10
「お嬢様は、もうお出かけになりました」
朝食ができたと、アイラが部屋におとずれたとき、彼女はすこし青ざめた顔でそう言った。
「領主さまに。お会いになる、と」
「誰からの、伝言だ」
「分かりません。誰よりも早く起きられたらしく。お姿を、見ておりません。ただ、この紙が、置いてあったのです」
イリスの、刃物のような言葉に、アイラはわずかにうつむいた。
手には、紙切れ一枚。
『クロノ様のところに、行ってくる。ミルナ』
と、だけ。
「……ルカ。ミルナを追うぞ。アイラ、悪いが朝食はあとにする」
「お嬢様に、なにか……?」
青ざめた顔のまま、イリスにすがるように目を細めた。
心配いらない、と、言う。
文章のままなら、いい。
けれど。
違うのだとしたら。
イリスは剣を持ち、ルカは矢筒と弓を持った。
廊下を走る。
足がカーペットに沈んで、走りづらい。
だが、できるだけ早くあとを追わねば。
「イリス、ミルナに何かあったのか」
「分からねぇが、文字を見た時、奇妙だった。ただの、勘だが。急いでいたなら、走り書きでいいはずだ。だが、あの文字は丁寧だった。ただ、それだけのことだ」
走っても、イリスの声が乱れることはなかった。
エントランスを抜け、扉をあけると、まだ雪が降っていた。
吹雪く、ほどではないが。
まだ朝が早いためか、人通りは少ない。
「領主の屋敷、だったか」
「ああ」
「……急ぐぞ」
イリスは積雪に足をとられることもなく、クロノの屋敷へと走った。
なにか、嫌な予感がする。
ルカの予感というものは、よく当たる。
それが、嫌なものであればあるほど。
彼は無意識のうちに、眉をひそめた。
屋敷前に警邏が数人、立っていた。
どこか、せわしなく話をしている。
「おい、あんたら」
「お前は……。ミルナ様の書状を受け取っていた……」
「イリスだ。ミルナを見なかったか」
「ちょうど、その話をしていた。血相を変えてミルナ様がクロノ様のお屋敷に入って行ったんだが」
「そうか。悪いが、通らせてもらうぞ」
警邏を押しのけて、屋敷へ入ろうとするイリスを、男がひとり、あわてた様子で止めた。
「ま、待て。そう簡単に」
「……いいか。ミルナがただ単に、領主に呼ばれたなら、それでいい。だが、違ったら――あんたたちは、責任をとれるのか」
「何……? どういう意味だ」
「言葉の通りだ。俺の読みが当たれば、おそらく……領主も危険な目にあっているかもしれない」
「クロノ様も、だと?」
数人の警邏は顔色を変えて、かたくうなずいた。
腰に差した剣を握りしめ、意を決したように領主の屋敷へ足を踏み出そうとした、が。
イリスはそれを止めた。
「あんたらは、そこにいろ」
「俺たちは、領主を守るためにここに配属されたんだ。今、危ないかもしれないといわれて黙っていられるか!」
「俺が始末をつける。敵は、おそらくまだ来るはずだ。ここで、門を守れ」
イリスの、碧眼の視線に圧倒されるように、警邏たちは分かった、と頷いた。
警邏たちが、イリスを畏れているようにも、見えた。
「ルカ、おまえは来ても来なくてもいい。だが、殺し合いになるのは確実だ」
ルカの目を見ず、そして答えを知っているふうでもあったが。
ただ、頷いた。
石畳を走り、巨大な扉を押す。
それはあっけなく開き、気味の悪い静寂がまわりを漂っていた。
「耳が痛むくらい、静かすぎる」
「……ミルナの気配が、する。だが、色までは分からない。ルカ、おまえ、分かるか」
先天的な、真っ赤な目が軽く見開かれる。
碧眼の目に応えるように、頷いた。
目をこらす。
ミルナの姿を思いおこす。
見たこともない魚のように、空気中を漂う薄い赤色。
この忌み嫌われる力が、役に立つ日が来るとは、思ってもみなかった。
黒ずんだ男の色が見えるならば。
ほかの人間の色だって見える。
あまり、見たくはないが。
「こっちだ」
ルカが先頭に立ち、走る。
まっすぐの廊下に、いざなうように見える、薄い赤の影。
それが、急に消えた。
「……ここで、途切れている」
「そうか。……? ここは」
イリスが、かすかに口をとざし、何かを思い出すように壁にふれた。
ひんやりとした、ただの壁。
「前、ここに来た時に、視線を感じた。もしかすると」
黒いグローブをはめた手が、壁を押しこむ。
すると、重たい音をたてて、それは開いた。
隠し通路が、そこにあった。
そう長くもない廊下の奥に、鉄の扉が立ちはだかるようにはめ込まれている。
廊下には、やはり、というべきか。
薄い赤の影が漂っている。
「あの扉のなかにいる、と思う」
「分かった。俺の後ろから離れるな」
早口でそうまくしたてると、イリスは床を蹴った。
それと、剣を鞘から抜くのは、同時だった。
ルカは必死にイリスのあとを追い、走る。
がん、という、重たい音がした。
槍が、壁から突き出てきたのだ。
イリスはそれさえ鬱陶しそうにその硬く、鋭くとがっている槍を剣で凪いで、槍を両断した。
ばっさりと斬られたその槍が、床に落ちていくのを、ただ茫然と見送ることしかできなかった。
十数本、槍を落としたところで、扉の前まで来た。
「………」
イリスは、鉄の扉に耳を押し当て、様子を窺っている。
抜き身の剣をそのままに、静かに、扉を開けた。
部屋の中からは、大きな声が聞こえていた。
その声に紛れるように、扉を開ける。
そこには確かに、ミルナとクロノがいた。




