第21話
窓の外では、まだ夜と朝の境目が曖昧だった。
四時半を過ぎたばかりだというのに、遠くから学生たちの声が聞こえてくる。
「今日、昨日と同じところまで潜るって」
「えー、また?」
「ほら。先生来たぞ。ブリーフィング始まるって」
*
夏休み中だというのに、ずいぶん早い。
玲子はベッドの上で少し身を起こし、窓の向こうへ目を凝らした。
空はまだ青黒い。
山の稜線だけが、かすかに形を見せ始めている。
「上級生かな。大変だなあ、こんな時間から」
「お前も昔はやっていただろう」
窓際にいたサクちゃんが、こちらを見もしないまま言った。
「……昔の私は、もう少し真面目だったの……」
「今よりはなーー」
「そこは否定してよ」
玲子は小さく笑い、枕へ身体を戻した。
左脚は膝の下からしっかり固定されている。
少し動かしただけで、鈍い痛みが奥から返ってきた。
「……痛っ」
「まだ無理に動かすな。醒界に戻れば、夢の中みたいにはいかん」
「分かってるよ。昨日それを思いっきり実感したから」
玲子は左脚を見て、ため息をついた。
レム層では、折れていると分かっていても歩けた。
痛みも、今ほどではなかった。
けれど醒界へ戻った瞬間。
身体は、そんな都合のいい思い込みを全部拒否した。
「……あれ、もう一回は絶対やりたくないなあ」
「なら次は折るな」
「それが選べたら苦労しないのよ」
遠くで続いていた学生たちの話し声が、少しずつ小さくなっていく。
準備を終えたのだろう。
やがて、夜明け前の学園に一つの声が響いた。
「R.E.M.――」
少し遅れて、いくつかの声が重なる。
「潜航」
それを最後に、学園の朝がふっと静かになった。
さっきまでそこにいたはずの学生たちが、一斉に別の世界へ消えたような静けさ。
玲子は天井を見つめたまま、その静寂をしばらく聞いていた。
「……ねえ、サクちゃん。昨日さ、としふみを見つけられたの、嬉しかったんだ」
窓の外を見ていたサクちゃんが、ようやく玲子へ顔を向ける。
「ずっと、見つけるためのことばっかりやってきたでしょう。遠くを見ることも、探すことも、サクちゃんとの同調も。だから昨日、ちゃんと見つけられた時は……少しだけ、報われた気がした」
玲子は一度、言葉を切った。
布団の上で、指先をゆっくり握る。
「でも、見つけただけだった。あの子のところまで辿り着けたのに、最後は何もできなくなった。……それじゃ、足りないんだよね」
サクちゃんはすぐには答えなかった。
窓の外では、夜の青が少しずつ薄れていく。
「私は戦うのが好きなわけじゃないし、強くなって誰かに勝ちたいわけでもない。でも、これから先生になるなら……見つけた子くらい、自分で守れるようになりたい」
「今さらだな」
「うん。今さら」
玲子は素直に頷いた。
「十年くらい遅い?」
「それ以上かもしれん」
「そこは少しくらい甘く見てよ」
サクちゃんの目が、わずかに細くなる。
「だが、遅いから始めない理由にはならん。昨日のお前に足りなかったものが分かったのなら、次はそれを埋めればいい」
玲子は少しだけ目を丸くした。
「……なんか今日、すごく先生っぽいね」
「先生だ」
「そっか」
玲子は笑った。
「じゃあ、治ったら教えて。今度は逃げるためじゃなくて、ちゃんと守るための戦い方」
「ああ。ただし、治るまで待つ気はない。座学と同調訓練なら今日からできる」
「……今ちょっといい話だったのに」
「だからなんだ」
「最後までいい話にしてよ」
「寝ろ。病人」
「はいはい」
玲子は目を閉じた。
遠くでは、もう声がしない。
学生たちは今ごろ、レム層のどこかで訓練を始めているのだろう。
今度こそ。
見つけるだけでは終わらない。
そんなことを考えながら、玲子はもう一度眠りへ落ちていった。
*
次に目を覚ました時には、病室の景色はすっかり変わっていた。
夜明け前の青さはもうどこにもない。
窓の外では陽が高く、白い壁も、ベッドの柵も、輪郭まではっきり見える。
時計を見る。
十時を少し過ぎたところだった。
「……寝たなあ」
玲子が大きく息を吐いた、その時。
コンコン。
扉が鳴った。
「はーい」
「先生ー。入っていい?」
「どうぞ」
扉が開き、ケータ、とっちゃん、ユキの三人が順番に顔を覗かせた。
「先生、大丈夫?」
「生きとる?」
「としふみ」
「はい」
「一人だけ確認の仕方がおかしい」
「元気そうやん」
「誰のせいだと思ってるの」
「また俺!?」
ユキがくすっと笑う。
玲子もつられて笑った。
「三人とも、ちゃんと眠れた?」
「うん」
「俺はめっちゃ寝た」
「昨日も聞いた」
「違うって。昨日の夜!」
「分かってるわよ」
昨日の騒ぎが嘘みたいに、三人ともいつもの顔をしている。
それだけで、玲子は少し安心した。
その時。
ケータの後ろから、白い耳がひょこっと覗く。
玲子の顔が止まった。
「おはよう」
白いウサギが、何でもないように病室へ入ってくる。
「スクネ君!?」
「うん」
「なんでいるの!?」
「事情が変わってね」
スクネは三人を見て、最後に玲子へ視線を向けた。
「ケータはもちろん。二人と先生にも、知っておいてもらいたいことがあるんだ」
「なに?」
玲子が思わず身を乗り出す。
「なに? 何を教えてくれるの?」
スクネは、そんな玲子をしばらく見た。
「……やっぱり先生には、やめとこうかな」
「え」
「面倒くさそう」
「う……」
玲子はぐっと言葉を飲み込む。
「ご……ごめん。続けて」
「うん」
スクネは今度はケータを見る。
「前に、ケータには椅子が必要だったって話したよね」
「椅子?」
ケータが少し考える。
「席が空いてなかったって話? スクネの椅子が必要だったとか。先生にも言ったけど、よく分からないよ」
スクネの耳が、わずかに下がった。
「……そりゃ、そうか」
「落ち込んだ?」
ユキが聞く。
「ちょっとね」
「じゃあ今日は、そのへんを詳しく教えてくれるってこと?」
「うん。ただ、僕から言えることはそんなに多くない。分かりづらい表現でしか話せないこともある」
スクネの声が少しだけ真面目になる。
「何も、ふざけてこんな言い方してるわけじゃないんだよ? ……たまには」
「たまにはなんだ」
ケータが言った。
「それで……?」
玲子が続きを促した。
スクネは少し考えてから、両手を前へ出した。
「僕が、みんなが落としそうになったティーカップを、割れる前に拾ってあげられるのは、あと一回だけなんだ」
空中で何かを受け止めるように、手を構える。
「もし、あと一回助けちゃうと。僕は、お店を追い出される」
しばらく、誰も言葉を挟まなかった。
最初に口を開いたのは、とっちゃんだった。
「……つまり?」
ユキが少し考えてから答える。
「つまり。あと一回は助けてくれる。でも、助けちゃったら、それ以降はもう助けられないってことかな」
スクネは答えない。
玲子はその沈黙を見ながら、これまで聞いた言葉を頭の中で繋いでいた。
「……椅子が必要だった。追い出される。って言い方だと、店主? 誰かに出ていけって言われる感じね」
「出ていって、もう助けられない」
ケータが静かに続ける。
「一緒には、いられない……?」
とっちゃんが腕を組んだ。
「うん……うん……」
ユキが横を見る。
「……とっちゃん。分かってないでしょ」
「分かっとるって」
「じゃあ言ってみて」
「……」
「ほら」
「今まとめよったん!」
ユキが笑ってから、改めてスクネを見る。
「つまり。もう、ケータのメアじゃいられないってことじゃない?」
スクネは何も答えなかった。
「黙るってことは、そうってことね」
玲子の表情が変わる。
「でも。ケータ君からいなくなるって、どういうこと? あなた、ケータ君のメアでしょう?」
「うん。そうだね」
ユキが玲子を見る。
「先生。学園とか関係なく、メアって全員にいるんだよね?」
「そうよ。だから、メアがいなくなるっていうのは……普通なら、人が死ぬ時」
「え」
とっちゃんが目を見開いた。
「待って待って。死ぬの、けーたんってこと? 助けたのに死ぬの?」
ケータも一瞬、固まる。
スクネはそんなとっちゃんを見ると、小さく笑った。
「珍しく冴えてるじゃないか。ご褒美に、にんじんいる?」
「いらないけど……なんかむかつくなー」
「たしかに」
玲子は考え込む。
「助けたのに死ぬ。もう助けられない。いや……」
「安心して」
スクネが遮った。
「ケータは大丈夫だよ」
「本当?」
ユキが聞く。
「うん。僕の椅子は、持ってきた椅子なんだ」
「持ってきた?」
「そう。もともと、そこには椅子があった」
スクネは少しだけ笑う。
「僕が今、言えるのはここまで」
玲子は、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。
「べ……別のメアがいる。って聞こえるわね」
「スクネじゃないメアがいるの?」
ケータが自分の胸へ手を当てる。
「見たことも、聞いたこともないのに?」
「俺も自分のメアなんて、まだ見たことも聞いたこともないぞ」
とっちゃんが言う。
「私も。これから訓練していったら会えるんだよね? 先生」
「うん。普通は、そう」
玲子はスクネを見る。
「だから、スクネ君は普通じゃない」
「普通じゃないなら」
とっちゃんが少し考える。
「普通がいるんじゃない?」
スクネは、とっちゃんをじっと見た。
少しして。
「やっぱり、君は面白いよ」
「なんで?」
「助けた甲斐があるね」
「そう?」
「キャロットいらない?」
「そのくらいの英語なら分かるぞ? ニンジンはいらないって」
「とっちゃん。ちょっと黙ってて」
ユキが割って入る。
「なんで!?」
「整理するから」
ユキは指を一本ずつ立てながら、ここまでの話をまとめていく。
「スクネ君は、別のところから椅子を持ってきた。それに座って、今はケータのメアとしてここにいる」
スクネは何も言わない。
「あと一回、みんなを助けるといなくなる。その時は……本来の椅子の持ち主が出てくる?」
ケータが、その言葉を小さく繰り返した。
「スクネが椅子に座ってる間は、その持ち主は座れないのか」
「だから、二人とも座らせればいいんやって」
とっちゃんが言う。
スクネはまた、とっちゃんを見る。
「やはり、君は面白い」
「また?」
「キャロットいらない?」
「いらん!」
「落ち着いて」
玲子が言う。
「にんじんは……私ももらえるのかしら」
サクちゃんの翼が、玲子の頭を軽く叩いた。
「いたっ!」
「落ち着くのは、お前だ」
「なんで私だけ!?」
「馬鹿者」
玲子は咳払いをして、改めてスクネを見る。
「ごほん。えっと。助けるとは、具体的にどういうこと?」
今度は完全に研究者の顔だった。
「今までの話し方からすると。スクネ君が助けてくれた二回と、同じことをすると駄目なのよね?」
「そうだね」
「それは、ケータ君の意思を無視して活動したってこと?」
「半分正解」
「半分……」
玲子が少し考える。
「ニンジンの半分……」
こつん。
「いたっ!」
今度は迷わず、サクちゃんが玲子の頭を叩いた。
「今のは私だけじゃないでしょ!」
「お前だけだ」
「でも」
それまで黙っていたユキが、ぽつりと言った。
「どっちも、どうしようもない時に助けてくれたんだよね」
全員がユキを見る。
「本来の力じゃない。そういえば……両方とも、けーたん寝てた」
「あ」
玲子が目を見開く。
「賢いのう。誰かと違って」
サクちゃんが言う。
玲子がゆっくり振り返った。
「ん?」
「なんだ」
「……あとで覚えてなさい」
「忘れる」
玲子はスクネへ視線を戻した。
「でも。冷静に考えれば、そうだわ」
少しずつ、表情が研究者のものへ変わっていく。
「スクネ君とケータ君は、まだ同調していない」
「同調?」
ケータが聞く。
「うん。というより、今のケータ君がスクネ君と、あそこまで同調できるはずがない」
玲子は言葉を選びながら続ける。
「通常なら、繋がりが成立していないメアが、あんなふうに勝手に力を解放して顕現して、戦うなんてあり得ない」
言いながら、自分でも不思議そうに眉を寄せた。
「なんで、そこに気づかなかったんだろう」
そして、スクネを見る。
「なら。あと一回、同じことをすれば……ケータ君との繋がりが切れる。そう考えるのが、一番自然かしら」
スクネは答えなかった。
代わりに、椅子からぴょんと降りる。
「さて。僕の言いたいことは以上だよ」
「ちょっと待って」
「ケータ」
スクネは玲子を無視して、ケータを見る。
「しっかり学園で力を身につけること。強くなること。忘れないこと」
「うん」
ケータは少しだけ黙った。
「スクネ」
「なに?」
「スクネは、僕のメアなの?」
スクネがケータを見る。
「追い出されないうちは。少なくとも、そうだよ」
「そっか」
ケータが頷く。
「ならいいか」
「いいんだ」
ユキが言う。
「うん」
ケータはもう一度、スクネを見る。
「頑張る」
スクネが少しだけ目を細めた。
「相変わらず、変なところで飲み込みが早いね」
「そう?」
「うん」
スクネは懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
「じゃあ。そろそろ時間だ」
「え」
「またね」
「待って!」
玲子が思わず身体を起こす。
「スクネ君! もっと聞きたいことが――」
「先生!」
ユキの声。
「脚!」
「え?」
一瞬。
玲子が止まった。
「――いたぁぁぁぁぁ!!」
そのままベッドへ倒れ込む。
「痛っ! 痛い痛い痛い!」
「動くからだ」
サクちゃんが、呆れた声を出す。
「スクネ君! まだ話は――」
玲子が顔を上げる。
「……あ」
もう、白いウサギはいなかった。
ケータも。
とっちゃんも。
ユキも。
さっきまでスクネがいた場所を見ている。
「……行っちゃった」
ユキが言った。
「また……逃げられた……」
玲子が枕へ顔を沈める。
窓の外では、陽がもう高く昇っていた。
夏休みも、もうすぐ終わる。
あと少しで、この学園にも新しい学期が始まる。
ケータたちの新しい生活も。
そして。
まだ誰も知らない、もう一つの椅子も。
静かに、その時を待っていた。




