22
「どうした、イリス。そんな顔をして」
廊下の隅で、部隊長がうつむくイリスのほおをなでる。
つめたい。
部隊長の手も、イリスのほおも。
「俺は、ルカを……殺したくない、んです。こんなことを思うのは、初めてで」
「そうか」
「そういう対象として、見ることができない。どうして……俺、こんな俺なんて、玩具ですら、ない……」
「……イリス……、お前、薬飲んだか?」
耳もとでつぶやいた部隊長の問いに、イリスは軽くかぶりをふる。
そういえば、飲んでいない。
忘れていたわけではないが。
「だめじゃないか。ちゃんと飲まなければ」
「……はい。部隊長、あの」
「ん? どうした」
「俺を、まだ、抱きしめられますか」
むかしのように。
子どもではなくなった、この体を。
ただただ、無償の愛の、ように。
部隊長は、わずかに苦笑して、イリスを見据えた。
きれいな、色。
それでも、その眼の奥。心の奥は、けっして見せないひと。
「もちろんだ。俺の愛しいイリス」
彼はためらうこともなく、イリスを抱き込んだ。
なんのにおいもしない、けれど。
部隊長の体温を、憶えている。
体に、刻みこまれている。
部隊長に、抱かれたことがあった。
もう、5年も前だ。
ちょうど二十歳のとき。
その一年間で、10回ほど。
傷だらけで、やけどの跡がある体を、部隊長は「うつくしい」と言った。
その言葉はきっと、女に言うものなのだろうけれど、イリスにとって――そう言われたことは、最大の誇りだった。
部隊長の硬くなった手が、イリスの身体にふれたこと。
くちづけを、おくられたこと。
あいしている、と。
そう言ってくれたことを。
イリスは、憶えている。
「部隊長……」
にじんだ声が、出た。
泣くのかもしれない、とも。
けれど、涙はもうでない。
――泣く資格なんて、ないだろう。
――泣いたって、殺した人間は戻ってこない。その人間を愛した人間の、心の傷も癒されることはない。
「俺、ちゃんと、死ねますか」
「お前の働き次第だ」
「ちゃんと……殺して、死ねたら、あなたは」
「ああ、褒めてやる。よく、がんばった、と。お前は、俺の誇りだと」
身体が離れる。
部隊長はいつもと同じように、やさしい笑みを浮かべていた。
その笑みに、いつも、いつも助けられてきた。
ただしいことなどしていない。
それでも、これが自分のすることなのだ、と。
自分たちにしかできないことなのだと。
そう思うことで、何とか均衡を保っている。
「大丈夫だ」
あやすように、あくまでやわらかな口調で。
「お前は強い。シグリのなかでも一等、強い子だ」
こくり、と頷いたイリスの背を、そっと押す。
ルカが待っているだろう、と。
部隊長は言った。
はい、とイリスは再びうなずいた。
「ルカ、待たせた」
部屋に入ったふたりは、イリスのベッドにすわっている彼のそばに寄る。
赤い目が、部隊長の目を見上げていた。
「あんたは、イリスが死んだら、どう思う」
突拍子のない質問に、けれど部隊長はこう答えた。
「それは辛いし、哀しい。シグリの子たちが死んでいくのは、辛く哀しいことだ」
それきりルカは何も言わず、ただ視線をおとしていた。
「――俺はここで失礼する」
「はい」
「イリス」
「はい」
「お前は強い子だが、時折、危うくなる。俺にしてやれることがあれば、何でも言うといい」
「……はい」
「ルカ。イリスはシグリのなかでも一等強い子だ。心配はいらない。ただ、覚悟はしておいてほしい。……セハカのことは、すでに決定事項だ」
「それは、分かっている……」
うつむいたまま、決してふたりの顔を見ようとしないルカを、気に留めることなく――部隊長は出ていった。
「イリスは、あの男のことが、すき、なのか」
いうことではなかった。
言うべきことでも、なかったのかもしれない。
イリスは黙ったまま、ルカのとなりに座った。
「べつに、そういうわけじゃない」
「……そうか」
「ただ、信頼している」
「あんたは、あの男のものに、なりたいんじゃないのか」
ものとしてしか、生きていけない人間がいる、と。
部隊長は言っていた。
「どうだかな。俺には、分からない。まあ、分かることもないだろう」
あまりにも、何ともないように言うので。
あまりにも、そんな資格がないとでも、言うかのように。
「……ルカ」
「?」
「おまえ、本当に……俺が好きなのか?」
うつむいたままのルカに、イリスは、本当に不思議そうに問うた。
ようやく顔をあげたルカは、うつろに開いた目を、ゆっくりと上げる。
「うん」
「そうか」
「……うん」
どうでも、よかった。
好き、だとか。
そうじゃない、とか。
教えてくれなかった。
だれかを好きになることの意味を。
だから、どうしてイリスのことを好きになってしまったのか、分からない。
なぜ、イリスだったのだろう。
どうして、イリスでなければいけなかったのだろう。
こんなに、苦しい、のに。
それでも、このままでいい、とも思う。
「じゃあ、くちづけたい、とも、思っているのか」
ごくごくふつうのことを言っているように、訪ねてくる。
好き、ということは、そういうこともするということ。
そういうことなのだ、と。イリスは言っているのだろう。
「し」
――そんなの。
――そんなの、したい、に決まっている。
「した、い」
「……素直だな」
「悪いのか。すきなひとに、そういうことをしたいっていうのは、悪いことなのか」
「そういうわけじゃない。俺にも、それくらいは分かる」
「じゃあなんで、そんなことを言うんだ」
「体だけ、ってやつもいるからな。べつに好きじゃなくてもしたいってやつ」
そう、何でもないように。
まるで、そうされてきたかのように。




