~ 終ノ刻 送火 ~
君島沙耶香と加藤俊介が九条神社を訪れたのは、鬼と化した時枝を皐月が静めた二日後のことだった。
あの事件の後、沙耶香の父である邦彦は、搬送先の病院で亡くなった。腹部の傷はかなり深い物だったらしく、運び込まれた時は、既に手の施しようがなかったそうだ。
君島志津子は、現在もその身柄を警察に確保されたままである。事件の主犯は時枝なのだろうが、それでも志津子が邦彦を刺したことには変わらない。
もっとも、未だ鬼を殺したと豪語する志津子では、まともな裁判もできないはずだ。きっと、精神鑑定をされた結果、無罪放免となるのは目に見えている。
長女の冴子は、事件の後に君島の屋敷を出ていった。晴樹に指摘されたことは事実だったようで、これ以上は君島家にいられなくなったのだろう。なんでも、愛人だった料理人の風間と一緒に家を出て、ちゃっかりと分家を作る申請を上げようとしているらしい。
ちなみに、例の夕食の味噌汁に髪の毛の入っていた事件だが、あれだけは冴子が企んだことのようだった。あの時、既に呪いで情緒不安定になっていた志津子の様子を見て、更に怖がらせて狂人扱いすることを画策していたようである。そうやって志津子を追い落とし、君島家の財産分与を少しでも自分に有利な形に固めようとしていたのだ。
そして、事件の首謀者である家政婦長の時枝。彼女もまた、自分の意思で君島の屋敷を出ていった。晴樹は止めたようだが、あんな事件を起こした後である。やはり、時枝もまた、君島邸で働き続けることはできなかった。
君島邸を襲った怪異は、全て解決されたはずである。しかし、その過程で抉り出された闇はあまりにも大きく、一族の関係は既に修復不可能なところまで破壊されてしまっていた。
「なるほど。事件が終わったというのに、まだ随分と厄介な事が残っているようですね」
「はい。父が亡くなり、母もいつ家に戻って来られるか分からない状況ですので……。その間、宗也の面倒を家政婦の方が見てくれることだけが、唯一の救いです」
「確かに、赤子に罪はありませんからね。しかし、それにしても、どうしてまた私の神社を訪れたのですか? もしや、まだ何か、あの屋敷に出るということでしょうか?」
穂高が湯呑にお茶を注ぎながら尋ねた。だが、沙耶香はそれを受け取ると、穂高の言葉を静かに否定した。
「別に、そういうわけではないんですけど……。ただ、少しだけ気になることがありまして……」
「気になること、ですか?」
「はい。私の部屋に現われていた幽霊なんですけど……私、あれは晴樹の母だと思います。私の父と母に殺された、麻子さんだと思うんです」
「えっ……。でも、どうして、沙耶香さんがそんなこと……」
穂高の隣で話を聞いていた照瑠の脳裏に、初めて晴樹の部屋に入った時のことが蘇る。
写真立てに飾られた、晴樹の父と母の若き日の様子。そこに写っていた晴樹の母、君島麻子の姿は、確かに沙耶香の部屋に出る女の幽霊に酷似していた。
しかし、照瑠は自分の考えを、沙耶香に伝えた覚えはない。部屋に現われた幽霊のおぼろげな輪郭から判断したのかもしれないが、それにしても、なぜ今になってそんなことを話すのだろうか。
「あの……。沙耶香さんは、どうして自分の部屋に出た幽霊が、晴樹君のお母さんだって思ったんですか?」
「それは、あの奥座敷で時枝さんの話を聞いたからね。あの話が本当なら、麻子さんは私のお父様の……君島邦彦の一族を憎んでいてもおかしくないもの。だから、その娘である私のところに現われても、なんの不思議もないわ」
「そ、そんな……。確かに、晴樹君のお母さんのことは酷い話だと思いますけど……。でも、それで沙耶香さんまで恨まれるなんて、単なる逆恨みじゃないですか!!」
「ありがとう、照瑠ちゃん。でもね、あの幽霊が麻子さんだったとすると、私にはそれ以外に考えられないのよ」
沙耶香の目線が力なく下に向けられた。
幽霊事件と鬼の事件が解決したとはいえ、君島家を覆う闇が完全に晴れたわけではない。いや、むしろ、その闇は時枝の口から語られた事実により、表に溢れ出たと言ってもいいだろう。
「麻子さん、晴樹がお腹にいた時、すごく幸せだったんだろうな……。お母さんになれること、楽しみにしてたんだろうな……」
沙耶香の言葉に、照瑠は何も言い返せなかった。
出産を前にして、その命を身内に奪われることとなった君島麻子。流産の危険を乗り越えて晴樹を産むも、自らはこの世を去る事となった悲劇の女性。
そこまで考えた時、照瑠は以前に友人の亜衣から聞いた一つの話を思い出した。
かごめの歌は、子殺しの歌。嫉妬に駆られた何者かによって、階段から突き飛ばされた妊婦の歌。忘れもしない、沙耶香の家から帰った当日に、嶋本亜衣の口から語られた都市伝説だ。
かごめの歌の都市伝説と、あまりにも酷似した君島麻子の運命。それを思い出してしまうと、どうしても沙耶香の言っていることが正しく思えてきてしまう。
やはり、麻子は沙耶香を憎んでいたのだろうか。そんな考えが照瑠の頭をよぎった時、今まで隣で話を聞いていた穂高が唐突に口を開いた。
「いやあ、随分と悲観的な解釈をしますね、あなたは。事件は全て解決したというのに、そんなことでは、折角の美人が台無しですよ」
「ちょっと、お父さん!!」
照瑠は露骨に嫌な顔をして父のことを睨んだが、穂高はまったく意に介していない様子だった。
「沙耶香さん。あなたの家に現われていた幽霊は、部屋に出る時、必ずかごめの歌と共に現われていたんですよね」
「はい、そうです。まあ、なんでかごめの歌なんかと一緒に現われたのかは、今になってもわかりませんけど」
「それなんですけどね。かごめの歌に込められた意味というものを、あなたは御存じですか?」
「意味、ですか? さあ……聞いたこともありません」
「では、私から一つ、かごめの歌の意味をお話いたしましょう。それを聞けば、あなたの考えも、少しは変わるかもしれませんからね」
そう言うと、穂高はゆっくりと息を吸い込み、かごめの歌についての意味を淡々と語り出した。
かごめの歌の≪かごめ≫とは、漢字で書いて≪篭女≫。これは、名家の血筋に縛られた、箱入り娘のことを指しているという。
年頃になり、娘にも愛する者ができたのだが、それは身分違いの恋だった。当然のことながら、家の者は娘と青年の交際を認めない。≪いついつでやる≫とは、そんな因習に縛られた窮屈な家から、いつになったら出られるのかということである。
そして、≪よあけのばんに≫の部分。これは、相思相愛となった青年と、夜明け間際の時間に駆け落ちして家を出たということを指している。
≪つるとかめがすべった≫とは、二人の男女が道を間違えたという意味だ。もっとも、これはあくまで娘の家の者から見た話であり、本人達にとっては、自分達が人生の道を誤ったとは思っていないだろう。
そして、最後の≪うしろのしょうめん≫の歌詞。これは、家から逃げ出す二人のことを、そっと見送っていた誰かがいたという意味だ。
家の者の多くが娘と青年の交際に反対する中、その一方で、二人の恋路を応援していた者もいたのだろう。その者が誰なのかはわからないが、駆け落ちした二人の姿を見ても、決して連れ戻そうとしなかったことからもうかがえる。
穂高が全てを話し終えた時、沙耶香はいつの間にか顔を上げ、彼の話に聞き入っていた。
「かごめの歌って、そんな意味の歌だったんですね……。私、ぜんぜん知りませんでした……」
「まあ、これはあくまで一つの解釈に過ぎませんけどね。でも、この解釈から考えると、あなたの部屋に麻子さんの幽霊が出たことも、納得できると思いますよ」
「どうしてですか? 麻子さんとかごめの歌に、いったいどんな関係が?」
「それは簡単な話です。麻子さんは、あなたのことが心配だったんですよ。年頃になり、恋人ができても、あなたは未だ君島家の呪縛から逃れられない。欲と金にとり憑かれた一族に振り回され、心身共に疲弊していた。違いますか?」
「それは……確かに、そうですけど……」
「だからこそ、麻子さんはかごめの歌と共に現われたんですよ。あの歌にあったつるとかめ……つまり、娘と青年のように、早く君島の家を出て、幸せになって欲しいと思っていたのではないでしょうか?」
「そんな……。麻子さんが、私を……?」
穂高の言葉に、沙耶香はしばし自分の耳を疑った。確かに、解釈としてはしっくりとくる話だが、やはりどこか胡散臭い。
麻子にとって、沙耶香は自分の命を奪った夫婦の娘だ。そんな娘の心配をするなど、普通は考えられないことである。
「やれやれ……。あなたも、随分と疑い深い人のようですね。それならば、生前の麻子さんが、あなたに対してどう接してきたのか。それを、もう一度思い出してご覧なさい」
生きていた頃の麻子の姿を知るはずもないのに、穂高はさも全てを見とおしているかのような口調で言った。普通ならば、「あなたが何を知っているの」と言われそうなものだが、そこは腐っても神社の神主。彼の持つ穏やかな印象も相俟って、沙耶香は素直に生前の麻子の姿を思い起こしてみた。
まだ、晴樹が産まれる前のこと。父や母からさして興味も示してもらえなかった沙耶香であったが、それに対し、敏幸と麻子の夫婦からは可愛がられていたように思う。
幼稚園の演劇で、華やかなドレスを着て御姫様の役をやることになったとき。徒競争で、頑張って一位になれたとき。友達と喧嘩をして、仲直りしたくて悩んだとき。そして、小学校に入学し、初めてのテストで百点を取ったとき。
どんな時も、沙耶香の話を真っ先に聞いてくれたのは、実の両親ではなく敏幸と麻子の二人だった。特に麻子は、幼いながらも沙耶香の抱える女の子ならではの悩みに、まるで自分の姉か母のように真剣に答えてくれた。
「麻子叔母さん……」
様々な記憶が走馬灯のように蘇り、沙耶香の頬を熱いものが伝わった。
君島麻子は、沙耶香のことを憎んでなどいなかった。真相の程は定かではないが、生前、あれだけ自分のことを気にかけてくれた麻子のことだ。きっと、穂高の言っていることは、遠からずも当たっているのだろう。
「どうやら、これであなたの心の問題も、ひとまずは解決したようですね」
沙耶香の瞳から零れ落ちた涙を見て、穂高はそう言いながら微笑んだ。そして、今度はその視線の先を、沙耶香の隣に座っている俊介に向ける。
「では、次はあなたの番ですよ。あの、かごめの歌のように駆け落ちしろとは言いませんが……。それでも、古き因習の鎖によって縛られた君島家から、沙耶香さんを助け出せるのはあなただけです」
「ぼ、僕がですか!? そ、それって、どういう意味で……」
「残念ですが、それは私の口から言うことではありません。あなたの口から、直接沙耶香さんに言ってあげなさい」
それ以上は、穂高は何も言わなかった。
初めは戸惑っていた俊介だが、そこは彼も男である。意を決したように背筋を伸ばすと、隣に座る沙耶香の方に向き直った。
「沙耶香。今回のことで、僕は何も君の力になってやることができなかった。でも、これだけは約束させてくれ」
「約束?」
「ああ、そうだよ。君が大学を卒業したら、僕は必ず君を迎えに行く。そして今度こそ、本当に君の力になってみせる。だから……それまで、あの家で僕を待っていてくれるかい?」
「俊介……。そんなの、当たり前じゃない! 私、絶対に待ってるからね! 俊介が、私を君島家から連れ出してくれる、その時まで!!」
沙耶香と俊介が、互いの手を取ってしっかりと見つめ合う。見ている側の方が照れ臭くなるような光景だが、この場に立ち会えたことに、穂高は満足そうな表情を浮かべていた。
やがて、二人の客人を返し、九条神社に再び静かな一時が訪れる。照瑠は日課である境内の掃除に向かおうとしたが、その前に、今日の父の話がどうしても気になった。
「ねえ、お父さん」
「なんだい、照瑠? 今日の件で、少しは私のことも見直してくれたかな?」
「まあ、そんなところだけど……。でも、お父さんも、よくかごめの歌の意味なんて知ってたわよね。亜衣にも色々な説を聞いたけど、あんな話を聞いたのは初めてよ」
「ああ、あれかい? まあ、当然だろうね。なんたって、あの話は私が適当にその場で考えて作ったものなんだから」
「えぇっ、適当!? じゃ、じゃあ……駆け落ちだのなんだのって下りは、全部ウソなの!?」
「一応、そういうことになるのかな。でもね、照瑠。人によっては真実を知ることよりも、自分の信じたいことを信じる方が、救われることだってあるんだよ。あの二人……沙耶香さんと俊介君が幸せになれるのであれば、それでいいじゃないか」
「ま、まあ……。そういうことなら、仕方ないのかな?」
何も考えていないように見えて、父には父の考えがあったようだ。かごめの歌の真相はともかくとして、大切なのは、沙耶香と俊介の今後である。
あの二人なら、きっと幸せな家庭を築けるに違いない。君島家の呪縛から逃れることができれば、沙耶香も今まで以上に自分らしい人生を歩むことができるはずだ。
「それにしても、お父さんも少しは考えてたのね。私、ちょっと見直しちゃったかな」
いつもは頼りない父だが、今日はなんだか大きく見える。気のせいか、照瑠自身も誇らしげな気持ちになっていた。
「いやあ、そう言ってくれると私も嬉しいよ。もっとも私は、あの二人と良好な関係が築ければ、それでよかったんだけどね。彼らが式をこの神社で上げてくれれば、こちらとしても願ったり叶ったりだよ」
前言撤回。
結局のところ、穂高はあくまで俗っぽい考えから、あの二人に助言したに過ぎなかった。ほんの少しでも、父のことが格好良く見えてしまった自分が情けない。
照瑠は大きな溜息をついて、愛用の竹箒を手に外へ出た。最後の最後まで、父はいつもの父でしかなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
陰の気が流れ込む土地というのは、独特の臭いがするものだ。火乃澤駅に向かう車両の窓から、犬崎紅は、ふとそんなことを考えた。
先ほどから、影が妙に落ち着きがない。彼の使役する犬神、黒影もまた、この土地に流れる陰鬱な気を敏感に感じ取っているのだろう。
程なくして列車は駅に着き、紅は足早に外へと向かう。大通りに出てすぐの横道を入ったところに、彼の目指す店があった。
古風な家具を取り揃えた、一昔前の空気を残す喫茶店。紅にはアンティークの良さというものは分からなかったが、それでもこの場所は、喧騒に包まれた大通りよりもはるかに落ちつける場所だった。
この時間、既に客はまばらにしかいなかった。が、それにも関わらず、紅は店の隅の方にある、一際薄暗い一角に置かれた席へとついた。そこには既に先客がおり、金属製の錐のついた鎖を右手でもてあそんでいる。
「あら、随分と早かったわね」
こちらに向かってきた紅の姿に気づき、先客の女性が言った。銀色に光るフーチを手に、妖しい魅力を放つ女。退魔具師、鳴澤皐月だ。
「予定より、一つ早い電車に乗れたんでな。それよりも、今回は本当に助かった。本来ならば管轄外だろうに、解呪までさせてしまって……」
「まあ、座りなさいよ。言っておくけど、私は余計な仕事をさせられたなんて思ってないわ。可愛い紅ちゃんの頼みですもの。お姉さん、いつでも引き受けちゃうわよ」
「こっちとしては、そうそう甘えたくもないんだがな。それに、その紅ちゃんってのは、いいかげん止めてくれないか。俺だって、いつまでもガキじゃない。あの頃とは違い、黒影も闇薙の太刀も、それなりに使いこなしてはいるさ」
自分も椅子に腰かけ、紅は皐月に向かって言った。
「あら、それはごめんなさい。でも、それにしても……あなたが直々に私に仕事を頼むなんて、珍しいこともあるものね。もしかして、あの九条さんって子に惚れたのかしら?」
「だから、そうやって茶化すのを止めてくれと言っている。俺にそういった類の感情がないことは、あんたもよく知っているだろう? 今の俺は、贖罪のためだけに生きているようなものだからな。勘違いされては困る」
「贖罪、か……。紅ちゃん、あなた、まだあの日のことを?」
「ああ、そうだ。九条のことに関しても、俺の贖罪の一つでしかない」
「なるほどね。生まれながらにして強い力を持ちながら、それによって闇に飲まれるものを助けたい。それが、あなたの言う贖罪ってところかしら?」
「そういうことさ。もっとも、そんなことで許されるほど、俺の背負っている業は軽くはないがな……」
そう言うと、紅は皐月から目をそらし、それ以上は何も語ろうとしなかった。紅の過去を知っているだけに、皐月もそれ以上は何も言わないでいる。
そもそも、紅が四国へ戻った理由も、彼の言う贖罪に起因するものだ。紅が向こう側の世界の住人たちと、本格的に関わることになったきっかけ。それこそが、彼の心を未だ縛り、執拗に贖罪を求める過去なのである。
己の犯した過ちを忘れないようにするために、紅は四国へと舞い戻った。許しを乞うためではなく、自分の中にある罪の意識を消さないために。自分の中の闇を、失わないようにするために。
闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔。その一人である以上、紅もまた心に闇を抱える人間の一人なのである。自らの闇を力に変え、その力で時に闇に堕ちたものを滅し、時に闇に堕ちたものを救う。それこそが、外法使いとしての彼の使命なのだ。
「それじゃあ、後は報酬の話だけ手短に済ませるぞ。とりあえず、そっちの口座に二百万ほどを振り込んでおいた。足りなければ、後でこちらに追加の請求をしてくれ」
「二百万!? 最初の話じゃ、依頼料は百万ちょっとだってことだったけど……」
「事件を解決するのに、随分と護符を使わせたみたいだったからな。消耗品の代金も込みで考えると、必然的にその値段になった」
「そんなこと言って、あなたの方は大丈夫なの? いくら今までに稼いだ分があるとはいえ、無尽蔵じゃないんでしょ?」
「それは問題ない。向こうに戻っている時にも、ついでに小さな仕事をいくつかこなして来たからな。当分の間、俺一人が食ってゆくだけの蓄えくらいはあるさ」
「なら、遠慮なくもらっておくわね。それと……これは、こっちのアフターサービスみたいなものなんだけど……。今回の事件、私としても、ちょっと引っかかるところがあったのよね」
例の、髪を掻き上げる仕草をしながら、皐月が意味深な言葉を吐いた。今までとは違う空気を感じ取り、紅の表情も険しくなる。
「今回、私が祓うことになった、霊道を塞いでいた黒い札。あんなもの、素人が簡単に手に入れられるものじゃないわ。それは、あの家の家政婦を鬼に変えた、張子の面も同じよ」
「それは、どこかの呪殺師が力を貸したんじゃないのか? 金をもらって他人を呪い殺すやつなんて、俺たちの業界では珍しくない」
「私も最初は、その線で考えたわよ。でも、それだとおかしいじゃない。実際に呪いを実行したのは家政婦の時枝さんで、彼女に呪いの手ほどきをした者は、最後まで姿を見せなかったわ」
「だったら、その時枝とかいう家政婦が、もとから呪術に長けていたという可能性は?」
「それもないわね。あの人は、あくまで君島家に務めていた家政婦長に過ぎないもの。ただ、それとは別に、同業の仲間から妙な情報を仕入れたのよ」
「妙な情報だと?」
「そう。紅ちゃん……≪闇のコンダクター≫って名前、聞いたことないかしら? 自ら相手を呪うことをせず、呪いの方法と呪具だけを依頼人に渡す者。決して自らの手を汚さず、あくまで他人を使って他人の死を操る、間接的な殺害を得意とした新手の呪殺師よ」
テーブルに備え付けられていた紙ナプキンを取り、皐月はそこに手持ちのペンで書き記した。そこには少々滲んだ文字で、≪死揮者≫という言葉が書かれていた。
「なるほど。指揮と死揮をかけて、コンダクターと読ませているわけか。下らん洒落だな」
「私も最初は、本当に下らない話だと思ったわよ。でも、今回のことで確信したわ。コンダクターは、確かに存在しているってね。そうでなきゃ、あの時枝さんがたった一人で、しかもあそこまで強力な呪いの儀式を思いつくわけないもの」
「そうだな。他愛もない都市伝説、と言いたいところだが……どうやら、そういうわけにもいかないらしい」
自らの手を汚さずに、依頼人に呪殺の方法を伝授する闇の死揮者。嶋本亜衣辺りが喜びそうな話だと思ったが、紅はあえて黙っておいた。
向こう側の世界の住人と関わり続ける以上、いつかは自分も闇の死揮者と相まみえる時が来るのだろうか。そして、皐月の退魔具以上の力を持つ呪具を作る相手に、果たして自分は勝利することができるのだろうか。
闇の奥で蠢きだした、謎の呪殺師の存在。他愛もない都市伝説のような話ではあったが、紅はそれの裏に、不気味な力の存在を感じてならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
S河は、火乃澤町を流れる一級河川の一つである。昼間であれば釣人で賑わう場所なのだが、夜となっては河に近づく者もほとんどいない。
あの後、紅と別れた皐月は、このS河のほとりにやってきていた。東北の閑静な街に流れる河にしては珍しく、S河のほとりはきれいにコンクリートで舗装されている。
駅に近い市街地だけの話であったが、それでも皐月には十分だった。藪の中を掻き分けて、河に近づかないで済むというのはありがたい。
今、皐月の手には、丁寧に作り込まれた一つの灯篭があった。御盆の時、灯篭流しに用いられるようなものである。
灯篭の中には、皐月が焚き上げた札の灰が入っていた。あの、君島邸で皐月が見つけた黒い札を焼いたものだ。
御盆の送り火とは、先祖の霊が迷わずに帰れるようにするための目印だと言われている。灯篭流しにしても同じような意味を持つのだが、皐月はそれらの儀式が持っているもう一つの意味を知っていた。
送り火の儀式は、一部の地方では厄送り、もしくは虫送りとも言われている。先祖の霊を返すと共に、その街や家に溜まった穢れも流し、陰鬱な気を浄化するというものだ。
皐月の焚き上げた黒い札は、照瑠に近づくだけで吐き気を催させるほどの力を持っていた。そんな札であるからして、焚き上げた後も油断はできない。念には念を入れ、しっかりと最後まで厄を祓わねば、それはこの地に新たな穢れをまき散らすことになってしまう。
河の上を駆け抜ける夜風に吹かれながら、皐月は手にした灯篭をそっと流そうとした。が、そんな彼女を呼び止めるようにして、今度は一人の老婆が姿を現す。それを見た皐月は訝しげな顔をしながら、老婆の近くまで歩み寄った。
「あなた……。確か、君島家の前の当主の奥さんだっけ? こんなところに、何しに来たの?」
「おやおや、冷たいねぇ。まるで、こんな夜更けに老人が歩くのは、いけないことのように言うじゃないか」
「とぼけないで。そっちこそ、私が何をしようとしているのか、ちゃんと分かって姿を見せたんでしょう?」
「流石に鋭いね。そうだよ、あんたの言う通りだ。私は私で自分の過去を、ちょいと清算しに来ただけさ」
そう言って、君島松子は一枚の写真を取り出して見せた。
色さえもついていない、戦前に撮影されたと思しきモノクロの写真。そこに写っているのは、若き日の松子だろう。今の姿とは比べ物にならないが、それでも目元の辺りの面影は今も昔も同じようだった。
「あの、家政婦長の時枝なんだがね……。あれが鬼になったのは、なにも邦彦だけのせいではないのさ」
どこか遠くを見るような目をしながら、松子が皐月の横に並ぶ。
「あれは、まだ時枝があんたぐらいの歳の頃だったよ。私の旦那の良寛は、それは好色な男でね。君島家の名前に守られているのをいいことに、年中女を漁っておった。私が嫁に入った後も、それは変わらんかったよ……」
「へえ……。お婆さん、よく我慢できたわね」
「我慢というより、私には何も言えんかっただけさ。こちとら、見合いで君島の家に嫁入りした身。旦那がなにをしようとも、下手に口出しすれば、その親から睨まれるのが関の山さね」
話をしている松子自身、あまり思い出したくない記憶のようだった。
思えば松子とて、もとは外から君島の家に嫁いだ身。いや、松子だけでなく、志津子も麻子も外から君島の家に入ってきた女性なのだ。様々な思惑があったとはいえ、彼女たちもまた君島家の歪んだ因習に飲み込まれた被害者なのかもしれない。
「君島家に嫁いだ後も、私と良寛の間には、しばらく子どもができなくてね。それが、あの男を他の女に走らせる原因の一つになったのかもしれないねぇ。まあ、それでも、さすがに使用人にまで手を出したとあっちゃあ、外に知られたら大ごとになる」
「使用人って……まさか!!」
「そう、あんたの考えている通りさ。良寛は、あの頃まだ君島家に務めに入ったばかりの時枝とまで、体の関係を持ったんだよ。そして、私が身籠るよりも早く、時枝の方が身籠りおったのさ」
「じゃあ、時枝さんが降ろしたっていう子は……」
「当然、あの子と良寛の間にできた子さ。さすがに、正妻の間に子が出来る前に、私生児を作るのはまずかったんだろうね。良寛は、半ば強引に時枝の子を降ろさせた。その時のことが原因で、時枝は二度と子を産めぬ身体になったのよ」
聞いているこちらの方が、胸が悪くなってきそうな話だった。邦彦や冴子も相当に自己中心的な人間だったが、彼らの父もまた、かなりの放蕩者だったようである。
「女としての人生を奪われても、たった一人で宛てもなく生きるわけにもいかんでの。その後も時枝は、君島家で働き続けよった。そして、そんな惨めな時枝の姿を見て、私は心の中で笑っていたのさ」
「なるほどね。それであなたは、夫が亡くなった後も、時枝さんを雇い続けたというわけね」
「それだけではないよ。私は心のどこかで、君島の家が滅んでしまえばいいと思っておった。息子たちは大きくなるにつれ、後継ぎや遺産のことでいがみおうてばかり。年寄りはさっさと墓の下へ行けとばかりに、母親である私でさえ邪険に扱いおって……」
いつしか松子の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
夫には度々裏切られ、成長した子どもたちからは邪魔者扱いされる。名家に嫁いだ故の不幸を散々に味わってきた松子もまた、心に深い闇を抱えている者の一人だ。
欲と嘘によって築かれた家など、さっさと滅んでしまえばよい。そう思っていた松子だったが、実際には何も行動に移せなかった。
見合いとはいえ、一度は互いに夫婦の契りを結んだ者。未練がないと言えば嘘になる。そうした夫に対する念が、松子の中で愛と憎しみの双方の感情を膨らませていった。
割り切ろうにも割り切れない、互いに相反する二つの感情。それに振り回されていたからこそ、彼女は傍観者に徹していたのかもしれない。事の成り行きを見守って、家の者が自滅してゆく様を眺めることで、心の安定を保っていたのかもしれないのだ。
「あの家には、最初から鬼が住んでおった。皆が皆、己の欲に任せて傷つけ合う。君島の血は、呪われた血じゃ」
「呪われた血、か……。確かに、そんな言い方もできるかもね」
「あの家に入った者は、心に宿した鬼の部分をむき出しにしよる。私とて、その一人だよ。自分の横で惨めな人生を送る時枝をあざ笑い、君島家の没落を願いながら、その一方で良寛への未練を捨てきれんかった。心のどこかで、どうしても良寛を憎みきることができんかったのよ……」
再び、手にした写真に目を落とす松子。そこに写っている二人の男女は、松子の言葉とは裏腹に幸せそうに微笑んでいた。例えそれが虚構だったとしても、松子にとっては、やはり己の夫を完全に否定することは難しいことだったのだ。
自分の夫との間に子を設けた、時枝に対する深い嫉妬。
己を裏切り続けた夫に対する憎しみと、それでも心のどこかで彼を愛していたという相反する想い。
そして、己の欲望をむき出しにし、実の母親や兄弟でさえも排除しようとする息子たちの浅ましい所業。
それらのものを見せ続けられた結果、松子は君島家そのものに対し、強い愛憎の入り混じった念を抱くことになったに違いない。
歪んでいたのは、なにも良寛や邦彦だけではない。松子もまた、君島の血に踊らされ、その心に闇を宿された者の一人だ。
「この写真は、私の手元にある良寛の最後の写真さ。まあ、今となっては、私の未練の欠片みたいなものだけどね。時間を戻せるわけでもないのに、こんなものに縛られて……。よくよく考えてみれば、馬鹿らしい話だよ、まったく」
血に刻まれた呪われし因果を断ち切るには、まずは自分から未練を捨てねばならない。松子にとっての未練とは、君島良寛に対して向けられた愛憎の念だ。
「あんた、今からその灯篭を流しよるのじゃろう? もし、差支えなければ、この写真も一緒に流してくれんかのう」
「ええ、構わないわよ。それであなたの未練が……君島家に対する歪んだ想いまでもが流れてゆくなら、私としても本望だわ」
「そう言ってもらえるとありがたいの。では、よろしく頼むよ、お嬢さん」
そう言って、松子は手にした写真を灯篭の乗っている小舟に乗せた。皐月はそれを受け取ると、小舟をそっと河の流れの中に置いた。
夜の風に乗って、灯篭を乗せた小舟がS河を走る。君島の屋敷を覆っていた様々な穢れを乗せて、それを遠い最果ての地まで運ぶために。
己が欲望に身を任せ、心に巣食う鬼を解き放ってしまった君島家の人々。だが、その歴史も、ここで終わりを告げることだろう。次の当主が晴樹であろうと宗也であろうと、同じ過ちを繰り返すことはしないに違いない。
君島家の陰に隠された血塗られた歴史。それを知った晴樹と、これから知る事になるであろう宗也。彼ら、次の世代に生きる者達であれば、この忌まわしき因習に囚われた君島家の因果を断ち切れるかもしれないのだ。
初秋が近いとはいえ、まだ蒸し暑い夜。少しばかり遅れた送り火を乗せて、灯篭船は闇夜の河へと消えて行った。