7 鏡の前で
父が療養所に入り、安アパートに一人で越してから半月が経ったある夜、エルザは鏡を見た。
くたびれた服を着て、疲れた目をした女がそこにいた。
その顔が、誰かに似ていると思った。
しばらくして気づいた。石段に座っていたあの少年に似ていた。遠い場所を見ていた、あの少年の目に。
エルザは鏡の前で泣いた。長い時間。
泣きながら、考えた。
あの日、自分は何をしたのか。
飲みかけのお茶を渡した。善意だと思って、慈悲だと思って。でも実際は——自分と彼の間に超えられない段差があることを確認したかっただけではなかったか。渡す側と受け取る側。恵む者と恵まれる者。その差を「優しさ」という包み紙に包んで、手渡した。
相手が何を感じるかを、考えなかった。
いや、考えたくなかったのかもしれない。考えてしまったら、自分の優越感が成立しなくなるから。
それだけではない。聖女と呼ばれ続けた十年間。自分の魔力が帝国の宝だと言われ続けた十年間。エルザは一度でも「自分は偶然、恵まれた立場にあるだけだ」と思ったことがあっただろうか。
なかった。
ただ生まれ持ったものを、自分の功績のように感じていた。
「醜い」とエルザは呟いた。「あなたは醜かった」
泣き終わって、涙が出なくなってから、エルザはまだ鏡の前に座っていた。
泣いたからといって、何かが解決したわけではなかった。
過去の傲慢さを悔やんだからといって、今の自分が何者かになれるわけではなかった。
それが——一番、苦しかった。
(では、今の私は何者なのか?)
鏡の中の女を見た。パサついた淡いプラチナブロンドの髪。薄い光のないグレーの瞳。かつて「帝国の聖女」と呼ばれた過去。
ただの三十二歳の女。肩書きも、魔力も、婚約者も、屋敷も、母も——全部なくなった後に残った、ただの女。
名前で呼ばれるとき、今のエルザには何もついてこない。
ヴァイスベルク家の——とは、もう言えない。家は没落した。
聖女の——とは、もう言えない。魔力は枯れた。
何々の妻の——とも、言えない。婚約者は去った。
では、エルザ・ヴァイスベルクとは何か。
答えが、出なかった。
カイルのことを思った。あの人は答えを持っている。砂漠から来た、一から積み上げた商人——どこに行っても、何を失っても、その人が何者かは揺るがない。肩書きではなく、生き方そのものが、その人の名前になっている。
アドルフに頼るのも嫌だ。小さい頃からの幼馴染に頼りたくない。
肩書きが全部剥がれたら、何も残らなかった。
いや、違う。剥がれてわかった。最初から、肩書きしかなかったのかもしれない。
(私は、何のために生まれてきたのか?)
思ってしまった。
すぐに打ち消した。そんな問いに答えを出せるほど、今夜の自分には力がない。
でも消しきれなかった。
母が生きていれば、聞けた。しかし母はもういない。父は帝都の外の療養所で、病気と戦うことで精いっぱいだ。アドルフは心配してくれるが、彼に聞ける問いではない。カイルには——もう関わらないでほしいと、自分で言ってしまった。
誰にも聞けない問いを抱えて、一人でこの部屋にいる。
アパートの壁は薄く、隣の部屋の物音がかすかに聞こえた。誰かが笑っている。誰かが話している。帝都はにぎやかで、その中に、エルザだけが取り残されているような気がした。
鏡の中の女が、まだそこにいた。
エルザはしばらく、その顔を見ていた。
(あなたは、これからどうするつもりなの?)
(この心の闇とともに、夜の闇の中に溶けていけたら。)
そう思って、目をつぶった。
答えは、今夜も出なかった。
ただ——出なくていい、とも思わなかった。
いつか、出さなければならない。
翌朝、父のいる療養所に行くと、父がベッドの上で熱心に何かを書いていた。
「お父様、何を書いているの」
「歴史書だ」と父はあっさり言った。
「歴史書?」
「帝国魔法文明史の改訂版を書いている。今まで誰も書かなかった視点でな。工業化との比較で魔力文明を再評価する試みだ」
エルザは開いた口が塞がらなかった。
「……お父様、半年前まで魔法省の役人だったのに、帝国の衰退を書くんですか?」
「衰退を書くのではない。魔力文明が何を成し遂げたかを、ちゃんと記録するんだ。消えていくなら、なおさら記録しなければ」
「それは……」
「エルザ、お前に頼みがある」図書館の本を取ってきてくれないか、と父は言った。リストを差し出した。
エルザはリストを見て目を丸くした。七十冊ある。
「お父様、左半身が麻痺しているのに、書けるんですか?大変じゃないですか?」
「右手は動く。右手があれば書ける。今も書いとるだろ?」
「……わかりました。無理はなさらないでくださいね」
図書館に行きながら、エルザはどこかじんわりとしたものを感じていた。
父は父なりに、失ったものと向き合っていた。
昨夜、鏡の前で「私は何のために生まれてきたのか?」と思ったことを、父は知らない。しかし父の姿が、その問いに対して、言葉ではなく背中で何かを示していた。
左半身が動かなくても、右手があれば書ける。
まだ動く手で、できることをする。
それだけのことかもしれない、でも……と——エルザは思った。
まだ、答えではなかった。しかしほんの少しだけ、昨夜より呼吸が楽になった気がした。
その夜、エルザはお茶を淹れることにした。
残り少ない茶葉で、丁寧に。
図書館で借りてきた茶道の古典を傍らに置いて。
一杯、丁寧に淹れた。
おいしかった。
自分で淹れたお茶が、こんなにおいしいと思ったのは初めてだった。
カップを両手で包んで、少し考えた。
(好きだ、と思う。お茶を淹れることが)
それだけだった。答えになるかどうかも、わからなかった。
何もない自分だけど、好きだと思えることがある。
それだけで、今夜は充分だと思うことにした。




