3 ゴリラ、スーパーへ行く
歩いて一五分とかからないところに、スーパーがある。それなりに豊富な品揃えで、近所の主婦からわたしのような自炊をしない大学生に至るまで、幅広い利用者を集めているスーパーだ。わたしが普段、冷凍食品を買うことくらいしかしていないその店で、㤗成は次から次に生鮮食品をカゴに入れていた。
……㤗成がわたしを食事面(栄養面)で元気づけようとしてくれているのは十分伝わってきたが(㤗成はわたしと違って料理ができる)、支払いは足りるのだろうか。わたしはお金を持っているとすぐに使ってしまうタイプなので、財布にはいつも二千円ほどしか入れていない。
心配になってカートを見つめていると、㤗成が言った。
「大丈夫だ。おまえに払わせようなんて思ってない。金ならちゃんと持ってきてる」
「……二千円までなら出せるけど」
㤗成がジト目になった。
「……おまえ、まさか……」
それが手持ちの全財産じゃないだろうな、と㤗成は言いたかったのだと思う。
でも、続きは聞けなかった。
「あれぇ、きっかちゃん! 久しぶり~!」
のんびりとした、少し甘えたような声の主が、㤗成に気づかず、わたしに話しかけてきたからだ。
元気してたぁ? と、邪気のない声で笑う女性は、わたしのひとつ上、去年大学を卒業してしまった、羽鳥美幸さんだった。同じサークル(マンガ愛好会)に所属していた縁でそれなりに仲良くなった羽鳥さんを一言で表すなら、「綺麗なお姉さん」だ。ふんわりと巻かれた髪に、できる大人の、隙のない化粧。白いブラウスに、足を大胆に出すショートパンツ。確か銀行にお勤めしているはずだけれど、今日は休日なので、こんなにラフな格好をしておられるのだろう。
「お久しぶりです」
そう答えるわたしは、自然な態度だっただろうか。
……スーパーも家も、大学から多少距離があるから、油断していた。すぅっと、心の中が冷えていく。
読まなくてもいい空気を読んだ㤗成は、わたしのそばからそっと離れた。距離にして三メートルほどだったけれど、ひどく心細く感じた。
「やっぱり卒業しちゃうと全然会わないねー。サークルのほうも全然遊び行けてないし……。あ、りっちゃんたち元気?」
りっちゃんというのは、わたしの数少ない友人の名前だ。
久しぶりに会ったせいだろう。美幸さんにもきっと、大学時代を懐かしむ気持ちがあって……それはわからないでもなかったから、黙って話を聞いていた。視界の隅に、㤗成の姿を留めながら。そうでもしないと、苦しくてたまらなかった。
話題は次々と移り変わり……そしてわたしが一番恐れていた話題になった。
「――そういえば、きっかちゃんってもう就職決まった?」
その瞬間、わたしはうまく笑うことができていただろうか。
――季節は、八月。今年の就活生の多くの就職先が、確定してきた頃だろう。㤗成もとっくに決まっているし、わたしの通う大学でも七月に入った頃からだんだんと、スーツで大学に来る子が減ってきた。と、同時に、しばらく黒一色だった髪色も、また明るく華やかな色が多くなり始めた。就職活動自体は継続しているけれど、どこかの会社からひとつは内定をもらっている、という子も、ゼミにいる。……就職活動を放棄したわたしには、くわしいことはよくわからないけれど。
「……就職、やめたんです」
えっ? と、美幸さんの長い睫毛が瞬く。わたしは強引に笑ってみせた。
「大学院に、行こうと思って」
美幸さんはわたしの言葉をゆっくりと咀嚼して、それから破顔した。
「そっかぁ、うん、それがいいよきっかちゃん! きっかちゃん、なんとなくだけど就職向いてなさそうだし。研究者とかのほうが似合ってる!」
美幸さんは、嘘を言うひとじゃない。というか、素直すぎて嘘がつけないひとだ。そんなので社会の荒波を渡っていけるのだろうかとも思うけれど、彼女はその無邪気さで多くのひとから愛されている。美幸さんのストレートな感想に、わたしの不安定な心も、一瞬だけ凪いだ。
そっかそっか、頑張ってね! と激励するように、美幸さんが背中をぱしぱし叩く。そして耳元にくちびるを寄せて囁いた。
「――ところで、さっきからきっかちゃんのことずっとみてるあの男性……彼氏?」
誰それコワッ! と思って見てみたら、ただのゴリラ、もとい、㤗成だった。
わたしは美幸さんに、すぐさま否定の言葉を返す。
「全然違います。ただの兄妹です」
「んー、でも、血は繋がってないんだよね?」
思わず目が丸くなる。……そういえば、前に一度家族構成について話をした気がする。美幸さんが記憶力の良い女性なのを忘れていた。
「……はい」
「いーじゃんいーじゃん恋しちゃえば! イケメンだし、優しそうじゃない!」
美幸さんは話したいことをひとしきり喋ったあと、彼氏から連絡があったとかであっという間に去っていった。
美幸さんの退場と同時に、するりと㤗成が近づいてくる。
「待たせてごめん」
気にするな、と㤗成は言い、数秒考え込んでから、「きっかにしては珍しく、話しやすそうだったな。きっかと接点がありそうなタイプじゃなさそうだったが」と続けた。
「サークルの先輩、だったひと」
「なるほど」
呟くように頷いて、㤗成はトマトのパックをひとつ、カゴに入れた。まだ買う気なのか。たったふたりしか、消費する人間はいないのに。
……㤗成の考えていることは、本当にいつも、よくわからない。
清算を済ませて、帰路を半分ほどすぎても㤗成が何も言わなかったので、とうとうわたしからそのことに触れてしまった。
「――聞かないの?」
「何をだ?」
「わたしの、進路のこと」
美幸さんとの会話は、きっと㤗成にも届いていたはずだ。
わたしは恐れていた。今は誰にも、卒業後の未来について触れてほしくなかった。特に、㤗成には。そして㤗成も、わたしがそれに触れてほしくないと切に願っていることを、知っているはずだった。だから優しい㤗成は、わたしに何も訊ねない。不自然なくらい、何も。
わたしから一歩進んだ位置に立って、㤗成はわたしを見ていた。困っても笑っても怒ってもいない、いつも通りの㤗成の、真剣なまなざし。
「……俺がきっかのところに来たのは、きっかに負担をかけるためじゃない。話を聞いてほしいなら聞くが、そうじゃないんだろう?」
今度は、わたしが頷く番だった。
「なら、無理に話す必要はない。――きっか」
「……なに」
「おまえの人生はおまえだけのものだ。あまり周りを気にするな。……ほら行くぞ。暑さで肉が傷む」
胸に刻まれた傷は、まだ痛む。
どうしようもない劣等感。社会からの落伍感。
でも少なくとも、今ここにいる㤗成はわたしのことを故意に傷つけたりしないから。
㤗成の傍にいればいずれこの傷は癒えるのだろうかと、ぼんやり思った。