお米はちょっと……」
「そこをなんとか! 金なら払う!」
「いやいや、お金の問題じゃなくてね。本当に、ないんですよ」
店主はそう言って、頑として首を縦に振らなかった。ここでもダメか。ワシは肩を落とし、店を出るしかなかった。せめてもの抵抗に店先に唾を吐きかける。
店の外でがっくりと膝に手をついていると、別の老人が店に入っていくのが見えた。小学校低学年くらいの男の子の手を引いている。
「じいちゃん、今日はお米食べられるの?やった!楽しみだね!」
孫らしき子供の弾んだ声が聞こえる。
(ふん、どうせお前らも断られるさ。ワシが断られたんだからな)
不幸になるのはワシだけじゃない。何も知らないあの子どもが悲しむ顔を見て自分を慰めよう。ワシは、他人の不幸を期待しながら、店の中の様子に聞き耳を立てた。
だが、ワシの予想は裏切られた。
「おお、いらっしゃいませ。待ってましたよ」
「いつもすまないねえ。」
「いえいえ。いつもあいつには世話になってますから。ちょっと待っててください」
奥から戻ってきた店主の手には、ずっしりと重そうな米袋が抱えられていた。
「ほら、坊主、これを持っていきな。」
米袋が子どもに渡されそうになるのを見て、ワシの頭に血がのぼる。
「おい!」
ワシは怒りに任せて、再び店に踏み込んだ。
「どういうことだ! ワシには無いと言ったじゃねぇか! なんでそいつらには売って、ワシには売らねぇんだ!」
突然の乱入者に、老人も孫も、びくりと肩を震わせる。店主は、ワシの剣幕に臆することなく、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「この人の息子さん、この子のお父さんにはいつも世話になってるんですよ。だから、そのお礼にこっちもお米を融通してる。働いてるもん同士、助け合いですよ」
店主はまっすぐにワシの目を見て、続けた。
「あんたは? あんたや、あんたの子供は、俺に何を差し出せるんだい? 息子さんか娘さんは、何をしてるんだ?」
その言葉は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。
ワシには、妻もいなければ、子供もいない。独り身だ。 この社会で、誰かと助け合うための「繋がり」が、ワシには何もなかった。差し出せるものなど、何一つとして持ち合わせていなかったのだ。
「…………」
ワシは、何も言い返すことができなかった。
帰り道、どうやって家までたどり着いたのか、よく覚えていない。
気がつくと、ワシは自分の部屋の食卓で、いつもの加工食を胃に入れていた。何の味もしない、ただ腹を満たすためだけの物体。昔、金を出せばどこでも食べることができていた米の味を思い出し、不覚にも涙がこぼれた。
外は、もうすっかり暗くなっていた。
ワシは、最後の気力を振り絞って、ベッドに倒れ込んだ。そして、震える声でAI見守りサービスに命じた。
「……おい。なるぞ小説を……読め」
『承知いたしました。どの作品を再生しますか?』
「……なんでもいい」
『では、ランキングから新作をおすすめします。タイトルは―――』
AI見守りサービスの合成音声が、冷たい部屋に響き渡る。
『―――「どうしたらいいかって?いまさら聞いてももう遅い。高齢者だからと切り捨てたお前たちが悪い。年の功で知識無双、最強おじいちゃんのスローライフ」』
ワシは、そのタイトルを聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
今日は「敬老の日」なんだ。誰もが長生きをするワシに感謝し、敬う日なんだ。
そうだ、ワシは悪くない、ワシを蔑ろにするあの若者たちが悪いんだ。 物語の中だけでも、ワシは敬われ、尊敬される存在でいたい。
隣の部屋から壁が叩かれるまで、部屋の中に響く「敬老の日」の空気に、ワシは沈んでいった。