第二十一話 「いってらっしゃい」
春の終わり。
庭の牡丹が、静かに揺れていた。
その日の朝、ハルは珍しくよく眠っていた。
呼吸は浅い。
でも顔は、とても穏やかだった。
ぼたんは学校を休み、
ずっとそばにいた。
「ばあちゃん」
手を握る。
細い手。
昔よりずっと小さく感じた。
ハルはゆっくり目を開ける。
「……ぼたん」
「うん」
「今日は、いい天気だねぇ」
障子の隙間から、やわらかな光が入っている。
鳥の声。
風の音。
いつもの平屋の朝だった。
ぼたんは泣きそうになる。
こんな普通の朝なのに。
終わりが近いことを、
心が分かってしまっていた。
ハルは、ゆっくり息をする。
「ぼたん」
「なに?」
「最後にねぇ」
「ひとつだけ、お願いしてもいいかい」
ぼたんは何度も頷く。
ハルは優しく笑った。
「……ちゃんと幸せになるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ぼたんの涙が溢れた。
「やだ……!」
「まだ一緒にいたい……!」
「ばあちゃん……!」
ハルは震える手で、
ぼたんの涙を拭った。
「泣き虫だねぇ」
昔と同じ言い方だった。
ぼたんは声をあげて泣く。
「ぼたん、まだ子どもだよ……!」
「ばあちゃんがいないと……!」
ハルは静かに首を振る。
「大丈夫」
「ぼたんは、もう一人でも歩ける」
「ご飯も作れる」
「転んでも立てる」
「ちゃんと、人に優しくできる」
「……わたしの自慢の子だ」
ぼたんは、ハルの手に顔を押し当てる。
ハルは天井を見上げた。
どこか遠くを見るような目。
「……あぁ」
「お迎えが来たのかねぇ」
ぼたんは必死に首を振る。
「いかないで!!」
ハルは小さく笑った。
とても優しい顔だった。
「ぼたん」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「……うちに来てくれて、ありがとうねぇ」
そして。
最後に。
本当に最後に。
ハルは、昔と同じように言った。
「……いってらっしゃい」
その言葉と一緒に。
ハルの手から、力が抜けた。
静かな朝だった。
風が、牡丹の花を揺らす。
ぼたんはハルに抱きつき、
声が枯れるまで泣き続けた。
小さな平屋に響く泣き声は、
春の空へ、静かに溶けていった。




