~ 六ノ刻 鬼舞 ~
九条照瑠が朝の掃除を終えた時、九条神社の社務所には、早くも来客の姿があった。玄関先にある靴は二足。どうやら、自分が境内の裏を掃除している間に、父が社務所に上げたらしい。
巫女装束のまま応接間へ向かうと、そこには既に客人が座っていた。父を前に座る二人の客人の姿を見た照瑠は、突然の知人の来訪に、しばし呆気にとられたような顔をして立ちつくした。
「えっ……? 詩織と……お兄さん?」
「あっ、九条さん。よかった。調度いいところに戻ってきてくれて……」
加藤詩織と、その兄の俊介。君島沙耶香の家に出る幽霊の話を、照瑠に相談した二人である。二人の紹介がなければ、照瑠も沙耶香と知り合うことなどできなかった。
「ねえ、どうしたの? もしかして、また、沙耶香さんの事で何か?」
「ああ、それなんだけど……」
詩織に代わって口を開いたのは、兄の俊介だった。ポケットから取り出した携帯電話をちゃぶ台に置き、その上で画面を開いて見せる。
「昨日の夜、沙耶香からメールがあったんだ。それが、どうも妙なものでさ」
「妙なもの? もしかして、沙耶香さんの家に、まだ幽霊が出るとか?」
「そうなんだ。幽霊とは違うみたいなんだけど、似たようなものだね。どうやら、今度は夜中の屋敷に、鬼が出たって話らしい。庭師のお爺さんが、それを見たんだってさ」
「鬼……」
俊介の言葉を聞いた照瑠の脳裏に、君島邸で聞いた松子の言葉が思い起こされた。
――――この家には鬼が住んでいる。
家の者からは単なる迷信としか思われていなかった松子の言葉と、沙耶香のメールにあった話の不気味な共通点。
まさか、あの屋敷には本当に鬼がいるのだろうか。背中から毛の逆立つような悪寒を感じ、照瑠はなぜか沙耶香の身が不安になって仕方がなかった。
「あの……。それで、沙耶香さんは、鬼について何か?」
「それなんだけど、どうやら昨日の晩、鬼の正体を探るために屋敷の中で張り込みをしていたらしんだ。僕は止めたんだけど、沙耶香は心配ないって返信するだけでね。きっと、庭師のお爺さんの見間違いだろうから、それを証明して皆を安心させるんだって聞かなかったよ……」
最後の方は、なぜか俊介の言葉に力がなかった。そんな彼の姿を見て、照瑠も詩織と俊介が九条神社を訪れた理由をすぐに察した。
きっと、沙耶香の身に何かあったのだ。そうでなければ、二人が神社を訪れる理由などない。俊介の消沈ぶりからして、恐らくそれは間違いない。
「俊介さん。沙耶香さんとは、連絡が取れないんですか?」
「それが、昨日の夜にこっちからメールを返信したっきり、連絡が全くないんだ。今朝、僕の方からも何度かメールを送ったけど、それにも返信はない」
「メールって……。電話かなにかで、直接話をしていないんですか!?」
「無茶を言わないでくれ。僕と沙耶香のことは、家の人にも秘密だって話しただろう。電話は危ないからメールにしようっていうのが、二人の間の約束だったんだよ」
照瑠は沙耶香と初めて合った際、俊介から語られた話を思い出した。
名家の令嬢である沙耶香と違い、俊介はごく普通のサラリーマン。それも、決して高級取りなどではない駆け出しだ。家の名前や体裁を気にする君島家のこと。沙耶香と俊介の交際など、決して認めないに違いない。
それでも互いに諦めきれなかった二人が、苦肉の策として編み出したのがメールでの連絡だったのだろう。昔と違い、今は意中の相手とこっそり文通などする必要もない。手紙よりも危険度が低く、かつ確実にコミュニケーションのとれるメールでの会話が、二人を繋ぐ貴重な架け橋だったのかもしれない。
だが、今回ばかりは、その行動が仇となってしまったようだった。
沙耶香に何があったのかは知らないが、彼女は恋人からのメールを無視して貯め込むようなタイプの女性ではない。その沙耶香が俊介からの再三の呼び掛けにも応えないとは、やはり彼女の身に何か起きたと考えるのが普通だ。
やはり、あの時に強引にでも止めておけばよかった。それこそ、メールなどではなく、危険を冒しても電話をすべきだった。そんな自責の念が、俊介の胸を締め付ける。
「ここに来れば、沙耶香の事について何か分かると思ったんだ。沙耶香を奇妙な幽霊騒動から助けようとしてくれたのは、妹の友達の君だけだったからね……」
「ごめんなさい。私も、沙耶香さんからは、何の連絡も貰ってないんです」
「そうなのか。いや、すまなかったよ。なんだか君に、要らない心配をさせてしまったようで……」
顔色は未だ優れなかったが、俊介はそう言って静かに立ち上がった。そのまま応接間の襖に手をかけ、部屋の外へ出て行こうとする。
「ちょっと、お兄ちゃん!? いったい、どこへ行くつもりなの?」
「決まっているだろう、詩織。僕は沙耶香の家に行く。いつもなら、ここまでのことはしないけど……。何しろ、妙な相談を沙耶香から持ちかけられて、おまけにあんなメールまで貰ったんだ。僕の杞憂で済めばいいけど、もしも沙耶香に何かあったら……」
「だったら、私も行きます。どこまで力になるか分かりませんけど……でも、私も沙耶香さんには、すごいお世話になったし……」
部屋を出ようとする俊介の後を、照瑠は慌てて追うようにして言った。
確かに、会って日も浅いが、それでも沙耶香は照瑠にとって束の間の姉のような存在だった。名家の令嬢でありながら気取ることもせず、対等に自分に接してくれた。そればかりか、あの黒い札の陰鬱な気を受けて倒れた際には、最後まで自分に付き添ってくれた。
反目しあう家族。奇妙な迷信にとり憑かれた老婆。産まれると同時に母を失った少年。そして、その少年の母親に似た幽霊。
既に、照瑠が沙耶香の部屋に泊まった時から、君島邸には何が起きてもおかしくない雰囲気が漂っていたのだ。今までは微妙なバランスを持って均衡を取り続けてきたが、仮にそれが、あの黒い札の事件を解決したことによって崩れたのだとしたら……。
やはり、沙耶香の身に何かあったのか。そう思うと、照瑠はいても立ってもいられなくなった。俊介の後を追うようにして、そのまま部屋を飛び出してゆく。
「待ちなさい、照瑠。お前だけが行ったところで、どうにかなるものでもないだろう。それに……まさか、その恰好のままで相手のお宅にお邪魔するつもりかい?」
後ろから呼び止める父の声を聞き、照瑠はハッとして我に返った。見ると、境内を掃除していた時に着ていた巫女装束の格好のままだ。
さすがに、これで外を歩くのは躊躇いがある。いくら慌てていたとはいえ、少々周りが見えなくなっていたようだ。
「今回は、私も同伴しよう。どうやら、ただの幽霊騒ぎではなさそうだしね。鳴澤さんにも、私の方から連絡を入れておくよ」
重い腰を上げるようにして、今まで照瑠達の話を聞いているだけだった穂高が立ち上がった。
父が来たところでどうにかなるものではない。そう思った照瑠ではあったが、この状況で父の同伴を断る理由は見当たらなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
照瑠達が君島邸に到着した時、そこは既に多数の人でごった返していた。辺りには何台ものパトカーが止まり、黄色いテープで屋敷の入口が封鎖されている。
「これは、これは……。随分と、物々しい事になっているようですね」
穂高が額に手をかざし、屋敷の門の奥を覗き込むようにして言った。
「まさか、沙耶香さんの身に何かあったんじゃ……」
「さあ、どうかしら。どちらにしろ、ここからでは何も分からないわね」
穂高に呼ばれてやってきた皐月も、辺りの様子を窺いながら言った。
現在、君島邸は、警察の手によって完全に封鎖されている。辺りには野次馬も多く、これでは中に入る事はおろか、近づくことさえままならない。
こうなったら、晴樹にでも頼んで屋敷の中に入れてもらうか。そう、照瑠が考えた時、人ごみの向こうに見覚えのある二つの顔が現れた。それを見た照瑠は独り野次馬の中に飛び込むと、人の波を掻きわけて強引に前に出た。
「お……お久しぶりです、刑事さん……」
乱れた髪を押さえながら、照瑠は二人組の男に声をかけた。その声に、今まで手帳を見ながら互いに会話をしていた男達の顔が、同時にこちらを向く。
「おや、君は確か……」
「はい。九条照瑠です。いつぞやの事件の時は、お世話になりました」
「ああ、九条さんね。まあ、お世話と言っても……僕は、実際にあまり活躍できなかったけど……」
そう言いながら頭をかいている若い男は、工藤健吾だった。あの、犬崎紅が火乃澤町にやってきた際の事件はもとより、照瑠の高校を舞台に繰り広げられた祟り騒動でも力を貸してくれた刑事である。
「なんだ、あの時の嬢ちゃんか。今日は、あの小さい連れは一緒じゃないのか?」
工藤の隣にいる、少々強面の刑事が言った。
岡田肇。彼もまた、犬崎紅と四国からやってきた古の怪物との戦いに巻き込まれた者の一人である。口は悪いが腕は確かなようで、彼と比べると、どうしても工藤の方が頼りなく見えてしまう。
以前、向こう側の世界の者と関わったことのある二人の刑事。その顔を見た照瑠は、正直なところほっとしていた。
この二人なら、事情を説明すれば、屋敷の中に入れてくれるかもしれない。駄目でもともと。ここまで来たのなら、少しでも可能性のある事に懸けないというのは嘘になる。
「あの……。この家で、何か事件があったんですか?」
「ああ、そうだよ。捜査の内容は大っぴらに明かせないけれど、今日の明け方近くに傷害事件が起きたらしい」
「傷害事件!? そ、それって、もしかして、若い女の人が被害者なんじゃありません!?」
「若い女の人? いや、それはないよ。刺されたのは、男の人で……」
工藤がそこまで言った時、岡田が警察手帳で工藤の頭を叩いた。どうやら、これ以上事件の内容を部外者に話すなということのようだ。
「いやあ、悪いね。隠すつもりはないんだけど、やっぱり事件の話をやたらにするのは、ちょっとできない相談なんだよ」
「すいません、無理を言って……。それよりも、今、この家に入ることってできないんですか?」
「この家に? いや、それもちょっと無理じゃないかな……。現場検証はとっくに終わっているけど、まだ、やたらと現場の物に触れていい状態じゃないしね」
「そうなんですか。でも……」
沙耶香のためにも、なんとかして屋敷の中に入りたい。そのためにも、二人の刑事には事情を分かってもらう必要がある。
だが、いざ説明しようとすると、照瑠は何から話してよいのか分からずに戸惑ってしまった。屋敷に閉じ込められた先祖の霊と、謎の札。そして、札を外したその日から現われたという鬼と、それを追って行方不明になった君島沙耶香。
確かに、二人の刑事は幽霊の類をその目で見ている人間だ。工藤に至っては、既に二度も犬崎紅の関わった事件に巻き込まれている。
しかし、やれ先祖の霊だの鬼だのといった話は、やはりどこか荒唐無稽に思われるのも事実だ。その上、今度は傷害事件の裏で神隠しが起きたとくる。いくら霊の存在を信じてくれそうな刑事だからといって、そうなんでもオカルトじみた話を全面的に信じるとは思えない。
ここまで来て、打つ手なしか。照瑠が諦めかけたその時だった。
「あっ、照瑠さん」
黄色いテープで囲われた門の向こう側から、君島晴樹が顔を出した。辺りにいた警察官が屋敷の中に戻るよう言ったが、彼は構わずテープをくぐって照瑠の側へとやってくる。
「晴樹君。この騒ぎ……いったい何があったの?」
「はい。実は、今日の朝早く、志津子伯母さんが厨房で、邦彦伯父さんを刺したんです」
「刺した!? あの、大人しそうな志津子さんが!?」
「ええ……。家政婦の人の話だと、伯母さん、伯父さんを刺した時には、狂ったように笑っていたって……。しきりに、≪鬼をやった、鬼を倒した≫って繰り返していたみたいなんです」
「鬼……。それ、本当なの?」
「僕も、聞いた話だから、どこまで本当かは分かりませんけど……。ただ、その時はもう、屋敷の中が大騒ぎでした。その上、肝心な時に、沙耶香姉さんまで姿が見当たらなくて……」
晴樹の顔に、一瞬だけ影が射した。無理もない。一夜にして叔父が叔母に刺され、さらには従姉弟まで姿を消してしまったのだから。
何の前触れもなく、唐突に破られた平穏。その重圧に耐えられるほど、少年の心は強くはなかった。
「お願いです、照瑠さん。姉さんを……沙耶香姉さんを探してください!!」
「晴樹君……」
「照瑠さんのことは、沙耶香姉さんから聞きました。自分の幽霊話を最後まで信じてくれて、年下なのにとってもしっかりとした人だって。姉さんのために、霊能者の人まで探して幽霊騒動を治めてくれたって……」
晴樹が懇願するような目で照瑠を見る。その真剣なまなざしに、照瑠は目をそらすことなどできなかった。
「僕にとって姉さんは、この屋敷で信用できる数少ない人だったんです。父さんと時枝さんを除いたら、この家の人は殆どが僕を毛嫌いしていて……。それでも沙耶香姉さんは、最初から最後まで僕の味方でしたから……」
「分かったわ、晴樹君。だったら、沙耶香さんを見つけるためにも、私達をこの家に入れてくれない? 私には、見ているだけしかできないかもしれないけど……もしも、妙な事に巻き込まれているなら、きっと皐月さんが力になってくれると思うから」
鳴澤皐月なら、君島沙耶香を見つけ出すことができる。なんら根拠のない考えだったが、今の照瑠にとって、頼れるのは彼女の存在だけだ。それに、こうまでして頼んで来る晴樹のことを、下手に突き放すのも気が引けた。
照瑠の言葉に頷いて、晴樹は彼女の手を引き裏口へと回った。幸い、こちらはそこまで人もおらず、警備に当たっているのも君島家に務める守衛である。
晴樹は守衛に軽く挨拶し、そのまま照瑠達を中へと招き入れた。裏庭から回り込むような形で、晴樹を先頭に屋敷へと上がりこむ。
「とりあえず、この奥座敷なら空いています。厨房の近くは、今はゴタゴタしていて近づけませんけど……」
「十分よ。それじゃあ、早速だけど、沙耶香さんを探す準備をしましょうか。彼女がこの家のどこかにいるなら、見つけ出す方法がないわけじゃないわ」
照瑠に代わり、皐月が懐から取り出した紙を広げて言った。見ると、それは以前に沙耶香の描いた君島邸の見取り図である。これを使うということは、また例のフーチを使って調査するということだろうか。
「あの、皐月さん……。もし、沙耶香さんが家にいなかった場合は、どうするんですか?」
「だから、それを今から調べるのよ。反応がなければ家の外にいる。あれば、この屋敷の反応があった場所にいる。闇雲に探すより、そっちの方が効率的でしょ?」
「それは、確かにそうですけど……。でも、どうやって沙耶香さんを見つけるんですか? 皐月さんのフーチって、幽霊でないものでも探せるとか……」
「うーん。さすがに、生身の人間を何のガイドも無しに探すのは、ちょっと私でもキツイかもね。できれば、沙耶香さんの大切にしていたものか、身体の一部が欲しいわね。そうすれば、その気を頼りに私の調査の制度を上げることができるんだけど……」
「大切にしていたものって……。例えば、恋人からの贈り物とか?」
照瑠の視線が隣にいる俊介に送られる。が、俊介は申し訳なさそうな顔をして首を横に振った。
「いや、駄目だ。沙耶香と僕の関係は、家の者には秘密だったからね。そう公に、目につく贈り物なんてできなかったんだよ」
「そんな……。それじゃあ、どうすればいいんですか!?」
希望が再び音を立ててしぼんでゆくのを感じた。
俊介の贈り物でなくとも、沙耶香が大切にしていた物の一つくらいはあるだろう。が、それが何なのかは、当の沙耶香以外に知る者がいない。
身体の一部を持ってくるなどは、それこそが論外だ。部屋を探せば櫛に残った髪の毛の一本くらいは見つかるかもしれないが、そんなものを探すだけでも一苦労である。
やはり、沙耶香を見つけることはできないのか。
照瑠が諦めかけたその時、彼女は自分の指にはまっている固い物の存在に気がついた。
「あっ……。これ……」
詩織に相談を持ちかけられた日に、亜衣と一緒に屋台めぐりをして買った指輪。一つは沙耶香にあげてしまったが、もう一つは自分の手元に残しておいたものだ。
決して高価なものではない、露店で売られるような安物の指輪。だが、今の照瑠には、その指輪が放つ鈍い銀色の輝きが、まるで何かを語りかけているように見えて仕方がなかった。
こうなれば、残された手段は一つしかない。沙耶香との繋がりがあるものは、今はこの指輪だけだ。
「あの、皐月さん」
「なにかしら。もしかして、沙耶香さんを見つけるための何か、思い当たるものがあったとか?」
「はい。私の、この指輪なんですけど……同じものを、沙耶香さんにあげたんです。安物ですけど、沙耶香さん、気に入っていたみたいだったんで……」
「同じ型の指輪か……。上出来よ、九条さん。もし、相手がこの指輪をしているのであれば、指輪を鍵にして沙耶香さんを見つけることができるかもしれないわね」
照瑠から指輪を受け取り、皐月はそれを右手で強く握りしめた。左手でフーチを持ち、見取り図の上を撫でるようにして周回させる。
全身に流れる気を集中させ、皐月は指輪から感じる微かな念と自分の感覚を同調させ始めた。指輪に触れた時の感覚、重さ、そして材質。あらゆるものを感じ取り、それを頭の中で一つの像として組み上げてゆく。
照瑠から渡されたこの指輪と同じものを、沙耶香がどこまで大切にしているかは分からない。指輪の気を辿る事で片割れに辿りついたとしても、沙耶香が指輪を自室の棚の奥にでもしまっていれば意味はない。その場合は、本当に沙耶香の部屋で髪の毛の一本でもあさる他なくなってしまう。
水の音、風の音、そして土の音。
様々な気の奔流の中から、皐月は指輪のものと同じ流れへと少しずつ近づいてゆく。露店で売られていたような指輪の気は微かなものだが、そこは皐月もプロだ。例え高価な宝石の類でなくとも、装飾品の持つそれぞれの気を逃すことはない。
細工師としての自分の感性と、霊能者としての自分の感性。二つの感を最大限に研ぎ澄まし、それをフーチの揺れに反映させる。
やがて、鎖の先が紙の端までやって来た時、その先端にある錐を中心に大きな時計回りの円を描き始めた。
「見つけたわ。九条さんのものと同じ指輪は、この場所にある」
目を見開き、皐月が紙の上に描かれた場所を指差した。そこは、屋敷の敷地内にある一つの蔵。君島家の人間が、鬼剣舞の衣装などを仕舞っておく場所だ。
「どうやら、近づいてきたみたいね。この場所を探せば、もしかすると沙耶香さんの手掛かりが見つかるかもしれないわ」
「だったら、急ぎましょう。沙耶香さんの身に何か起きてからじゃ、遅いもの」
その場でスッと立ち上がり、蔵へと駆け出す照瑠。その後を皐月達が追う。
もしも、皐月の言っていることが本当ならば、自分が沙耶香に渡した指輪が蔵に転がっているなど不自然だ。これはもしかすると、本当に沙耶香の居場所に近づいているのかもしれない。
迷路のような廊下を抜け、照瑠達は屋敷の裏庭から蔵へと向かう。蔵の鍵は、ここに来る途中で晴樹が取りに行った。蔵には頑丈な南京錠がかけられているため、これがないと何もできない。
「遅くなりました」
照瑠達が蔵の前に辿り着いた後、鍵を持った晴樹が遅れてやってきた。
「晴樹君、鍵は?」
返事をする代わりに、晴樹は鍵束の中の一つを鍵穴へと差し込む。ガチッという固い音がして、蔵を閉じるための封印は簡単に解放された。
どことなく埃っぽい、それでいて冷たい空気が蔵の中から溢れた。蔵には鬼剣舞で使う衣装や刀、それに面などが仕舞われている。後は、なにやらよく分からない箱が、あちこちに山積みにされて置いてあった。
こんな場所に、本当に沙耶香はいるのだろうか。蔵に置いてある箱や着物の裏を探してみたが、沙耶香の姿は見当たらない。そればかりか、照瑠が沙耶香に渡した指輪さえも見つからないのだ。
「おかしいわね。確かに指輪の気は、この蔵から感じたはずなんだけど……」
皐月が首をかしげ、再びフーチを取りだそうとした時だった。
蔵の奥、たくさんの葛篭や箱が重ねられている場所に、皐月は妙な違和感を覚えた。なんというか、その場所だけ荷の積み方が不自然なのである。まるで何かを隠すかのようにして、蔵のあちこちから節操無く箱を寄せ集めたような感じがするのだ。
あの場所には何かある。そう思うが早いか、皐月はその場に置かれた箱を一つずつどかし始めた。
箱の中身は比較的軽いものが多く、中には何も入っていないものさえも存在した。やはり、これは意図的に、何者かの手によって集められたと考える方が自然だろう。
やがて、全ての箱を取り去った時、その下から出てきたのは木製の扉だった。扉にはこれまた頑丈な南京錠がかけられており、地下へと続くであろう道をしっかりと封印している。
「なるほど。地下への入口があったってわけね」
晴樹から預かった鍵を取り出し、南京錠に差し込む皐月。いくつかの鍵を試してゆくと、その内の一つが調度はまった。
人の拳ほどもある南京錠を外し、蓋を開けるようにして扉を開く。地下は蔵の中よりも更に涼しく、閉じ込められていた冷気が一瞬にして吹き出してくる。
果たして、この奥に潜むのは鬼か蛇か。地下というものは陰鬱な気が溜まりやすい場所だが、それを除いても、皐月は闇の奥から漂ってくる不愉快な力を感じ取っていた。
懐からフーチを取り出し、皐月はそれを入口にかざす。すると、鎖の先についた錐を中心に、フーチは不規則に揺れ動き始めた。
間違いない。君島沙耶香は、この奥にいる。だが、奥に待つのはそれだけではない。
フーチを使わずとも分かる、胸の悪くなりそうな陰鬱な気。その力が皐月の感覚を乱し、フーチの振れを狂わせていた。通常、悪い物を感じ取った際には反時計回りに回転するフーチだが、それに沙耶香の気を感じ取ろうとする自分の感覚が混ざりあい、フーチそのものが混乱しているのだ。
「……行きましょう」
これ以上、フーチに頼って何かをすることはできそうになかった。後は、己の目によって、真実を見極める他になり。
自ら先頭に立ち、皐月は暗い地下へと伸びる梯子へと足を伸ばした。ぎしっ、ぎしっ、という木の軋む音がして、皐月は足を踏み外さないように注意しながら下へと降りる。
光の届かない蔵の地下は、思った以上に暗かった。電気でも通っていないのかと辺りを探してみたが、それらしいものは見当たらない。かなり古い造りのものらしく、蝋燭か懐中電灯を持って進む他になさそうだ。
「あら? これは……」
道具を準備して、出直すしかないか。そう思った沙耶香が足元を見ると、なんと都合よく懐中電灯が転がっていた。
以前、ここを訪れた者が落としたのだろうか。こんな場所に運よく電灯が転がっている事に対して疑問を抱いたが、今は使えるものであれば何でも使うべきだろう。
懐中電灯のスイッチを入れ、蔵の奥へと進む皐月達。地下は細い通路のようになっており、その奥に部屋があるらしかった。
暗く、冷たい地下の空気が肌を刺す。土の臭いが鼻をつき、奥に進めば進むほどに、あの嫌な気も強くなってくる。
やがて、さして長くない通路を抜けると、そこは酒蔵のような一つの部屋になっていた。酒樽と一緒に骨董品と思しき仏像が立ち並び、他にも得体の知れない様々な収集品が収められている。
「あれは……」
蔵の奥で、身体を丸めて震えている一つの影。その姿に気づいた皐月は、迷わずそれに電灯の灯りを当てる。
「沙耶香!!」
皐月が声をかけるよりも早く、加藤俊介が飛び出した。その声を聞き、蔵の奥で小さくなっていた沙耶香も顔を上げる。その顔は目元が赤く腫れあがり、唇は紫色に変色していた。冷たい蔵の底で一晩を明かした上、涙も枯れ果ててしまったのだろう。
「えっ……? 俊介!?」
突然、目の前に現れた恋人の姿に、沙耶香はしばし戸惑いを隠せない様子で俊介の顔を見上げていた。そんな沙耶香の肩に手を置くと、俊介はそっと、その身体を立ち上がらせて抱きしめる。
「すまない、沙耶香。僕が、もっとしっかりしていれば……。昨日の晩、もっと強く君を止めていれば、こんな怖い思いをさせなくて済んだのに……」
「ううん、いいよ。私は俊介が探しに来てくれただけで……それだけで、嬉しいから」
数時間ぶりに暗闇から解放され、さらには恋人の顔を見たことで、沙耶香の緊張の糸は完全に切れたのだろう。俊介の胸に顔をうずめ、涙の枯れた瞳でひたすらに泣き続けた。
「やれやれ……。とりあえず、これで一件落着ということですか?」
いつの間にか、照瑠達の後ろに穂高が立っていた。
同伴すると言っていた父だが、ここまでの流れにおいて、結局のところ何の役にも立っていない。その上、こんな状況でも自分のペースを崩すことなく、いつもの調子で話している。
いったい、父は何をしに来たのだろう。娘である照瑠も、父の行動に疑問を覚えた時だった。
「残念だけど、まだ何も終わっていないわ」
俊介と沙耶香の前に立ったのは皐月だった。皐月は土壁に打ちつけられていた仏像を強引に引き剥がし、その仏像に貼り付けられていた札を見て独り納得する。
「なるほどね。どうやら、鬼の正体が見えて来たわよ」
「鬼の正体!? それじゃあ、沙耶香さんの見た鬼っていうのは……」
「悪いけど、今はそれを語る時じゃないわ。とりあえず、まずはこの屋敷に住んでいる、主だった人間を集めてくれないかしら。全てを話すのは、その時よ」
この地下に入る前から感じていた陰鬱な気の正体。それこそが、皐月の手にしている札の貼られた仏像だ。そして、一見して薄気味悪いだけでしかないこの仏像こそが、君島邸に現われた鬼の仕掛けた呪いの根源なのである。
闇の根源は、既に自分の手の中にある。後は、その闇を用いて呪いを仕掛けた者を見つけ出すだけだ。
人を守りし退魔具と、人に災いをもたらす呪具。存在の根源を同じとしながら、まったく正反対の力を持つ存在。
皐月にとって、呪具は己の宿敵ともいえる存在だ。それを駆り、災厄を呼び込む者から人を守ることも、退魔具師としての自分の仕事である。
謎の幽霊騒動に始まる、君島邸を襲った様々な怪異。それら、全ての真相に、皐月は既に大よその目星をつけていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
君島邸の奥座敷。
大勢の人間を集めるには最適なその場所で、皐月は部屋に集まった者達の顔をぐるりと見渡した。
まず、座敷に集められたのは、この君島邸に住む主要な人間である。
先代の戸主である君島良寛の妻、松子。長女の冴子と次男の敏幸を初め、沙耶香と晴樹、それに数人の使用人も集められていた。その中には、家政婦長の時枝や庭師の源蔵、それに調理師の純一も含まれる。
もっとも、警察に身柄を確保された志津子と、彼女に刺されて病院に搬送された邦彦だけは、席を外すことになってしまった。ただ、皐月にしてみれば、実は二人の存在は大して重要視していない。二人はあくまで呪いの被害者であり、加害者である事は考えられないからだ。
残る人間は、今回の事件に多少なりとも関わりを持った者である。
九条照瑠と、その父である穂高。沙耶香の恋人である俊介と、妹の詩織。更には、捜査のために現場を訪れていた岡田と工藤の二人の刑事の姿もあった。これは、皐月が事件の真相を語ると言って、強引に集めたものだ。
「さて……。それでは、いよいよ、この君島邸で起こった一連の怪異について説明する時が来たようね。皆さん、準備の程はよろしくて?」
「おいおい、姉ちゃん。何を聞かせてくれるのかと思ったら、いきなり現われて探偵気取りか?」
部屋の隅であぐらをかいて座っている岡田が、さも呆れたような表情で言った。彼自身、この君島邸で変な噂が立っていることぐらいは聞き込みの際に耳にしていたが、それでも怪談話の類を全面的に信じるようなことはない。
今回の事件は、錯乱した妻が夫を包丁で刺したという、極めて単純なものだ。事件の裏に何らかの理由があったにしても、警察である自分の領分へ、一般人に土足で入り込まれたくないという思いもあった。
「悪いけど、刑事さん。あなたの考えているほど、この事件は単純じゃないの。私の話を聞いてどう思うかは個人の勝手だけど、聞くだけだったらタダじゃない?」
あくまで年上の男性をからかうような表情で、皐月が岡田に言った。明らかに小馬鹿にされている感じがしたものの、ここは岡田も大人の対応を見せる。
「ほう。それじゃあ、まずは美人の女探偵さんの推理ってやつを聞かせてもらおうかい」
「ありがとう、刑事さん。まあ、私は探偵じゃなくて、霊能者のお仲間ってところなんだけどね」
岡田に横目で視線を送りながら言った皐月だが、岡田はそれに答えなかった。
皐月は前髪を掻き上げる仕草をしながら、再び全体を見回して話を続ける。
「さて……。それじゃあ、一つずつ説明するわね。まずは、この君島邸で最初に起きた怪異だけど……。これは、沙耶香さんを初めとした君島邸に暮らす人の何人かが、影のような幽霊を見たってことだったわよね」
「はい、そうです。でも、それは皐月さんが、祓ってくれたんじゃありませんか?」
「確かに、沙耶香さんの言う通りよ。そこまでは、私もしっかり仕事をしたわ。霊の通り道を塞ぐようにして貼られていた御札は、しっかりと力を封じた上で、私の方で回収させてもらったし」
君島邸の各所で見つかった、骨董品の裏に隠すようにして貼られた黒い札。近づくだけで照瑠が気分を害してしまうほどに、強い力を持っていたものだ。
皐月は、あれは確かに始末したと言った。しかし、それならば、立て続けに起こったあの怪異はなんだ。札を外したにも関わらず、今度は鬼が夜の屋敷を徘徊し、夕食の味噌汁には長い髪の毛が混じっていた。そして、仕舞いには志津子が発狂し、邦彦を刺したのである。
「まあ、札を始末したまでは、万事滞りなく進んだんだけどね」
皐月の話が続く。どうやら、鬼の現われた原因は、あの札とは別のところにあるようだった。
「屋敷に札を仕掛けた犯人は、今度はより直接的な手段に出たようね。それが、庭師のお爺さんが見たっていう、屋敷を徘徊する鬼よ」
「直接的な手段? それって、どういう意味ですか?」
「まあ、簡単に言えば、自分の力でもっと強い呪いをかけようとしたのね。私が札を回収しちゃったものだから、ご先祖様の幽霊で誰かを脅かす事ができなくなったのよ。この辺は、私も先を読んで、もう少し早く先手を打っておくべきだったわ」
最後の方は、ばつの悪そうな口調だった。あの、黒い札を仕掛けたのが、この君島邸に深いかかわりを持っている人間である可能性。それは、この屋敷全体を覆う歪な人間関係が生み出した空気から、どことなく察知できるものだったからだ。
「深夜、庭師のお爺さんが姿を見たっていう鬼だけど、あれは呪いの儀式を実行するための衣装みたいなものね。典型的な丑の刻参りを、ちょっと変形させたものって言えばいいかしら」
「丑の刻参り? それって、あの、神社の御神木に藁人形を打ちつけるっていう……」
「そうよ。九条さんにとっては、あまり気持ちのいい話じゃないかもしれないけどね」
「ええ、まあ……」
丑の刻参り。古来より呪いの儀式として伝わる、あまりにも有名な呪法である。
白装束を身にまとい、顔は白粉、歯は鉄漿で染める。血のように濃い色の口紅をつけ、頭には鉄輪をかぶる。その鉄輪の上に蝋燭を乗せて火を灯し、深夜、人知れず藁人形に釘を打つというものだ。地域によって細かい差異はあるようだが、大よそ、このようなものである。
だが、それにしても、丑の刻参りに鬼の面とは初耳だ。それに、鬼が神社ではなく、沙耶香を閉じ込めた地下室に向かっていたというのも気にかかる。
「でも、皐月さん。どうして、丑の刻参りで鬼が出て来るんですか?」
「どうしてって……。そんなの、丑の刻参りの原型を考えれば当然よ。あれはもともと、鬼になるための儀式だったんだもの」
「えっ……!? お、鬼になる儀式……!?」
皐月はさも当然のような口調で言っていたが、照瑠を初めとしたその場にいる者の殆どにとって、それは馴染みのない話だった。
丑の刻参りは、自らを鬼へと返る儀式。それならば、屋敷の中を鬼の仮面を被って徘徊していたということにも合点がゆく。沙耶香を地下に閉じ込めた犯人は、自らが鬼の力を手に入れようとしていたということなのだろう。
「そもそも、丑の刻参りが初めて文献に現われるのは、鎌倉時代に書かれた書物の中よ。そこに登場する橋姫って女が、嫉妬から京都の貴船神社の大明神に頼んで、鬼になる方法を伝授してもらうの。それが、丑の刻参りの原型って言われているわ」
「そうなんですか。それじゃあ、やっぱり源蔵さんや沙耶香さんの見た鬼は……」
「ええ。橋姫の話とは異なる部分も多いけど、極めて原型に近い丑の刻参りの一つだったんでしょうね。鬼になり、その力を利用して強力な呪詛を仕掛ける辺り、かなり手の込んだ呪いだと言えるわ。そして……その、丑の刻参りを行った鬼は、この中にいるのよ!!」
皐月の言った最後の言葉だけが、奥座敷の中に酷く響いた。
鬼は、ここにいる人間の中にいる。皐月の口から語られた衝撃の事実に、その場にいる殆どの者が驚きを隠せない。
いったい、この君島邸に巣食う鬼とは誰なのか。一連の怪異を引き起こした人間は、何が目的で呪いなど仕掛けたのか。
様々な疑問と憶測がそれぞれの頭を飛び交う中、皐月は蔵の地下から運び出した七福神の像を目の前に持ちだした。あの、土壁に逆さまに打ちつけられた挙句、血文字で書かれた札を張り付けられた像だ。
「これは、私達の間では≪逆神の儀≫、もしくは≪逆仏の儀≫と呼ばれるものに使われた像よ。神像や仏像を逆さまにして、そこに呪いの言葉を書いた血文字の札を貼り付けることで、その神や仏が本来持っている力とは逆の力を引き出すことができるの」
「逆の力……?」
「そう。これは、七福神の福禄寿。簡単に言えば、一族の繁栄を司る神ね。でも、呪いで逆神にすれば、その力は一族を滅ぼす力となるわ。君島志津子を狂わせて夫を刺させた原因は、間違いなくこれよ」
皐月はその像から札の中の一枚を剥がして取ると、片手に愛用のフーチを持って立ち上がった。左手には札、右手には鎖を持ち、照瑠達の側をゆっくりと巡回してゆく。
鎖の先についた金属の錐が、小刻みに不規則な軌道を描いている。まるで何かを探し求めるようにして、鈍い銀色に輝く錐は宙を舞い続けた。
いつの間にか、その場にいる全員の視線が錐に集中していた。ふらふらと揺れ動く錐の先端を見ているだけで、まるで自分が催眠術にでもかけられているのではないかという錯覚に陥ってしまう。
一人、二人と、皐月は集められた者の側を通り過ぎてゆく。冴子の側を通り過ぎ、晴樹、そして彼の父である敏幸の前を通り過ぎた時だった。
突然、皐月の持っているフーチが、規則正しい反時計回りを描きながら回り始めた。その瞬間、今まで閉じられていた皐月の目が、まるで獲物を追い詰めた鷹のように見開かれる。
「見つけたわ……」
皐月の声は決して大きいものではなかったが、その言葉は奥座敷の端まで響き渡った。
「この屋敷で起きた一連の呪い騒動。それを引き起こしていたのは、あなただったのね……」
フーチを持ったまま、皐月は目の前にいる人物に向かって言い放つ。その視線の先には、指先を震わせながら唇を噛んでいる時枝の姿があった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「う、嘘だ!!」
突然、沈黙を破り立ち上がったのは、意外なことに晴樹だった。
「鬼の正体が時枝さんだったなんて、そんなことは絶対にありません! 時枝さんは、この家に昔から住み込みで働いている家政婦長なんですよ! それが、どうして今になって、僕達を呪ったりするんですか!?」
「あら。呪われていたのはあなたじゃなくて、沙耶香さんのご両親よ。それに、この血文字で書かれた札の気は、間違いなく彼女のものみたいなんだけど」
「そんな占いみたいな道具で犯人扱いされたんじゃ、時枝さんが可哀そうです! そんなに彼女が犯人だって言うなら、何か証拠を見せてくださいよ!!」
皐月の言葉にもまったく耳を貸さず、晴樹はひたすらに噛みついた。大人しく、品行方正な中学生に過ぎなかったと思われていた彼が、ここまで感情をむき出しにするのは珍しい。父である敏幸はもとより、その場にいた全員が、晴樹の迫力にのまれてしまっている。
だが、そんな中でただ一人、皐月だけは落ち着き払った様子で話を続けた。
「証拠、ねぇ……。そんなに言うなら、この札に書かれた血文字の血を警察で調べてもらってもいいわよ。ちょっと時間がかかるけど、今はDNA鑑定なんて便利なものがあるのよね、刑事さん」
皐月が勝ち誇ったような表情で岡田と工藤を見る。そう簡単になんでもDNA鑑定に持ちこめるわけではなかったが、二人の刑事は何も言わずに黙っていた。
「それに、時枝さん。あなた、その手首はどうしたの? 包帯なんて巻いて……なんだか、鋭い刃物で切ったみたいね。その血を使って、あの札の血文字を書いたのかしら?」
「そ、それは……。きっと、家の仕事をしている時に怪我したんですよ」
「悪いけど、君には聞いてないのよね、坊や。私は時枝さんの口から、怪我の理由を聞きたいの」
あくまで時枝を庇おうとする晴樹の主張を、皐月はややもすると冷たく感じられる口調で退けた。
一連の騒動は、本当にこの家政婦長が起こしたものなのか。仮にそうだとすれば、いったい何のために邦彦や志津子を呪ったのだろう。
やはり、どう考えても時枝が犯人だなどと信じられない。そう思った晴樹は、なおも皐月に食い下がる。
「鳴澤さん、でしたよね。あなたがどんなに凄い霊能力者なのか、僕には分かりませんけど……あなたに、この君島家の中のことが、いったいどれだけ分かるっていうんですか!?」
「それ、どういう意味かしら?」
「呪いなんてものに手を出すなら、他にもたくさん犯人になりそうな人なんているんですよ。例えば……ここにいる、冴子叔母さんとかね」
隣にいる冴子に冷たい視線を送りながら、晴樹は侮蔑するような口調で言った。
「ちょっと、なによそれ! いくら敏幸の子だからって、言って許されないことがあるんじゃない?」
「とぼけても無駄ですよ、叔母さん。僕が、気づいていないとでも思ったんですか?」
「気づいてって……な、なにをよ!?」
「僕は知っているんですよ。叔母さんが、この家の人達にこっそり隠れて、調理師の風間さんと会っていることを……。それに、叔母さんが父さんや邦彦伯父さん達のことを邪魔に思って、遺産の取り分を気にしていることもね……」
「なっ……!? あなた、のぞき見してたって言うの!?」
意外なところで晴樹に問い詰められることとなり、冴子は思わずこぼしてしまった。すぐに気がついて口に手をやるが、もう遅い。時枝に向けられていた疑わしい視線が、今度は自分に向けられているのに気づく。
「僕だって、いつまでも子どもじゃないんです。一昨日の晩、夕食の味噌汁に髪の毛を入れたのだって、どうせ冴子叔母さんの差し金なんでしょう? 調理師の風間さんだったら、食事に細工をするなんて、簡単ですからね」
「う、うるさいわね! 人様の秘密の時間を盗み見するなんて……まったく、躾のなってないガキだわ!!」
最早、隠しだてはできないと悟ったのだろう。冴子も本性をむき出しにし、晴樹に感情をぶつけてきた。もっとも、この状況でいくら冴子が叫ぼうと、彼女に向けられた疑念が晴れることはないのだが。
長年に渡り醸成されてきた、君島家の歪み。それを今まで外の者たちに隠してきた壁が、決壊するのは時間の問題だ。晴樹の言葉をきっかけに、歪みはすぐにでも音を立てて溢れだそうとしている。
ところが、そんな場の空気を一瞬にして諌めたのは、意外なことに時枝だった。震える肩を抑えるようにして立ち上がると、時枝は晴樹からそっと距離を取って口を開いた。
「晴樹様……。残念ですが、そこの方の仰っていることは、全て事実です。志津子様に呪いをかけたのは、この私なんですよ……」
「な、何を言ってるんだよ、時枝さん! どうして時枝さんが、そんなことする必要があるんだよ!!」
「それは……あなたが可愛かったからですよ。私は晴樹様に、この君島家を継いでいただきたかったのです」
「ぼ、僕に君島家を!! でも、だからって、なんで時枝さんが呪いなんか!?」
先ほど、皐月に噛みついていた時とは違い、晴樹は明らかに動揺していた。
自分の信じていた者の口から告げられた、最も知りたくない真実。頭では否定したいと思っていても、その耳には否応なしに時枝の言葉が響いてくる。
「私は昔、自分のお腹にいる子を降ろしたことがあるのです。それが原因で、二度と子を作れない身体になりました。ですから……敏幸様が私に晴樹様の世話係をさせて下さったときは、本当に嬉しかったものございます。まるで、自分に本当の息子ができたような心持でありました」
「なるほど。それで、あの坊やに君島家を継がせるために、今回の事を考えたってわけね。君島邦彦に長男ができたものだから、その血筋を絶やして自分の望む人間に君島家を継がせるために」
「左様でございます。それに……私は見ていたんですよ。あの日、敏幸様の奥様の麻子様を、志津子様が階段から突き落とすところを……」
「えっ……!? し、志津子伯母さんが、僕の母さんのことを階段から!?」
また、衝撃的な事実が時枝の口から語られた。
君島志津子が、晴樹の母である君島麻子を階段から突き落とした理由。それは、麻子の腹にいる晴樹のことを亡き者にし、自分達の一族に君島家を継がせようとしたからだろう。そして、きっとそれには、邦彦も関わっている。あの志津子が一人で考えるにしては、あまりにも残酷で卑劣な手口だ。
やはり、この家は歪んでいる。ここにきて、晴樹はおろか沙耶香までもが、その事実を改めて見せつけられることになった。事故と聞かされていた晴樹の母の死でさえも、その裏にはどす黒い骨肉の争いがあったのだ。
「病院に運ばれた後も、麻子様は自分が突き落とされたということを誰にも言うことはありませんでした。ただ、私に≪子どもを頼む≫とだけ言い残されて……」
「それで、あの坊やを育てている内に、情が移ったのね。でも、母親が突き飛ばされた現場を見ていたのなら、どうして直ぐにそれを言わなかったのかしら?」
「ええ、そう思われるのも無理はないでしょう。ですが、この君島の屋敷において、当時の晴樹様を守れるのは、私と敏幸様だけでございました。ですから、旦那様に睨まれて、この家を去るようなことはできなかったのでございます。それが、例え敏幸様と晴樹様を偽り続けることになったとしても……」
再び、沈黙がその場を支配した。
子どもを産めず、夫もいない時枝にとって、おそらく晴樹は本当の我が子のように思えたのだろう。だからこそ、晴樹に君島家を継いでもらいたいという想いに至ったに違いない。
「なるほどね。でも、沙耶香さんの弟が産まれて、君島晴樹が次の当主となることは難しくなった。だから、呪いで君島邦彦の一族を始末しようとしたってところかしら」
皐月の言葉に時枝が力なく頷く。
「ええ、その通りでございます。最初は、ただ驚かせるだけのつもりでした。御盆の折、この屋敷にお戻りになられているであろう、麻子様の魂。それを見せつけてやることで、旦那様や奥様に、ご自身の罪を自覚していただきたかったのでござます」
「罪の自覚か……。でも、君島邦彦も志津子も、自分の罪を悔い改めることなんてなかった。それに、幽霊はあなたが考えていた場所以外にも現われて、最後は私が黒い札を始末してしまったしね」
「左様でございます。そこで、私は決心しました。もう、残された手段は呪いしかないと。旦那様と奥様を亡き者にしても、晴樹様に君島家の後を継いでいただきたいと……」
いつの間にか、時枝の目から涙がこぼれていた。
欲と嘘によって彩られ、己の身内さえも手にかける。古くからの因習が生んだ骨肉の争いは、それに巻き込まれた一人の女を鬼へと変えた。
皐月と時枝の話が本当ならば、時枝は志津子を使って邦彦を間接的に殺害しようとしたことになる。少なくとも、呪いに手を出した時点で、明確な殺意はあったはずだ。
「しっかしなぁ……」
今まで後ろで聞いているだけだった岡田が、なんともいえぬ顔をしながら言った。
「仮に、あんたの言っていることが事実だとしても、こっちにはどうにもできねえぜ。呪いだの祟りだのといったもんで、そう簡単に手錠をかけるわけにもいかねえんだよ。なあ、霊能者さん」
「それは必要ないわ。どちらにしろ、彼女は報いを受けることになるもの」
「報いだと?」
岡田には、皐月が何を言っているのか分からなかった。いや、岡田だけではない。奥座敷にいた者の殆どが、皐月の言葉を理解していなかった。
だが、時枝の前に立つ皐月だけは、次に起こるべきことがはっきりと分かっていた。
人を呪わば穴二つ。呪詛は、その術が見破られた時点で、術者の方へとはね返ってくる。因果応報の言葉が示す通り、呪いとは自らの身をも滅ぼす極めて危険な禁術なのだ。
時枝が皐月に真相を語った理由。それは、彼女もまた自分の運命を知っていたからに他ならない。術者を突き止められた時点で、呪いは既に打ち破られている。そして、今度は自分が、その呪いを受ける番になるのである。
「あ……あぁぁぁぁっ!!」
突然、時枝が両手で顔を抑え、気が狂ったように叫び出した。指の隙間から黒い煙が立ち昇り、時枝は座敷を転げまわって苦しむ。
「な、なにが起きてるってんだ!?」
ベテランの刑事である岡田にも、この光景は極めて異様なものに映った。まさか、これが皐月の言っていた報いというものなのだろうか。
「う……うぅぅぅ……」
地の底から響いてくるような、重く低いうなり声。それを聞き、皐月の後ろにいた晴樹と沙耶香が肩をふるわせて後ろに下がった。
顔を覆う両手を外し、時枝がゆっくりと立ち上がる。その瞳は血のように赤く染まり、まるで凶暴な爬虫類のもののように、虹彩が細く縦にのびていた。
だが、それにも増して異様だったのは、時枝の顔に浮きだした無数の梵字だった。いつしか、その肌はくすんだ鉄のような色になり、額には巨大な二つの瘤が現われる。
「あ、あれは……」
沙耶香の脳裏に、昨晩の廊下で見た者の姿が浮かび上がった。数多の梵字が書き込まれた張子の鬼面。それをつけて呪いの場へと向かう、白装束の時枝の姿だ。
時枝の顔は、その時に沙耶香が見た鬼面そのものだった。額に現われた二つの瘤は、さらに盛り上がって鋭くのびる。口からは二つの牙が飛び出し、両手の爪もまた鋭くのびていた。
「きぃぃぃぃっ!!」
今や、完全にその姿を鬼へと変えた時枝は、その鋭い爪を振り上げて皐月に飛びかかった。牙をむき、髪を振り乱し、奇声を発して爪を振るうその姿は、既に人のものではない。
時枝であった者の爪が、皐月の喉笛を切り裂かんと迫る。が、皐月はすかさず懐から数枚の札を取り出すと、それを鬼となった時枝に向かって投げつけた。
白地に黒い文字の書かれた護符が、生き物のように宙を舞う。それはまるで己の意思を持っているかのようにして、鬼の顔に次々と貼り付いた。
「時枝さん!!」
皐月の札に怯んだ鬼を見て晴樹が飛び出しそうになったが、皐月はそれを片手で制した。
「逃げなさい。このままじゃ、皆殺しにされるわよ」
「で、でも……」
「大丈夫。あの人は、必ず私が助けるから」
そう言っている間にも、鬼の顔に貼り付いた護符からは、黒い煙が上がっていた。
(まずいわね……。こっちの力が負けてるじゃない……)
動揺を悟られないようにしながらも、その内心では、皐月も多少の焦りを感じていた。
時枝の受けた呪い返し。それは、彼女の手にした鬼の力を暴走させ、完全なる魑魅魍魎と化すものだった。今は護符の力で抑え込んでいるが、それも時間の問題だろう。
退魔具と呪具。その力は根源を同じとしながら、互いに滅し合う関係にある。しかも、磁石のような反発ではなく、互いの力を打ち消し合う対消滅の関係だ。
鬼の顔に貼り付いた札の内の一枚が、とうとう黒い消し炭となって剥がれ落ちた。更に、残る二枚の札も、今にも焼け落ちてしまいそうなほどに変色してしまっている。
既に、手段を選んでいる場合ではなかった。
皐月は晴樹を突き飛ばすようにして岡田に預けると、自分はその場にかがみこんでスカートをまくりあげた。白い太ももが露わになり、思わず岡田の目がそこに集中する。が、そんな男の欲望をそそる期待とは反対に、皐月の足には無骨な鞘に納められた短刀が、ベルトの様なものでつけられていた。
「なに見てるの、刑事さん? 悪いけど、今はセクハラに対して突っ込んでる暇はないのよ」
皐月に言われ、思わず彼女の脚から目をそらす岡田。その間にも、皐月は脚の鞘から短刀を引き抜き、それを鬼に向かって構えた。
艶やかな光沢を持った黒光りする柄とは反対に、短刀の刃は極めて質素な作りだった。いや、質素というよりも、既に刃の部分は金属ですらない。
木製の、どう見ても木刀にしか思えない短刀。経文のようなものが彫り込まれたそれは、武器というよりも法具や神器に近い物のように思われた。
霊木刀。神木の枝を削って作り上げた、霊的なものだけを斬るための刃。その力は、使用者の力に依存する部分が極めて大きい。
刀ほどの大きさのとなる物もあるのだが、皐月の力では短刀程度の大きさを使いこなすのが精一杯だった。それこそ、犬崎紅のような力の持ち主でなければ、それなりの大きさを持つ霊木刀は使えないのだ。
自分の力が、時枝の変貌した鬼にどこまで通じるかは分からない。だが、それでも今は、霊木刀に全てをかける他にない。
既に残りの札も焼け落ち、鬼と化した時枝が再び起き上がった。どうやら皐月を完全に敵と認識したようで、赤く鋭い眼光が彼女に向かって放たれる。
(来る……!!)
そう思った次の瞬間には、鬼の爪が皐月に向かって振り下ろされていた。完全に回避したつもりだったが、やはり相手の方がこちらの反応よりも素早い。済んでのところでかわしたものの、皐月の着ているスーツの袖には、数本の亀裂が入っていた。
やはり、この狭い部屋で戦うには危険が伴う。
皐月は霊木刀を振るって鬼を牽制すると、そのまま後ろに飛び退いた。奥座敷から縁側に飛び出し、そのまま中庭へ出る。動きを制限される室内とは違い、ここならば気兼ねなしに戦える。
「さあ、こっちに来なさい。私とあなた……二人だけの鬼ごっこの始まりよ」
中庭に植えてある松の木を背に、皐月はあえて無防備な姿を晒して鬼を誘った。
狙い通り、鬼は皐月めがけて中庭へと飛び出してくる。皐月もすぐさま霊木刀を構え直し、鬼の繰り出してきた一撃をはじく。
ガッ、という音がして、皐月の霊木刀と鬼の爪がぶつかった。互いに距離を取って離れる二人だが、多少怯んだ程度の鬼に対し、皐月はバランスを崩して転びそうになる。
腕力、瞬発力、そして動体視力。あらゆる点において、相手の方が上だった。人が呪いによって姿を変えたものとはいえ、やはり古来より人界を脅かす存在として伝えられる妖怪。まともに戦っては、万に一つも勝ち目はない。
もう、出し惜しみをしている余裕はなかった。
皐月は新たに数枚の青い札を取り出すと、それを鬼の脚元目掛けて投げつけた。今度は、相手の力を封じるための札ではない。地面に落ちた札からは、一瞬にして青白い煙が立ち昇る。
相手が煙に覆われた一瞬の隙をつき、皐月は手にした霊木刀を躊躇うことなく突き出した。
鬼に投げつけた三枚の札。あれは、霊的な存在に対して幻視の効果をもたらす物だ。要は眼つぶしなのだが、それだけに攻撃力という点では皆無である。肉体を持った鬼が相手では、せいぜい目くらまし程度にしか役に立たない。
だが、それでも皐月には、鬼との身体能力の差を埋める方法が他になかった。
この一撃を決め損ねれば、鬼を祓う術はない。皐月の手から放たれた一撃が、煙の中にいるであろう鬼を捉える。
霊木刀にありったけの気を込めて、皐月はそれを鬼の身体に突き刺した。もともと、人間に対する殺傷力はない木製の刃。故に、鬼に対しても肉体を傷つけることはない。霊木刀が始末するのは、あくまで霊的な負の力を持った存在そのものだ。
青白い煙が晴れ、その隙間から鬼が姿を現した。それを見た皐月の顔が、一瞬にして驚愕の表情に変わる。
「耐えた……。いえ、防がれた!?」
霊木刀の剣先は、鬼の腕に突き刺さるような形で止まっていた。木製とはいえ、それでも刃。とがった先端を身体に突き立てられれば、その肉体も少なからず傷を負う。
だが、霊的な力が人の肉体を変化させて生まれた鬼にとって、そんなことは些細な問題でしかなかった。時枝を鬼に変えた呪具は鬼の面。故に、それが表に現われた、鬼の顔を突かねば意味はない。
こちらの力と手の内を、相手は全て分かっていた。分かっていた上で、わざと皐月に片腕を刺させたのだ。
象牙色の牙をむき出しにし、鬼の赤い瞳がにやりと笑う。慌てて間合いを取る皐月だが、俊敏性では鬼の方が上だ。
次の瞬間、布地の切り裂かれる嫌な音と共に、皐月の肩から胸元にかけて鋭い痛みが走った。見ると、スーツの右肩から下にかけての部分が大きく切り裂かれ、更には下に着ていたブラウスまで引き裂かれている。
それだけではなく、下着の肩ひもまでも切り裂かれ、露わになった肌からは、赤い鮮血が滴り落ちていた。見た目ほど深い傷ではないようだが、それでも出血が激しい。頭から血の気が引いてゆくのを感じ、皐月はなんとか倒れないよう、脚に力を入れてそれを堪えた。
右手の爪についた血を舐めながら、鬼がゆっくりと皐月に迫る。かろうじて霊木刀を握っている皐月だが、右腕に力が入らない。それ以前に、痛みに耐えることに神経を使いすぎ、満足に気を練ることさえもできそうにない。
「ヤバいわね、これ……。ちょっと、相手を甘く見ていたかしら……」
口では余裕を装っていたが、皐月は完全に追い詰められていた。
本来は道具を作るだけの皐月は、決して戦いに向いているわけではない。それでも、呪い返しによって変貌した者程度ならば、難なく祓えると思っていた。実際に、低級な狐憑き程度なら、皐月も何度か祓ったことはあるのだ。
だが、今回の相手だけは、呪具の力が皐月の予想を凌駕していた。
皐月の作った退魔具を持ってしても、その力を打ち消すので精一杯な程に強力な呪具。その呪いを全身に受けて変貌した時枝もまた、皐月にとっては手に余る程の存在になっていた。
左手で胸元の傷口を抑えたまま、皐月はじりじりと後ろに下がり始めた。が、すぐに松の木の根元まで追い込まれ、それ以上は下がることもできなくなる。
最早、ここまでか。皐月が諦めかけたその時、奥座敷の襖が唐突に開かれた。その向こう側から現われた者の姿に、皐月は思わず釘づけとなる。
「沙耶香さん……?」
奥座敷に現われたのは、鬼剣舞の衣装を身にまとった沙耶香だった。もっとも、衣装といっても正式な鬼剣舞の正装ではない。一番上に着る物を、間に合わせのように羽織っているだけである。
だが、それでも刀を腰につけ、右手に扇子、左手に角の無い鬼の面を持っている沙耶香の姿は、間違いなく鬼剣舞の演者のそれであった。明王を現した鬼面をスッと被り、沙耶香はそのまま奥座敷から中庭へと躍り出る。
扇子を構え、時枝の変貌した鬼の前に鎮座する沙耶香。それを見た鬼の動きが一瞬だけ止まったが、すぐに鬼は牙をむき出しにして沙耶香の方へと体を向けた。どうやら沙耶香の事を、完全に新たな獲物だと思い込んでいるようだ。
低いうなり声を上げながら、爪を構えた鬼が沙耶香に迫る。それを見た沙耶香も、すぐに立ち上がって扇子を構えた。
扇子を相手の鼻先に突き出すようにして、沙耶香の脚が大地を蹴った。長い髪をなびかせながら、沙耶香の身体が宙を舞う。
大地へ身体が降りる度に、沙耶香はその脚で土を踏みしめるようにしてリズムを取った。西洋の音楽や舞には見られない、独特の歩行とリズムである。時に大きく脚を振り上げ、時に大きく脚を持ち上げ、沙耶香は勇壮に舞い続ける。
こんな時に、わざわざ中庭で剣舞を踊る。初めは沙耶香の奇行の意味が分からなかった皐月だが、すぐにその意味は理解できた。
沙耶香の舞う鬼剣舞のリズムに合わせ、時枝の変貌した鬼が苦しみだしたのだ。沙耶香の脚が大地を踏みしめる度に、鬼は苦悶の叫び声を上げて身体を震わせた。
「あれは、反閇ですよ。悪鬼を静め、その場の気を浄化するという、陰陽道に伝わる特殊な歩行です」
いつの間にか、皐月の隣には穂高が現われていた。
「そもそも鬼剣舞は、神仏混交の儀式です。祖を辿れば念仏踊りに行き着くのでしょうが、同時に神道の呪術も組み込まれているんですよ」
「なるほどね。それで、あの娘に鬼剣舞を躍らせて、鬼の動きを止めたってわけか……」
「ええ、その通りです。もっとも、これは一か八かの賭けでしたけど。沙耶香さんが鬼剣舞を踊れなければ、全ては水の泡ですから」
「まったくだわ。それに、鬼剣舞って、そのそも女は踊らせてもらえないんじゃなかったのかしら? それを、あそこまで踊るなんて……」
「まあ、沙耶香さんは鬼剣舞の演者に憧れていたみたいですからね。私の話も快く承諾してくれましたし、舞の手順もきちんと覚えていたみたいですよ」
あくまで何食わぬ顔をして、穂高は皐月にそう言った。しかし、皐月にしてみれば、穂高の行動は決して偶然の思いつきでないということが分かっている。
念仏踊りから派生した、伝統芸能の一つに過ぎない鬼剣舞。その中に隠された神道の呪術的側面を見抜くなど、並みの素人にできるものではない。それこそ、著名な民俗学者か、その道に通じた神主でなければ不可能だ。
きっと、穂高は途中から気づいていたのだろう。皐月が時枝を問い詰めて、時枝が苦しみ出した辺りから、呪い返しの形にまで予測を立てていたに違いない。
そうでなければ、こうも早く沙耶香に鬼剣舞の衣装を用意するなど不可能だ。大方、あの蔵の中から引っ張り出してきたのだろうが、それでも異常とも言える手際のよさである。
まったくもって、食えない男だと皐月は思った。いつもは無能を演じておきながら、その裏ではしっかりと保険をかけるために動いている。こうなると、いつもの飄々とした態度でさえ、本来の穂高の顔を隠すためのものではないかと思えてきてならない。
そうこうしている間に、沙耶香の舞はますます激しさを増してきた。大地を踏み固めるような動きは少なくなってきたが、今度は腰に帯刀している刀を引き抜いて右手に持つ。扇子は左手に持ち替えて、その両腕を大きく左右に伸ばして広げた。
全身を余すところなく使い、沙耶香は手にした剣を振るう。手首、腕、そして最後は身体全体を回し、白銀の刃が宙を斬る。
刀が風を切る音がする度に、鬼は更に唸り声を上げて頭を抱えた。この世のものとは思えないような奇声を発し、沙耶香の踊りに翻弄される。
壮烈で、それでいて華麗。
沙耶香の踊りを評するならば、その二つの言葉が相応しかった。たった一人、囃子方さえおらずに踊っているにも関わらず、その後ろからは、太鼓や笛の音が響いてくるような気さえする。
沙耶香の剣舞を前にして、ついに鬼が膝をついた。その隙を逃さず、皐月は最後の力を振り絞って霊木刀を構える。
既に、霊木刀に込めるだけの気は残されていない。皐月は最後の一枚となった札を取り出すと、それを霊木刀の切っ先に巻きつけた。
護符の力と皐月の力を受け取って、霊木刀に刻まれた経文の文字が真紅に輝く。苦悶の表情を浮かべて膝をついている鬼に向かい、皐月はそれを渾身の力を込めて投げつけた。
皐月の手を離れた霊木刀が、鬼の額に向かって飛んでゆく。切っ先に巻き付いた護符からは青白い炎が噴き出し、それが霊木刀の全身を包んでゆく。
今や、皐月の投げつけた霊木刀は、青白い炎をまとった一羽の鳥だった。炎が鳥の姿を形取り、青く輝く翼をはためかせながら鬼の額を容赦なく貫く。
「ぎぃぃぃぃっ!!」
鬼が、最後の悲鳴を上げて、とうとう中庭に倒れ込んだ。その顔面からは、霊木刀を包んだものと同じ青白い炎が噴き出している。
両手で顔を覆い隠すようにして、鬼はその炎を消そうともがき苦しんだ。が、やがて最後の力もつきたのか、両腕を大きく投げ出して動かなくなる。
鬼の頭から炎が引き、黒く焼け焦げた顔が姿を現した。土くれが剥がれ落ちるようにして、変色した皮がぼろぼろと崩れ去る。
「あれは……」
青い浄化の炎に焼かれた鬼の顔。その中から姿を現したのは、気を失って倒れたままの、元の時枝の顔だった。




