21
イリスの姿は、あの噴水の広場にあった。
「なぜ」
いまだ、恐れるように噴水の上にある石像を見上げている国教徒は、大勢いる。
その喧騒にまぎれるような声で、イリスが問う。
「なぜ、ここまで……」
部隊長が、来ていた。
供のひとりも、つけずに。
「お前が、すこし心配でな」
「俺が?」
「ああ。お前、休みも取れなかっただろう」
「……いえ、慣れていますから」
横に並んだまま、目もあわさずにただ、話しかける。
部隊長は、イリスよりもわずかに背が高く、薄い紫色をしていた。
正確な年齢はイリスにも分からないが、年上だということは分かるし、30代後半だということも分かる。
けれど、名前を教えてはくれない。
何度ねだっても、教えてはくれなかった。
「俺は今、休暇でな」
「だったら、あなたも同じではありませんか」
「じっとしてはいられない性分だと、お前も分かっているだろう?」
「ええ、まあ……」
ふ、と部隊長がほほえむ。
彼の腰には白銀の剣。
そして、服装は簡素で質素なものだった。
黒い布で統一された、長そで、革のベルトに黒いパンツ。靴は編み上げの黒いブーツ。
肩には、グレーの厚い布をかけている。
「最近、お前とも……あまり話をできていなかったな」
「いえ、あなたも忙しいでしょうから」
「今、あの子はどうしている?」
「ルカのことですか? 宿にいますが」
「そうか。……すこし、話をしたい。いいか」
黒ずんだ石像のことなど一切興味がないように、部隊長はイリスが案内する宿へむかった。
「あの子の様子はどうだ」
宿への道すがら部隊長が問うも、イリスはどう答えるべきか、わずかに悩む。
先日からルカの様子がおかしいことは、分かっているが。
「……あまり、よくないようです」
「そうか……」
「すこし、精神面が不安定のようで。顕著になったのは、ゼノが来てから、のような気がします」
「ゼノか」
「俺は、あまり覚えていないのですが」
ちら、と。
部隊長の顔を見る。薄い青の、目。その目が、イリスの目とあう。
「ゼノは、今休暇中だと言っていました」
「確かに、そうなっている。イリス。お前は……ゼノを、憶えていないと、言ったな」
「はい」
「今から10年前。お前が15歳の時だ。ゼノが、俺のところにきたのは。あの子は、危うい」
部隊長が、ここまで言うのは珍しいような気が、した。
ただ、彼が言ったということは、イリスがそれを知らねばならないということなのだろう。
「……お前に、執着しているようだな」
なにかを、探るような目で。
「ルカ、を、夜襲しました」
言おうか迷っていた。
けれど、部隊長が探れば――あるいは、彼が部屋を見れば、おそらくわかってしまうだろうから。
部隊長の目が、すっと細められる。
「何かしら、罰を与えなければならないな」
その言葉をわざと聞き流すと、宿まで言葉をかわすことはなかった。
借りている部屋の前に立ち、わずかにためらってからドアを引く。
「ルカ」
ルカは、ベッドのうえでひざを抱えてすわっていた。
少し見れば、眠っているようだったけれど。
「だれ……」
そうっと、警戒しながら。
部隊長はイリスを横切って、ルカが座っているベッドにまっすぐ向かった。
「はじめまして。セヴェリ・ルカ・エクロス。俺はシグリの部隊長だ」
「……おれを、殺しにきたのか」
いまだ警戒をとかぬ目で、しぼりだすような声を出す。
おそろしいものを見るような目は、していないが。
部隊長はやはり名を名乗らず、ただルカを見つめている。
「いいや。きみは死ぬべき人間でも、殺されるべき人間でもない」
「どうせ、今のところは、とでもいうんだろう」
「……ああ。否定も肯定もできない。だが、暗殺する人間は、陛下と俺が決定する」
「おれは、イリスに殺されたい」
ルカから視線を外した部隊長は、こちらに目を向けた。
「約束、しました。もしルカが……対象になったら、俺が殺します」
「お前は、そう望んでいるようでもないが」
「それは……殺したくは、ありませんので」
彼のうつくしい目から逃れるように、視線を外す。
その目を見ると、正しいことしか言えなくなる。嘘など、無意味だ。このひとの、前では。
「イリス」
幼さの残る、声で。
ベッドからおりて、イリスの腕を力なくつかむ。
「イリス……」
「だいじょうぶだ。このひとは、怖くない。おまえを傷つけない」
できるだけ、ルカを傷つけるようなことはしたくない。
だから、というわけではないが。
まだ幼い子どもに言い聞かせるような、そんな不器用な言葉しか出ない。
「ずいぶんなつかれたな」
部隊長の声色は、どこまでも優しいものだった。
決して、けなしたり、馬鹿にしているわけではない。
「……あんたが、イリスの」
赤い目が、じっと男を見上げる。
「あんたの、もの、なのか。イリスは」
部隊長の目が、うっすらと細められた。
まるで、その問いを前々から知っていたかのように。
「いいや。それはちがう、ルカ。俺たちは女王のものだ」
「でも、ゼノっていうやつは、ちがうと言っていた」
「……シグリは、たしかに女王が建てたものだ。だが、シグリも所詮は人間。物、というような扱いに、慣れていないし、慣れてはいけない。だが、物として扱われることでしか、生きていけない人間も、いる」
イリスの表情が強張ったのを、見た。
きっと、イリスがそうなのだろう。
5歳でシグリに入り、暗殺のための道具として女王から扱われたのならば。
そう、なのだろう。
「せめて、人並の幸せを願いたいが」
「部隊長。人並の幸せなど、俺はもう、求めていません」
ひとごろしを重ねておいて、幸せなど求めること自体、おかしい。
「……俺などには、ただの……玩具くらいで、ちょうどいいのです」
「イリス……」
「けれど、これでいいと思っています。そう思えば、未練もありません」
この世界に。
自分の人生に。
幸せを感じなければ、そんなもの必要がない。
これが自分の弱さなのだと、知っている。
求めることがおそろしい。
求めて、手に入れて、うしなうことが。
「未練など……未練をのこして死ぬことほど……無様な死は、ないでしょう」
イリスの表情は暗く、亡霊のようだった。
きっと。
きっと部隊長だけにみせる、弱さなのだろう。
ルカのこころが、ぎしり、と音をたてて軋む。
「ルカ、すこしイリスを借りるが」
「……うん」
うつむくイリスの腕をひき、男は部屋を出ていった。
ぎしり。
ぎしり。
ぎしり。
こころが痛い。きしむ。
イリスは、シグリは、女王のものだ。
ことばでは、分かっている。
けれど、こころでは、それを否定していた。
なんで。
なんで。
なんで。
なんで、イリスは――。




