5 距離の測り方
それからカイルは、頻繁に帝國カフェーに来て、エルザを待つようになった。
当時のエルザはまだ客として来ていた。貧乏だったけど、週に一度だけ、この店に来ることを自分に許していた。
カイルはいつも先に来て、奥の席で待っていた。エルザが入ってくると、向かいの席を勧めた。エルザは断ったことがなかった——ただし、自分から来ることもなかった。
「エルザ嬢、今日は寝不足気味ではありませんか?大丈夫ですか?」と、ある日カイルは言った。
「そんなことはありません。大丈夫です」
「よく眠れていますか?」
「はい、よく眠れていますよ」
「それは、嘘ですね」
「カイルさんは、なぜそう言い切るんですか?」
「エルザ嬢の目の下に影があるからです。それに今日のお茶を受け取るときの手が、いつもより少し震えていました」
「……観察することが得意ですね。さすがドゥラン商会の代表ですね」
「いえ。そうでなくて。あの……あなたのことは、よく見ていますから」
さらりと言った。
エルザは返す言葉を失って、お茶を飲む振りをした。
別の日、エルザが帰ろうとしたとき、外に馬を横付けにして待っていた。
「エルザ嬢、送ります。もう暗くなりはじめてますから」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「エルザ嬢、夜道は危ないですよ」
「ご心配いりません。帝都の東区は治安がいいので」
「最近、酔っ払いが出ると聞きました、あなたの家の方向に」
「カイルさん」エルザは真顔で言った。「そんなに暇だったんですか?いつ調べたんですか?」
「……三日前に」
「どうしてそんなどうでもいいこと調べたんですか?」
「エルザ嬢が心配だったからです」
エルザは深呼吸をひとつして、歩き出した。カイルは馬を引きながら、その隣をゆっくり並んで歩いた。
「あの」とエルザが言った。「その馬」
「はい、この馬がどうかしましたか?」
「どうして馬に乗らずに、私たちは歩いているんですか?」
「この馬は、散歩が好きなので」
「散歩?馬が?」
「ええ」
エルザは少しの間、そのなんとも言えない理由を受け止めた。
「……名前はあるんですか?その馬に」
「ムギといいます」
「ムギ。可愛い名前ですね」
「砂漠の出身なので、この馬は麦という食べ物に憧れを持っていて」
「馬が憧れを持っているんですか?」
「そうです」
「馬が憧れを持てるんですか?」
カイルはしばらく黙った。
「えっと、冗談ですよ。あなたを笑わせたくて」
「そうですか」エルザはまっすぐ前を見たまま言った。「お気遣いありがとうございます」
「あと本当は、ムギに乗らずに歩いた方がエルザ嬢と長く一緒にいられると思って……」
「え……」
エルザの足が止まりかけたが、カイルは前を向いたまま、さらに言葉を重ねた。
「あの、『エルザ』と呼んでもいいでしょうか?」
「あっ、えっと、はい。好きに呼んでいただいて構いません」
「では。今度からそう呼びますね」
その響きに、エルザは小さく頷いた。
そして、二人は少しだけ、ゆっくり歩いた。
春のある朝、帝國カフェーの入口に白い薔薇が一本飾られていた。
「オーナーからです」とウェイターが言った。
その日がエルザの誕生日だということを、エルザ自身も忘れかけていた。
カイルがその日に現れたのは夕方で、エルザが「なぜ誕生日を知っているんですか?」と聞くと、カイルは少し間を置いて答えた。
「実は、帝都の知り合いに聞きました」
「え?誰ですか?」
「……その、帝国騎士団の団長の」
エルザは目を細めた。
「あ!もしかして、アドルフですか?」
「そうです」
「すみません。誕生日プレゼントいただてしまって」
「アドルフ殿は、積極的に協力してくれましたよ。『エルザが幸せそうならなんでも教える』と言っていました」
エルザは額に手を当てた。
「あの人、もうっ——」
「とても良い人ですね、アドルフ殿は」
「良い人なのは知っています。でも余計なことを!」
「余計なことではありません。とても有り難かったです」
エルザはカイルを見た。カイルは真剣な目をしていた。
「嬉しかった、です」と彼は言った。「あなたの誕生日を知れて」
エルザはうつむいた。
その夜、アパートに帰る途中でエルザは空を見上げた。
帝都の夜空に、星がいくつか見えた。
泣きたいような、笑いたいような——どちらとも決められない気持ちのまま、しばらく歩いた。
カイルのことを、考えていた。
十二歳で帝都に来て、石段に座っていた少年。字も算術も、一から自分で覚えた。誰かに与えられたものではなく、砂の上に自分で積み上げてきた。
翻って、自分は何をしてきたのか。
与えられたものに乗っかって、失って、今は週に一度帝國カフェーに通うことだけを楽しみに生きている。
(このままでいいはずがない)
没落したのは仕方がない。魔力が枯れたのも、帝国が沈んだのも、自分には止められなかった。しかし——このまま、ただ沈んでいくだけの人生を続けるのか。カイルが石段にいた少年から、商人になって財閥を作り、帝國カフェーの扉のオーナーになるために二十年かけて動き続けたのと同じ時間を、自分は何に使うのか。
エルザは足を止めた。
(せめて、働きたい)
それだけは、はっきりしていた。誰かに養われるのではなく。アドルフの好意に甘えるのでもなく。自分の手で、自分が誇りを持てる何かを。
しかし——何をすればいいの?私に何ができるの?
そこで、思考が止まった。
魔力はない。貴族の令嬢としての縁故も、今はほとんど残っていない。帝国式の教育は受けたが、それは「聖女として役立てるための教育」であって、働くための技術ではなかった。帝国が誇りとしてきたものと、自分が学んできたものは、どちらも今の世界では通用しない。
(では、何が残っているのか)
石畳を踏みながら、考えた。
三十二歳。没落令嬢。魔力なし。未婚。特技——なし。
なし、だろうか。
エルザは歩きながら、無意識に手を開いた。手のひらを見た。お茶を受け取るたび、この手のひらで温かなカップを包み込むのが、たまらなく好きだった。母とテーブルを囲むたび、この指先で磁器の感触を確かめ、次に訪れる香りに胸を躍らせていた。
……それだけだ。好きなだけで、何の技術もない。
(でも)
思い直した。
カイルも最初は何もなかった。字も読めない十二歳の少年が、帳簿を覚えて、商売を覚えて、二十年かけて財閥を作った。最初から何かを持っていた人間など、ほとんどいない。
今夜、すぐに答えが出るとは思っていなかった。
でも、ひとつだけ決めた。
落ちぶれていくのを、当たり前のように受け入れ続けることを、もうやめよう。
何になるかはわからない。何ができるかもわからない。しかし、誇りを持って立てる場所を、自分で見つける。施される側で終わるのではなく、自分の手で何かを渡せる人間になる。
それだけを、今夜決めた。
帝都の夜風が、少し冷たかった。
エルザは背筋を伸ばして、夜道を歩き続けた。




