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魔力が枯れた聖女に、もはや恋は似合わない  作者: 風谷 華
第一章

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6 父の病気

 穏やかな日々は、父の発病で終わった。


 脳の血管が切れたらしい。命は取り留めたが、左半身に麻痺が残った。


 父は療養施設に入ることになり、屋敷を売ることになった。


 屋敷の中のものはほとんど売ってしまっていたので、売れるものはほとんどなかった。家具も、絵画も、母の形見のドレスも、すべて手放していたから。

 やはり、母の形見の磁器のティーカップ一客だけは、売らなかった。薄い白磁に金の縁取りの、小さなカップと一緒に安アパートへ引っ越した。



 引っ越しの日、荷物を運び出していたら、カイルが現れた。


「エルザ!手伝いますよ。一人では大変でしょう?」


 エルザは振り返った。


 カイルの顔から、いつもの穏やかさが消えていた。琥珀色の瞳が、まっすぐエルザを見ていた。


 その目を見た瞬間——何かが、エルザの中で弾けた。


「……結構です。一人で大丈夫ですので」


「エルザ。意地を張らないでください」


「結構だと言っています」


 声が、思ったより硬くなった。エルザは荷物を持ち直した。手が、少し震えていた。


「カイルさん」


 振り返らずに言った。


「もう、私に関わらないでください」


 しばらく沈黙があった。


「……エルザ?」


「聞こえましたか?」エルザは言った。「お願いです。もう、関わらないでほしいんです」


「なぜ……?」


 エルザはゆっくりと振り返った。


 カイルが立っていた。帝国風のスーツをすらっと着こなす、高身長。砂漠の夜のような黒髪。日に焼けた褐色の肌。隙のない立ち姿。


 その姿を見ながら、エルザは言った。


「あなたと私は、住む世界が違いすぎます」


「それは——」


「聞いてください」エルザは続けた。声が少し震えたが、止めなかった。「あなたは十二歳から必死に努力して、自分の力でここまで来た。帝國カフェーを買収して、連合最大の財閥を率いて——あなたは本当に、格好よく生きている」


「エルザ」


「でも私は」エルザは言った。「何もないんです。魔力もない。家柄も、もう意味がない。コネも、お金も、特別な才能も。あなたにしてあげられることが、何ひとつない。あなたみたいに自分の力で這い上がることも、私にはできない」


「そんなことは——」


「あなたといると」エルザは言った。「自分がどれほど何もない人間か、思い知らされる。あなたが眩しいのと同じくらい、自分が惨めになる。それが——つらいんです」

「私は、もうこの屋敷から離れます。屋敷は私にとって、最後の砦でした。もう、私が公爵令嬢で聖女だった頃を証明してくれるものは、全てなくなりました。あなたの思い出の少女は、もうどこにもいないんです」


 声が、最後で少し掠れた。


 エルザは唇を一度強く結んで、続けた。


「あなたはこれからも、もっと大きなことをしていく人です。私はこれから、小さな部屋で、何者でもないまま生きていく。それが現実です。そんな私に構ってもらっても——私には、返せるものが何もないんです」


 風が、荷物を包んだ布をかすかに揺らした。


 カイルは黙っていた。何も言わなかった。


 エルザはそれを待たずに、荷物を持ち直して歩き始めた。


「……もう行きます」


 背中を向けたまま、歩いた。


 カイルはその背中を見つめた。


 引き止めることが、できなかった。



 その夜、カイルは部下に電話で老秘書のセドリックに連絡を入れた。


「今夜はもう仕事に戻らない」


「はい。何かございましたか?——あの、代表、大丈夫でございますか?」


「大丈夫だ」


「声が大丈夫じゃございません。」


「セドリックは、声だけでわかるのか?」


「十年一緒にいると、わかるものですぞ」


 カイルは少し笑った。


「心配するな」と彼は言った。「ただ、待つのが少し苦しくなってきた、というだけだ」


「……代表、もう諦めようとしていらっしゃいますか?」


「まさか。諦めないよ」


「知ってますぞ」セドリックは言った。「代表が諦めたところ、一度も見たことないですからね。愛おしい女性のことなら、尚更ですぞ。フォッフォッフォッ」


「ふっ。セドリック、ありがとう」


 カイルは受話器を置いた。



 帝都の夜景を窓から見た。


 エルザが引っ越した先の安アパートの方を、自分でも気づかずに、しばらく見ていた。


 エルザが言った言葉を、何度も反芻した。


(あなたといると、自分がどれほど何もない人間か、思い知らされる)


 違う、とカイルは思った。


 エルザが「何もない」のではない。エルザは——ただ、まだ気づいていないだけだ。自分の中に何があるかを。


 しかし今日、それを言える立場に自分はなかった。


 言葉は、タイミングを間違えれば届かない。


 カイルは窓の外を見続けた。


(待てる。俺はずっと待ってきた)


 ただ今夜だけは——正直に思った。


 早く、あなたに気づいてほしい。


 自分の中にあるものに。


 そして、自分に何もないと嘆くエルザにこそ、伝えたかった。

 

 聖女だとか、公爵令嬢だとか、そんな肩書きはどうでもいい。

 

 たとえ何者であっても、何者になれなくても――。「エルザ」が「エルザ」であるというだけで、カイルは彼女を愛している。

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