第1話 好きな人の話をしたら、幼馴染が本を閉じました
放課後。
茨城県水戸市を走り出した電車の窓には、傾き始めた夏の陽が長く差し込んでいた。
水戸駅を出たばかりの車内は、帰宅する高校生や大学生、買い物袋を膝に置いた人たちで、それなりに混み合っている。
冷房の風は効いているはずなのに、昼間に熱を溜め込んだ制服の生地はまだ少し暑い。
吊り革が揺れる。
車輪が線路の継ぎ目を越えるたび、がたん、がたん、と規則正しい音が床の下から響いてきた。
私は窓際の席に座り、膝の上に通学鞄を抱えていた。
その隣には、幼馴染の久保春斗がいる。
同じ久保という苗字ではあるけれど、兄妹でも親戚でもない。
家が近く、同じ地区で育ち、小学校から中学校まで同じだっただけの、ただの幼馴染だ。
ただし。
十五年近く生きてきたうちの大半を、顔を合わせながら過ごしてきた。
そのため、私にとって春斗は、友達というには少し近すぎて、家族というには少し遠い。
何とも説明しづらい立ち位置にいる。
本人に言えば、たぶん。
「近所の人でいいだろ」
と、一言で片づけると思う。
今日も春斗は、私のことなど視界に入っていないような顔で小説を読んでいた。
黒い髪が冷房の風にわずかに揺れている。
前髪が少し長い。
何度切れと言っても切らない。
理由を聞いたところ、「美容室で話すのが面倒」と言われた。
だったら私が切ってやろうかと提案したこともある。
そのときだけは、珍しくはっきりとした声で拒否された。
失礼な話である。
私は小さい頃、人形の髪を三体ほど綺麗に切った実績があるのに。
もっとも、切ったあとの人形を見た母が絶句していたことについては、今回の話とは関係がない。
そんな無愛想な幼馴染の隣で。
私は、とうとう我慢できずに息を吐いた。
「はぁぁぁぁ……」
正面の席に座っていた男子高校生が、びくりと肩を揺らした。
隣にいた友人らしき男子が、私を一度見たあと、そっと視線を外す。
少し大きすぎたかもしれない。
けれど、仕方がない。
私の胸の中には、今にも外へ飛び出しそうな感情が詰まっているのだ。
吐き出さなければ、家に帰る前に破裂してしまう。
「竹下くん、今日もかっこよかったなぁ……」
「ふうん」
春斗は本から目を上げなかった。
期待していたわけではない。
春斗が私の恋愛話に、目を輝かせて食いつく姿など想像できない。
それでも。
もう少しだけ、人間らしい反応を見せてもいいのではないだろうか。
「ねえ。ふうん、って何?」
「感想」
「感想になってないよ」
「じゃあ、そうなんだ」
「もっと興味を持って」
「持てない」
「即答しないでよ!」
思わず声が大きくなる。
通路を挟んだ向かい側で立っていた女子高生二人が、こちらを見た。
一人が口元を手で隠し、もう一人の耳元で何かを囁く。
たぶん。
喧嘩しているカップルに見えたのだろう。
違う。
断じて違う。
私は慌てて声を小さくした。
「可愛い幼馴染の恋愛相談だよ? もうちょっと親身になってくれてもよくない?」
「誰が可愛いんだ」
「私」
「へえ」
「そこは否定しなかったね」
「否定すると面倒だから」
「その説明が一番傷つくんだけど」
春斗はページを一枚めくった。
視線は相変わらず、文字の並んだ紙の上に落ちたままだ。
昔からそうだ。
春斗は本を読み始めると、周りの音をほとんど聞かなくなる。
いや。
正確には聞こえている。
ただ、反応する価値があるかどうかを、勝手に選別しているだけだ。
だから私が話しかけても、必要最低限の返事しか返ってこない。
無視をされないだけ、他の人よりは扱いがいいらしい。
以前、同じクラスの男子が図書室で春斗へ三回話しかけたところ、春斗は最後まで一度も顔を上げなかったそうだ。
その話を聞いたとき。
「私は返事をもらえているから、特別扱いされているのかもしれない」
と少し得意になった。
直後、春斗本人に言ったら。
「お前は無視すると、肩を揺らすだろ」
と返された。
特別扱いではなかった。
実力行使を恐れられていただけだった。
「ねえ、春斗」
「何」
「竹下くん、今日の体育でね」
「聞いてない」
「聞いて」
「断る」
「今日はサッカーだったんだけど」
「話すのかよ」
春斗が、ほんの少しだけ眉を寄せた。
それでも本は閉じない。
私は気にせず続ける。
「ほら、竹下くんってスポーツ推薦で入学したじゃない?」
「知らない」
「前に言ったよ」
「聞き流した」
「ちゃんと受け止めて」
「捨てる場所がない」
「私の恋心を粗大ごみみたいに言わないで」
向かい側の男子高校生が、とうとう俯いた。
肩が震えている。
笑われている。
しかし、今の私は止まれない。
竹下雅人くん。
私と同じ一年特進SSクラスに在籍する男子生徒で、サッカー部のスポーツ推薦入学。
本来ならスポーツ特進に所属していてもおかしくないのだが、彼は勉強もできる。
入学直後の実力テストでは、学年十位以内。
さらに足が速い。
身長も高い。
日に焼けた肌に、短く整えられた黒髪。
教室にいるだけでも目立つのに、本人は自分が注目されていることをあまり気にしていない。
そして。
何よりも。
笑った顔が、とてつもなく可愛い。
普段はきりっとした表情をしているのに、笑うと少しだけ目尻が下がる。
あの瞬間だけ、格好いいから可愛いへ、一気に落下するのだ。
その落差。
まさに、ギャップ萌え。
私は入学式から二週間ほど経った頃、竹下くんの笑顔を偶然目撃し、完全に心を撃ち抜かれた。
あのときの衝撃を表すなら。
雷。
隕石。
あるいは、茨城県全域を震源とする大地震。
それくらいだった。
「今日ね、竹下くんが相手を三人抜いて、そのままゴールを決めたの」
「そう」
「しかも、そのあとチームの子に肩を組まれて笑ってた」
「へえ」
「笑ってたの!」
「聞こえてる」
「可愛かったぁ……」
「知らない」
「春斗にも見せたかったなぁ」
「何で俺が知らない男の笑顔を見せられるんだ」
「人生が豊かになるから」
「ならない」
春斗はようやく本から目を上げた。
眠そうな目が、私を見る。
その顔には、心底どうでもいいと書いてあった。
「それで」
「うん?」
「相談は何なんだよ」
「え?」
「恋愛相談なんだろ。さっきから竹下が走った、笑った、可愛いしか聞いてない」
「違うよ。三人抜いたも言った」
「情報が増えただけだ」
「重要な情報だよ」
「俺にはいらない」
春斗はため息をつき、また本へ視線を落とした。
私は口を尖らせる。
たしかに。
相談すると言いながら、竹下くんの魅力を語っていただけかもしれない。
だが、それも必要な準備である。
相談相手には、まず対象者がいかに素晴らしい人物かを理解してもらわなければならない。
そうでなければ、効果的な作戦は立てられない。
「相談はね」
「うん」
「どうしたら竹下くんと仲良くなれると思う?」
「話しかければ」
「それができたら相談してない!」
「じゃあ無理」
「諦めるのが早すぎる!」
春斗は面倒そうに窓の外を見た。
田園風景の向こうに、低い山並みが続いている。
水戸を離れ、友部へ近づくにつれて、車窓の景色は少しずつ見慣れたものに変わっていく。
私たちはここから友部駅で水戸線へ乗り換え、岩瀬駅まで帰る。
毎日往復するには長い道のりだ。
それでも、学校へ通い始めて三か月。
乗り換えにも、車内の揺れにも、ずいぶん慣れた。
「同じクラスなんだろ」
「同じクラスでも話せないものは話せないの」
「隣の席じゃなかったか」
「そうだけど」
「じゃあ話せるだろ」
「春斗は乙女心というものを分かってない」
「分かる必要がない」
「竹下くんが隣に座るだけで、心臓がね、こう……きゅってなるの」
「病院行くか?」
「恋だよ!」
「病気か」
「恋の病っていうでしょう!」
「治療法は?」
「竹下くんと付き合うことです」
「重症だな」
春斗の声は淡々としている。
向かいに座っていた男子高校生は、もう完全に笑いを隠すことを諦めていた。
隣の友人に肩を叩かれながら、窓の方を向いている。
私は少しだけ恥ずかしくなり、鞄で口元を隠した。
「と、とにかく。私は竹下くんと仲良くなりたいの」
「頑張れ」
「協力して」
「嫌だ」
「何でよ!」
「接点がない」
「同じ学校じゃん」
「校舎も学科も違う」
水橋高校には、普通科、商業科、スポーツ特進、特進S、特進SSがある。
私が所属する特進SSは第三校舎。
春斗が所属する商業科は第一校舎。
同じ敷地にありながら、授業どころか昼休みの行動範囲さえ重ならない。
だから、入学後も毎日一緒に登下校している割に、校内で顔を合わせることはほとんどなかった。
「でも春斗、竹下くんと同じ中学だった子を知ってるんでしょう?」
「商業科に一人いるだけだ」
「その子から情報を集めてよ」
「嫌だ」
「好きな食べ物とか!」
「自分で聞け」
「好きな女の子のタイプとか!」
「本人に聞け」
「彼女がいるかとか!」
「それはもう調査済み」
「何でそこだけ行動力があるんだよ」
春斗が呆れたように私を見る。
私は胸を張った。
「愛ちゃんと協力して調べました」
「調べたって」
「現在彼女なし。好きな人もいない可能性が高い。中学時代はサッカー一筋で、告白された回数は最低でも五回」
「怖いな、お前ら」
「情報収集と言って」
「やってることが探偵なんだよ」
「恋は戦いだからね」
「その理屈で犯罪に行くなよ」
「失礼な。本人に迷惑をかけることはしてません」
「今後もしないでくれ」
春斗は本を閉じた。
ぱたん、と。
その音に、私は思わず瞬きをする。
珍しい。
本当に珍しい。
電車内で春斗が自分から本を閉じることなど、ほとんどない。
私は背筋を伸ばした。
もしかすると。
ついに春斗が、私の恋を真剣に応援する気になったのかもしれない。
幼馴染として。
昔から私を知る者として。
私の幸せを願い、全力で力を貸してくれる。
そんな感動的な展開が、今まさに始まろうとしているのではないだろうか。
「真理」
「はい!」
「声が大きい」
「……はい」
感動的な展開は始まらなかった。
周囲の乗客がこちらを見ている。
私は小さくなって座席へ沈み込んだ。
春斗は再び本を開く。
「でもさ」
私は今度こそ声を落とした。
「本当に協力してよ。幼馴染でしょう?」
「幼馴染は恋愛相談員じゃない」
「春斗以外に男の子へ相談できないんだもん」
そう言うと。
春斗の指が、ページの端で止まった。
ほんの一瞬だった。
視線は本に落ちたまま。
表情も変わらない。
ただ、紙をめくろうとしていた親指だけが動きを止めた。
「女友達にすればいいだろ」
「愛ちゃんにもしてるよ。でも、愛ちゃんはすぐ話を大きくするから」
「お前もだろ」
「私は自分の中だけで大きくしてるの」
「今、車内全体に広がってる」
「うるさいなぁ」
私は頬を膨らませた。
それから、少しだけ笑う。
「でも、春斗なら変なことを言いふらさないでしょう?」
「面倒だからな」
「それに、私がどんな人間かも知ってるし」
「十五年も近所にいれば嫌でも分かる」
「だからさ。一番相談しやすいんだよ」
春斗は答えなかった。
車輪の音が、会話の途切れた場所を埋めていく。
窓から差し込む夕陽が、春斗の横顔を薄く染めていた。
目元に落ちた前髪の影。
閉じられた唇。
何かを考えているようにも見えたけれど、春斗が無言なのは珍しいことではない。
私は深く考えず、窓の外へ目を向けた。
遠くに広がる田んぼが、夕陽を反射して金色に光っている。
昔から見慣れた景色。
春斗と並んで見ることも、私にとっては当たり前だった。
小学生の頃は、同じ登校班で歩いた。
中学生になると、同じ部活動に入り、帰り道も一緒になることが増えた。
私たちの住む地区には、同い年が四人しかいない。
子ども会。
地区の運動会。
廃品回収。
夏祭りの準備。
何か行事があるたびに、私と春斗は同じ場所へ集められた。
家同士も近い。
特に母親同士の仲がよく、私の母は夕方になると私を連れて春斗の家へ遊びに行った。
庭で鬼ごっこをした。
近くの広場でボールを蹴った。
水路へ入って遊び、近所のおじさんに本気で怒鳴られたこともある。
あのとき。
私は驚いて泣いた。
春斗は泣かなかった。
代わりに私の前へ立って。
「入ろうって言ったのは俺です」
と、一人で怒られようとした。
本当は、最初に水路へ入ったのは私だった。
その日の夜、母に事情を話したら、私も春斗もまとめて叱られた。
翌日。
春斗の家へ謝りに行くと、本人は庭で本を読んでいた。
「昨日はごめん」
と伝えた私に、春斗は。
「別に」
としか言わなかった。
昔から、そんな人だった。
ぶっきらぼうで。
何を考えているのか分かりにくくて。
優しいことをしても、優しくしたとは絶対に認めない。
中学では、同級生からよくからかわれた。
同じ久保。
いつも一緒。
家も近い。
それだけで。
「久保夫妻」
などと呼ばれた。
思春期真っ最中だった私は、本当に嫌だった。
春斗と廊下を歩くだけで笑われる。
部活から一緒に帰れば、翌日にはまたからかわれる。
一時期。
私は、春斗から距離を置いた。
朝も少し早く家を出た。
帰りも友達と時間をずらした。
話しかけられても、必要なことしか返さなかった。
今思えば、ずいぶん子どもっぽかったと思う。
春斗は。
そんな私に理由を聞かなかった。
怒りもしなかった。
次に地区の行事で顔を合わせたときも、いつも通りだった。
「これ持て」
と荷物を半分押しつけてきて。
「何で私が持つの」
「俺の方が重い方を持ってる」
「頼み方があるでしょう」
「お願いします」
「気持ちが入ってない」
「お願いします、真理様」
「馬鹿にしてる?」
結局。
意識して距離を取っていた私の方が、馬鹿らしくなった。
それからは、以前と同じ関係へ戻った。
高校は別になると思っていた。
私は水戸市にある水橋高校の特進SSを受験した。
春斗が商業科を志望していることは知っていたけれど、まさか同じ学校だとは思わなかった。
合格発表の日。
掲示板の前で春斗を見つけた私は、思わず。
「何でいるの?」
と聞いてしまった。
春斗は。
「受験したから」
と、当然のことを答えた。
腐れ縁は、高校へ進学しても終わらなかった。
むしろ、私が朝の早い特進SSへ入ったことで、春斗まで早朝から登校するようになった。
家から岩瀬駅までは遠い。
毎朝、私と春斗の親が交代で車を出してくれている。
私だけ先に送ると二往復になってしまうため、春斗も同じ時間に家を出る。
春斗の商業科は、私ほど早く登校する必要がない。
それでも。
文句を言いながら、毎朝一緒に乗っている。
そういうものだと思っていた。
「春斗」
「何」
「やっぱり協力してね」
「断る」
「そこは考えてよ」
「考えた結果だ」
「冷たい」
「竹下とやらに話しかけるくらい、自分でやれ」
「できないから困ってるんだってば」
「じゃあ、一生見てればいい」
「そんなの嫌!」
私は座席から身を乗り出した。
「せめて、最初のきっかけだけでも欲しいの。竹下くんと自然に話せるような」
「隣の席なら、もう自然だろ」
「何を話せばいいか分からない」
「授業の話」
「面白くない女だと思われる」
「天気」
「会話が終わる」
「サッカー」
「詳しくないのがばれる」
「じゃあ諦めろ」
「春斗はすぐ諦めさせようとする!」
「お前が面倒なだけだ」
乗り換えを告げる車内放送が流れた。
友部駅が近づいている。
乗客たちが立ち上がり始め、車内に鞄の擦れる音や靴音が増えていく。
春斗は本にしおりを挟み、鞄へ入れた。
私も膝の上の鞄を持ち直す。
電車が速度を落とし、身体が少し前へ傾いた。
そのとき。
春斗が、ぽつりと聞いた。
「本気なのか?」
「何が?」
「竹下って奴」
一瞬。
何を聞かれているのか分からなかった。
春斗は私を見ていない。
閉じた本を鞄へしまいながら、何でもないことのように聞いている。
けれど。
その声は、先ほどまでの面倒そうなものとは少し違っていた。
低く。
静かで。
妙に真剣だった。
私は急に恥ずかしくなった。
竹下くんが好き。
何度も口にしているはずなのに。
改めて、本気なのかと聞かれると、胸の奥がむず痒い。
「う、うん」
私は制服のスカートの上で、指を組んだ。
「本気だよ」
「どのくらい」
「どのくらいって?」
「格好いいから見てたいだけなのか。付き合いたいのか」
「そ、それは……」
電車の速度がさらに落ちる。
ホームへ入っていく音が、窓の外から響いてきた。
私は俯いた。
自分の膝を見る。
竹下くんと話したい。
仲良くなりたい。
一緒に帰れたら嬉しい。
連絡先を交換して。
休みの日に出かけたり。
いつか。
好きだと伝えられたら。
「付き合いたいよ」
口にした瞬間。
顔が熱くなった。
「本気の本気。絶対に仲良くなりたい。本気と書いて、マジと読むくらい本気」
「最後で軽くなったな」
「照れ隠しだよ!」
私が顔を上げると。
春斗は、こちらを見ていた。
いつもの眠そうな目。
変わらない無表情。
ただ。
ほんの少しだけ。
目の奥に、何かが沈んだように見えた。
気のせいかもしれない。
夕陽のせいかもしれない。
「……分かった」
春斗は、それだけ言った。
「何が?」
「本気なのは分かった」
「それで?」
「何が」
「協力してくれるの?」
「考えとく」
「本当!?」
私が勢いよく立ち上がる。
近くにいた会社員らしき男性が驚いてこちらを見た。
私は小さく頭を下げ、声を落とす。
「本当に考えてくれるの?」
「近い」
「だって春斗が初めて前向きなことを言ったから!」
「座れ。まだ止まってない」
「はい」
私は素直に座った。
胸の奥が少しだけ軽くなっていた。
春斗なら、きっと何かいい方法を考えてくれる。
愛ちゃんは勢いだけで作戦を立てる。
私も勢いに流される。
だから。
冷静な春斗が加われば、完璧だ。
そう思った。
このときの私は。
春斗の「分かった」が、何を意味していたのか。
少しも考えていなかった。
◇
翌朝。
午前五時三十分。
私は母の運転する車の助手席で、大きなあくびをしていた。
「ふぁぁ……おはよ……」
「もう家を出てから十分経ってるでしょう」
「お母さんに言ったんじゃないよ」
「じゃあ誰に言ったの」
「これから乗る人」
「まだ乗ってないじゃない」
母のもっともな指摘に、私は眠い目を擦った。
窓の外には、朝靄の残る田んぼが広がっている。
夏とはいえ、この時間はまだ空が白み始めたばかりだ。
道路を走る車も少ない。
遠くの山は薄い青色に霞み、道路脇の草には朝露が光っていた。
やがて車が速度を落とす。
見慣れた家の前。
門の近くに、制服姿の春斗が立っていた。
片手に鞄。
もう片方の手には、文庫本。
こんな朝早くから、すでに読んでいる。
母が車を止めると、春斗は本を閉じて後部座席へ乗り込んだ。
「おはよう、春ちゃん!」
「おはようございます」
「ふぁぁ……おはよ」
「はよ」
短い。
そして、眠そうだ。
春斗は後部座席のドア側へ身体を寄せると、すぐに目を閉じた。
「昨日は真理の恋愛相談に付き合ってくれたんだって?」
母が楽しそうに聞いた。
私は一気に目が覚めた。
「何で知ってるの!?」
「真理が帰ってきてから話してたでしょう」
「お母さんに話しただけだよ!」
「春ちゃんのお母さんにも伝えておいたわ」
「何で伝えるの!?」
「情報共有?」
「何の!?」
後部座席から、深いため息が聞こえた。
「春斗、ごめん」
「いつものことだから」
「諦めないで。うちのお母さんが悪いだけだから」
「真理も十分悪いわよ」
「運転に集中してください」
「はいはい」
母は笑いながらハンドルを切った。
春斗はそれ以上話す気がないらしく、窓へ頭を預けている。
私は助手席から後ろを振り返った。
「ねえ、春斗」
「眠い」
「昨日の話、考えてくれた?」
「朝から竹下の話するのか」
「大事なことだから」
「駅まで寝かせろ」
「じゃあ駅に着いたら聞くね」
「忘れてくれ」
母が小さく笑った。
「春ちゃんも大変ね」
「本当に」
「ちょっと! 二人で私を面倒な子みたいに扱わないで!」
「みたいじゃない」
「実際に、よ」
「お母さんまで!」
朝の静かな車内に、私の声だけが響いた。
車は田園地帯を抜け、岩瀬駅へ向かって走っていく。
やがて駅前へ到着すると、母はロータリーの端へ車を寄せた。
「二人とも、いってらっしゃい!」
「いってきます」
「行ってきます」
車を降りる。
朝の空気は、思ったより涼しかった。
駅舎の向こうから、鳥の声が聞こえる。
私たちは並んで改札を通り、ホームへ向かった。
時刻は午前五時五十分。
始発に近い時間帯のホームには、人影がほとんどない。
少し離れた場所に、作業着姿の男性が一人。
ベンチには大きな荷物を持った年配の女性が座っている。
それ以外は、私と春斗だけだった。
線路の向こうには住宅が並び、その奥には朝靄に包まれた山が見える。
どこかで鳥が鳴いている。
遠くの道路を走る車の音。
ホームに設置された案内表示。
静かな時間。
毎朝こんな時間に起きるのはつらい。
それでも。
この人の少ないホームだけは、少し好きだった。
私はベンチへ座り、鞄を隣へ置いた。
春斗は立ったまま、本を開く。
「座れば?」
「眠るから立ってる」
「立ってても寝るでしょう」
「寝ない」
「中学の朝礼で立ったまま寝てたじゃん」
「あれは目を閉じてただけ」
「先生に肩叩かれて驚いてたよ」
「瞑想中だった」
「便利だね、瞑想」
私は笑った。
春斗は無視してページをめくる。
いつもの朝。
いつもの幼馴染。
昨日の会話も、私の中ではすでに恋愛相談の第一歩として処理されていた。
だから。
春斗が突然本を閉じたとき。
私は少し驚いた。
「真理」
「ん?」
春斗は線路の先を見ていた。
遠くから、電車の走る音が近づいている。
「昨日の話」
「竹下くん?」
「……ああ」
「考えてくれたの?」
私は勢いよく立ち上がった。
春斗は私を見ない。
朝の薄い光の中で、横顔だけが見える。
「お前、本当に竹下って奴が好きなんだな」
「昨日も聞いたよね?」
「確認」
「うん。本気だよ」
「そうか」
短い返事。
それから。
春斗はしばらく黙った。
遠くに電車の前照灯が見える。
線路が、かすかに震え始める。
私は続きを待った。
けれど。
春斗は何も言わない。
「それだけ?」
「分かった」
「だから何が?」
「分かっただけ」
「昨日からそればっかりじゃん!」
電車がホームへ滑り込んでくる。
風が制服のスカートを揺らした。
春斗は大きなあくびをすると、開いたドアへ向かって歩き出す。
「ちょっと、待ってよ!」
私は慌てて鞄を持ち上げ、その背中を追いかけた。
「何なの? 何が分かったの?」
「うるさい。朝だぞ」
「そっちが聞いたんでしょう!」
「乗り遅れる」
「まだ止まったばかりだよ!」
春斗は振り返らない。
私は、その後ろを追って電車へ乗り込んだ。
結局。
春斗は水戸へ着くまで、ほとんど眠っていた。
私が何度話しかけても。
「眠い」
「あとで」
「静かにしろ」
の三種類しか返ってこなかった。
そして水戸駅を出たあと。
いつもなら私と一緒に学校まで歩くはずの春斗は、駅前で突然立ち止まった。
「俺、少し寄るところがあるから」
「どこに?」
「本屋」
「まだ開いてないよ」
「コンビニ」
「何を買うの?」
「何でもいいだろ」
「怪しい」
「お前に言われたくない」
春斗はそれだけ言うと、私とは別の方向へ歩き出した。
「学校で遅刻しないでよー!」
「しない」
「第一校舎が開くまで外で待つことになるよ!」
「分かってる」
「じゃあ、また帰りね!」
私は手を振った。
春斗は振り返らず、片手だけを軽く上げた。
その後ろ姿を見送りながら。
私は、胸の中に小さな引っかかりを覚えていた。
いつも隣にいる人がいない。
ただ、それだけ。
話をしながら歩く日ばかりではない。
無言で学校へ向かうことだって多い。
それなのに。
一人で歩く水戸の朝は、妙に落ち着かなかった。
人の流れ。
バスのエンジン音。
信号機の電子音。
駅前を行き交う学生たちの声。
いつもと同じ景色なのに、隣が空いているだけで少し違って見える。
「まあ、いいか」
私は小さく呟いた。
春斗にも用事くらいある。
毎日私に合わせて早く登校しているのだから、一人で好きな場所へ寄りたい日もあるだろう。
そう納得し、私は第三校舎へ向かった。
◇
水橋高校第三校舎。
一年特進SSクラス。
教室へ入ると、すでに半分近くの生徒が登校していた。
机の上へ参考書を広げている生徒。
眠そうに突っ伏している生徒。
朝食代わりらしいパンを食べている生徒。
特進SSとはいえ、全員が朝から勉強へ燃えているわけではない。
むしろ。
七時半から始まるLHRという名の授業に対し、静かな怒りを抱えている者の方が多い。
私は自分の席へ鞄を置いた。
隣の席はまだ空いている。
竹下くんの席だ。
机を見るだけで、少しだけ胸が高鳴る。
「……今日も綺麗な机」
「机を見て何を言ってるの?」
「わっ!?」
突然、背中に柔らかなものがぶつかった。
そのまま、後ろから両腕を回される。
「真理、おっはよー!」
「朝から元気だね、愛ちゃん……」
私へ抱きついてきたのは、大杉愛。
高校へ入学して最初にできた友達で、私の後ろの席に座っている。
長く真っ直ぐな黒髪。
大きな瞳。
整った鼻筋。
すらりと伸びた脚。
黙って立っていれば、老舗旅館の一人娘か、良家のお嬢様に見える。
しかし。
実際は、朝から友達へ抱きつき、教室中へ響く声で挨拶をする人である。
「ねえねえ。今日、春くんいなかったね?」
「途中まで一緒だったよ」
「学校まで来なかったじゃん」
「寄るところがあるって」
「朝の七時前に?」
「本人はコンビニって言ってた」
「怪しい」
「私もそう言った」
愛ちゃんは私の肩へ顎を置き、にやりと笑った。
「喧嘩した?」
「してないよ」
「真理が竹下くんの話をしすぎて、春くんが怒ったとか」
「何で春斗が怒るの?」
「さあ?」
「興味ないって言ってたよ」
「ふうん」
愛ちゃんは意味ありげに私の顔を覗き込む。
「何、その顔」
「別にぃ?」
「絶対何か考えてる」
「幼馴染って大変だなぁ、と思って」
「恋愛相談に付き合うのが?」
「うん。それもある」
「それも?」
「真理にはまだ早いかな」
「同い年でしょう!」
私が抗議すると。
教室の前方にいた女子生徒が、こちらを見て笑った。
愛ちゃんは気にした様子もなく、私から離れて自分の席へ鞄を置く。
「それで? 春くんは協力してくれるって?」
「考えておくって」
「おお!」
愛ちゃんの声が、さらに大きくなる。
近くにいた数人がこちらを見た。
「ついに恋愛相談チームへ男子視点が加入するのね!」
「まだ加入は決まってないよ」
「大丈夫。春くんは真理に弱いから」
「どこが? 断られてばかりだけど」
「真理は気づいてないんだねぇ」
「何に?」
愛ちゃんは、にこにこと笑うだけで答えない。
そのときだった。
「大杉、久保さん。おはよう」
声が聞こえた。
私の心臓が。
どくん、と大きく跳ねる。
隣の席。
竹下雅人くんが、通学鞄を肩へ掛けて立っていた。
朝の練習があったのか、額には少し汗が滲んでいる。
短い黒髪。
日に焼けた肌。
制服の袖から覗く引き締まった腕。
そして。
私たちへ向けられた、爽やかな笑顔。
「おはよ、大杉」
「おはよう、竹下くん!」
愛ちゃんは自然に返す。
私は。
返事をしなければと思った。
おはよう。
たった五文字。
毎日使っている言葉。
春斗へなら、寝ぼけたままでも言える。
母へも。
愛ちゃんへも。
先生へも。
誰にだって言える。
なのに。
「お、お、おは……」
声が喉に引っかかった。
竹下くんが不思議そうに首を傾げる。
「久保さん?」
「おはよございましゅ!」
噛んだ。
思い切り噛んだ。
教室の空気が、一瞬だけ止まった気がした。
近くで聞いていた男子生徒が、机へ顔を伏せた。
肩が震えている。
女子生徒が口元を押さえている。
愛ちゃんは私の後ろで、声を出さずに笑っていた。
竹下くんだけが、優しかった。
「うん。おはよう」
そう言って。
笑った。
目尻が少し下がる。
私の好きな笑顔。
ああ。
可愛い。
格好いい。
今日も好き。
私はその場で固まった。
「久保さん、顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
「熱とかない?」
「これは平熱です!」
「平熱でその赤さなの?」
竹下くんが心配そうに私の顔を覗き込む。
近い。
近い近い近い。
無理。
心臓が爆発する。
私は勢いよく一歩下がった。
そのまま後ろの机へ腰をぶつける。
「痛っ!」
「真理!?」
「大丈夫?」
愛ちゃんと竹下くんが同時に声を上げる。
教室のあちこちから笑い声が起きた。
私は腰を押さえながら、必死に笑顔を作った。
「だ、大丈夫! 全然痛くない!」
「涙出てるけど」
「嬉し涙です!」
「何が嬉しかったの?」
「今日も朝が来たことかな!」
自分でも何を言っているのか分からない。
竹下くんは困ったように笑い、自分の席へ鞄を置いた。
その横で。
愛ちゃんが、私の耳元へ口を寄せる。
「これ、春くんの協力が必要だね」
「……うん」
私は机へ突っ伏した。
竹下くんと自然に話す。
その目標は。
私が思っていた以上に、遠いらしい。
けれど。
この日の朝。
春斗がいつもの通学路から姿を消した理由を。
私はまだ知らなかった。
私の恋愛相談を聞いて。
興味がないと答えていた幼馴染が。
竹下くんという男子を、自分の目で確かめるため。
第一校舎とは反対側にある第三校舎の前まで、わざわざ遠回りしていたことも。
もちろん。
知るはずがなかった。




