禊力
「しっかりしろ」
はっきりと言い含める。僕の体調や心理にまで、かなりの悪影響が出ているからだ。これでは、いざと言う時に満足に動けない。けれど、芯から感じる恐怖なるものが、言葉一つでなくなるはずもない。
マクラの震えはますます大きくなる。ブロック塀の近くに寄りながら、キョロキョロと辺りを見回す。見える範囲には誰もいない。が、マクラの勘違いと考えるのは、あまりに楽観的だろう。
昨日の出会いを思い出す。マクラは、両手片足をぶつ切りにされ、血まみれになって倒れていた。最初は祓い屋――悪い妖怪退治の専門家――にやられたものと判断していたが、あれの犯人は妖怪で、帽子の付喪神と朝に聞いた。で、マクラは今、そいつの気配を感じ取っている。
大怪我の事情を、もうちょっとちゃんと聞いておくべきだったか。あんな体で、どうやって逃げたかは分からない。でもどうにかこうにか逃げおおせて、偶然僕に出会い、生き延びた。それで終わり、だったら良かったのに、下手人は、殺し損ねた猫又を追ってきた。たまたまここに遊びに来ただけ? そんなわけがない。確かにここは、妖怪の世界との境界に近いと聞いている。だが、妖怪が人の世界に降りてくるのには、それなりに物騒な理由がある。
なんともしつこく、迷惑な奴だ。客観的に見て、子供の猫又に追いかけて殺すほどの価値はないはず。雑魚殺しの失敗が、よほどプライドに障ったのか。
「どこにいて、どういう動きをしてるか分かるか?」
『……あっ、あっち。ゆっくりと歩いて、る?』
参ったな。多分、僕の帰路上にいる。このままだと鉢合わせだ。偶然か、あるいはある程度狙いを定められているのか。少なくとも、マクラがこの付近にいるのは知っていると捉えていい。
問題は、
「僕の中にいるマクラの気配を、向こうは感じ取れるのか?」
『えっと』
「質問を変えよう。マクラが僕の中にいる間、お前の妖力は外に漏れ出しているのか?」
『……!? 日文は人間なのに、なんかすごい事情通だぞ、なんで』
「今そんなことどうでもいいだろ。質問に答えろ」
『わ、分かんない……』
「素直でよろしい」
頷く。それから堂々と、住んでるアパートまでの道を歩き出した。『おい!?』と、マクラの抗議が響く。
『どんどん近づいてるぞ!』
「カンだが、マクラの妖力は恐らく漏れていない。とりあえず賭けてみよう」
前方から、スポーツ用キャップを目深に被った長身の男が現れる。中のマクラは、戦々恐々と息を呑んだ。スタスタ進む。距離が近づく。
すれ違う。
男は通り過ぎて行く。マクラがホッと安心した、その刹那。
「あなた」
呼び止められる。無視せず振り返り、「はい?」と返事をした。
「少し猫臭くありませんか?」
「どういうことでしょうか」
怪訝な顔をして見せる。「これは失礼」と、男は頭の帽子を外した。
「名乗りもせずに。私、冴義理と申します」
「これはご丁寧に。僕の名前は当瀬日文です」
会釈し返した。冴義理と名乗った男は、愛想良く笑いかけてくる。
「で、当瀬さん。あなた最近、死に体の猫を拾いませんでしたか?」
「どうしてそう思うのです」「少し残り香がね」
残り香、ね。そいつは盲点だった。マクラを風呂に入れてやらないと。
冴義理の雰囲気が、突然変わる。怪しく、畏く、おどろおどろしく。
「猫を、どこに匿っているのです?」
胸を張り、居丈高に聞いてきた。どうやら、始末し損ねた猫又が目の前にいる、正確には僕の中にいることには、気づいていないようだった。マクラの妖力それ自体は漏れていないという僕のカンは、どうやら当たっていたらしい。
「拾ってませんし、匿ってもいませんよ」
「隠しても無駄ですよ。あなたの服から、猫の獣臭ってものが、ぷんぷんといたしますので。あなたは絶対、あのクソ猫と関わっています」
決めつけられている。明らかに無駄だが、「嘘は吐いてませんって」と、いけしゃあしゃあと返してみた。
「ウチのアパートは犬猫禁止なんで」「人間風情が。殺しますよ」
害意に溢れた目で言った。やれやれ、怪異丸出しだなこいつ。
「知ってますよね? 知らないはずがありません。殺されたくなければ、猫の居場所を言いなさい」
「死んだ猫を弔っただけならどうします」
「それでも殺します。殺しますとも。首を根本から遮ります。私の仕事を遮った罪は重い」
自分本位過ぎる考え方に、思わず眉を顰めた。それが気に食わなかったのか、冴義理は「舐めているんですかね」と、襟首に手を伸ばしてきた。掴まれてやる必要はない。後ろに下がって躱す。
「当瀬さん?」
「誤魔化しても、もう無意味か」
曇り空を仰いで言った。六時間目前の小休憩にスマホで確認した天気予報では、夕方から雨。今日は洗濯物を出してないから、気が楽だ。
冴義理のいる正面を見据えた。薄く笑って、暴露する。
「実はだな。お前が探している猫は、僕に取り憑いている」
『!? おい日文! 何言ってんだよ! お前殺されるぞ!?? マクラと一緒にっ!』
中でマクラがうるさいが、無視する。
冴義理は呆然と目を見開いて、「は……?」と、間抜けな声を出す。しばらく固まっていたが、やがてワナワナと体を震わし、怒りで頬を紅潮させた。
すぐにでも襲いかかってくると予想していたのに、思ってた反応と違う。
冴義理は激昂し、唾を散らして絶叫した。
「お前! VOTEの参加者か! あのカス猫、一丁前にパートナーなんか見つけやがって! まだ我がご主人様でも見つけられていないのに! 遮る、遮る、遮ってやる!」
近所迷惑な騒音だった。不快になる。あと、ヴォートとはなんだ? voteは英語で、投票という意味だが。
参加者? パートナー? 訳が分からない。
考えてる間に、奴の目の色が変わる。茶色から、濃い赤色に。
マクラから伝わってくる恐怖が、指数関数的に高まった。
『こいつ、斬ってくる! 手足を! 体を! うわああああああっ!?』
「人間なんざ、この冴義理の相手じゃありませんよぉ!」
マクラに釣られて、僕も足が竦みそうになる。忌々しい。この感覚共有、どうにかして切り離せないだろうか。本日、マクラのノーテンキさに助けられていたのは事実なのだが。オンオフ自在に出来るようにならないか。
妖力が、僕の手足胴体に、首と衝突する。そして、あの冴義理という妖怪の異能が、発動する感触がした。なるほど、視認による切断系能力か。
抵抗する力がなければ、なすすべもなくバラバラにされるのだろうな。昨日河原で倒れていた、マクラみたいに。
でも、何も起こらない。
シンプル過ぎる。防ぐのは容易だった。
「…………え?」
ポカンと硬直する冴義理。結果が受け入れられず、また信じられないようだった。練った妖力を使い切ったのか、瞳の色が、赤色から元の茶色に戻る。
「不思議か? 不勉強な奴だ」
逆に、無色透明の空気しかなかった僕の周りから、紫色の波が立つ。服にこびりついていた冴義理の汚い妖力が、紫の波に押し流され、すぐに消滅した。
「なん――なんですか、それは……」
「これはな」
冥土の土産だ。荒く波打つ紫の力について、説明をくれてやる。
「お前よりも遥かに格上の大妖怪から教わった、人が妖に対抗するために使う陽の力、『禊力』」
構える。両手を前に突き出し、握り拳を上下に重ねた。
禊力椽転、基本技。
「【矢】」
紫の波が螺旋を描き、矢となり、放たれる。生じる風でざわざわ揺れる、ブロック塀上の木々。
矢は冴義理の胸を貫き、一瞬で消滅させた。彼の元となったスポーツ用キャップがコンクリートの道に落ち、紫色の炎で焼き尽くされ、虚空に消える。
『や、やっつけちゃった。すごいぞ』「あのな」
マクラもマクラで、妖怪にしてはとても不勉強だ。
内側でひどく驚いているこいつに、耳寄りの情報を与えてやる。
「帽子なんて小物の若い付喪神が、強いわけないだろうが」
冴義理:スポーツ用キャップの付喪神。野球観戦が趣味の、ある大妖怪の持ち物だった。その大妖怪の妖力に当てられ付喪神化。生まれてまだ一年ほど。