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第1章:壊れ始めた日常

昼休みに入る直前。僕は、回付された取引先に提出する請求書の下書きを見て、時計に目を動かす。


あと3分あるな。


すぐに、その下書きを作成した副主任の席へ向かう。


「ねぇ、これ5,690万円になってるけど、5,960万円の間違いじゃないか?」


『あ、すいませんでした。課代よく気が付きましたね。』


課代とは、課長代理のことを指す。管理職以上は、役職で呼ぶ風習があるこの会社では、僕は課代と呼ばれる。


正直、僕は、名字でも、名前でも、自分のことを呼ばれるのが、あまり好きではないので、この風習は、とても助かる。


しかし、労働組合の一部の組合員の中では、名前を呼ばず、役職で呼ぶこの風習は、人権侵害だとか、権威的だとか、言っており、改善すべきだという声が上がっているそうだ。

全く、余計なことをしないでほしいものだ。


「まぁ、請求書とか金額がメインの書類は、数字が大切だからね。」

「他のところを、間違えたとしても、最悪なんとかなるんだけどね。だから、せめて、数字だけは、次からもう一度、提出する前に、きちんと確認してね。」


『はい、分かりました。本当に失礼しました。』


僕が、管理職に昇進し、今年の4月1日付けで、この課に異動してから、この副主任に、同じことを言うのは、これで3回目だ。


それでも、同じ過ちを繰り返すのだから、人間といえど、必ずしも全員が、自然界の頂点に立つ器ではないのだろう。


しかし、うちの会社では、管理職手前の主任までは、全員が年次毎に自動的に昇格できるようになっているので、この子も再来年には、主任に昇格する。


あと2年間で、10回くらいは、この子に、同じセリフを言うことになるのだろうか。


まぁ、その間に改善してくれれば、合格点だろうと自分に言いきかす。


正直、これくらいのミスは、僕が、修正をしてしまっても良いと思っている。


しかし、文章の誤字脱字と異なり、資金移動に関わる数字に誤りがあっては、絶対にならない。


そのため、この手のミスは、本人に指摘をして認識をさせた上で、必ず本人に修正をさせる。


『課代、すみません。修正版の回付は、午後でも宜しいでしょうか?』


彼女は申し訳なさそうに、僕に聞きながら、僕の背後をチラッと見る。


後ろを振り返ると、彼女を待っている他の課の女性社員たち2名がこちらを見ていた。恐らく、ランチでも食べに、一緒に外に行く約束でもしてるのだろう。


「午後すぐに、修正版を回付してくれれば間に合うから、ランチ行っておいで。」


僕が、そう言うと、彼女は、ありがとうございます、と大きな声で言って、財布とスマホを小さなカバンに入れて、少し駆け足で、彼女を待つ2人の同僚のところに向かった。


財務・経理部には、本日の定時までの提出を命じられている。僕の後、次長と部長の承認も必要だが、運良く、今日は2人とも、午後は執務室にいるので、午後すぐに承認をもらえれば、間に合うだろう。


本来、課長の承認が必要なのだが、その承認行為を含めた課長代行業務を、課代である僕が、一時的に担っている。


課長は、母親が危篤状態とのことで、これまで貯まった有給休暇と介護休暇を合わせて、丸1か月休暇を取っている。


この間に、ご臨終されたら、ご母堂の忌引き休暇も取得して、更に休みが伸びるだろう。


課長が、この休暇を取ると宣言したとき、課員の半数近くが反対をした。


部長と次長も困った顔をしていたが、この事態なので、ヘタなことを言えば、ハラスメントになりかねないので、反対はしなかった。


といっても、僕は、これは何ハラスメントになるのだろうか?と思った。


パワハラ? セクハラ? モラハラ? マタハラ? カスハラ? アルハラ?


人間の世界では、色々な種類のハラスメントがあるなぁと思いながらも、どれにも当てはまらないような気がした。


部長と次長は、ヘタな事を言えば、何か問題になるのかもしれず、2人は困り顔をしながらも「まぁ、事態が重い状況だし、有給や介護休暇を取得するのは、個人の権利だからね。」と真っ当なことを言って、承認をした。


僕は、上長が承認をしたのだから、それで終わりだろうと思うのだが、近ごろの価値観では、そうではないようだ。


課長という課のトップである管理職が、自分の権利とは言え、1か月も連続で休むと課の業務に支障をきたすと、反対を主張する意見が課の中から出てきた。しかも、課の半数近くがこの主張に賛成らしい。


僕には、課長は自分の権利を執行しているだけなのだから、何がおかしいのか、全く理解ができなかった。


両親が他界することは、ほとんど誰もが経験をする。


その際に、少しでも長く休みを取って、できる限り最後まで、そばに居たいと思うのは、人間として、いや動物として、普通の感情だと思う。


ほとんど誰にでも起こるような事態であれば、お互い様だと思って、皆で支え合う方が、良いと思うのだが、課員たちの話を聞いていると、僕の考え方は、間違っているとは自分では思わないのだが、近ごろの価値観では、マジョリティではないようだ。


しかし、課長が、全業務の権限を握っているわけでも、理解しているわけでもない。


若手課員の育成は中堅課員が担っているし、実際の業務の中心を担っているのは主任級の課員たちだ。


確かに、主任は、管理職でないから、責任を負ったり、難しい決断ができないという理屈は、分かるような気もするが、課長がいなければ、部長か次長が、代わりにそれらをするだけだ。


まぁ、人間でも他の動物でも、お互いに価値観が違うということは存在するわけだ。


最終的に、課長は、個別に、課代の僕のところにきて、僕に課長業務の全てをお願いしたいと相談してきた。


課代の僕が、何か判断ミスや誤りを起こしたら、その責任は課長である自分が全て取るとのことだった。


僕は、既に両親が他界しており、しかも死に際に会えなかったこともあり、それがどれだけ辛いことかを身を持って経験している。


まぁ、無責任なことをするつもりは毛頭ないけど、ミスした責任は取ってくれるというのだから、僕は2つ返事で了承をした。


課長は、何度もありがとうと頭を下げて、感謝を示してくれた。


僕も、育ててくれた両親には、本当に、心の底から感謝をしている。生みの親ではないのに、惜しみない愛情を注いでくれた。


課長の話を聞きながら、母親の顔を思いだした。


僕は、本当の生みの母親ならば、課長は、ずっとお母様の近くにいてあげるべきだと心の底から思った。


課長が、休暇中の間、課長代理である僕が、課長業務を代行することが発表された。


数名の者は、引き続き、不服そうな表情を見せたが、表立った批判はでず、そのまま部長まで承認がおりた。


そういうわけで、僕は今、自分の業務に加えて、課長代行業務もやっているわけだが、毎日、これだけ大量の書類を確認するのは大変だ。


正直、こんな書類を作成しても意味ないだろうと思うものも沢山ある。


こんな無駄な紙を沢山作るために、毎年、大量の木々が伐採されていると思うと、人間は変わったことをするなぁと、つくづく思う。


副主任が、執務室を出た後、僕は、自分のデスクに戻り、自分が作ったお弁当を開ける。


「いただきます。」


小声でいった後、入社2年目と5年目の若手女性課員が、僕の肩越しに、お弁当を見ながら言ってくる。


『課代、このお弁当、本当にいつも自分で作ってるんですか?本当は彼女さんと同棲していて、作ってもらったりしてるんじゃないですか?』


僕は、笑いながら答える。


「そうだねぇ。そういう彼女がいてくれたら本当にいいんだけど、残念ながら独身で、自分で作ってるんだよ。」


『でも、どうしてこんなにお弁当が上手く作れるんですか?』

『っていうか、何でそんなに、家事全般が得意なんですか?課代のシャツって、いつもパリッとしてますし、これも自分でアイロンしているんですよね?』

『もしかして、結婚資金を貯めてるとかですか?』


プライベートについて、いきなり質問攻めにされるが、イヤな顔一つせず、僕は、笑いながら回答する。


「これまた残念だけど、同棲している彼女もいなければ、結婚する予定の彼女もいないよ。20年も一人暮らししていると、家事全般は、全部できるようになっちゃうんだよ。」

「外食もねぇ。美味しいし、調理作業の自分の時給とか考えたら、コスパも良いのかもしれないけど、40歳を超えると、メタボとか病気も気になるし、やっぱり自炊をした方が、健康に良いんだよね。」


『でも、課代すごいですよね。今度、私にも、このお弁当の作り方を教えてください。』


「うん、別に構わないけど、僕に聞くよりも、君のお母さんに聞いたり、最近は動画配信サイトで、お子さん用のお弁当を作っているお母さんたちの動画なんかもあるから、そっちの方が分かりやすいし、もっと美味しそうなんじゃないかな。」


『いえいえ、うちの母なんか、全然、料理美味しくないんですよ。はっきり言って、私の方が上手です。でも、自分のお弁当を作るために、朝早起きするのも、面倒くさいから、コンビニで済ませてたんです。タイパ考えたら コンビニで買った方が、圧倒的に早いし、楽ですからね。』

『でも、課代のお弁当、いつも野菜中心で、ヘルシーじゃないですか。私、少し体重が、気になり始めちゃって、ランチはこういうお弁当にしたいなって思っていたんです。』


「まぁ、興味があるなら、今度レシピ持ってきてあげるよ。このお弁当、30分もあれば作れるからね。」


『本当ですか。ありがとうございます。課代、絶対に約束ですかね。』


「分かった、分かった。今度、紙に書いて持ってきてあげるよ。」


ありがとうございます。と言って、2人の若手女子課員は、各々コンビニやスーパーで買ったと思われるお弁当やら、サンドウィッチやらを持って、執務室を出ていった。


恐らく、この執務室の上にある10階のラウンジで食べるのだろう。


「美味しそう」と褒めてくれて、嬉しかったが、僕のお弁当は、良く言えばヘルシーで健康的だが、悪く言えば質素な中身だ。


僕は、肉と魚が食べれず、基本的には、野菜中心で、お弁当を作っている。お米も、白米より五穀米を食べている。


僕は、自分が、そういう体質だから、こういうお弁当を作っているが、果たして人間の彼女たちがこれを食べたら、一週間もしないで飽きちゃうんじゃないかな、と思った。


まぁいずれにしろ、教えてほしいというのだから、レシピを作って、今度、持ってきてあげよう。


肉が食べれれば、僕は全く違う生き方をしていた。でも、今が幸せなのだから、それで良しとしよう。


そんなことを考えながら、僕は右手でお弁当を食べながら、左手で回付されてきた大量の他の書類にも目を通して、問題がなければ押印をして、僕のデスクの横にある「済」のボックスに入れていった。


しかし、突然、激しい頭痛、眩暈、動悸が、僕を襲い、今、食べたばかりの、温野菜と五穀米が、胃から食道に上がってくる感覚が分かった。


マズイ。こんな所で、発作が出てきた。


僕は、すぐに、カバンから常備薬とお弁当の後に食べようとしていたブルーベリーが入ったタッパーを取り出し、急いでトイレに駆け込んだ。


第2章に続く。

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