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『悪臭』

ホラー回です…

蘇順から遠ざかろうとして玄の体を盾にしていると気付いたのは、鉈を持った蘇順の手が振り下ろされた瞬間だった。

 玄が悲鳴を上げた。

 引綱を反射的に握りしめた途端、玄が走り出す。毛長牛は滅多に走らない。走るとしたら、天敵に襲われたときだけだ。

 (ハク)も必死に走る。蘇順は追ってきているだろうか。確認したいが、振り返る余裕がない。

 玄に引きずられ始めている。

 どこまでついていけるのか。ほんの少しの間しか走っていないのに、もう足が自分のものでないような、奇妙な感覚がする。玄の速度は全く落ちない、ついていけるはずはない。

 自分の足の裏で、大きめの石を踏んだのがわかる。

 右足首が内側に滑り、ぐにゃりと曲がった。

 体が傾ぎ、玄の体に肩がぶつかる。

 玄に弾き飛ばされるようにして、地面に崩れ落ちたのだろう。それでもしっかり握り締めていた手は引綱から離れず、指は固まって解けない。そのおかげで顔は地面にはつかずに済んだ。

 厚着していたのがよかった。地面の上を引きずられたが、分厚い生地の外套や長着がなかったら、(ハク)の肌は表皮が剥がれたようになっていただろう。

 玄が速度を落とし、体を丸めて引綱の重みを辿った。(ハク)が顔を上げると、いつも穏やかな玄の目が血走っていた。それでも目が合い、玄が短く鳴く。蘇順に斬られた衝撃から、まだ立ち直ってはいないだろうに、(ハク)の状態に気づいてくれたのだ。

 体を起こそうとして、右足に鋭い痛みが走り、思わず玄の体にしがみついた。

 『匂い』に鼻を突かれて、呼吸が止まる。吐き気を催す『匂い』だ。鼻を塞いだところで、この悪臭からは逃れられない。「走って、玄」

 (ハク)の声に応えたのか、玄が足を曲げ体を落とす。その背によじ登ると、「待ってよ、(ハク)。話がしたいの、石虎の話」耳元で蘇順の声がした。

 玄が飛び出した。振り落とされないように玄の体毛を掴む。不意に静かになって、それまでは玄の声が鼓膜に響いていたのだと思った。蘇順の声がしたとき、背後で空気を斬る音がした。玄に斬りつけたのかもしれない。(ハク)自身に斬りつけられていたとしても、理解できるとは思えない。脳みそが麻痺している感じだ。

 精一杯玄の背にしがみつく。ひどく揺さぶられて、舌を噛みそうだ。『匂い』が遠ざかったので、吐き気は治まってきたが、一体玄がどこを走っているのか、どこに向かえばいいのか、わからない。

 どれくらい走っていたのか、玄の背で意識を失っていたのかもしれない。

 気がつくと玄ががくりと膝を折った。

 玄の体の上で足が滑り、地面に触れた。急いで体を起こして、地面に降り、右足を庇いながら玄の顔を覗き込む。

 血走った玄の瞳が、(ハク)が移動するのに合わせて彷徨う。「玄」呼びかけると、(ハク)に焦点が合ったと思った。荒い息が短い間隔で繰り返されている。

 もう立てないのだろうか、(ハク)は玄の体の傷を調べようと振り返った。臀部に大きな傷がある。だが、大きな血管は傷ついてはいないようだが、血がゆるゆると沁み出している。

 他にはないか、と玄の体を撫でていく。脇腹でぬるりとした手触りがある。その血の匂いを押し退けて圧倒的な『匂い』が立ち込める。

 (ハク)は周囲を見回して、何か助けになりそうなものを探す。玄はもう動けないかもしれない。隠れられそうなところでもいい、それとも武器になりそうなものでもいい、なにか、なにか…

 「逃げても無駄だよ」 

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