第二話 笑顔と彩り 優しさと誠実さ
「優太朗ー! 起きてるー?」
扉の向こう側から聞こえる母親の声に目を開く。
「……起きてるーー。」
ベッドから降りてフラフラと姿見の前に立った。目の前では隈をこさえた長身の男がこちらを見つめている。
「一睡もできなかった……」
寝ようと思って目を閉じるたびにあの少女の顔がフラッシュバックしてしまい、睡魔が吹き飛ばされてしまった。
もし怖がらせてしまったなら謝っておきたいと思う。しかし彼女のことについて優太朗は何も知らないのだ。もう会うことすらないのかもしれない。
考えていても仕方ないので階段を下りて洗面所に向かった。
髪の毛を濡らして適当にドライヤーで乾かす。ヘアゴムを一本拝借して手早く後ろ髪をまとめた。
「おにぎり作っといたから忘れないようにねー。」
「……はーい。行ってきまーす。」
チリンチリンと音を立てて『図書喫茶BRANCH』のドアを開け、午前六時半の朝日に目を細める。いつもと同じ、代り映えのない朝に少しだけ安堵した。
俺がどれだけ悩んでいても世界は変わらない。
人間とは、ちっぽけだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「優太朗、今日カラオケ行かねー?」
「明、お前……断られるの前提で誘ってるだろ。」
「当たり前だろー? 優太朗、一回もカラオケ付き合ってくれたこと無いもんな。なんで?」
「いつも言ってんだろ。歌が上手くないんだよ。」
主人公席に座る明は頬杖をついてこちらに話しかけてくる。優太朗の席は惜しくもその右隣だ。別に席の座標によって日常が大きく変わる事は無いので、特別気にしているわけではないのだが。
「別に歌わなくても来ればいいじゃん。前嗣だって一曲も歌わないけどついてきてるぞ?」
「ん。」
「ご本人、話すら聞いていなさそうな返事してますけど。」
優太朗は軽い苦笑いを浮かべて牛乳を啜った。
明の方を向いているとどうしても女子校舎が目に入る。廊下を歩いている女子の姿が、優太朗の記憶からあの少女を引きずり出して机に顔から崩れ落ちた。
「あ~~~~~~」
「うわビックリしたぁ! 絶対痛いだろ今の!」
ゴンと音を立てて机と衝突した額が赤くなっている。机にうなだれたまましばらく遠くを見つめていた。
深呼吸をして迷いを払うように頭を振る。そのまま机を叩いて立ち上がった。
「ヨシ! 帰る! また明日な!」
鞄を手に取って早足で教室から出ようとした次の瞬間、強い衝撃と共に体が反射的に下へのベクトルに襲われる。
「いだっっっっっ!!!」
「髙木~ぶつけんの何回目だよ~!」
「大丈夫……慣れてるから……」
クラス中の男子の声を背に受けながら頭頂部を押さえて廊下に出た。ジンジンとした痛みが脳に直接響くようだ。
どうせ活かす機会も無いのだから……こんな身長、誰かに譲れればいいのに。
そんなことを考えながらトボトボと廊下を歩く。
「……優太朗さ、何かあったんかな?」
明は優太朗が去っていった方を見ながらそう呟く。二年六組の教室は再び談笑の喧騒に包まれていた。
「……さあ。」
「前嗣もちゃんと気にかけてんだな。」
「…………ん。」
「さっきからそれ何。『ん。』ってやつ。流行ってんの?」
中学からの仲の二人は、高校で新しくできた一人の友の事を考えながら,
静かに中身の無い会話を交わした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ただいまー。」
「お帰りー! 優太朗、今日もちょっとだけ入れるー?」
「はいよー。」
優太朗は『BRANCH』の制服に着替えてホールに出る。どうせ今日もお客さんなんて数人しかいないというのに、なぜ母は力を借りようとするのか。
まあバイト代も貰っているし、文句を言う程の事でもない。暇つぶしにもなるので優太朗としてもそれなりに楽しませてもらっている。
「いらっしゃいませー。」
……白黒だ。
毎日がつまらないわけではない。日常に全く色が見出せないわけでもない。
ただ──
──こんなもんか。
子供の頃に小説で読んだような綺麗な世界ではない。少年の頃に漫画で読んだような鮮烈な日々じゃない。
ただ──それだけだ。
「はあ…………」
大きなため息が口から零れ出る。
『ため息を吐くと幸せが逃げる』とよく聞くが、最近読んだ本には体にいいと書いてあった。それを読んでからは積極的にため息を吐くようにしている。
そもそも幸せが逃げるとは何だろうか。幸せって動けるの?
そもそも幸せって何だろうか。人によるだろう、そんな──
「あの、すみません……」
「あっ! も、申し訳ございません!」
優太朗はボーっとしていた顔を両手で叩いて、無理やりに目を覚ました。
流石に昨夜の睡眠不足がこたえているのだろう。
しかし次の瞬間、優太朗はガタッと体を乗り出した。
カウンターの前に、昨日の少女が立っていたからである。
優太朗の突然の動きに驚いたのか、少女は一歩後ずさって瞳に小さな緊張を孕む。
「……あ、ご、ご注文はお決まりですか?」
慌てて笑顔を取りもどし、店員としての態度を繕う。しかし彼女は視線を泳がせながら何も言わない。
少し気まずい。できることならさっさと謝って、この胸に残るモヤモヤを取り払ってしまいたい。だが、あくまでも彼女は客として来店しているのだ。であればこちらも店員として応対するべきだろう。
「えっと、じゃあアイスココアを一つ……」
「アイスココアが一点で。店内でお召し上がりですか? お持ち帰りですか?」
「店内でお願いします。……あ、あの!」
優太朗は目を見開いて彼女の綺麗な瞳を見る。
昨日会ったばかりだが、こんなにしっかりと見つめられたのは初めてだ。真っすぐな視線がこちらに向けられ、緊張が残っているのか小さく震える。
「き、昨日! すみませんでした! 失礼な事しちゃって……帰り際だったのに続きを取って欲しいって、変でしたよね。時間を気にしていなくて……」
思わずポカンとしてしまった。
なぜ彼女が謝るのだろう。本当ならばこちらが謝るべきだ。というか彼女は何か失礼な事をしたのだろうか。
早く謝らなければ。ごめんなさい、というだけだ。ただそれだけ。それなのに──
「……あ、あぁ、はい……」
──適切な言葉が出て来なかった。彼女はこんなに小さなことでも謝罪してくれたというのに、自分にはそれができなかった。
彼女は少し俯いて財布から硬貨を取り出し、カルトンに優しく置く。
その目は少し寂しそうで、無理やり微笑んでいるかのようだ。
……胸が痛い。するべきこと、しなくてはならないことは分かっていた。しかし、真っすぐに彼女に、誰かに向き合うのが怖かったのだ。
彼女はアイスココアを受け取ると小さくお辞儀をして、そそくさと昨日と同じ席に向かってしまった。
頭がぐわんぐわんと回るような感覚に耐え切れず、頼りない足取りで厨房に水を取りに行く。
このよろめきは後悔?慙愧?それとも自己嫌悪だろうか。脳だけが自分の身体に付いて来ていない気がする。
水をコップに注いで一気に喉に通した。ひんやりとした感覚が意識を身体の中に引き戻す。大きくため息を吐いて厨房から出ようとした時、ちょうど母がこちらに顔を覗かせた。
「優太朗ーいるー? あ、いたいた。今日はもう上がっていいよ。」
「……あ、オッケー……」
下手くそな笑顔を浮かべて彼女の横をすれ違おうとしたが、少しふらついて腕が肩にぶつかってしまった。
何も言わずにそのまま去ろうとした時、背後から尖った声が突き刺さった。
「優太朗、ごめんは?」
「あ、ああ……うん……」
「もう……『ありがとう』と『ごめんなさい』はちゃんと言える人になりなさいって昔から言ってるでしょー? あと、夜ご飯何がいいか聞かれた時も。」
優しい声なのに、まるで平手打ちを食らったようだ。
そういえば、母は昔からそんなことを言っていた気がする。きっと昔の俺は相手のことを真っすぐに見つめていたことだろう。
他人に向き合うということはいつしか、優太朗にとって怖く空しいものとなってしまい、こんな何気ないことにすら足を止めるようになってしまっていた。それをとても悲しく、また憂く思う。
「……お母さん……ありがとう。」
優太朗は頬を強く叩いて目を覚ました。静かで長い吐息はだんだんと瞳に覚悟を宿していく。
しかし次の瞬間、頭をわしゃわしゃと撫でられて軽いチョップが繰り出された。
「そっちじゃなくて『ごめん』の方だよ! ふざけてんのか!」
そんなことを言ってケラケラと笑う母を見て、優太朗も笑みが漏れてしまった。母はいつも明るく、きっと優太朗が生まれてから初めて見た色だったことだろう。
「はは、ごめんなさい。……ちょっとカフェ使いたいから、着替えたら注文だけさせて。」
「ん?いいけど……別に閉店後だったら自由に使っていいよ?」
「……ううん、今じゃないとダメだから。」
そう言って勢いよく階段を上り、うす暗い自室に飛び込んだ。覚悟が揺るがないうちに適当なパーカーに着替え、もう一度髪を縛りなおす。
「……ヨシ!!!」
最後にもう一度、頬を強く叩いて扉を開けた。
母からアイスココアを一つ受け取って店内を見渡す。よく考えれば、昨日と同じ席に向かったのをさっき見ているのだからわざわざ彼女を探す必要なんて無かった。まあ、きっと緊張を落ち着かせようと何か行動をしておきたかったのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと時間が過ぎているような感覚があった。しかし足は一歩ずつ、確かにあの背中へと向かって進んでいっている。長く綺麗な髪は夕陽に照らされていて赤橙色に輝いていた。
「……あ、あの、向かい、いいですか?」
声が震え、笑顔は引きつっていることだろう。そもそもこんな声のかけ方が正しい訳がない。こんなにがら空きな店内で、わざわざ向かいに座る奴なんていてたまるか。
ほら、彼女もこんなに驚いている。困ったように眉は歪んで、顔は真っ赤だ。瞳が小さく震えているのもよく分かる。
「……あ、え……? は、はい……?」
消え入りそうな弱弱しい声と共に、彼女はこくりとうなずいた。ゆっくりと彼女の向かいに腰かけて手に持ったカップをテーブルに置く。
……何と切り出そうか。あんなに気合を入れた筈なのに顔も真っすぐに見られない。
緊張や焦りからか、順繰りにテーブルの上に置いてあるものに目を泳がせる。カップ、手帳型のケースに入ったスマホ、もう一つのカップ、リボン柄が刺繍されたハンカチ、そして『珈琲味の出会い』の四巻。
小説がテーブルの上に置かれているという事は、きっと彼女はこちらを見ているのだろう。
早く、早く言わなければ。時間が経てば経つほど、自分の中の決意が揺らいでいく。このままではまた何も言えずに、ただ向かいに座ってきた変人になってしまう。
「あ……あの……ご……すみま──」
「大丈夫ですか?」
顔を上げた次の瞬間、彼女の右手がこちらに伸びてきた。可愛らしいハンカチが優太朗の額に触れ、汗を拭きとる。
「え……?」
「凄く汗をかいていたので……。まだ五月ですし、そんなに暑くないのにどうしたのかなって思って。」
────優しい。
真っすぐに、こちらを見てくれる。昨日、お礼を言われた時も、さっき謝られた時もそうだった。身長差とか、年齢差とか、そんなのどうでもいいとでも言うように真っすぐ、真摯に向き合ってくれていた。
「……昨日、怖がらせてしまってすみませんでした……」
自然と口から言葉が漏れ出す。不思議と頭はすっきりしていたが、相変わらず手は震えていた。でも、ここで止まることはしたくなかったし、何よりもう目を逸らしたくなかった。
「それとさっき、本当は俺が謝るべきだったのに謝らせてしまってごめんなさい。」
「え、え、そんな……」
彼女は少しだけ驚いてしまったようだが、それでもとりあえず言いたいことは全て伝えておきたかった。
「……真っすぐに謝ってくれたのに、向き合わなくてごめん。」
小さく頭を下げて目をつむる。
後になって冷静に考えれば、頭を下げたのはきっと顔を合わせない口実だったのだと思う。彼女の顔を見るくらいなら、この沈黙に耐えている方がずっと楽だと無意識に目を背けていた。
「……ふふ、そんなことのためにわざわざ謝りに来てくれたんですか? ふふ……」
小さく笑う声が頭上から聞こえてくる。変だと思われただろうか、嘲笑されているのだろうか、なんて少しでも疑ってしまった自分が、心底嫌いになりそうだ。
「やっぱり、優しいんですね。」
その言葉は予想していなかった。きちんと謝っただけで優しい?そんなに過大な評価は無いだろう。優しいという言葉は、真っ先に謝ってくれる彼女のような人に与えられるべきだ。
ああ、顔を上げてみたい。どんな顔をしてこんなに優しい言葉をかけてくれているのか知りたい。
きっと俺は、これからもずっと人に向き合うのを怖がり続けることだろう。
しかし、今この瞬間だけでも、少なくとも彼女の真っすぐさだけは、裏切りたくなかった。
ゆっくりと顔を上げる。恐る恐る見た彼女の顔には──
「……ふふふっ。わざわざ来てくれて、ありがとうございますっ。」
──『色』があった。
いや、正確に言えば彩られたと表すべきなのだろうか。
満面の笑みと、鈴を転がすような笑い声が世界に色をもたらした。
十六年の人生の内に、たくさんの色を見てきた。
桜色、珊瑚色、薄紅、淡紅藤、長春色、赤紫、紅海老茶、女郎花、煉瓦色、葡萄色、朱色、山吹色、利休鼠、緑黄色、若草色、千歳緑、鉄色、月白、瓶覗、紺碧、紫苑色、京紫、霞色、胡桃染、濡羽色。
もちろん、赤や橙、黄、緑、青、藍、紫なども日常のいたるところに存在している。しかしそれらの色とは別に、優太朗は世界をどこか白黒だと感じていた。
だからこそ、彼女の笑顔は衝撃的だった。鮮烈だった。
こんなにも世界が美しく見えたのは初めてだ。まるで彼女の髪の一本一本すら、違う色に輝いているように見える。
きっと、俺は生涯この日を忘れられないのだろうと強く感じた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……まだ、ある。」
自室のベッドに寝転がりながら天井に向かってそう呟いた。
あの笑顔を見てから今までずっと、世界に色が残っている。
昨夜は一睡もできなかったというのに、すっかり眼が冴えてしまって眠気なんて一欠片も残っていない。
「色……」
結局あの後、優太朗は放心状態になってしまい、何も話せずに部屋に戻ってきてしまった。
何もわからない。なぜ彼女なのか。どうしてこんな何気ないことがきっかけだったのだろうか。
「あの子……。」
何も知らない。年齢も、通っている学校も、住所も、連絡先も、名前すら知らない。
気になって仕方がなかった。きっと昨日よりも彼女の事ばかり考えている。
「……名前くらい、聞いておけばよかった。」
大丈夫だ。嫌われた感じはしないし、きっとまた来てくれることを祈ろう。
胸の奥に生まれた不思議な好奇心を抱きしめるように縮こまり、目を閉じる。
しかしその瞬間、階下から母の声が聞こえてきた。
「優太朗ーー!」
「はーい? どしたのー。」
ドアを開けて階段の下を覗き込み、小さく首を傾げる。普段だったら少しだけ不機嫌になっているところだが、今日は明るく返事が返せた気がした。
「ごめーん、モップだけかけといてくれるー? お小遣い、千円ボーナスしとくから、さ?」
「別にボーナスはいいよ。いつもやってるし。」
時計に目を向けると八時直前だった。『BRANCH』は八時閉店なので、今モップを頼まれるという事は客が全員帰ったのだろう。
モップ絞り器にポットの余りのお湯を入れて、店内の椅子をテーブルに上げていく。
ふと、申し訳程度の観葉植物に目が留まる。そこにはポツンと寂しそうに、一枚のハンカチが置かれていた。小さなリボンの柄が刺繍されており、可愛らしい。
忘れもしない。今でも胸の中に、あの優しさが残っている。
──あの子の物だ。
「忘れ物……次来た時に渡せばいいか。」
しかしそうは言ったものの、ハンカチを手に持ったまましばらく固まっていた。
……口実になるとでも思ったのだろうか。忘れ物を届けに行けば、もう一度会える。そうすれば、また感謝と共にあの笑顔を見れるかもしれない。
知りたい。少しだけでも知りたい。せめて名前だけでもこの舌に刻みたい。
「お母さーん。忘れ物なんだけど……」
「はーい、じゃあ落とし物入れに入れといて。」
「あ、そうじゃなくて。俺、これの持ち主を知ってるんだけど……長い黒髪で、えっと、長いスカートを履いてて……あ、背が低い子!」
母は少し考えて、思い出したように手を打った。
「ああ! あの子かなー? 隅っこに座ってた子。」
「た、多分そう! これ、テーブルの上に置いてたの見て……」
「あの子、よく来てくれるよー。わざわざ電車で来てるみたいでね?バッグに紅塚から浦筒の定期が……」
優太朗は少し驚いて、母の声が聞こえなくなる。
昨日以前に来ていたことすら知らなかった。これまで、どれだけ自分が他人に興味を持っていなかったかがよく分かる。
「電車……何時頃帰ったとか分かる?」
「うーん……最後までいたから、七時……五十五分くらいかな? いや、テイクアウトでココア頼みに来たからもうちょい後かも。」
時計に目を向けると、針は八時二分頃を指している。
まだ全然間に合う時間だ。徒歩ならば、最短距離を辿っても駅までは十五分程はかかる。
「……俺、ちょっと行ってくる。まだ間に合うだろうし……」
「別に次来た時でいいんじゃない? もう真っ暗だよ?」
「……いや、行く。……ごめん、モップは帰ってきてからやるから!」
優太朗はハンカチをポケットに入れて『BRANCH』のドアを開ける。大通りに面しているとはいえ、さすがにこの時間ともなれば空にある光は星と月だけだ。
「な、なるべく早く帰ってくる!」
「……はいはい、いってらっしゃい。気を付けてね。」
「いってきます……」
優太朗は強く頷いて暗い世界に飛び出した。
とりあえず駅への最短距離を辿ってみることにする。
住宅街の方へ向かい、長い脚をジョギング程度の速さで走らせた。まだ冷たい夜風が頬を冷やす。もう五月だというのに、吐いた息が少し白かった。
店が閉まり始めている商店街を突っ切ると、再び暗闇が視界を埋める。
よく目を凝らしているが、ここに来るまでには居なかったと自信を持っては言えない。
こんな時は自分の目の悪さを恨みたくなる。中学生の時にゲームをやりすぎた弊害なのだから、どう考えても自業自得だが。
薄暗い路地に入ってすぐに少し先の街頭に五人ほどの人影が見えた。そのうちの一人は見覚えのある長い黒髪を垂らしている。
しかし、他の四人の男は全く見覚えがない。金髪と黒髪が二人ずつ。金髪のうちの一人が何やら言っているようだったが、流石に遠すぎて聞こえなかった。
嫌な予感なんていくらでもあったと思う。
いや、まだ分からない。判断するには早計だ。もしかしたら兄妹とかかもしれないし、ちょっと年の離れた友達の可能性も──
「んで、金払うだけ? そんだけで許されると思ったの?」
まあ、それはあくまでも希望的観測に過ぎなかった。兄妹や友達とそんな会話はしないだろう。
「す、すみませんでした……本当にごめんなさい……。弁償はするので許して下さい。」
「だから、金払うだけでいいと思ってんのって。君、まだ子供なんだからどうせ親に払ってもらうだけでしょ?」
「ち、違っ……」
優太朗はポケットからボールペンを取り出す。バイト終わりじゃなかったらペンなんて常備している訳がない。運がよかった。
「あ、あの……わたしは何をしたら……」
「さあ? ちゃんと自分の頭で考えてみれ──」
「すみません、うちの妹が何かしましたか?」
できる限りの笑顔を取り繕って彼女の前に出る。正直、容姿も雰囲気もあまりに似ていないので騙せている確証はないし、とっさの演技やアドリブは昔から苦手だ。もちろん怖い。……けれど、どうにかこの場を仲介できないかと思った。最悪彼女だけでも助けられればそれでいい。
他人のためは、俺の生き方なのだから。
左手を背に回し、手のひらに書かれた文章を彼女に向ける。
『すきみてにげて』
拙い字だが、ギリギリ読めるくらいの字ではあると思う。もし読めなかったら字の汚さによって全て台無しになった情けない男になってしまうので、どうか読めていて欲しい。
「あ? お兄ちゃんの登場かよ。……いやさあ、お宅の妹さんがさ? 前見ないで歩いてたせいで俺とぶつかっちゃってさー。俺の靴が汚れちゃったんだよね。飲み物全部ぶちまけちゃったんよ。」
確かにコンクリートには『BRANCH』のテイクアウト用カップが転がっていて、男の靴やそこら中にココアと思われる液体が飛び散っていた。
「それはすみません。代わりに俺が弁償しますので、どうかこの場は収めて貰えませんか?」
「はあ……あんたもその口? あのさ、この靴と同じ値段返されたってプラマイゼロになるだけじゃん。俺がプラスにならないと意味ないだろって言ってんの。」
一理くらいはあるのかもしれない。しかし、だからと言って何を渡せば満足するのだろう。
「ちょ、おい……。別に弁償してくれるって言ってんだからいいじゃん。な?」
「そ、そうだよ。どうせ洗うだけならそんなにかからないし……」
「……いや、納得いかない。」
意外にも周りの三人は理性的だった。四対一だったらどうしようもなかったかもしれないが、一対一ならまだマシだろう。
「そうですね。すみません。少し多めに払います。」
「……うんうん、そうだよね。」
それにしても、いつ彼女を逃がせばいいのだろう。隙をみろなんて言われてもそんなの分かる訳ないに決まっている。
「……でもさ、俺の靴汚したのは妹ちゃんだよ。だったらお兄ちゃんが何かしても意味なくない?」
そう言って男は少女に手を伸ばす。優太朗は咄嗟にその手首を掴んでしまった。当たり前だが手は振り払われて、優太朗は少しふらつく。
「……何? 何か文句でもあるの?」
「い、いえ。けど、妹の分まで俺が……」
「はぁ……いいけどさ、俺の言ったこと理解して言ってんの?」
その時、背後の少女が突然後ろに向かって駆け出した。
正直適切なタイミングなんて分からないが、取り合えず俺の文字は、読めるくらいの下手さだったことに安堵する。
「あっ、おい待てよ!」
「い、今は俺と話してるじゃないですか。」
もちろん男は彼女を追いかけようとするが、優太朗はその前に立ちふさがった。
「ち、因みにその靴って幾らくらいするんでずっっ、かっ……」
──痛い。腹を殴られた。内側からグッと全身に力が入る感覚があった。きっと無意識に体が防御の体勢をとったのだろう。
しかし当たり前だが遅かった。しっかりと鳩尾に痛みが残っている。
「邪魔だよ。俺は妹ちゃんに用があんの。」
優太朗を無視して進もうとする男の手首を掴んだ。痛みを内に隠して立ち上がる。
「ぐっっ……は……お、俺が、代わりに用を聞きますよ。それで……」
「……ふーん。じゃあ、話聞いてよ。」
次の瞬間には、八百屋のシャッターに背中が強く打ちつけられていた。
ガシャーンと大きな音が路地に響く。心の中で八百屋さんにすみませんと謝っておいた。
「っっ……!」
上手く息ができない。しかし『痛い』という言葉だけは絶対に口にしないよう気を付けた。何故なら、これはあくまで話し合いなのだから。
「この靴さ、大事だったんだよね。いろいろあってさ。……高いんだよ? 確か、五万くらいかな。」
そう言いながら男は優太朗のパーカーを掴んで顔を引き寄せる。
正直高校生の優太朗には靴の値段とは思えないほど高いと思ったが、勝手に鯖を読んでいることにした。
「本当は妹ちゃんにちょっと意地悪な事言って終わりにしようと思ったんだ。女の子に手上げるのは嫌だし。……でもお兄ちゃんならいいかなって。」
拳がこちらに向かって飛んでくる。なんとか腕で防いだが、コンクリートの上に巨体が倒れこむ。
これで終わりなら大した傷にはならないだろうが、終わる筈がない。
息つく暇もなく足が飛んできた。つま先が額に触れて鋭い痛みが走る。
ポタッと地面に血が垂れた。きっと軽く切れたのだろう。これだから暴力は嫌いだ。
他人から振るわれる暴力も、自分から振るう暴力も嫌だ。痛いのは嫌だし、痛めつけるのも好きじゃない。でも──
──誰かのためなら痛いくらいどうってことない。
この痛みを耐えるくらいお茶の子さいさいだ。だって、これを耐えれば少なくとも彼女は助かる。ならそうしない理由はない。
「ぐっっ……」
地べたに横向きに倒れこんだ優太朗の腹に蹴りが飛び込んできた。何度目だろうか。臓器に傷がつかないことを祈って必死に耐える。
幸いだったのは、やはり周りの三人は関わってこなかったことだ。もしも四対一だったらとっくに彼女に追いつかれていたことだろう。
顔はできる限り守っておこう。特に目は見えなくなったら困る。
いつの間にか、髪を縛っていたヘアゴムがどこかへ行ってしまったようで、そこそこの長髪が顔を覆った。
そして顔を踏まれる感覚。思わず、その靴大事だったんじゃねえのかよと、心の中で悪態をついてしまった。
腕も痛いし、腹も顔も痛い。でもきっと大事には至ってないだろうという変な自信があった。体はでかいし、毎日牛乳も飲んでいる。きっと頑丈に育ったはずだ。
大丈夫。耐えられる。
何時間が経っただろうか。いや、きっと五分くらいしか経っていない。
いつの間にか四人組はいなくなっていて、俺は傷だらけの身体で空を見上げていた。
「……星が……綺麗だ。」
こんなに星が輝いて見えたのは小学生の頃ぶりだと思う。
これも彼女のおかげだ。まだ色が残っている。
「これくらいなら……お代として……ちょうどくらいかな……」
かっこいい漫画のキャラならば、ここでタバコでも吸ったりするのかもしれない。俺は未成年だから吸わないし、生涯吸う気もない。
彼女はちゃんと逃げ切っただろうか。まだ少し心配だが、自分の頭から延々流れる血液の心配もしなければならない。
このままだと失血死とかするのかな、なんて暢気に考えていた。意識ははっきりとしているし、きっとそんなに傷が深いわけでは無いのだろう。
正直額の傷よりも口の中の方が痛い。額の傷は触れなければそんなに痛くないが、口の中はどうしても唾液が触ってしまう。
「いちち……あー、お母さんに怒られるなあ……」
体を起き上がらせてシャッターに寄りかかると、パーカーの袖をまくって腕を見てみた。
「あーあ、青なじみばっか……擦り傷も……最悪。」
力なく上を見上げると、輝く星と月が励ましてくれた。
月や星も、いつも頑張ってみんなを照らしてくれる。優太朗からすれば大先輩のようなものだ。
大きなため息を吐いて目を閉じると、何やら足音が聞こえてくる。
ただの通行人かとも思ったがその足音はとても小さく、駆け寄ってくるかのようだった。
「あ、ああ……大丈夫ですか……?」
聞き覚えのあるか細い声。震えていて、今にも泣きだしてしまいそうだ。
ゆっくりと目を開くと、見覚えのある可愛らしい顔がそこにあった。
「ああ……よかった……。いや、よくないです……。すみません……」
俺が何かを言う前に、彼女は涙を零し始めてしまう。
それでも、これでよかったのかもしれない。今、彼女になんと声をかければいいのか分からなかった。
「ご、ごめんなさい……わたしのせいでこんなことに……本当に、ごめんなさい……」
なぜ、彼女が謝るんだろう。
またそんなことを考えていた。思えば彼女はいつもまず謝っていた気がする。
ああ、謝らないで欲しい。君の笑顔は何より素敵なのだから。
ああ、泣かないで欲しい。君の感謝は何より誠実なのだから。
どうか、そんな風に自分を責めないで。
「俺は、大丈夫ですよ。本当に。そっちこそ、無事ですか?」
精一杯の笑顔を取り繕ってみる。きっと酷い顔をしていることだろう。
「わ、わたしは全然大丈夫です……でも、あなたが……」
「俺は本当に大丈夫です……。でも一応救急車だけ呼んでもらってもいいですか?ちょっとおでこの血が止まらなくて……あ、そうだ。忘れてた……」
優太朗はポケットに手を突っ込み、彼女のハンカチを取り出した。
「これ、忘れ物です。お客さんの物で間違いないですよね?」
震える手がハンカチを受け取った瞬間、少女は顔を伏せてしまった。
「こんな物のために……わざわざ……。ごめんなさい……わたしがちゃんと前を向いて歩いていたら……こんな風にじゃなくてもっと、ちゃんと会えてたのに……」
また謝っている。彼女が俺に何か危害を加えたのだろうか。
「警察と救急車はもう呼びました……逃げる時、殴られてるのが見えたので。……このハンカチ、もしかしたらあんまり綺麗じゃないかもしれないですけど、何もしないよりは……」
そう言って彼女はハンカチを優太朗の額にハンカチを当てた。白い布が赤く染まっていく。
「あ、ハンカチが……汚れちゃいます……。」
「そんなの、どうでもいいんです。ああ、ほんとに止まらない……。他の場所は痛くないですか? ……わたしに、できることはありますか……?」
やはり、優しいという言葉がよく似合う人だ。
そんなに気にするようなことじゃないのに。何ならさっさと逃げ帰ってもらっても全然良かったのだが、わざわざ戻ってきてこんな風に心配してくれるなんて。
できること……額の血は押さえて貰ってるし、他の場所はそんなに傷も深くないと思う。唯一、口内の傷はヒリヒリと痛むがどうしようもないだろう。
できること……必要なもの……して欲しいこと……欲しい……。
ふと、一つ思い出したことがある。少し気持ち悪いかもしれない。
……けれど人生の大きな転換点になるかもと思うと、言いさしてはいられない。だって彼女のおかげで、今も世界はこんなに鮮やかなんだから。
「……まえ……が……」
「はい、何ですか?」
「……あなたの、名前が知りたいです。」
「……え?」
「それと、できれば笑顔と『ありがとう』も貰えますか……?」
呆然としている彼女の顔を見ていると少し恥ずかしくなってくる。やはり自分の願いは幼稚で、今聞くようなことではないのかもしれない。
しかし彼女は涙を拭って顔を上げた。
「……わたしは、花月 彩葉です……! 助けてくれて、本当に、ありがとうございました……!」
泣き笑い、とでもいうのだろうか。眉は歪んで目元には赤みが残っている。必死に取り繕ったからか、口元が震えているのがよく分かった。
けれど、まるで花火でも揚がったようだと思った。
暗い夜空に突然色とりどりの星が広がるような、そんな笑顔。
やっぱり、彼女は特別なのかもしれない。
はなづき いろは。どんな漢字を使うのかも分からないが、とてもいい名前だ。彼女によく似合っている。
なにせ花鳥風月の内の二つが苗字になっていて、色というのも彼女にピッタリだ。
ああ、眩い。世界がどんどん色づいていく。
こんな状況だというのに俺はなんだか嬉しくなってきてしまって、思わず笑ってしまった。
「……ふ、ふふ……ははは……」
「え、そ、そんなにおかしいですか? わたしの名前……」
「いやいや、超……いい名前だと思います。」
この瞬間だけは、本当に痛みが消えた気がしたのだ。笑顔を作るのも苦ではない。
自分がどんな顔をしているかは分からないが、きっと優しい笑みを浮かべられていると信じたい。
「…………俺は、髙木 優太朗です。優しいに、太くて朗らかで、優太朗です。」
そう伝えたらどっと疲れが出てきてしまった。
まあ、昨夜から一睡もしていないのだから仕方ないだろう。頭がカクンカクンと舟を漕ぐ。自然と瞼が落ちてきて、思考が夜に溶けていくようだ。
……なんて月が綺麗な日だろうか。
最後に彼女の不安そうな顔が目に入り、プツンと意識の糸が途切れた。




