3 砂塵の王になるまで(カイル視点)
カイルが帝都から故郷に戻ったのは、十五歳のときだった。母の病気の知らせを受けて。
戻ってみると、村はすっかり変わっていた。黒石の採掘が本格化して、新しい工場が建ち始めていた。カイルは叔父の紹介で工場の仕事を得た。
仕事は、石炭の積み下ろしと運搬だった。朝から日が暮れるまで、重い石を担いで歩く。背中と腰が悲鳴を上げた。手のひらがひび割れた。しかしカイルは休まなかった。
砂漠で育った体は、過酷さには慣れていた。
カイルは働きながら、字を覚えた。算術を覚えた。帝国語だけでなく、連合の標準語も磨いた。仕事が終わった後、ランプの光の下で毎晩勉強した。
叔父が一度言った。「カイル、毎晩何を読んでいるんだ」
「帝国の茶道の歴史です」
「……なんで茶道を?この辺じゃ、お茶は手に入れられないだろ?」
「いつか、おいしいお茶を淹れたくて。ただの憧れなんですけど」
「お前、そんなことよりも、仕事で疲れているんじゃないのか?」
「疲れてます。でも、どうしても知りたくて」
叔父は首を振って出て行った。翌朝、テーブルに茶葉が置いてあった。無言の応援だったと、後で気づいた。
カイルは字を覚えた次に、帳簿の読み方を覚えた。工場の帳簿係の男が夕方によく酒場に行くのを知っていたので、代わりに帳簿をつけることを申し出た。最初は断られた。三度目に申し出たとき、「試しにやってみろ」と言われた。
一週間後、帳簿係の男が言った。「お前、俺より計算が速いんだな」
「ありがとうございます」
「褒めてるんじゃない。気持ち悪いと言っているんだ」
そう言われつつも、帳簿の仕事はカイルに任された。
十七歳のとき、採掘会社の帳簿係になった。
帳簿を読んでいると、色々なことがわかった。どの採掘場が利益を出していて、どこが赤字なのか。どの取引先が信用できて、どこが遅延を繰り返しているのか。数字は嘘をつかない。人間は嘘をつくが、数字は正直だった。
カイルはその数字を読みながら、気づいたことがあった。
会社の幹部たちは、目の前の利益しか見ていなかった。採掘した黒石を、近くの買い手に売る。それだけだ。しかし帝国の情報を追っていたカイルには見えていた——帝国がこれから大量に工業製品を必要とするようになる。帝国の商人たちが連合の製品を買い始める。その流れが、もうすぐ来る。
上司に話した。
「帝国向けの輸出ルートを作るべきだと思います」
「お前は帳簿係だ。余計なことを言わなくていい」
「でも数字を見ると——」
「帳簿の話だけしてればいい。自分の仕事に集中しろ」
カイルは黙った。しかし諦めなかった。
十九歳のとき、カイルは初めて自分の金で小さな採掘権の売買を手がけた。
貯めた給料のほとんどを使った。母に「何をしてるの?バカな子ね」と言われた。「大丈夫だから。母さん、俺を信じてくれ」と答えた。「失敗したら?」と言われた。「失敗しないよ。大丈夫。たとえ失敗しても、また働いてお金を貯めるから。母さんは心配しないで」と答えた。
根拠はなかった。しかし帳簿を三年読み続けた目には、確信があった。
すぐに、利益が出た。
1年で元手の資金は三倍になった。
母がその金を見て言った。「何か悪いことでもしているの?もしくはどこかで盗んだのかい?」
「悪いこともしてないし、盗んでいないよ」
「本当に?」
「本当。母さん、信じて。大丈夫だから。母さんは昔から心配性だなぁ」
翌日会社の書類を見せると、母は「お前の母親は間違いを認められる女だ。ごめんよ、カイル」と言いながら謝ってきた。カイルは笑いをこらえるのに苦労した。
二十一歳のとき、連合の商業都市に出た。
資本金は、採掘権の売買で増やした金だった。大きくはなかった。商業都市には、カイルより遥かに多い金を持った商人が山ほどいた。
しかしカイルには、他の商人にないものがあった。
帝国の情報だ。
帝都で出稼ぎをしていた三年間、カイルは帝国のことを肌で覚えていた。帝国の人間がどう考え、何を欲しがり、何に金を払うかを知っていた。それは帳簿からは読めない情報だった。
カイルは帝国向けの仲介業を始めた。連合の製品を帝国の商人に紹介する。帝国の商人が欲しいものを連合で調達する。最初は小さな取引だった。しかしカイルは一つひとつの取引を丁寧に、正確にこなした。
信用が、少しずつついた。
商売で一番大切なのは、才覚より信用だと、カイルは後に誰かに聞かれたとき答えている。才覚は信用を生かすための道具に過ぎない、と。
カイルには才覚があった。数字を読む目があった。人を見る目があった。
ただ、それより大事なことがあった。
諦めなかった、ということだ。
砂漠育ちだから、渇きには慣れていた。水が来るまで待てた。砂漠では、水を求めて歩き続けられる者だけが生き残る。動けなくなったら終わりだ。しかし動き続けていれば、どこかで水脈に当たる。それは父が証明していた。
カイルの父は、根気強く調査を続け、砂漠の中で水脈を発見した男だった。
二十四歳のとき、最初の会社を立ち上げた。
「ドゥラン商会」。社員は最初、カイルを含めて三人だった。
会社を作った日の夜、カイルは一人で安い居酒屋に行き、一番高い酒を一杯だけ頼んだ。乾杯する相手がいなかったので、壁に向かって言った。
「ここまで来たよ」
壁は何も言わなかった。
カイルは笑いながら飲んだ。石段の端に座って、扉の向こうの香りを嗅いでいたあの日のことを、少し思い出した。
(まだ、途中だ)
もう一杯頼もうとして、やめた。まだやることがある。
二十七歳のとき、帝国への輸出事業を本格化させた。
転機は、帝国の魔力枯渇が加速し始めたときだった。
帝国の魔法使いたちが職を失い始めた。魔法製品が作れなくなった帝国の商人たちが、代替品を求めて連合に目を向け始めた。カイルはその動きを、誰より早く察知していた。帝都にいた頃から見えていた流れが、ようやく現実になってきた。
カイルは動いた。
資金を集めた。人を雇った。帝国の主要都市に連絡網を作った。帝国の商人たちと直接交渉した。「あなたの商品を連合で売る」ではなく、「あなたが必要なものを俺が持ってくる」という形で。
帝国の商人たちは最初、連合の人間を信用しなかった。当然だった。長年見下してきた「属国の田舎者」を、なぜ信用しなければならないのか。
カイルは焦らなかった。
一つの取引を、完璧にこなした。また一つを、完璧にこなした。遅れない。嘘をつかない。約束した品を、約束した日に届ける。ただそれだけを繰り返した。
三年かかった。しかしドゥラン商会の名前が、帝国の商人の間に広まった。
「連合の商人で信用できるのは、ドゥランだけだ」
そう言われるようになった頃、会社の規模は最初の五百倍を超えていた。
三十歳になる頃には、カイルは「ドゥラン商会」の代表として、新興連合最大の財閥のひとつを率いていた。
帝国と連合、双方の貿易を仲介するドゥラン商会の取引規模は、帝国の中規模の国家予算に匹敵するとも言われた。帝国の没落貴族が資産を整理するときも、新興連合の商人が帝国に進出するときも、「まずドゥランに相談しろ」というのが帝都の商人たちの合言葉になっていた。
カイルは帝国語と連合語を完全に操り、帝国の慣習も連合の商慣行も熟知していた。どちらにも属さず、どちらにも信用された。それが、他の誰にも作れなかった立場だった。
砂漠の採掘場で死んだ父が最初に見つけた水脈が、今の新興連合の基礎になっているように——カイルが十二歳で帝都の石段に座って見ていた夢が、今のドゥラン商会になっていた。
この頃からカイルは「砂塵の王」と呼ばれるようになっていた。
砂漠から来て、砂を踏みしめて歩いて、砂の上に王国のような財閥を作った男——そういう意味で、いつの間にかそう呼ばれていた。カイル自身は好きな呼び名ではなかった。「王」でも何でもない、ただの商人だと思っていたから。
しかし秘書のセドリックが一度言った。「代表が砂漠商人の王でないなら、誰が王でございましょう?」
カイルは答えなかった。
「砂塵の王」と呼ばれるようになった後も、カイルはずっと、あの少女のことを忘れていなかった。
帝都の情報を集める中で、彼女の名前がわかった。エルザ・ヴァイスベルク。帝国随一の魔力を持つ聖女。代々、国を統べる「聖女」を輩出してきた名門公爵家の一人娘だ。彼女の祖母もまた、魔力の大きな「聖女」だったらしい。
「ヴァイスベルク家の令嬢について調べてほしい」と、セドリックに頼んだことがある。
翌日、セドリックが恐る恐る報告書を持ってきた。
「……代表、こちらがご指定の資料にございます。」
セドリックは、指先ひとつ汚れていない完璧な所作で一礼した。普段は温厚な好々爺として通っているが、一晩でここまで詳細な家系図と裏の交友関係を洗い出す手腕は、ただの秘書のそれではない。
かつては闇の組織に身を置いていたという物騒な噂も、彼の静かな足音を聞くたびに現実味を帯びて感じられた。
「代表、失礼ですが……」
「なんだ」
「もしかして、お好きなんですか?」
「知らなくていい。それで、調べてきたのか?」
「調べてきました。が、あの、一点だけ確認を」
「なんだ」
「かれこれ、何年ご存知なんでしょう?」
「十八年かな。十二の時からだから」
セドリックは少し黙った。
「……代表が、十八年間、一度も会ったことのない方のことを想っていたと?」
「一度は会っている。一言だけ話した」
「一言!なんと、まあ!まあ!」
「ありがとう、と言ったかな」
「それだけでございますか?」
「それだけだ」
セドリックはしばらく報告書を持ったまま立っていた。それから、深く頷いた。
「わかりました。引き続き調べましょう」
「頼む」
「ただ——代表」
「なんだ」
「それは、恋だと思いますぞ」
「わかっている」
「分かってらっしゃるのですね」セドリックは言った。「報告書を渡す前に一つだけ。あの、セドリックは感動しましたぞ」
「か、感動?っっ……仕事をしろ」
「はい、承知いたしました。フォッフォッフォッ。おめでたいですなぁ〜」
「くっ……」
白くて長い整えられた髭を撫でながら、セドリックは去っていった。
後日、会社の若手の間で「代表には帝国に思い人がいる」という噂が広まった。カイルは否定しなかった。事実だったから。
三十一歳の春、カイルは帝都に戻った。十九年ぶりだ。
帝都は変わっていた。魔法の街灯が減り、蒸気で動く乗り物が増えていた。貴族たちが暮らす区画は静かになり、新興連合の商人たちが集まる東区が賑わっていた。カイルが十二歳で歩いた石畳の大通りは、今も同じ場所にある。しかしその上を歩く人間の顔ぶれは、ずいぶん変わっていた。
最初にしたのは、帝國カフェーの買収交渉だった。
老舗の誇りを持つ店主は、最初の半年間、話すら聞こうとしなかった。「連合の人間には売らない」と言った。カイルは焦らず待った。二十年待ってきたのだ。など、半年など何でもなかった。
一年過ぎた頃、カフェーの経営が傾いたとき改めて交渉した。価格は提示額の二倍を払った。店の名前も、内装も、変えなかった。赤褐色のビロードの椅子も、アンティークの燭台も、そのままにした。
ただ、先代皇帝の肖像画の代わりに、故郷の砂漠を描いた絵を飾った。灼熱の砂の上に、一本の水脈が光っている絵だ。
「あの絵は何ですか?」と後に店長が聞いた。
「故郷です」とカイルは答えた。「水を探して歩いていた頃の、故郷の風景」
「……素敵な絵ですね」
「そうでしょう」カイルは言った。「あの水脈を最初に見つけたのは、私の父でした。あの採掘場の水脈を。父は私が三歳のときに採掘事故で死にました。でも、その水脈が今の新興連合の基礎になっています」
店長はしばらく絵を眺めた。
「見つけた人が、必ずしもそこから利益を得られるとは限らないのですね」
「そうですね」とカイルは言った。「世の中は理不尽にできていますよね」
店長はそれ以来、カイルに深い敬意を持って接した。
あとは、エルザを待つだけだった。
あの店に来る、と確信していた。
彼女もあの場所を愛しているはずだから。
石段に座って扉の向こうの香りを嗅いでいた十二歳のカイルが、二十年かけてその扉を手に入れた。
次は——正面から、エルザに会う番だった。




