2 石段の少年(カイル視点)
カイル・ドゥランが帝都に来たのは、十二歳の夏だった。
故郷は南方の砂漠地帯、新興連合の中でも最も貧しい農村だ。黒石の採掘場から二日歩いた場所にある小さな村で、カイルは母と二人で暮らしていた。父は彼が三歳のときに採掘事故で死んだ。母は洗濯の仕事をしていた。
帝都に出稼ぎに行くことになったとき、母は麻袋に食料と着替えを詰めながら言った。
「カイル、帝都で帝国人に何かされても、絶対に向かっていくんじゃないよ。今はまだ、向かっていける時代じゃない」
「わかってるよ。そんなに馬鹿じゃないから」
「それと、しっかり食べるんだよ。あんた食べるの忘れると頭おかしくなるから」
「頭おかしくなるって、何だよ?そんなことあったか?」
「あったよ。お腹空くと、怒りっぽくなるだろ?あと、転んでも泣くなよ」
「泣かないよ!母さん、僕もう十二だよ!心配しすぎ!」
「十二でも転んで泣く子は泣く。あんたは繊細なんだから」
「繊細……かな?友達には図太いってよく言われるんだけど……」
カイルは複雑な顔で荷物を担いだ。母は心配性で過保護で、語彙が独特だった。しかし故郷を離れてから気づいた——あの言葉の全部が、愛情だったと。
帝都は、カイルが想像していたより遥かに大きく、遥かに美しく、そして遥かに冷たかった。
石畳の大通り。魔法の光で照らされた街路灯。色とりどりの衣をまとった帝国の貴族たち。新興連合から来た出稼ぎの子どもは、その風景の中に存在しないも同然だった。
砂漠の日差しに焼かれた褐色の肌に、黒い髪。帝国の子どもたちの金髪や茶髪の中で、カイルは一目で「よそ者」とわかった。荷物運びの仕事では、帝国の商人たちがカイルを見る目が物語っていた——この子どもは、帝国の風景に属していない「紛れ込んだ異物」、だと。
荷物運びの仕事は朝から夕方まであった。帝都の一番好きな場所を、カイルはすぐに見つけた。
帝國カフェーの前の石段だ。
中に入る金はなかった。しかし石段に座っていると、扉の隙間から香りがこぼれてきた。甘く、深く、少し煙のような余韻を持つ、不思議な香り。後でそれが「黄金霞」と呼ばれる最高級の茶葉の香りだと知った。
カイルは毎日、仕事終わりにそこに座った。砂漠の砂埃がまだ体に染みついたような気がする作業着のまま、膝を抱えて。扉の向こうで、帝国の人たちが笑っている。きれいな服を着て、きれいなカップでお茶を飲んでいる。
いつか、と思った。
いつかあの扉を開けて、あの席に座って、あの香りのするお茶を飲もう。
ただの夢だとわかっていた。それでも、その夢だけが、帝都の冷たさの中で彼を温めてくれた。
少女に会ったのは、そんなある夕方のことだった。
石段に座っていたカイルの前を、ふたつの影が通った。年配の女性と、少女だ。
少女は淡いプラチナブロンドの髪を首筋でひとつに束ねて、白いドレスを着ていた。白磁のような肌に、水面のように静かなグレーの瞳。細い体つきは、カイルと同じくらいの年頃だったが、まったく別の世界の人間に見えた。
砂漠の村で見てきたどんな景色とも、違った。
カイルは——正直に言うと——息が止まった。
きれいだ、と思った。
頭の中が真っ白になるほどの純粋な「少女の美しさ」が、心に深く突き刺さった。
(何をしているんだ自分、こんな格好で石段に座っていて、みっともない。砂漠で焼けた肌に、くたびれた作業着で。もっとまともな格好だったら、せめて声をかけられたかもしれない。いや何を言っている、声をかけてどうするんだ、帝国の貴族令嬢と属国の出稼ぎ少年が話すわけが——)
頭の中が大変なことになっているうちに、少女がカイルを見た。
目が合った。
グレーの瞳が、まっすぐカイルを見た。
少女は立ち止まった。手にテイクアウト用の赤いカップを持っていた。飲みかけのお茶のカップを。
「これ、よかったらどうぞ。黄金霞よ」
少女はカップをカイルに差し出した。
カイルは、受け取った。
複雑な感情が渦巻いていた。嬉しかった——立ち止まってくれた。恥ずかしかった——施しをされた。でも一番正直な気持ちは、もっと単純だった。
あの香りのするお茶を、あの子が自分にくれた。
それだけで、帝都に来てから初めて、心が温かくなった。
「……ありがとう。あの……、僕はカイルです」
少女は微笑んで、年配の女性の後を追いかけた。こちらを振り返ることはなかった。
カイルはカップを両手で持ち、ひとくち飲んだ。
「黄金霞」は——言葉にならないほど、おいしかった。
甘く、深く、じわりと体に染みていくような温かさ。帝都の夕暮れが、その一口で少しだけ柔らかくなった気がした。
もう一口飲もうとして、やめた。
残りをしばらく眺めて、それからゆっくりと飲み干した。最後の一滴まで。
その夜、粗末なアパートの布団の中で、カイルは長い時間考えた。
あの少女は何者だろう。名前は何というのだろう。また会えるだろうか。
綺麗な子だったな。それに、笑った顔は可愛かったな。
あの少女のことを思い出すと、心臓の音がドクドクと聞こえてくる気がした。
琥珀色の瞳——砂漠の砂が夕暮れに染まる、あの色——を天井に向けながら、カイルは思った。
いつか自分も、あの扉を開けられる人間になったら——
向こう側から、正面から、あの子と会えるだろうか。
帝都の夏といえども、夜は肌寒かった。しかし頬だけが、不思議と熱かった。砂漠育ちのカイルには、恋という言葉の使い方がわからなかった。ただ、もう一度会いたい、という気持ちだけが、冷たい帝都の夜に、ちいさな火のように燃え続けていた。




