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ああ、まったくそのとおりだ。
生きるために、生き残るために、非道だろうが邪道だろうが、殺した。
躊躇して、動揺して、情けをかけていたら、イリスはもう、死んでいる。
とっくの昔に。
二十も、迎えられなかっただろう。
「……ったく、本当に、おまえは……分かったようなことをいう」
その声は呆れたような、なにかに諦めたような、あわいのような声だった。
ルカはイリスにしがみついたまま、腕を放すこともなく。
「おまえがどんな思いで俺のそばにいるのかは――分からねぇが。だがな、これだけは分かってくれ。おまえは、人間を殺してはいけない男だ。おまえの手は、弓を引く手だろう。生きるために、鹿や熊を狩って食ってるんだろう。それをむざむざ、食えもしない人間に弓を引くことは、ねぇよ」
この血にまみれた手で、ルカを抱きしめ返すことはできない。
できたら、よかったのだが。
「だいじょうぶだ」
せめて、大丈夫だと言う。
なにも心配はいらない、と。
「俺が負けない限り、おまえは生きる」
言い聞かせるように。
「ルカ」
背中にまわっていた腕が、力なくおりた。
革の手袋をした手を握りしめた音を、聞く。
「行くぞ」
「……うん」
やはり、出会ったばかりのときよりも、ルカの声がいとけなくなっているようだ。
宿をとっている村に入ると、わずかな違和感を感じる。
どこか、肌がひりつくような。
それでも、心がうわつくような。
「……なんだ?」
国教徒らしき男女、数十人が噴水のまわりに詰め寄っているようだった。
さざなみのように、せわしない声が押し寄せてくる。
「まさか……」
「……そんなことが……」
若い男と女がささやきあっている内容は、要領を得ない。
混乱しているようだ。
「おい」
イリスが背中をまるめてささやきあっている男女に、声をかける。
びくりと肩をこわばらせた二人は、おそるおそる、イリスがいる後ろをふりかえった。
「なにかあったのか」
「……あれを、みてください」
女の指が、噴水の上にある石像をさす。
その像はもともと、国教徒が祈りをささげるものだが、イリスの目から見れば――あのレグルスの娘の言うように、まさに異形の形をしていた。
人間のかたちを、たしかにしているのだが。
顔が、ないのだ。
顔の凹凸すらない。
体つきも、男でも女でもないように見える。
まるで、細い枝が頭、四肢を象ったようだ。
その石像は、いつもは「純白」「潔白」を象徴する、ましろな色だ。
だが、今は――黒く濁った色をしている。
まるで、鉄がさびたような色だ。
遠くから見れば、血にも見える。
「……なにかの、前触れでしょうか……」
女が、ふと目を細めると、喉がひきつったような声をだした。
ルカのおもてを見たからだ、と、女の視線をおわずとも、分かる。
「死に神……!」
重たい声で叫んだ女は、ルカから逃げるように、男とともに人ごみのなかに消えた。
それに気づいたのか、まわりの人間は、突き刺すような目でルカを睨む。
「お、お前のせいだ!」
「死に神だ! 死に神がいる!!」
悪意のある言葉が飛び交う。
かたくなった雪のかたまりが、イリスのうしろへ投げつけられる、のを見た。
雪のかたまりが頭にでもぶつけられれば、けがをする。あたり所が悪ければ、命も落としかねない。
そう考えたのは、イリスがルカの頭に投げられた雪を、剣でかち割ったあとだ。
ばらばらと、たやすく雪くずが足元に落ちる。
イリスは剣をもったまま、天の御使いのおもてをもって――しんと静まり返った国教徒を見据えた。
その目は憎悪も、悪意も、または呆れも恨みも、なにもない。
ただ、無感情に民衆を見ているだけだ。
人間を見る目ではなく――木や草を見ているような、そんな目、を。
手に剣をもったまま、ただそこに立っているだけで。
みな、恐怖を覚えているようだった。
身をよせあい、まるで未知のものを見るような目でイリスを見ている。
なぜ、天の御使いのおもてを持つものが、剣など持っているのか。
そして、なぜ死に神のおもてを持つものが、なにもしないのか。
「くだらない」
ひとつ。
吐き捨て、恐怖を隠しもしないその多くの視線を真っ向から受けてもなお、表情を崩さないイリスは、人ごみのなかに自ら入ってゆく。
「いくぞ」
ルカの腕をつかみ、国教徒が身を寄せ合ったために勝手にできた道を、ただ歩いた。
なにも言わないルカを、宿の部屋に押し込んだ。
「……イリス」
ちいさな、子どものような声を背中で受ける。
「どうでも、いいんだがな」
あの、石像のことは。
どんなに汚れようと。
それにどんな意味があろうと。
関係のない、ことだ。
「どうする」
「……?」
「このままこの村を出てもいいし、出なくてもいい」
「イリス、怒ってる」
ただ、くだらない、と。それだけ思った。
神というものがいるのなら、なぜ同じではないのか。
みな、神の傀儡として生きてはいないのか。
なぜ思考や感情などという、面倒なものがあるのか。
「別に、怒ってるわけじゃない。だが……まあ、おまえが村をでる理由なんぞ、どこにもねぇか」
ため息をつき、ベッドに座る。
腰に佩いていた剣も、ベッドの上に乗せた。雪を斬っただけだから、手入れはしなくともいいだろう。
ルカは置かれた剣をじっと見つめてから、イリスのとなりにすわった。
「どうした」
「うらやましい」
ぽつり、と。
ルカのくちびるから、思いもよらない言葉がつづられた。
「あんたの、剣が」
「どういうことだ?」
「大事なものなんだろう」
肩に、かすかな重みを感じる。
ルカの頭が、肩に乗っていた。イリスは好きにさせているが、その意味は、分かりすぎてしまった。
「無機物に嫉妬なんかするな」
できるだけ、呆れたような声をだすようにつとめる。
今のルカは、危うい。
ひびの割れた、がらすのようなものだ。
「イリス」
「なんだ」
「あんたは、おれはそんなこと思わないし、言わない、と言った」
茫漠とした、ことばで。
無意識に、でたように。
「もう、むり、だ」
こころが、あふれてしまう。




