第2話 医学的に、ありえない
翌朝、目が覚めた瞬間、昨日の出来事が一気に押し寄せた。
夢じゃない。
夫は、里奈の子どもの父親だと言った。
私は無意識にお腹へ手を当てる。
この子は、確かにここにいる。
守らなきゃ。
私は一人で産婦人科へ向かった。
診察室の椅子に座ると、三年前の光景が重なる。
医師が静かに言ったあの日。
『ご主人の精子運動率は、基準値を大きく下回っています』
夫は無言だった。
私は必死に明るく振る舞った。
『大丈夫です。今は医療が進んでますから』
その後も検査は続いた。
再検査。
再々検査。
結果は同じ。
自然妊娠は、かなり難しい。
顕微授精を勧められた。
夫はその帰り道、こう言った。
『誰にも言うなよ』
プライドが傷ついたのだと思った。
私はうなずいた。
守らなきゃ、と思った。
夫を。
私たちの夫婦を。
「——体調はいかがですか?」
医師の声で、現実に戻る。
私は小さく息を吸った。
「先生……ひとつ、確認したいことがあります」
喉が渇く。
「主人の数値で、自然妊娠って……ありえますか?」
医師はカルテをめくった。
沈黙。
やがて、慎重な声。
「ゼロとは言いません。ただ……」
ページを止める。
「医学的には、かなり低い確率です」
「どれくらい……?」
「奇跡、と表現されるレベルですね」
奇跡。
昨日も、その言葉を思った。
でも。
奇跡が、同じタイミングで二人に起きる?
私と。
里奈に。
しかも、彼女のほうが週数が早い。
頭の奥で、何かが噛み合わない。
私はゆっくりと言った。
「もし……もう一人、同じ男性の子を自然妊娠している女性がいたら?」
医師の手が止まる。
「同時期に、ですか?」
「はい」
静かな空気。
「……その場合は」
医師は言葉を選ぶ。
「再検査、あるいは遺伝子検査をおすすめします」
心臓が強く打つ。
「医学的に考えて、整合性が取れない可能性があります」
整合性が、取れない。
私は診察室を出て、廊下のベンチに座った。
震えはない。
涙も出ない。
代わりに、冷たい何かが胸に落ちた。
夫は言った。
『あの子の子ども、俺の子なんだ』
本当に?
本当に、そう?
三年前の検査結果。
再検査。
医師の言葉。
全部、私は覚えている。
忘れたことなんて、一度もない。
だって、私が毎月、治療費を支払ってきたのだから。
私はスマホを取り出した。
クラウドに保存しているフォルダを開く。
【不妊治療データ】
そこには、
夫の精液検査結果PDF。
数値。
基準値。
赤字のコメント。
——自然妊娠は極めて困難。
画面を見つめながら、ゆっくり息を吐く。
もし。
もし、医学的にありえないのだとしたら。
嘘をついているのは、どちら?
夫?
それとも——
里奈?
私はスマホを閉じた。
もう泣かない。
これは感情の問題じゃない。
事実の問題だ。
私が守るのは、プライドじゃない。
お腹の命だ。
そして、真実。
静かに、決意が固まる。
壊れるのは、私じゃない。
医学的に、ありえないのだから。
(続く)




