昔の夢
パッとしない夢を見ていた。
養育施設にいた、幼い頃の記憶。
徹底的に管理された食事に習慣。
徹底的に管理された教育カリキュラムに訓練。
徹底的に管理された育成。
五十人くらいの子供がほぼ同じ、規則正しい、正し過ぎる生活を送る。養育施設にしては明らかに異質。
今思えば単調だった。日陰だった。退屈だった。下らなかった。生きる気力は湧いてなかった。しかし抜け出そうにも、自分の力ではまだ足りなかったし、そもそもあの頃、「こことは違う外の世界」があるだなんて、まるで想像出来てなかった。
知ってはいたが。
物心ついた時から、僕はずっと施設にいたから。
ガラスの天井、ガラスの壁、ガラスの床。プログラムの中にいる僕がすべてで、そこからはみ出しようがない。淡々と毎日を消化し、大人に目指すよう言われて、淡々と「最優個体」の背中を追っていた。
最優個体。見た目は華奢な女の子。明るく親しみの持てる性格。高い声。おおらかな喋り方。
そしてスペックはモンスター。
朝に行われるテストは最も早く解き終わり、最も高い点数を叩き出す。昼の体力測定では率先して皆を導き、誰にも抜けない記録を作る。夕方の戦闘訓練じゃ、誰もが彼女に秒でのされた。夜には競争は行われず、代わりに、あの年頃の子供には早過ぎるだろう内容の講義が行われたのだけれど、そこでも、明快な説明と鋭敏な質問をする彼女の存在感は際立っていた。
地味な僕と違って。
「さすが906番。我々の最高傑作」
そう評される彼女を、他の子と共に、僕もすごく意識していた。決して恋焦がれていたわけではないが、彼女は常に頭の片隅にいた。向こうからすれば、地味な僕なんていないも同然の奴なんだろうけれど。その認識に、不満を覚えたことはない。「住む世界が違う」のが当然。
メガネをかけた大人が手を叩く。「タンタン」と音がする。
「集まれ、『引っ越し』だ」
僕にとって、何度目の引っ越しだったろう。二ヶ月に一回の移動。施設の荷物をトラックに積み込む手伝いをしたのち、目隠しを付けられて、別の建物へと連れられる。慣れたものだ。
いつもと同じ。
ではなかった。今回は違った。
「ねえ」
と、最優個体に話しかけられる。地下の駐車場から、別の荷物を取りに戻る最中のことだった。子供同士の会話が禁じられているわけではないとはいえ、揺れる906の輝かしい名札には、ハッと息を呑まざるを得ない。
「僕に何か、用があるのか?」
「うん。用。地味にいつも、2位か3位をキープし続けているあなたと、前から少し話をしてみたくて。いや、確かめてみたいことがあって」
そう言って、彼女は微笑んだ。間近で見る彼女の笑顔は、とても魅力的に感じた。胸がドキリと跳ねた気がした。
恋をしていたわけじゃないのに。
「確かめたいこと?」
「そうそう。ホントはあなた、私よりも記憶力あるし、賢いでしょ? 私の方が強いけどね。なんでテストはセーブしてるの?」
真剣そうに、僕の目を覗き込んでくる。
ここで素直に驚いたのは、今でも鮮明に覚えている。確かに僕は、朝のテストで余す所なく実力を発揮しているわけではなかった。だからと言って、彼女より賢い自信は、正直なところ皆無だったのだが、でも、よく見ている、僕は彼女に見られていたんだと感じた。「最優個体」である彼女の目に、僕の姿が写っているなんて、考えもしなかったのに。
自分は、906番に意識されるレベルにいる。つい嬉しくなって、正直に答えてしまった。
「……腕が痛くなるから」
テストが始まり、問題を見た瞬間に、答えは大体組み立てられる。しかし、問題数が多く、必然、書く量も多くなる。たくさん文字を書いたのちの、内側から手首を打たれたような感覚が、僕は嫌いだった。
彼女は、あっけらかんと大笑いし出す。
「あはは! あはは! 変なの! ペンの握り方が悪いんじゃない?」
「そうか? まあそうかもしれない」
「120くん、面白いね! 仲間として、これからもよろしく!」
「仲間」
「そう仲間! いつか世界を××する時、一緒に――」
ここで、夢の景色がガラリと変わった。
施設の子供としてはとても珍しく、体調不良で寝込む僕。
病室に押し入ってくる、理性を失った血塗れの子供たち。
本能的に逃げ回る。恐怖を殺して逃げ回る。
逃げ込んだ先で、大人たちが縛られていて。
茫然自失の状態で座り込む906。
そして、彼らの前で悠々と佇む、言葉を話す異形の化け物たち。
人々から妖怪と呼ばれ、畏れられるモノ。
「あの激毒の未投与者がいたのか」
「人間の少年として、心は極めて正常であると診断されます」
「記憶を消したりはしない。が、君はすべての過去を捨てることになる。なるべく目立たないように。『人間の普通』を教えてあげるから、それに沿って生きるんだ。いいね――――」
目が覚めた。寒い、と布団の中で縮こまりそうになる体を叱咤し、なんとかかんとか起き上がる。
ちら、と時計を見た。もう朝だった。なのに薄暗い。外は雨が降っている。
ザーザーと、本降りらしい。ますます寒くなりそうだ。
「クソが……」
今や僕は高校生だが、制服ではなくスーツに着替える。流しの前で髪を整えつつ、吐きたくなるのを精一杯に堪えた。朝っぱらから最悪の気分だ。
コーンフレークを丁寧に食べた。時計をまた見る。時間はまだある。
けれど、早く外に出たかった。最低限の荷物を小さな黒い鞄に入れて、黒い靴を履き、玄関の扉を押す。エレベータで一階に降り、フロントを抜け、灰色の空の下、折り畳み傘をバサリと開いた。
歩く。寒い。傘を持つ手が凍りそうだ。早く歩く。
フラリと、カフェチェーンの一店舗に立ち寄った。何やってるんだ僕は。朝食はさっき食べたじゃないか。憔悴しているようだった。
コーヒーを一杯だけ注文し、飲み差しのまま放って店を出る。
午後から雪になるらしい。積もるかもしれない。
独りで雪を見るのか。虚無感。はぁと大きく溜息を吐く。白く濁った。目的地まで、どのくらいかかるだろうか。正直言って、辿り着きたくない。
逃げ出したい。クラッチバックを抱きしめる。傘の骨が頭に当たり、髪に引っかかった。そんなことはどうでもいい。
受け入れられない。
受け入れたら……真正面から向き合ったら、彼らと彼女の教えてくれた「普通」が終わる予感がしたから。軸を失い、無軌道に飛ぶのだろう。己が一体どこに行くのか、まったく想像もつかない。
宙ぶらりんだな。濡れるのを厭わず、空を見上げる。
今日は、「常識」に寄生するばかりの得体の知れない男、すなわち僕、を好きになってくれた素晴らしき彼女、真島柿厨荏の――葬儀だ。