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~ 伍ノ刻   鬼子 ~

 その晩、君島邸は久方ぶりに穏やかな夜を迎えていた。


 皐月が札を取り除いたことにより、君島邸に出没していた黒い影の行列は、ぱったりと出なくなったのだ。なにはともあれ、これで久方ぶりに安眠できるというものである。


 これには沙耶香だけでなく、君島邸で働いている使用人たちも同じだった。庭師として古くから君島家に務めている、狩谷源蔵かりやげんぞうもその一人である。


 源蔵も、火乃澤剣舞の舞台が終わってから、黒い影の現われる夢に悩まされてきた一人だった。ところが、今日はいつものような奇妙な家鳴りもせず、当然のことながら影も現れてはいない。


 沙耶香の話では、影は力のある霊能者によって祓われたとのことだった。事の真相は定かではないが、それでも奇妙な夢を見なくてもよいというのはありがたい。


 時刻は既に、午前の二時を回っていた。日頃の睡眠不足がたたって早く床についてしまった源蔵だったが、どうやらそれが災いしたらしい。妙な時間に目が覚めてしまい、おまけに尿意までもよおしてきた。


 歳を取ると、どうも厠が近くなっていけない。そんな事を考えながら、源蔵は夜の屋敷を手洗い場に向かって歩き出した。


 ぎしっ、ぎしっ、という床のきしむ音がして、源蔵は思わず泥棒が歩くような忍び足になった。なにしろ、今は真夜中である。下手に大きな足音を立てて、家の者を起こしてしまっては失礼だ。


 手洗い場にて素早く用を足すと、源蔵は今きた廊下を足早に戻ろうとした。明日の朝も早いだけに、あまり夜遅く屋敷の中をうろついているのも気が引けた。


(やれやれ……。こういっちゃなんだが、まだ物陰に幽霊が潜んでいそうな気がするわい)


 沙耶香の話を信じていないわけではなかったが、それでも深夜の屋敷は少々不気味だった。いつもは誰かしらのいる気配がするのだが、今は寝静まってしまって誰も起きている者がいないからだろう。


 行きと同じように抜き足で歩きながら、源蔵が廊下の角に差し掛かった時だった。



――――ぎしっ……。



 明らかに、自分のものとは違う足音が聞こえた。背中に冷たいものが走り、源蔵は思わず汗ばんだ手で拳を握りしめる。


 こんな夜更けに、いったい誰だろうか。自分と同じように用足しに行こうとしている者なのかもしれないが、万が一ということもある。屋敷のセキュリティは万全と言われていたが、それでも泥棒が入り込んでいないという保証もない。


 自分一人に何ができるかと聞かれれば、何もできないと答える他になかっただろう。だが、持ち前の責任感からなのか、源蔵はそっと足音のする方に耳をすませてみた。



――――ぎしっ……ぎしっ……ぎしっ……。



 足音は、徐々にこちらへと近づいてくるようだった。源蔵はとっさに廊下の角に身を隠すと、足音の主をやり過ごす事にした。


 床のきしむ音は更に近づき、それに合わせて源蔵の鼓動も激しくなる。自分でもはっきりと分かるくらい、嫌な汗が体中からあふれ出ていた。


 まっすぐにのびた、廊下の薄暗がりのさらに先。アイの字になっている廊下の向こう側を、源蔵は物陰からそっと覗いてみる。


「ひっ……」


 次の瞬間、源蔵は自分の目に飛び込んできたものを見て思わず声を上げた。相手の足音に声がうまく合わさったため、気づかれなかったのは不幸中の幸いだ。


 深夜の君島邸の廊下を、まるで引きずるようにして歩く謎の影。灯りのない廊下の、しかもアイ字になっている向こう側を遠巻きに見たので、はっきりとしたことは分からない。だが、それでも源蔵は、今しがた自分が見た物がなんなのか、おぼろげながらに理解していた。


 白装束を身にまとい、張子の面を被った奇怪な人物。面に使われている紙は、何かの経文か護符だろうか。灰色に淀んだような色の紙に、梵字のようなものがびっしりと書かれていた。暗がりで文字の種類までは完全にわからなかったが、恐らく間違いはない。


それが被っている張子の面の額には、鋭い二本の突起があった。その手には金槌と釘が握られ、障子越しに差し込む月明かりを受けて、鈍い輝きを放っている。


「あ、あわわ……」


 深夜、謎の怪人が屋敷内を徘徊する様に遭遇した源蔵は、這うようにして自分の部屋へと舞い戻った。そのまま布団を頭からかぶり、震える体をなんとかして収めようとする。


 だが、頭でいくら恐怖をこらえようとしてみても、体の方はまったくいうことを聞かなかった。自分の意志とは関係なく、歯と歯がガチガチとぶつかる音がした。


「あ、あれは……あれは、いったいなんじゃ……」


 どんなに冷静になって考えようとしても、源蔵のいきつく答えは一つしかなかった。


 暗がりに、金槌と釘を持って徘徊する謎の仮面を被った人物。不気味な張子の面の額から突き出した、獣の牙のように鋭い突起。そう、あれは間違いない。あんな姿で、真夜中に徘徊する者は……。



――――鬼だ。



 自分の見たものは、まさしく鬼に違いない。あれは鬼の仮面を被った誰かなのか、それとも本当に魑魅魍魎の類だったのか。


 実際にどちらなのかはわからなかったが、源蔵にとって、たった一つだけ確かなことがあった。それは、この君島邸を覆う怪異が、未だ終息の兆しを見せていないということだけであった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 君島志津子は夢を見ていた。


 夢の中で、彼女は薄暗い屋敷の廊下を歩いていた。辺りの様子はよく分からないが、なぜか足は勝手に動いてゆく。


 ある程度進んだところで、志津子は自分のいる場所が、見慣れた屋敷の中であることに気がついた。


 そう、ここは君島邸。例え暗くとも、住み慣れた我が家の造りを忘れるはずがない。


 どこかで赤子の泣く声がする。あれは、いったい誰の声だったか。


「宗也……」


 ただ一言、志津子の口から出た言葉はそれであった。あの泣き声は、自分の愛する息子のもの。君島家の正式な後継ぎとして、いずれは戸主となり家元の名を継ぎし者。


 泣き声に呼ばれたような気がして、志津子は廊下をすり足で急いだ。声は次第に大きくなってゆくものの、息子がどの部屋にいるのかは皆目見当もつかない。


「宗也、どこにいるの?」


 次々と襖を開け、部屋の中を覗いてゆく志津子。声はだんだん大きくなり、息子のいる部屋に近づいているのが分かる。


 いくつ目の襖を開けた時だろうか。ついに志津子は、宗也のいる部屋へと辿り着いた。畳敷きの奥座敷。その真ん中にぽつんと置かれた座布団の上で、宗也は足をばたつかせながら泣いている。


 いったい誰が、あんなところに可愛い息子を放り出したのか。慌てて宗也の下へと駆け寄ろうとした志津子だが、彼女の足は急に動かなくなってしまった。


 いや、正確には動かなくなったのではない。まるで、見えない壁に遮られるようにして、奥座敷の中へと入ってゆく事ができないのである。いくら手を動かし、足を伸ばしても、それらは奥座敷の入口で虚しく宙を舞うばかりだ。


 気がつくと、いつの間にか宗也の側に、一人の少年が立っていた。後ろ姿なので顔まではわからなかったが、それでも志津子は少年が誰なのか、すぐに気づいて声をかけた。


「は、晴樹……」


 君島晴樹。夫の弟である君島敏幸の息子であり、宗也産まれる以前は君島家の第一後継者だった少年だ。


 志津子の前で晴樹は、その懐から鈍い銀色に光る何かを取り出した。片手に握られたそれ見た志津子は、急に取り乱して叫び出す。


「止めて! 私の宗也に何をするの!!」


 晴樹の手に握られたもの。それは、先端の鋭くとがった出刃包丁に他ならなかったのだ。晴樹が何をしようとしているのかを直感的に悟った志津子は、その場で手足をバタつかせながら叫び続けた。


 だが、いかに叫び、暴れようとも、その体は一向に前へと進まない。その間にも、晴樹は手にした包丁を構え、ゆっくりと宗也に近づいてゆく。


「宗也! 宗也!!」


 呼べど叫べど、結果は同じだった。晴樹の手に握られた包丁は、無情にも寝ている宗也の胸元に、寸分の狂いもなく振り下ろされた。


 ドスッ、という鈍い音がして、宗也の胸から真っ赤な鮮血が吹き出した。思わず顔をそむけようとした志津子だが、今度は全身が金縛りに合ったかのようになって動かない。そして、そんな志津子に見せつけるようにして、晴樹は宗也の身体を無情にも斬り刻んでゆく。


 包丁が幾度となく突き立てられ、その度に宗也の身体から血が溢れた。既に絶命しているにも関わらず、晴樹は手にした包丁で宗也の身体を痛めつけることを止めようとはしない。


 一発、二発と包丁が振り下ろされる度に、刃が肉を抉る音が響く。実の息子が、夫の弟の息子によって無残にも惨殺されてゆく。そんな様を見せつけられて、志津子は今にも気が狂い出しそうだった。


 刃を突き立て、斬り刻み、最後は中の物を抉るようにして晴樹が包丁を振るう。やがて、宗也の体が完全に赤く染まると、晴樹は止めと言わんばかりに、血まみれの包丁を宗也の首に突き立てた。


 頸動脈を掻き切られ、再び血飛沫が迸る。ゴリッという骨が軋むような音がしたかと思うと、次の時には、宗也の首は晴樹の手の中にあった。


 右手に包丁を、左手に宗也の首を持ったまま、晴樹はその場に立ちつくしていた。力なく頭を垂れ、その両手は既に真っ赤に染まっている。


「ああ……。宗也……宗也……」


 動くことさえも叶わないとわかっていながらも、志津子の目からはとめどなく涙が溢れた。なにしろ、自分の息子が目の前で解体される様を見せつけられたのだ。この状況で、正気でいられる方が異常であろう。


 ところが、そんな志津子をあざ笑うようにして、晴樹は肩を小刻みに震わせながら笑っていた。これだけ恐ろしい殺戮劇を行っておきながら、いったい何が面白いのか。


「よくも……よくも、宗也を……」


 怒りに身体が震え、志津子は全身に力が戻ってくるのを感じた。こうなったら、晴樹と刺し違えてでも宗也の仇を取ってやる。


 そう考えて部屋の中に一歩を踏み出そうとした時、今までずっと志津子に背を向けていた晴樹が、何の前触れもなく唐突に振り向いた。


「くひっ……くひひひひっ……」


 なんともいえぬ薄気味悪い笑い声を上げながら、血みどろになった晴樹が志津子に迫る。その顔を見た志津子は思わず声を上げ、そのまま後ろに下がってしまった。


 三日月のように、きゅっと曲がって歪んだ笑みを浮かべている口。眼球のある部分は何かに抉り取られたように、ぽっかりと巨大な穴が空いているだけだ。その穴の中央には赤い点のような物が光っており、志津子のことをじっと見据えていた。


 今、自分の目の前にいるのは何だ。愛しの息子である、宗也を殺したのは何者なのだろう。


 もはや、これは志津子の知っている晴樹ではない。いや、増してや人間でもない。



――――鬼子きし



 一瞬、そんな言葉が志津子の頭をよぎった。


 そういえば、晴樹は母親が死んだにも関わらず、自らは流産の危険をも乗り越えて生き延びた。言わば、母の命を吸って産まれてきたようなものである。


 今、自分の目の前にいるのは、この世に産まれて来てはならない存在。晴樹は人ではなく、鬼の子どもなのだ。だからこそ、こんな残酷な真似が平気でできるに違いない。


 血に染まった手を振り上げて、晴樹が徐々に志津子へと迫る。再び金縛りに合ったようにして動けなくなった志津子の頭に、宗也を殺した包丁の刃が振り下ろされるのは、そう時間がかからなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 気がつくと、志津子は縁側に座っていた。その手には、先ほど晴樹に殺されてしまったはずの宗也が抱かれている。


「夢……だったの……」


 現実に戻ったと思ったとたん、肩の力が抜けるのを感じた。どうやら自分は、悪い夢を見ていただけだったらしい。


「宗也……。無事でよかった……」


 自分の腕の中で眠る、最愛の息子。その頭を撫でようと、志津子はふと、腕の中にいる息子の顔へと目をやった。


「ひ、ひぃっ!!」


 それ以上は、何も言葉が出てこなかった。


 三日月のように曲がった口と、ぽっかり空いた穴のような目。その奥に光る赤い光が、志津子をじっと見つめている。


 志津子の腕の中に抱かれていたもの。それは、宗也であって宗也ではない。夢の中に出てきた晴樹の顔はそのままに、それが宗也の身体に宿ってしまったような異形の者だ。


「くひっ……くひひひひっ……」


 志津子の腕に抱かれたまま、宗也の姿をしたそれが不気味に笑った。晴樹が志津子に刃を向けた時と同じ笑いだ。


「あ……ああ……」


 志津子には、もう何を信じてよいのか分からなかった。分かっていることは、ただ一つ。目の前にいるのが宗也ではなく、何か異質な別のものであるという事だけである。


 赤子を抱く手から力が抜け、宗也の姿をした者は、志津子の腕から転がり落ちた。グニャッという妙に柔らかい音がして、落ちた赤子の頭が縁側の側台に打ちつけられた。


 側台の上に血が溢れ、見る間に水溜りのように広がってゆく。が、それでも赤子は笑うことを止めず、やがてゆっくりと立ち上がった。


 頭から血を流してもなお、奇怪な顔をした赤子は笑い続ける。それも、二歳に満たない年齢であるにも関わらず、しっかりと二つの足で大地を踏みしめて。


 あれは、もはや人間でさえない。夢の中で宗也を殺した晴樹と同じ、鬼子だ。


「い、いやぁぁぁぁっ!!」


 思わず叫んだ次の瞬間、志津子は自分の部屋にいた。ふと辺りを見回すと、どうやらいつもの自分の部屋だ。


「ゆ、夢……」


 今度こそ、本当に現実に戻れたのだろうか。試しに頬をつねってみたが、しっかりと痛みを感じることができる。


 隣に寝かせている宗也の顔も覗いてみた。やはりというか当然の事なのだが、そこにあったのは、あどけない表情で眠るいつもの宗也の顔だった。


「まったく……。いったい何なのよ……」


 気がつくと、全身にびっしょりと汗をかいている。まあ、あんな夢を見たのだから無理もない。よりにもよって、自分の息子が殺されたあげく、果ては化け物と入れ替わってしまう夢を見るとは。最近は妙な影が現れる夢にうなされていたが、その影響もあるのだろうか。


 全てが夢だった事に安心し、志津子は再び布団をかぶった。あれは所詮、ただの夢。現実で自分が宗也を殺す事など考えられない。


 この時は、まだ志津子は本気でそう思うことができた。が、しかし、今宵の夢が彼女の人生の歯車さえも大きく狂わせることになろうとは、彼女を含めた君島家の人間達も、まったく気づいてはいなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌朝、君島邸の廊下では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。いつもであれば忙しく駆け回っているはずの家政婦達が、今日に限って何やら集まって話し込んでいる。


 家政婦達の中心にいるのは、庭師の源蔵だ。いつもは独りで黙々と仕事をしている印象が強いだけに、若い家政婦達と話し込むというのも妙なことである。


「ちょっと……皆して、こんなところで何を話しているの?」


 たまたま側を通りかかった沙耶香は、訝しげな顔をしながら若い家政婦達に尋ねた。朝早くから、問題事でも起きたのだろうか。


「あら、沙耶香様。おはようございます」


「堅苦しい挨拶なんて、別にいいわ。それより、一体これは何事なの? 朝の忙しい時間から、皆してこんな場所に集まって」


「それが……実は、源蔵さんが、昨日の晩に妙なものを見たと言われまして……」


「妙なもの?」


「はい。なんでも、夜中に用足しに行った帰りに、鬼を見たそうですよ」


「鬼? それ、本気で言ってるのかしら?」


「私達も、最初は下らない怪談話だと思ったんです。でも、源蔵さんがあまりに強く言うもので……。それに、その話し方も、妙に現実味がありまして……」


「なるほど。それで、皆して噂話に花を咲かせていたのね」


「申し訳ございません、沙耶香様。今すぐ持ち場に戻りますので、どうか旦那様には……」


「わかってるわ。今日のところは見逃してあげるから、お父様に見つかる前に、早く持ち場に戻った方がいいわよ」


 若い家政婦達を軽く諌め、沙耶香は彼女達を持ち場に戻らせた。少しは真面目に仕事をして欲しいとも思うが、彼女たちの中には未だ二十代の者も混ざっている。自分よりも少し年上とはいえ、噂話に花を咲かせたい気持ちも分からないではない。


 その一方で沙耶香には、その場に残された源蔵のことが気になった。


 庭師の源蔵は、古くからこの君島家に仕える者の一人である。昔堅気の職人気質な人間だが、決して気まぐれで根も葉もない噂話を広めるような人間ではない。


 そんな源蔵が、早朝から家政婦達に鬼の話をするとは何事か。きっと、何か理由があるに違いない。


「ねえ、源蔵さん」


 普段とは違う源蔵の態度が気になり、沙耶香は何気なく彼に尋ねた。


「あなた、家政婦の人達に鬼を見たって言ったらしいけど……実際のところはどうなの?」


「へい。私も、未だに自分の目が信じられないんですがね。あれは、確かに鬼でしたよ。昨日の夜、用を足しに行った帰りに、そこの廊下を歩いていたのを見たんでさ」


「本当に? 誰か、他に起きていた人を見間違えたとか、そういったことじゃなくて?」


「馬鹿なこと言っちゃいけませんよ、お嬢様。こう見えても、私はまだ、ボケるには早すぎる歳ですよ。それに、あんなおっかないもの、この屋敷の誰かと見間違えるはずがないじゃありませんか」


 源蔵は、最後の方は、ややもするとまくし立てるようにして言った。その言葉を聞く限り、どうやら彼が、夜中に妙な者と出くわしたのは間違いなさそうである。


 しかし、それにしてもなんということだろう。幽霊騒ぎが解決したと思った矢先に、今度は鬼が出たという噂が立つ。源蔵の言っていることを全て嘘だと言いきれない部分もあり、沙耶香は思わず胸の前で腕を組んで考え込んだ。


 鳴澤皐月の話によれば、君島邸に貼られた黒い札は、全て回収したとのことだった。それならば、源蔵の見たという鬼とは何者だろう。霊道を塞ぐ札を取り去ってしまった今、まだ屋敷の中に先祖の霊が漂っているとは考えにくい。


 また、照瑠や皐月に頼んで真相を探ってもらおうか。そんな考えも一瞬だけ頭をよぎったが、沙耶香はすぐに思いとどまった。


 照瑠には無理な頼みごとをした上で、とても怖い体験をさせることになってしまった。その上、最後は黒い札のせいで、失神するほどに嫌な思いまでさせてしまったのだ。これ以上、彼女に何かを頼むのは酷だろう。


 皐月にしても、騒ぎの元凶を取り除いてもらった昨日の今日で、再び呼び出されるのは良い気持ちがしないはずだ。ともすれば、彼女の仕事に難癖をつけているように思われてしまうかもしれない。


 やはり、ここは自分がなんとかする他ない。迷信を嫌う父に話をしたとことで相手にされないだろうし、それは他の人間も同様だ。祖母の松子であれば話は聞いてくれるかもしれないが、その後、勝手に怪しげな道具などを持ちだして、ますます話をこじれさせてしまう可能性もある。


(私だって……皆には感謝しているんだもの……)


 雇っている者に安心して働いてもらうことは、雇用者としての務めでもある。家政婦達や源蔵を沙耶香自身が雇っているわけではなかったが、何もしないで見ているだけというのも気が引けた。


 こうなったら、自分が事の真相を確かめてやろう。源蔵の言っていた鬼が何者なのかは分からないが、今度は自分が誰かを助ける番だ。君島家を救うという意味ではなく、自分の世話をしてくれている者たちを助けるという意味でだが。


 そこまで考えた時、沙耶香はふと、後ろから自分のことを見つめている視線があるのに気がついた。家政婦達は既に持ち場に戻っているだろうから、彼女たちとは考えられない。


「誰!?」


 振り向いた時には、既に遅かった。廊下の角からこちらの様子をうかがっていた者は、慌ててその場から駆け出した後だった。


 いつもであれば、噂好きの家政婦が聞き耳を立てていた程度にしか考えなかっただろう。ところが、沙耶香は素早く踵を返し、逃げ出した相手を追い始めた。残された源蔵が呆気にとられた様子で彼女を見ているが、構っている暇はない。


 廊下の角を曲がり、こちらを覗いていた者を追い詰める沙耶香。突きあたりにまで差し掛かった時、そこには彼女のよく知る少年の姿があった。


「晴樹……?」


 後ろ姿ではあったが、それが従姉弟である晴樹のものであることは間違いなかった。いったい、彼はあんな場所で、何のために聞き耳を立てていたというのだろう。


「なんだ。沙耶香姉さんか……」


 晴樹はこちらに顔を向けようともせず、沙耶香に背を向けたまま言った。


「なんだ、じゃないわよ。どうして、急にあの場所から逃げ出したりしたの?」


「それは……立ち聞きした事が知れたら、怒られると思って……」


「なにを今さら、そんなこと気にしているのよ。お父様や冴子さんだったらともかく、私が晴樹の事を、そんな理由で叱るはずもないでしょ」


「うん……」


 それ以上、晴樹は何も言わなかった。立ち聞きしていたのがバレて気落ちしているのかとも思ったが、それにしても今日の晴樹は少し変だ。


「とにかく……今日、あの場所で聞いたことは、私のお父様には言わないでおいてね。源蔵さん達だって、悪気があってあんな話をしているわけでもないでしょうし」


 晴樹からの返事はなかったが、沙耶香はそれを了解と判断した。とりあえず、源蔵や若い家政婦達が、いらぬ事で父から咎められるようなことにならねばそれでよい。


 廊下の突き当たりに佇む晴樹を残し、沙耶香は今晩にでも、源蔵の言っていた鬼の正体を探ろうと考えていた。



――――この家には鬼が住んでいる。



 幼い頃、祖母である松子から聞かされた言葉が頭をよぎる。この君島邸で何かよくない事が起きると、決まって松子はそう言っていた。もっとも、父はそれを、全て単なる迷信として片づけていたが。


 源蔵の見た鬼というのは、果たして松子の言っていた鬼なのか。真相は不明であったが、沙耶香にはどうしても、二人の老人の言っている事が嘘として片づけることができなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 早朝は慌ただしさに包まれるような場所であっても、時間によっては静寂が支配することもある。調理場というものも、時としてそのような場所の一つに数えられるだろう。


 君島邸の厨房は、朝の喧騒が嘘にように静まり返っていた。朝食の片付けも全て終わり、今は家政婦も調理師も全て出払っている。無人の調理場に残されているのは、洗浄を終えて山積みにされた食器や調理器具だけだ。


 人っ子一人、ねずみ一匹さえもいない無人の厨房。つい先ほどまでは熱気に溢れていたこの場所の姿を、今の様子から想像する事のできる人間は少ないだろう。


 ところが、そんな静寂を破るようにして、厨房の扉が前触れもなく開け放たれた。その向こうから姿を現したのは、一組の男女である。


 男の方は、その恰好からして調理師であることは容易に想像できた。


 風間純一かざまじゅんいち。君島家お抱えの料理人であり、この家の者に出される食事は、全て彼の手によって作られる。まだ三十代前半と思しき年齢だったが、その腕は確かなものである。


料理の守備範囲も極めて広く、和食だけにとどまらない。中華からフレンチまで、実に様々な高級料理を作ることのできる腕前の持ち主なのだ。


 一方、女の方は、その純一を雇っている君島家の人間に他ならなかった。君島邦彦の妹にして、君島家の長女、君島冴子である。


 二人は絡み合うようにして厨房になだれ込むと、そのまま壁にもたれかかる形で抱擁を交わした。互いに相手の腰に腕をまわし、その唇を激しく重ね合う。


 貪欲に、それこそ本能の赴くままに、純一と冴子は互いの事を求め合った。誰もいない調理場で、純粋に男と女の関係となって欲望を分かち合う。その背徳的な行為に、冴子の鼓動はますます高まってゆく。


 初め、純一の口に重ねられていた冴子の唇が、這うようにして純一の首筋へと運ばれる。厨房にはなんともいえぬ怪しい空気が満ち、それがますます冴子の理性のたがを外してゆく。


 だが、そこまで進めた時、純一は冴子の手をそっと握って身体を離した。


「残念ですが、今日はここまでですよ、冴子さん。いくら人がいないからといっても……ここでは、万が一ということもありえます」


「あら、どうしてかしら。この時間、この場所なら誰も来ないって言ったの、純一さんでしょう?」


 なごり惜しそうしながら、冴子は純一の顔を上目づかいに覗き込んだ。


「駄目ですよ、冴子さん。それよりも、あなたの言っていた計画……。今日は、その事について話をするのではなかったのですか?」


「ええ、そうね。この家に妙な噂が立っている今こそ、邪魔者に退場してもらう絶好の機会だもの」


「まったく恐ろしい人だ、あなたは。その気になれば君島家そのものを、あなたの手に収める事もできるのではないですか?」


「ふふっ……。さすがに、私もそこまではできないわよ」


 純一のその言葉に、冴子は軽く笑いながら答えた。三十路を過ぎてもなお、いや、過ぎているからこそできる、妖艶な笑みだった。


「私は、この君島家の遺産がどれだけ自分の手に入るかしか興味がないもの。それは、純一さんも分かっているでしょう?」


「ええ、もちろんです。そのためには、少しでも権利を持った者に、早々と退場していただかねばならないということもね」


「その通りよ。でも、うかつに毒なんて使ったら駄目ね。私、まだ警察につかまりたくはないもの」


「それも大丈夫ですよ。今宵は冴子さんのために、私がちょっとした前菜を用意しましょう」


「前菜、ね……。あなたが考えるものなら、さぞ面白い見世物なんでしょうね」


 冴子の口がにやりと歪む。


 純一は冴子の表面だけでなく、心の奥にある欲望までも理解した上で関係を持っている。だからこそ、このような笑みを躊躇いもなく見せられるのだ。


「ああ、純一さん……」


 冴子の手が、再び純一にのびた。その顔を撫でるようにして、純一の胸に身体を預けて来る。


「早く遺産を手に入れて、あなたと一緒になりたいわ……」


「それは、私も同じですよ、冴子さん。そのためにも、まずは一つずつ、片をつけていかねばなりませんね……」


 純一の手も、冴子の顔に添えられる。二人は再び唇を重ね、そのまま自らの欲望に身を任せた。


 もう、夜まで待つ事などできはしない。先ほどの言葉など忘れ、純一は厨房にある二つの扉に手を伸ばした。


 表と裏、厨房に続く二つの出入り口に鍵をかけ、二人は互いの本能の声に従うままに身体を重ね合わせた。二人の世界と外の世界は厨房の扉で遮られ、今は誰も邪魔する者などいない。


 互いに快楽の園へと堕ちながら、厨房の中には冴子の悩ましげな声が響き渡る。そんな二人の様子を見つめる影があったことなど、この時の純一と冴子が知る由もなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夏草の香りが吹き込む君島邸の廊下を、晴樹は一人、複雑な顔をしたまま歩いていた。


 この時間、中庭から流れてくる風は、真夏の暑さを忘れさせてくれる心地よさがある。この、歪んだ感情の交錯する君島邸の中でさえ、それは変わることはない。


 だが、そんな爽やかな色の風を受けても尚、晴樹の心はまったく晴れやかな気持ちになれなかった。


 先ほど、何気なく通った厨房の近くで、思わず耳に入ってしまった妖艶な声。その声に惹かれるようにして中を覗いたとき、自分の目の前で繰り広げられていた光景がなんなのか。


 男女の関係にそこまで詳しいわけではなかったが、それでも晴樹とて、そこで何が行われているかくらいは、容易に想像できた。そして、その行為にふけっている者達が何者なのかも、直ぐに見当がついてしまった。


(あれは……冴子叔母さんと、純一さんか……)


 男と女が、昼日中から情事に耽る。当人達にとっては普通の行いでも、未だ中学生でしかない晴樹にとって、それはあまりにも刺激が強過ぎた。


 自分の叔母が、自分の家に勤める料理長と交際している。それも、家の者には内密に、限りなく不倫に近いような関係で。


 このことを、果たして自分の父に伝えて良い物だろうか。一瞬、妙な正義感から、自分が見た物を全て吐き出したくなってしまった。が、父よりも先に伯父である邦彦の顔が浮かび、晴樹は力なく肩を落として溜息を吐いた。


 伯父の邦彦は、何よりも君島家の名声を重視するような人間だ。その上、今は長男の宗也が生まれたことで、彼に家元の名を継がせることに躍起になっている。


 それ以前から、晴樹のことを厄介者扱いしていた邦彦のこと。ここで冴子と純一のことを話したとて、逆にこちらがとばっちりを受けないとも限らない。少なくとも、君島家の名を守るため、確実に隠蔽工作に走るはずだ。そして、自分が厨房で見た物は、全て子どもの与太話として片付けられてしまうに違いない。


 こんなとき、せめて母が生きていてくれたら。ここ最近、晴樹はそう考えることが多くなっていた。


 自分の母は、既に他界してこの世にいない。しかし、父の話では、極めて聡明で心優しく、誰にでも分け隔てなく接することができる女性だったと聞く。それこそ、晴樹が生まれる以前、まだ従姉弟の沙耶香が幼かった頃は、彼女のことを自分の子どものように可愛がっていたという。


 互いに憎み、いがみ合うことしかできない君島家の人間の中で、母のような考えができる者は貴重だった。しかし、その母も今はおらず、自分は顔さえ見たこともない。彼女が晴樹を生んだ際に亡くなったということは、既に父や邦彦の口から聞かされていた。


 自分が生まれたせいで、母親が死んだ。そのことが、晴樹を妙に自罰的で、内向的な性格にしてしまっていた。自分は生まれたときから業を背負っている。そんな考えが、物心ついたときから染みついてしまったからだろうか。


「おや、晴樹様。そんなところで、何をされているのですか?」


 突然、後ろから声をかけられて、晴樹はつい肩をすくめて飛び上がった。そのまま後ろを振り返ると、そこにいたのは、ハタキを持ったまま立っている時枝だった。


「なんだ、時枝さんか。あんまり、驚かさないでよ」


「これは、失礼いたしました。ですが……その……あまりに晴樹様が難しそうな顔をしていらしたので……。これは、何か御悩み事でもあるのかと思いまして……」


「えっ!? い、いや……そんなこと、ないけどさ」


「左様でございますか。では、私も家の掃除がある故、これにて失礼させていただきます」


 そう言うと、時枝は晴樹に頭を下げ、いそいそとした足取りで彼の前を通り過ぎて行った。その際、彼の耳元に向かって、ふっと呟いてゆくのを忘れずに。


「厨房で見たものは、お忘れください。あのような輩は、所詮君島家の面汚し。晴樹様が悩むことなど、何もありませぬ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。それが自分の心内に抱える悩みを言い当てられたのだと知ったとき、時枝の姿は既に晴樹の前から消えた後だった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 日中のうだるような暑さとは反対に、夕暮れ時の火乃澤町には涼しい風が吹く。


 遠くから聞こえるヒグラシの鳴き声に耳を傾けながら、君島沙耶香は自分の部屋で今晩の準備を進めていた。


 庭師の源蔵が見たという鬼。彼女は今晩、その正体を探るための用意をしているのだ。


 薄暗がりの中、唯一の光源として使うための懐中電灯。真夜中までに眠らないよう、強烈なカフェインを含む栄養剤も買っておいた。夕食の後にこれを服用すれば、源蔵が鬼を見たという時間までは眠らないでいられるだろう。


 これで、準備は万端だ。そう思った沙耶香の目に、ふと机上に置いてあるハンカチが目に入った。


(あれは……)


 見覚えのあるハンカチを取ると、その中からは指輪が一つ転がり出て来た。あの日、初めて照瑠を泊めた翌日に、彼女から譲ってもらったものだ。照瑠は安物と言っていたが、その素朴が気に入って、彼女から譲り受けたのである。


「そう言えば、ここ最近のゴタゴタで、すっかり忘れていたな……」


 譲ってくれた照瑠には申し訳ないが、忘れていたのは事実である。しかし、改めて目にすると、やはり譲ってもらってよかったと思うのだ。


 幼い頃から君島家の人間として育てられ、自分の趣味さえも父や母によって決められて育ってきた。あらゆる物は全て父や母から買い与えられ、自分の意思や考えを挟む余地などまるでなかった。


 盆踊りの屋台で、誰もが持っているような安いアクセサリーを購入する。そんな他愛もないことでさえ、沙耶香は許されてこなかった。だからこそ、自分は照瑠のしていた指輪を見て羨ましいと思ったのかもしれない。


「そうだ。この指輪、今晩つけてみよう」


 懐中電灯と栄養剤の横に、沙耶香はハンカチで指輪を包んで置いた。根拠は何もなかったが、なにしろ、あの照瑠のくれた指輪である。神社の巫女からもらったものならば、もしかすると御守り代わりになるかもしれない。


 昔から、魑魅魍魎と戦う者は、護身のために御守りを持ったという。照瑠の指輪がその役割を果たすかどうかは疑問が残るところだったが、それでも沙耶香は照瑠からもらったその指輪に、何か不思議な力があるのではないかと感じていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 沙耶香にとって、夕食はあまり好きではない時間の一つだった。照瑠を呼んだ時もそうだったが、この時間だけは君島家の人間が顔を揃えねばならなくなる。既に隠居に近い生活を送っている松子は別として、それ以外の者が顔を出さないわけにはいかないのだ。


 正直、沙耶香は家族と一緒に食事をするのが苦手だった。父は戸主としての威厳を妙に誇示しようとするし、母はそんな父に迎合するだけ。そこへ叔母の冴子が口を出し、大なり小なり、口論となる。


 こんな状況では、どんな食事を出されても美味しいと感じられるはずがない。なにより、こんなものを日々見せつけられては、まだ中学生でしかない晴樹の教育上もよくないと感じた。


(こんな時間、さっさと終わってしまえばいいのに……)


 そう思いながら手早く食事を済ませてしまう沙耶香だが、今日に限って、そうする必要はまったくなかった。


 夕食の時間など、早く終わればよい。そんな沙耶香の願いは、意外な形で叶えられる事になったのである。


 膳に乗せられて運ばれてきた食事にある、味噌汁の中に志津子が箸を入れた時である。


「ひ、ひぃっ!!」


 甲高い悲鳴を上げ、志津子は手にしていた御椀を取り落とした。畳に味噌汁がぶちまけられ、その場にいた全員の目が彼女に集まる。


 だが、そんな事はお構いなしに、志津子はただ零れた味噌汁と転がった椀を眺めて震えていた。何事かと思い、志津子の視線の先にあるものを見る一同。すると、それを見た誰もが息を飲み込んで、それ以上は何も言えなくなる。


 志津子の落とした椀の中からのぞいているもの。それは紛れもない、長い女の髪の毛だったのだ。あまりに奇怪な光景に、誰もが驚きを隠せない。


「おい! 今日の味噌汁を運んできたのは誰だ! 自分の髪の毛を味噌汁に落とすなど、注意が足りない証拠だぞ!!」


 邦彦がわざとらしく大声を上げた。味噌汁の中にあった髪の毛が、家政婦の中の誰かのものだと考えているらしい。


「あら、お兄様。そんなに怒らなくても、家政婦の者たちには、味噌汁に髪の毛を入れることなんてできはしませんわ」


 邦彦に意見しているのは冴子だ。先ほどは他の者と一緒になって驚いていた様子だが、すぐに落ち着きを取り戻している。


「味噌汁は椀によそわれた後、ずっと蓋がしてあったのよ。だから、髪の毛が入る可能性なんて、万に一つもないわね」


「だが、誰かが運んでいる途中に蓋を開ければ……」


「意図してやらない限り、そんな事は無理よ。それに、御膳は何人もの家政婦が、一列になって運んできたのよ。その途中で変なことをすれば、他の人がすぐ気づくわ」


「だったら、料理人を呼んで来い。風間……あいつが、何かヘマをやらかしたに違いない!!」


「それも無理な発想ね。男である彼の頭から、どうやってあんなに長い髪の毛が抜け落ちるというの?」


「だったら、お前はなぜ志津子の味噌汁に髪の毛が入っていたと思うんだ。何か、気づいていることがあるんじゃないのか?」


「さあ? きっと、お化けが悪戯でもしたんじゃないのかしら?」


 冴子が小馬鹿にしたように言い放った。邦彦は明らかに憤慨した様子だったが、その隣にいる志津子は身体を小刻みに震わせているだけだった。傍から見ても、彼女が酷く怯えているというのがよく分かった。


「あの……。私、今日はもう、休ませていただきますね……。なんだか、気分がよろしくないもので……」


 それだけ言って、そそくさと部屋を出る志津子。後に残された者達の間には、気まずい沈黙だけが残された。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 暦の上では既に秋だというのに、外の空気は依然として暑苦しかった。それは、部屋の中も同じ事。君島邸は風通しのよい造りになっているとはいえ、この暑さを完全に防ぐことはできない。


 その日の晩は、特に暑く寝苦しい夜だった。おまけに雲も出ているようで、星はもとより月明かりさえない。


 灯りの消えた自分の部屋で、沙耶香は鬼の正体を探るための準備を整えていた。


 夕食時の騒ぎも気になるところではあったが、あれは何かの間違いであったと思いたい。いくら幽霊だの鬼だのといった噂が立っているとはいえ、味噌汁に髪の毛の束が入っているなど、さすがに出来過ぎている。あんなものは、安っぽいホラー映画の世界だけの出来事だと信じたかった。


 懐中電灯は、いざという時のために持っておく。もっとも、この暗がりで灯りをつければ、すぐに相手にバレてしまうだろう。これを使うのは、本当に必要に迫られた時だけになりそうだ。


 昼の内に買っておいた栄養剤は、既に飲み干してあった。これで、張り込みをするような状況になっても、睡魔に負けて眠らずに済む。


 最後に照瑠からもらった指輪を人差し指にはめ込んで、沙耶香はそっと部屋を出た。時刻は既に深夜の二時。調度、源蔵が鬼を見たという時間である。


 深夜の君島邸を、沙耶香は足音を立てないよう注意しながら進んだ。つま先立ちで歩かないと、木の軋むような音がしてしまうので気をつけねばならない。おまけに、その日に限って湿度も高く、下手に歩くと汗ばんだ足が廊下を離れる時にも音がした。


 足のつま先に全神経を集中させ、沙耶香は夜の廊下を歩く。源蔵が鬼を見たという場所までは、もう少しだ。その場についたら、後はそこに張り込んで鬼を待てばよい。


 いかに灯りの無い夜と言えど、目が慣れて来ると、多少は勝手が分かるようになっていた。やがて、源蔵の言っていた場所に辿り着き、沙耶香は物陰にそっと身を隠す。


 果たして、鬼は本当に現われるのだろうか。もし、現われたとして、その正体はなんなのだろう。


 時間が経つにつれ、沙耶香の中で不安の方が大きくなっていった。仮に鬼が本当にいたとして、それを確かめた後はどうする。まさか、いきなり飛び出して捕まえるわけにもいくまい。


 今さらになって、沙耶香は自分の行動を後悔し始めた。願わくば、鬼など源蔵の見間違えであって欲しい。そんな考えが頭をよぎった時だった。



――――ぎしっ……。



 突然、床の軋むような音がして、沙耶香の背中に冷たいものが走った。この夜中に、自分以外に家の中を歩き回っている者がいるというのだろうか。



――――ぎしっ……。



 また、音がした。今度は空耳などではない。間違いなく、誰かがこちらに向かって歩いてくる。


 沙耶香は思わず廊下の角に身を隠すと、そこからそっと覗くような姿勢で辺りの様子を窺った。その間にも、あの足音は、徐々にこちらへと近づいてくる。



――――ぎしっ……ぎしっ……ぎしっ……。



 音は既に、沙耶香の耳にもはっきりと聞こえるようになっていた。その音に誘われるままに、沙耶香は廊下の先に現われた、音の主の姿へと目をやった。


(あっ……!!)


 思わず声が出そうになるのを堪えるので精一杯だった。


 暗闇の中、雲の切れ間から現われた月の灯りに照らされて、足音の主が姿を現す。白装束に、梵字の書かれた張子の面をつけた者。手には金槌と釘を持ち、仮面の額からは日本の鋭い角がのびている。



――――鬼だ……!!



 直感的に、沙耶香はそう思った。頭では仮面を被った人間だと分かっていても、あの姿を見れば、そう思わざるを得ない。


 次第に足音が遠ざかってゆくのを耳にして、沙耶香はそっと鬼の仮面を被った者の後をつけた。相手に気づかれないように、足音に合わせて自分の足を出す。息を殺し、一定の距離を保ちつつ、可能な限りの気配を消して鬼の後を追った。


 長い廊下を抜け、やがて鬼は屋敷の裏口へとやってきた。裏口の戸をそっと開け、裸足のまま外へと向かう。


 これ以上、あの鬼を追いかけるべきなのか。沙耶香は一瞬だけ迷ったが、すぐに気を取り直して後を追った。自分も裸足のままであったが、この際、気になどしていられない。


 あの鬼はいったい誰で、何をしようとしているのか。せめて、鬼が向かっている場所だけでも突き止めねば、その正体を探ったとは言えないだろう。


 月は再び雲に隠され、屋敷の外は闇が一色に支配していた。それでも微かな灯りはあるようで、沙耶香はそっと鬼の後をつけてゆく。


 しばらくすると、沙耶香は君島邸にある蔵の前に辿り着いていた。どうやら、鬼の目指していた場所はここらしい。いつもは厳重に鍵のかかっている蔵だが、今はそれも外されている。


 鍵の開いた蔵の扉を、沙耶香はそっと開けてみた。ここまで調べれば既に十分ではあったものの、好奇心が彼女の気を強く保たせていた。


 君島邸の蔵は、鬼剣舞で使われる衣装や道具を保管しておく場所でもある。普段から薄暗く気味の悪い場所だったが、夜に訪れるとそれも倍増だ。


 思わず懐中電灯をつけてしまおうかと思ったが、さすがにそれは思いとどまった。ここで灯りをつけてしまえば、相手に自分の位置を晒しているようなものだ。


 壁に置かれた様々な鬼の面が見つめる中、沙耶香は蔵の奥へと進んでいった。すると、なにやら重たいものが転がっているのに気づき、すかさずそれを取り上げてみる。


 それは、外の鍵と同じ造りをした南京錠だった。確か、君島邸の蔵には地下が存在したはずである。なんでも、先代の戸主である君島良寛が、ほうぼうから集めた珍しい酒を保管しておく酒蔵だったらしい。生前、全てを飲みきれなかったのか、今でも様々な酒が樽に入ったまま保管されているとのことだった。


 地下に続く木製の蓋を開け、沙耶香は下へとのびる梯子に足をかけた。古い割にはしっかりとした作りで、足を踏み外さない限りは落ちる心配もない。


 梯子を降りると、沙耶香の鼻腔を微かにアルコールの臭いが刺激した。酒の匂いが微かに漂う蔵の地下。さすがにここは灯りもなく、今はまったくの闇である。


 これ以上は、灯りなしに調べることはできない。不本意ではあったが、沙耶香は懐中電灯のスイッチを入れた。相手がどこかに潜んでいる事を考えると危険なかけだったが、この暗闇ではどちらにせよ満足に動く事ができない。


 辺りを見回してみると、初めて入る蔵の地下は、沙耶香の思っていた以上に広かった。山積みにされた沢山の酒樽を始め、なにやら祖父が生前に集めた古美術品の類も仕舞われている。そのほとんどが仏像であり、この暗闇で見るにはなんとも不気味だ。


(それにしても……)


 ここまで来て、沙耶香はふと鬼の気配がないことに気がついた。既に地下から出てしまったのか、それとも物陰に潜んでいるのか。


 油断せず辺りを警戒しながら、沙耶香は懐中電灯の光を部屋の角に向けた。そこの壁には小さな棚が据え付けられており、上にはいくつかの仏像が乗っていた。


 さらによく近づいて見ると、それは七福神の像だった。木製の、いかにも年季が入った代物である。きっと、これも祖父の収集品の一つなのだろう。


 ところが、その像を見ている内に、沙耶香は奇妙な事に気がついた。


 七福神は、当然のことながら七人揃って七福神である。ところが、目の前にある七福神は、像が六つしかない。つまり、七人の内の誰かが欠けた状態なのだ。


 寿老人、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋、恵比寿……。


 並んでいる順に神の名前を挙げてゆくと、どうやら欠けているのは福禄寿のようだった。あの、妙に細長い頭をした、中国の仙人を思わせる神だ。


 七人の内、なぜ福禄寿だけが欠けているのか。そんな沙耶香の疑問は、懐中電灯の光を少し横にずらしたことで、すぐに解決した。


「うっ……」


 七福神の置かれていた棚のすぐそばの壁。そこに半ば貼り付けられるようにして釘を打ち込まれていたものを見て、沙耶香は思わず電灯を落としそうになった。


 壁に貼り付けられていたのは、他でもない福禄寿の像だった。ただ、その姿は既に福の神としてのそれではない。


 頭を下に向けられ、上下逆さまに壁へと貼り付けられた木製の像。その胸には大きな五寸釘が打ち込まれていたが、奇怪なのはそれだけではなかった。


 沙耶香の前にある福禄寿の像には、同じような五寸釘で二枚の札が貼られていた。そのどちらもが、黒字の紙に赤黒い何かで字が書き込まれている。あの、浮世絵の裏にあった札にも似ていたが、こちらは梵字が一文字しか書いていない。


 だが、それにも増して恐ろしかったのは、その文字を書くのに使われたものが何を知ってしまったからであった。


 札に梵字を書くために使われたもの。それは紛れもなく、何かの血液に他ならなかったのだ。一枚は既に血も乾き、どことなく褐色じみていたが、もう一枚の札にある血文字は、今しがた書いたかのように鮮やかな色をしていた。


 逆さまにされた七福神と、それに貼り付けられた血文字の札。これはいったい何を意味するものなのだろう。そう、沙耶香が考えた時だった。


 突然、彼女の後ろで、バタンッという大きな音が聞こえた。嫌な予感が頭をよぎり、慌てて今来た道を戻る沙耶香。が、地上に通じる梯子を上ったところで、沙耶香は自分の予感が的中した事に絶望した。


 地上へと続く入口の戸が、固く閉ざされていた。試しに強く押してみたものの、鍵がぶつかるガチャガチャという金属音しか聞こえない。


 なんということだろう。鬼は、ずっと前から自分の尾行に気づいていたのだ。それも知らずに、自分は誘われるがままに蔵の地下へと足を踏み入れてしまった。その結果、自分は相手の思惑通り、この薄暗く湿った蔵の地下に閉じ込められることになってしまったのだ。


「開けて! 誰か、ここを開けて!!」


 無駄だとは分かっていながらも、沙耶香は叫び、戸を叩き続けた。しかし、すぐに何の返事もないことに気づき、改めて絶望が彼女の心を覆う。


 階段を下り、沙耶香は力なく床に手をついた。真夏だというのに地下の床は冷たく、それがますます希望を奪うことに拍車をかけた。


 この蔵は、一年の間にそう何度も開けられるものではない。増してや、地下などを開ける機会は皆無に等しい。


 このまま自分は、誰に知られる事もなく、この地下で朽ち果ててゆくのだろうか。そう考えただけで、恐怖に身体が震えるのを抑えることができなかった。


「誰か……助けて……」


 真っ暗な闇に覆われた地下に、沙耶香の声が虚しく響く。だが、そんな彼女の声に返事をする者は、誰一人としていなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 朝日が昇るより早く、真夜中というにも不自然な時刻。


 夕刻から日没までの僅かな時間を逢魔が時と呼ぶならば、夜中と夜明けと間の時刻もまた、魔が蠢く時刻なのであろうか。


 夜明けの晩。まさにそう表現するに相応しい時刻に、君島志津子は自分が呼ばれているような気がして唐突に目を覚ました。


 いったい、こんな時間に自分を呼ぶのは誰だろう。あれこれと考えてみたが、どうにも頭がはっきりとしない。なんだか妙に身体が重く、節々が痛んで仕方がない。


「嫌だわ……。また、変な夢でも見たのかしら……」


 思いだそうとしても、夢の内容までは思い出せなかった。額に手を当ててみたが、熱もない。ならば、妙な時間に目覚めたことで、単に疲れているだけなのだろうか。


「まったく……。おかしな夢ばかり見るものだから、疲れているのね、きっと……」


 再び床に就こうとした志津子だったが、彼女はすぐさま布団を跳ね上げて飛び起きた。


 今度は気のせいではなく、はっきりと彼女の耳に聞こえた。これは、隣で寝ている宗也の声。最愛の息子が、母を求めて泣く声だ。


 こんなにも近くにいて、なぜ今まで気づかなかったのだろう。不審に思いながらも、志津子はそっと宗也の側に近寄った。母である自分が抱きあげれば、宗也も安心するに違いない。


 だが、泣き叫ぶ宗也の顔を覗き込んだ志津子は、小さな悲鳴を上げて思わず飛び退いた。


 薄暗い部屋の中、志津子の目に入ってきたもの。それは、宗也の身体を持ちながら、宗也ではない別のものだった。


 三日月のように歪んだ口。つぶらな二つの瞳があるはずの場所には、ぽっかりと黒い穴があるだけだ。その奥からのぞく赤い光が、不気味な輝きを持って彼女を見つめている。


 これは、あの夢と同じだ。夢の中で宗也を殺した晴樹の顔。そして、自分の腕の中で豹変した宗也の顔。忘れようにも忘れられない、鬼の子の顔だ。


「くひひっ……くひひひひっ……」


 気がつくと、既に宗也は泣き叫ぶ事を止めていた。その代わりに、歪んだ口元をそのままにして、あの薄気味悪い笑い声を上げたのだ。


「い、いや……」


 畳に腰をついたまま、志津子はずるずると後ろに下がった。その間にも、宗也は例の不気味な声で笑い続けている。まるで、志津子が恐れおののいているのを、面白がっているように。


 そうこうしている内に、宗也は身体を起こし、志津子の方へと這い寄って来た。あの、鬼の子の顔はそのままに、じりじりと追い詰めるようにして近づいてくる。


 これは、きっとまた夢だろう。いや、そうに違いない。宗也が鬼の子であるなど、そんなことは……。


 そう、志津子が考えた時、宗也が彼女の足首をつかんだ。その、あまりの冷たさに、志津子は甲高い悲鳴を上げて息子の手を振り払った。


 ドライアイスを直に肌に当てられたような、あの感覚。冷たいという線を通り越し、もはや痛みしか感じない。そして、その痛みは妙に鮮明で、志津子の神経を刺激するものだった。


 これは夢などではない。宗也は晴樹と同じ、鬼子になってしまった。そんな考えが志津子の頭をよぎったところで、目の前にいる宗也の姿と晴樹の姿が重なった。


 昨日の明け方近くに見た夢で、宗也を思い出すのも恐ろしい方法で惨殺した晴樹。宗也を解体した出刃包丁を片手に、今度は志津子を殺さんとゆっくり迫る。そんな恐ろしい晴樹の姿が、鬼子の顔になった宗也と重なってしまったのだ。


「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」


 志津子が再び悲鳴を上げ、その精神のたがを外すのに、そう時間はかからなかった。廊下へと続く襖を乱暴に開け放ち、そのまま部屋の外へと飛び出してゆく。


 あれは、もう自分の知る宗也ではない。何者かに憑かれ、鬼の子と化した異形の者だ。そして、鬼の子は例外なく母を殺す。己の母親の命を喰らってまで生にしがみついた、あの晴樹のように。


 既に、冷静な判断力は志津子の中から失われていた。


 このままでは、自分は殺される。そう思うと、いてもたってもいられなくなり、志津子は一目散に廊下を駆け出した。


 まだ、日も昇るか昇らないかといった時刻、君島邸の中を志津子が駆ける。彼女が目指すのは、屋敷の厨房。あそこなら、鬼の子を始末するための武器がある。


 息子へ向けていた愛情など、志津子の中からとうに消え去っていた。宗也が何かに憑かれたと思っている志津子自身、まるで何者かにとり憑かれたようにして、厨房の食器や調理器具をひっくり返してゆく。


 皿の割れる音、金属のぶつかり合う音、そして鍋の転がる音。


 あまりの喧騒に、他の部屋で寝ていた者たちも次々に目を覚まし、音のする厨房へと集まってきた。が、そんなことはお構いなしに、志津子はただ武器となる刃を探し続けた。


 長方形をした菜切り包丁。これは駄目だ。武器として使うには、鉈の方がまだ効果は高い。


 出刃包丁。これも悪くはないが、まだ殺傷能力に劣る。


 次々と包丁を放り出し、志津子が最後につかんだもの。それは、大型の魚をさばく時に使う、細長い刺身包丁だった。


 これだ。これならば、確実にあの鬼子を仕留められる。あれは既に宗也ではない。いくら自分の息子といえど、鬼子に殺されるような趣味は自分にはない。


 子どもなど、また新しく作ればよい。自分はまだ、女としての機能は失っていないはずだ。


 あれを殺した後は、晴樹を始末しよう。その次は、何の役にも立たない沙耶香だ。君島の屋敷に、鬼の子も役立たずも要らない。要るのは自分の血を分けた、新たな後継ぎとなる者だけである。


 家の者達が唖然とした顔をして志津子を見つめる中、彼女の頭は既に恐ろしい妄想にとり憑かれていた。普段の彼女からは考えられない、残虐で血生臭い思考。それらに支配されてしまった志津子もまた、この家に巣食う鬼の一人と言っても過言ではなかった。


「おい、何をやっているんだ!!」


 あまりの奇行に見かねたのか、その場にやってきた邦彦が志津子の手をとった。が、それがまずかった。


 志津子の目に映った邦彦の顔。それは、あの晴樹や宗也が見せた鬼の顔に他ならなかった。三日月のように歪んだ口と、穴のあいた目の奥で輝く赤い光。他の者から見ればいつも通りな邦彦の顔も、今の志津子には、なぜか恐ろしい魔物の顔にしか見えなかったのだ。


 次の瞬間、ドスッという鈍い音と共に、邦彦は腹部に鋭い痛みを感じた。一瞬、周囲の時間が止まったかのように、不気味な静寂が辺りを包む。


 べシャッという水気を含んだ音を立てて、邦彦の身体が厨房の床に沈む。そして、数秒の間を置いた後に厨房に響いた、一人の家政婦の悲鳴が均衡を破る引き金となった。


「きゃぁぁぁぁっ! だ、旦那さまがぁぁぁぁっ!!」


 腹からおびただしい量の血を流しながら、邦彦は赤い海の中に身を沈めていた。陸に打ち上げられた魚のように、口だけがパクパクと、何かを言いたげに動いている。


 東の空が白み始めたその時、既に厨房の中はパニック状態だった。悲鳴を上げ泣き叫ぶ家政婦達の声が混乱に拍車をかけ、その間にも邦彦の腹からは鮮血が溢れ出てゆく。


「あははははっ! 鬼を……鬼をやったわぁ!!」


 既に腕まで赤く染めた志津子だけが、場違いなほど高らかに笑っていた。その瞳に既に光はなく、手にした刺身包丁の先端から赤い雫が滴り落ちている。


「鬼じゃぁ……。とうとう、鬼が動き出したぞ……」


 いつの間にか、そこには松子が現れていた。狂ったように笑う志津子を見て、松子はしきりに「鬼の仕業だ」と繰り返していた。

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