第十五話 味方
静かな音楽がゆったりとした雰囲気を生み出している。
少しだけ本の匂いが漂っている中、私は深く頭を下げた。
「……という次第でして……本当に、すみませんでした……! 大変なご迷惑をおかけして……どうお詫びしたらいいか……」
「い、いえ! そんな畏まらなくても……。でも、よかったです。花月さんと仲直りできて。俺は花月さんにぶん投げちゃったので、もし喧嘩になってたらどうしよう……って、不安だったんです。」
目の前の彼──髙木 優太朗君──は両手を振って微笑んでいた。
今回の件、本当に彼のおかげだ。
私は何もしていないし、彩葉だって自分から私に声をかけてきたわけじゃない。
彼の助力が無ければ、私たちは一生微妙な軋轢を抱えたまま生きていたかもしれない。
「まぁ、仲直りっていうのも変な話ですよね。別に元々仲は良かったですし。」
「そう……ですね。どちらかと言えば、私の懺悔みたいなものかもしれません。」
私たちは今、『BRANCH』にいる。
あの『懺悔』からわずか一日。
私から髙木君に謝りたいと言って時間を作ってもらった。
本当なら彼のテストのことを考えて、もう少し間を開けた方がよかったのだろう。
けれど、昨日から続くこの想いが消えないうちに謝りたかった。
「本っ当に迷惑をおかけしてすみません……テスト前期間なのに……私のせいで全然勉強できてないですよね……」
「いえいえいえ! 本当に大丈夫です……! 元々大して勉強する方じゃなかったですし……」
髙木君はそう言うが、彼の性格を考えれば少なからず勉強はするタイプな気がする。
「それで……俺は、これからも花月さんと話していいんですよね?」
「は、はい。もちろんです。……彩葉も、きっと話したがってますよ。」
これは事実だろう。何せ、あの子は髙木君のことが好きなのだから。
まあでも、彩葉の想いについては意外ではなかった。
あの笑顔を見たら、誰だって光の速度で理解すると思う。
「それで、花月さんとはどんな話をしたんですか?」
「……えっ?」
「あ、すみません、あんまり聞かない方がよかったですかね……。言えないなら、言わなくても大丈夫ですよ。」
髙木君はそう言ってペコペコと頭を下げている。
彩葉は私に言ったが、悪くないのに謝る癖は私と同じなのかもしれない。
「……いえ、全然大丈夫です。隠す必要なんてないですし、私から言うべきでした。すみません。」
「あっ、愛染さん。」
彼は少し微笑み、私のことを呼んだ。
「悪くないのに、謝らないでください。愛染さんがしたことは……少なくとも俺は、そんなに悪くないと思いますよ。」
示し合わせたかのように、彩葉と同じことを言う。
やはり似たもの同士なのだろう。
思わず笑みがこぼれてしまいそうになり、TPOを考えて口元を隠した。
「……彩葉も、同じことを言ってました。……私は悪くないって。……でも、髙木君。そんなことはないと思います。私がしたことは偽善ですらない、独りよがりですから。」
「……うーん……まぁ、今はそう思うのも無理はないと思います。……でも、これからどうするんですか?」
彼の声は、いつも温かい。
彩葉の声は温かいというよりは、柔らかい感じだ。
似たような二人でも、違うところがある。
男子と女子なのだから声に差を感じるのは当たり前なのだが。
「……それは、これからも同じことをするのか、って意味ですか?」
「簡単に言えばそうです。」
「……髙木君は、私のしたことをどう思いますか? 正直に答えてもらって大丈夫です。」
私は自分で、この質問が酷なものだとわかっていた。私が彼の立場だったらこんなこと聞かれたくなさすぎる。
だって、どう答えても気まずい。
さっき髙木君は、そんなに悪いことじゃないと思うと言った。
でもそれは、オブラートを緩衝材のように詰め込んで丁寧に包装したような意見だ。
しかし、それは最悪だ、とも言い難い。
なんて言ったって、彼は優しいのだから。
「……どう思うって……花月さんのこと、大切なんだなって。」
本当に何の気なく。まるで蛇口から水が出るように、種から芽が出るように、傷口から血が滲むように、彼はただそう言った。
これを聞いた瞬間、私は既視感のある恐怖を覚えた。
何だろう。身近に感じて、しかし本能が怖いと思うような感覚。
──ああ、そうか。この人も、お人好しなんだ。
分かってはいた。けれどその単語で認識していたことは無かったと思う。
思い返せば行動の全てがお人好し。
私のしたことを蔑まない、後から批判するようなこともしない、ちゃんと話をする、自分に関係ないことでもちゃんと考えてくれる。
こう並べてみると善性の塊のような気がしてくる。いや、実際に善性が溢れてはいるのだと思った。
けれど、やっぱり怖い。
彩葉と同じ。
いつか、自分を犠牲にして誰かを助けてしまいそうだと思った。
お人好しは、決して絶対的な悪じゃない。
けれども、その行動を正しいと、私は言いたく無かった。
「……髙木君。……悪いことは、悪いって言わなきゃダメですよ。それじゃ、ダメです。」
「そ、そうですか? 俺だって悪いことは悪いって言いますけど……」
「言えてないですよ……。彩葉も、髙木君も、優しすぎるんです……」
私は彩葉に何と言われても、やっぱりこの罪悪感を捨てることだけはできなかった。
後悔。ただ悔やむ。
自分のしたこと、言ったこと。その酷さ、重さを、周りは許そうとしてくる。
「……優しいだなんて。……俺は、優しくなんてないです。」
「えっ?」
彼の言ったことの意味がよくわからなかった。
それは謙遜なんかじゃない。
本心から、自分のことを悪く思っている声音。
「……まだ、愛染さんには言ってませんでした。……愛染さん、昔虐められてたんですよね?」
「ま、まぁ……はい。」
「あ、すみません! あんまり話さない方が良かったですか?」
彼は心配そうに眉を歪めてそう言った。
自分で『悪くないなら謝らないで』なんて言っておいて、悪いかどうかを答えるよりも前に謝っている。
「いえ、私はもう、そんなこと気にしてません。別に、そんなに酷いイジメじゃなかったですし。」
「そう、ですか? すみません。」
「謝らないでください。本当にもう全然気にならないんです。」
まるでさっきまでと立場が逆転したかのようだ。
「……それで、髙木君の言いたかったことは?」
「ああえっと……俺、昔同級生が虐められているのを無視したことがあって……絶対助けて欲しいって思ってたはずなのに、見捨てたんです。」
小さな沈黙。
私は何を言えばいいのか分からなかった。
「えっと…………それが、どうしたんですか?」
「えっ? ああ、酷くないですか? 俺のしたことは……愛染さんにとっては、すごく嫌なことだと思って……」
「…………え?」
思わずそんな声を出してしまった。
この人は何を言っているのだろう。
「いや、全然気にしないですよ?」
「えっ? な、なんでですか?」
「だって、私は髙木君に虐められていませんし。別に虐められてる人を必ず助けなきゃいけない法律なんて無いですし。」
「…………愛染さんって、優しいんですね……」
本当にこの人は何を言っているのだろう。
本気で誰かが虐められていたのを見捨てたことを悪だと思っていたのだろうか。
「……ぷっ、ははは……あ、ご、ごめんなさい! 笑うつもりなんてなくて……」
自分の理性に表情筋が負けたのは初めてかもしれない。
でも、あまりにも面白かった。
どの口が優しいなどと言っているのだろう。
というか虐められていたのを見捨てたから、全く関係の無い虐められてた人に嫌われるなどと思っていたのかと考えると呆れてしまう。
一体、どこまでお人好しなのだろう。
「…………髙木君は、お人好し……ですね。」
小さく笑いながら、私はそう言った。
人によってはきっと、これは悪口に聞こえるのだろう。
でも、この人なら絶対にそんな風には捉えない。もしそんなことがあったら腹を切ってもいい。
「…………あ、愛染さん……それは、多分……おひとよしって、読むんだと思います……」
思ったより予想外の答えだった。
まあ確かにそうだ。あのお人好しの記憶は私と彩葉にしか無いのだから。
「し、知ってますよ……! そういうジョークです!」
「あ、そうだったんですか!? 俺も昔はおひとすしって読んでましたから……」
初見で『好』を『よ』と読める人はなかなかいないだろう。小学生の頃から成績がよかった彩葉だって読めなかったのだ。
それにしてもここまでお人好しという言葉が似合う人がいるとは思っていなかった。
比べるような言い方はどうかと思うが、これでは彩葉なんて足元にも及ばない。それくらいこの人は危うかった。
「……お人好しって、褒め言葉じゃないんですよ? でも、私はそんな風にはなれません。髙木君は本当にすごいと思います。」
「愛染さんもきっと、間違ってはないですよ。少なくとも花月さんは、ありがとうって言ってくれたんですよね。なら絶対、間違ってないです。」
彼は本当にずっとこう言ってくれる。
けれどやっぱり、私はどうしてもそうは思えなかった。
目の前に彩葉の想い人がいるので尚更だ。
もし私がもう少し頑固だったら、この人と彩葉の関係が裂けていたかと思うと辛くなってくる。
少し楽になっていた気が、またもや沈んできてしまった。
「…………私は、彩葉の邪魔をしていました。……だから、これだけは間違ってると思うんです。」
「……邪魔、ですか。…………そういえば、愛染さんの名前って 『栞』でしたよね?」
「……? はい……?」
彼は少しだけ考えるような顔をして、息を吐いた。
そのままこちらを見つめてくる。
「……知ってますか? 本っていうのは世界なんですよ。」
突然何を言い出すのかと思った。
あまりにも変なことだ。まるで思想の強いメンタリストみたいなことを言い始める。
「……ま、まぁ、そう、かもしれません、ね……」
「はい、そうなんです! ……それで、読者は本の旅人なんです。旅人にとって、一番大切なものってなんだか分かりますか?」
「え……っと……食べ物?」
「まぁ、大事ですけど、一番ではないです! 調達もできますし。」
そんなことを言われても旅なんてしたことないのだからわからない。
その理論だと水も違うのだろう。
少し考えた末に、もっともそれらしい答えを出した。
「分かりました、地図です……!」
「惜しい! 確かに地図も大事ですけど、方角が分からないと見ても意味がないですよ。」
「……コンパス、ですか?」
「正解です! コンパスと地図と目印になる物があれば、今自分がいる場所がわかるんです。」
結局地図も使っている上に条件が限られるのでは?と思ったが言わなかった。
きっとこれは何かの例え話なのだろう。
「……それで、それが何の話に……」
「愛染さん。本っていう世界を旅するときに、人はよく迷います。『あれ? 前どこまで読んだっけ?』みたいな感じに。」
それは私にも経験がある。
結局その時は思い出せず、最初から全部読み直したのだがなぜか知っている話を読まされて変な気分だった。
「そこで、本を旅する人にとってのコンパスが……栞、なんです。」
「…………え?」
急に名前で呼ばれたのかと思ってビックリしてしまったが、すぐにそうではないのだとわかった。
「知ってますか、愛染さん。栞っていうのは、読書家の一番の『味方』なんですよ!」
そう言った彼の顔は、すごく可愛いようでカッコいいような、情けないようで無邪気なようなものだった。
私はこの時、少しだけいけないことを考えていた。
この優しい人に触れて、緊張の糸が少しだけ解けていたのだと思う。
いや、きっと一瞬だけ解けたのは、長年私に絡みついていた別の糸。
だから、変なことを考えてしまった。
ああ、彩葉の好きな人じゃなかったら……もしかしたら私も、この人を……
なんて。
でも大丈夫。彩葉の想い人であるのならそんな気にはならない。
実際、好きにはならなかった。
彼を見てもドキドキはしないし、付き合いたいとも思わない。というか私は、彩葉と付き合って欲しいと思っている。
よかった。
もしここで恋が始まっていたらそれこそ面倒くさかった。
だからこれでいい。
「ふふっ、面白いですね。そんな考え方があるなんて。」
「ま、まぁ、父親からの受け売りですけど……小さい頃に栞なんて要らないと言ったらこの話をされたんです。」
「……でも、ありがとうございます。何だかすごく、元気が出ました。」
「本当ですか? ならよかったです。」
そう言った彼の顔は、明るい春の太陽のようで、とても良い微笑みだった。
本当に、この顔を見ると元気が出る。
彩葉と同じ、いい笑顔。
お似合いだ。
そう思った私は、少しだけ、彩葉のためになりたいと思った。
「……髙木君って、好きな人とかいますか?」
あまりに脈絡のない質問。
自分で言っておきながら口を塞ぎそうになる。
「うえっ!? きゅ、急にどうしたんですか!?」
「い、いや、ちょっと聞きたくなっただけで……ふ、深い意味は無いんです!」
彼の顔は真っ赤になっている。
酷く優しいから色んな人に好かれるものだと思っていた。恋愛にも、少なからず慣れているものだと。
違った。
この反応もまた、彩葉と同じ。どうしようもなく初心で、そんな経験などないのだろう。
「…………いない……と思います。少なくとも、胸を張ってこの人が好きだと言えるような人は……多分。」
本当は……本当は、彩葉が好きと言ってくれたら嬉しかった。
しかしこれでも及第点、いや十分に優秀点だ。
まだまだ彩葉にはチャンスがある。
……ある、のに。彩葉は告白しないらしい。
別に、彩葉の好きにすればいいと思った。
伝えないで後悔しないなら、それでもいいと。その考えは今でも変わらない。
けれど、私には確信があった。
もし彩葉が本当に、髙木君に何も伝えずに卒業して、大人になった髙木君が結婚したとかそういう情報を耳にしたとき、彼女は後悔しないのか。
絶対にすると、私は断言できた。
あの子が人生で初めて、ハッキリと恋だと言えるほどの想いに出会って、それを簡単に捨てられる?
無理に決まっている。
彩葉は優しくて強いけれど、それと同時に弱い心も持ち合わせている。
怖いことがあれば泣くし、寂しい時は私に抱きついてきたりもする。
そんなあの子が、簡単にこの想いを諦められる訳がない。
「……そうですか。……髙木君。」
「は、はい?」
「…………やっぱり何でもないです。ごめんなさい。」
「えっ? あ、はい。」
危うく、彩葉の想いを伝えてしまうところだった。
本当に危ない。
邪魔の次はお節介だなんて、流石に笑えない。
彩葉の想いは、彩葉が伝えないと。
「髙木君、私、そろそろお暇します。髙木君もテスト勉強したいでしょうし。」
「いえ、本当に大丈夫ですよ。引き留めたりはしませんけど……」
「はい、こちらこそ大丈夫です。本当に、ありがとうございました。」
私は深々と頭を下げる。
こんなことで彼への全てを清算できる気はしない。
けれど、少しずつだ。一歩ずつ、贖っていく。
背を向け、ゆっくりと彼から去っていった。
「……愛染さん!」
カフェを出てから数歩いたところで、背後から呼び止められた。
「また、来てださい! テストが終わった後にでも、花月さんと!」
それは決して、あの子に会いたいという意味ではない。
けれど私は、そうだったらいいな、なんて思っていた。
「……はい、また来ます。今度は彩葉と、二人で。」
笑顔は苦手だ。
訂正する。
笑顔を作るのは苦手だ。
でもこの時の私は、ごく自然且つ当たり前のように、確かな微笑みを浮かべていた。
また、ここに来る。
今度は彩葉の邪魔者としてじゃなくて、最大の『味方』として。
それだけじゃないよ。
それだけだったなら、彼らの隣にいてもおかしく無かったのかもしれないけど。
生憎私はそんなに美しい人間性を持ち合わせていないから。
ついでに、私の欲も満たしたい。
一番傍で、一番近くで。
私が、髙木君と彩葉の会話を聞いていたいってだけ。




