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「おまえさ、慎太郎のこと覚えてるか?」
「え……?」
「ほら、俺と同じクラスで家にもよく遊びに来てた慎太郎」
「……覚えてるけど」
覚えているというより、忘れたことなんて一度もない。いまだって名前を聞いただけで心臓がピョンと跳ねてしまったくらいだ。
それを悟られたくなくてボソボソと答えたら、二海兄さんが「あいつさ、いまここで働いてるんだってよ」と言ってスマホの画面を見せてくれた。画面には横文字の店名とお洒落な人たちが働いている店内写真が映っている。
「あいつ高校卒業してから都会の専門学校に通ってただろ? 専門学校卒業してからはファッション雑誌のヘアメイクとかしてたらしいんだけど、美容師としてこっちの美容院に転職したんだってさ」
都会に行ったことは知っていたけど専門学校に通っていたなんて初耳だ。そもそも七歳も年が違う兄さんの同級生の進路を僕が知っているはずがない。
(でもそっか。慎兄さん、美容師になってたんだ)
中学生や高校生のときの慎兄さんを思い出した。あの頃もかっこいいなぁと思っていたけど、写真に映っている慎兄さんはさらにかっこよくなっている。なんだかすごく垢抜けていて芸能人っぽくも見えた。
(お洒落な都会の人って感じがする)
慎兄さんに初めて会ったのは僕が幼稚園生のときだ。初対面のときから優しくて、本を読んでくれたりトランプで一緒に遊んでくれたりしてすぐに仲良くなった。慎兄さんのことを好きになるのはあっという間だった。
最初は楽しくてワクワクしてばかりいた気がする。それなのに小学生になってからはドキドキすることが多くなった。慎兄さんが家に遊びに来ても恥ずかしいやら緊張するやらで挨拶することくらいしかできない。そんな僕を二海兄さんはいつもからかっていた。
(そのせいでますます会いづらくなったっていうか……)
最後に会ったのは慎兄さんが高校を卒業する数日前だった。そのとき黒髪に赤色が混じった髪の毛になっていて、小学生だった僕はびっくりして呆然としたのを覚えている。
(あれから一度も会ってない)
じっくり見たい気持ちを我慢しながら、スマホの画面をチラチラと見る。
(あの髪の毛、美容師の専門学校に行く前だったからだったんだな)
あのときはすごく驚いたけれど、とてもかっこよかった。それよりもいまのほうが何倍もかっこよくなっている。
(いつ戻って来たんだろう……わかってたら、こっそり見に行ったのに)
二海兄さんは卒業した後も慎兄さんと連絡を取っていた。きっと戻って来たのももっと早くに知っていたはずだ。それなのに秘密にしていたなんてひどすぎる。
「それでさ、……あった。ほら、やる」
そう言った二海兄さんが財布から名刺サイズのカードを出してスマホの横に置いた。
「なにこれ」
「美容院の割引券。俺はこの前切ったばかりだから、おまえにやるよ」
「……こんなお洒落な美容院になんて行けないってば」
「そういやおまえ、まだあの床屋に行ってるんだっけ?」
「うん」
僕が通っているのは小学生の頃からお世話になっている床屋だ。おじいちゃんって呼ばれるような年齢になった顔馴染みのおじさんがやっているところで、小学生のときからずっと通っている。予約なしでも切ってくれるし、何も言わなくてもいつもの髪型にしてくれるからとても楽だ。そもそも僕は髪型にこだわったりしないから新しい床屋に行こうだとか、ましてや美容院に行こうなんて考えたこともない。
「おまえも二十歳過ぎたんだから美容院くらい行けって」
「別に、髪型なんてどうでもいいし」
「ついでに染めてもらえよ。絶対に可愛いから」
「可愛いとか、なに言ってんのさ」
「俺も可愛いと思うよ?」
「ちょっと、壱夜兄さんまでなに言い出すの」
キッチンから顔を出した一番上の壱夜兄さんまで変なことを言い始めた。
「せっかくだから行ってくればいいよ。はい、散髪代」
「バイト代あるから、お金は大丈夫」
「じゃあ、これは今月のお小遣い」
「お小遣いって……僕、もう二十二なんだけど」
「いくつになっても三春は可愛い弟だからね。だからはい、お小遣い」
よくわからない理由を言いながらポチ袋を押しつけられてしまった。猫のイラストは可愛いと思うけど、「お年玉」って文字は二十歳を過ぎると妙に恥ずかしい。
(お金、本当に大丈夫なのに)
実家暮らしでアルバイトも少しだけしているからお小遣いは必要ない。でも、ここで突っぱねると壱夜兄さんは絶対に悲しそうな顔をする。そんな顔は見たくないから、結局最後は受け取ってしまう。
ポチ袋を両手で持って「ありがとうございます」と頭を下げた。「どういたしまして」とキッチンに引っ込んだ壱夜兄さんが、すぐにお皿を持って戻ってくる。
「おっ、オムライスだ。うっまそー」
「今度お店で出そうと思ってる試作品だよ。さぁ、三春も座って」
壱夜兄さんは小さな喫茶店で働いている。仕事は注文を取ったりレジを担当したりする接客なんだけど、たまに厨房のこともやっているらしい。元々料理が好きだからメニューを考えるのは楽しいんだっていつも笑いながら話していた。
「壱夜兄さんって昔から何でもできるもんなぁ」なんて思いながら自分の席に座ったところで、テーブルの上に置いてあった二海兄さんのスマホがブルブルと震えた。
「三春、今日は用事ないって言ってたよな?」
「うん、とくにはないけど」
「じゃあ、三時に美容院な」
「え?」
「慎太郎、三時なら空いてるってよ」
「え!?」
「三時でオッケー……っと。返事送っといたから」
「ちょっと二海兄さん、なに勝手なことしてんのさ!」
「いいから、いいから。ほら割引券も。ま、忘れても慎太郎にもらったやつだから割引はしてもらえるだろうけど」
出来立てのオムライスが載ったお皿の横に二海兄さんが割引券を置いた。「だから僕は別に」と慌てる僕を見ることすらせずに、さっさと合掌した二海兄さんが「いただきます」と言ってオムライスを食べ始める。
「どうぞ召し上がれ。ほら、三春もあったかいうちに食べて」
「……うん」
せっかく壱夜兄さんが作ってくれたオムライスだ。文句は後回しにして、僕も「いただきます」と合掌してから一口食べた。最初に感じたのは刻んだトマトが入ったトマトソースの爽やかな味で、続いてホワイトソースのクリーミーな風味が広がる。ソースの二種類かけは見た目もおいしそうだけど味も抜群だ。
「兄さん、おいしいよ」
「よかった」
「そりゃあ兄貴の作ったもんだからな、うまくて当然だろ」
「もちろんそうだけど……って、そうじゃなくて! 二海兄さん、さっきの三時って、」
「美容院の予約時間。慎太郎の指名予約なかなか取れないらしいから忘れずに行けよ?」
それって、無理やり予約を入れてもらったってことじゃないんだろうか。あんなお洒落な美容院になんて入れる気がしないけど、無理に取ってもらった予約だなんて聞いたら断るのが申し訳なくなる。僕はハァとため息をついてから、壱夜兄さんのオムライスを黙々と食べた。
せっかくのオムライスを上の空で食べ終わった僕は、一時間も前から服を取っ替え引っ替えして出かける準備をした。初めて行くお洒落な美容院にふさわしい服をとあれこれ考えたものの、何を着ても中身が僕じゃあ絶対にお洒落になんてなれない。それでも約束を無視することはできなくて、何度も引き返したくなる気持ちを我慢しながら何とか目的地にたどり着いた。
「……めちゃくちゃお洒落だ」
通りの反対側から見たお店は、思わずそうつぶやいてしまうくらいお洒落だった。都会にあるような雰囲気だから、お客さんもきっとお洒落な人ばかりに違いない。そんなお店に僕みたいなもっさりした田舎者が入る勇気なんて出るはずがなかった。店構えを見た途端に足が止まり、すぐにでも帰りたい気持ちになる。
(どうしよう)
やっぱり二海兄さんに断ってもらえばよかった。お昼ご飯の最中に何度もそう思ったのに、どうしても断れなかったことをいまさらながら後悔する。
(……だって慎兄さん、すごくかっこよかったからさ)
だから、つい会ってみたいなんて思ってしまった。
スマホの中の慎兄さんはキラキラしているように見えた。スマホの小さな写真だったのに、見ているだけでドキドキした。ドキドキしながら「お客さんとしてなら会ってもおかしくないよね」なんて思ってしまった。
こんな機会でもなければ兄弟の同級生に会うことなんてまずない。とくに七歳も年上だと、年が離れすぎていて接点なんてまったくなかった。でも、お客さんとしてなら堂々と会いに行ける。もしかしたら二海兄さんから僕のことを聞いて思い出してくれているかもしれない。
(そう思ってたけど……やっぱり無理だよ)
さっきまでは「お客さんだし、二海兄さんが無理やり予約しただけだし」なんて言い訳みたいなことを思っていたけど、こんなお洒落な美容院に入る勇気は出そうになかった。
道を挟んだ反対側から店を見つめた。行きたい、でも入る勇気がない、それでも会いたい、でも……そんなことをグルグル考えながらじっと見る。
(……やっぱり僕には無理だ)
二海兄さんに連絡先を教えてもらってキャンセルの連絡をしよう。そういえば割引券にお店の連絡先が載っていた気がする。先にお店に電話して、それから慎兄さんに連絡したほうがいいだろうか。
そう思ってスマホに視線を落としたところで「三春くん?」という声が聞こえてきた。
「あ……」
顔を上げたら、お店の前にとんでもなくかっこいい人が立っていた。建物の影になっているのに、まるでそこだけスポットライトが当たっているかのようにキラキラ光って見える。思わず目をすがめたところで「やっぱり三春くんだ」という声がした。
(し、慎兄さんだ。本物の慎兄さんが立ってる)
久しぶりに聞く慎兄さんの声に心臓がドクンと跳ねた。かっこよすぎる姿にドッドッと鼓動が速くなる。
(こ、声までかっこよくなってる……!)
何度も思い出していた声とはまったく違っていた。何もかもがかっこよくて一気に顔が熱くなった。自分でも真っ赤になっているのがよくわかる。僕は馬鹿みたいに向かい側にいる慎兄さんを見つめていた。
「大丈夫?」
「え……?」
ぼんやり見とれていたら、かっこいい声に呼びかけられてハッとした。
「もしかして迷子になってた? ここ住宅街側だから、ちょっとわかりにくかったかな」
「ええと、」
慎兄さんの声ははっきり聞こえているのに、なぜかうまく理解することができない。嬉しいとか恥ずかしいとかいろんな感情が体の中をグルグル回って、まるで外国語を聞いているように言葉が耳からすべり落ちる。それでも返事をしないとと焦っていると「スマホ見てるから、てっきり迷子になったのかと思って」と慎兄さんが笑った。
「あの、そうじゃなくて、時間早すぎたかなって、思って」
慌ててスマホをボディバッグに突っ込んだ。大人なのに迷子を心配されるなんて恥ずかしすぎる。
「時間なら大丈夫だよ。さぁ入って」
そう言いながら慎兄さんがお店のドアを開けた。そんなことまでされたら「やっぱり帰ります」なんて言えるはずがない。
(ど、どうしよう)
帰ることもできず、かといって近づくこともできない。写真なんかよりずっとかっこいい姿に体がカチコチになってしまう。
「三春くん?」
「す、すぐ行きますっ」
また名前を呼ばれて両手にグッと力を入れた。このままじゃ慎兄さんに迷惑をかけてしまう。そう思って急いで左右を確認し、車がようやくすれ違えるくらいの幅の道を小走りで渡る。
(どうしよう、どうしよう、慎兄さんがどんどん近づいて来る……!)
はっきりしてくる慎兄さんの姿に目眩がした。心臓は壊れたみたいにドクドクしっぱなしで、このままじゃ気絶してしまうかもしれない。そんな心配をしながら駆け寄ると「いらっしゃい」と微笑みかけられてクラッとした。
(かかか、かっこよすぎる……!)
それにほんのりいい匂いまでしている。もしかしてシャンプーの匂いだろうか。それとも香水だろうか。嗅いだことがないいい匂いにますます緊張した。
「あ、あの、僕、」
「二海からカットとカラーって聞いてるけど、それでいい?」
「カ、カラー!?」
思わず声がひっくり返ってしまった。二海兄さんってば、何を勝手なことを言っているんだろう。そんなお洒落な髪の毛なんて僕に似合うはずがない。それに色を染めてもらうということは、それだけ慎兄さんに手間をかけてしまうということになる。
(それっていろいろやってもらう間、ずっと慎兄さんが近くにいるってことで……そ、そんなの無理すぎる!)
ずっと好きだった人に髪の毛を切ってもらうだけでも大変なことなのに、そのうえ染めてもらうなんて畏れ多すぎる。そもそも顔を見ただけで心臓が壊れそうなのに、これから長い時間を慎兄さんのそばで過ごすなんてどうにかなってしまいそうだ。
「そんな顔しなくても大丈夫。俺みたいな色にはしないから安心して」
そう言って笑った慎兄さんの髪は、黒髪の内側が鮮やかなピンク色をしていた。それがすごく似合っていて「やっぱり美容師はお洒落なんだな」と思うのと同時に「しっかり目に焼きつけておかないと」なんて変なことを考えてしまう。
(だって、慎兄さんにこんなに近づけるチャンスは二度とないだろうし)
最後に慎兄さんに会ったとき、僕はただ惚けるだけで何も話すことができなかった。しかもすぐに俯いてしまったせいで慎兄さんをちゃんと見ることすらしていない。あの後「もっとしっかり見ておけばよかった」と何度後悔しただろう。
あのときのことを思い出したからか「せっかくのチャンスを無駄にしてもいいのか?」なんて思ってしまった。こんなチャンスは二度とないかもしれないと思うと、このまま帰るなんてもったいない気がする。
「そうだ、ついでにヘッドスパもしてみる?」
「ヘッド、すぱ……?」
「初めてのお客さんなら、カラーとセットで割り引きになるよ」
すぱって何だろう。よくわからないけど、それをすればさらに慎兄さんの近くにいられるのかもしれない。「慎兄さんのそばにずっといるなんて無理」と思っていたはずなのに、僕は浅ましくも「せっかくなら少しでも長く近くにいたい」と思ってしまった。「すぱ」が何か訊ねる勇気もないまま「お願いしますっ」と勢いよく頭を下げる。
こうして僕は生まれて初めての美容院を体験することになった。相変わらず心臓は心配になるくらいドキドキしていて、同じくらい嬉しくて舞い上がりそうにもなっている。逃げたい気持ちなのに踊り出したいような、こんな変な気持ちになったのは初めてだ。
(落ち着け僕、ここで失敗したら台無しだぞ。もう大人なんだから落ち着いて受け答えしないと)
変なことを口走らないように、余計なことを言わないように、そんなことを言い聞かせながらチラチラと慎兄さんを盗み見た。
慎兄さんに促されるままお店に入り、マントみたいなものを羽織った。それさえもお洒落でますます緊張してしまう。それでも「僕はもう大人なんだから」と言い聞かせながら、なんとかお洒落な椅子に座った。