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没落聖女に、もはや恋は似合わない  作者: 風谷 華
第一章

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1 聖女と呼ばれた少女

 エルザ・ヴァイスベルクの右手の薬指には、小さな傷跡がある。


 ほとんど目立たない。よほどよく見なければわからない、細い白い線だ。


 これには、少し長い話がある。



 エルザが五歳のとき、ヴァイスベルク公爵家の屋敷の隣に引っ越してきた家族がいた。ハルトマン伯爵家だ。その息子、アドルフは同い年で、二人はすぐに仲良くなった。


 庭で木の枝を拾って、「魔法の杖」と言い合いながら振り回すような子どもたちだ。ある日の午後、アドルフがエルザに向かって枝を思い切り振ったら、折れた先端がエルザの薬指にぶつかった。たいした傷ではなかったが、細く、深く切れた。


「エルザ!」


 アドルフが青ざめた。エルザよりずっと動揺していた。


「大丈夫でちゅ」とエルザはあっさり言った。「ちょっと血が出ただけでちゅ」


「ごめんなちゃい、僕のせいでちゅ。もっと気をつければよかったんでちゅ」


「アドルフのせいじゃないでちゅよ」


 エルザは本当に気にしていなかった。ほどなく傷は癒えて、細い傷跡だけが残った。その跡を見ても、特に何も思わなかった。遊んだ日の記念みたいなものだと思っていた。


 しかしアドルフは、ずっと気にしていた。



 それから十三年後のことだ。


 エルザが十八歳になった春の夜会で、アドルフに呼び止められた。


 アドルフは今や立派な青年になっていた。高い長身に、鮮やかなゴールドの短髪。碧い瞳は帝国貴族らしい意志の強さをたたえていて、重厚な体格は騎士団で鍛えられたものだとひと目でわかる。常に背筋が伸びた堂々たる立ち姿は、副団長という地位にふさわしかった。


「エルザ」と彼は言った。「話があるんだ」


 応接間に移って、アドルフは神妙な顔で座った。


「あの傷のことを、ずっと、謝りたかった」


 エルザはしばらく考えてから、どの傷のことかを思い出した。


「……五歳のときの?」


「そうだ。あれから、ずっと気になっていた。一生かけて償いたいと思っている」


「えっ?一生……」


「だから、結婚してほしいんだ」


 しばらく沈黙があった。


「アドルフ」とエルザは言った。「その傷のこと、私はもうずっと忘れていたわ」


「えっ」


「薬指に傷跡があることは知っているけど、あれがあなたとの遊びのときのものだったかどうか、正直あやふやになっていたくらいよ」


「…………」


「気にしないでいいのよ、本当に」


「でも」アドルフの声に焦りが混じった。「ずっと心配だった。もしかしてその指が——」


「きれいに癒えているわ。ほら。問題なく使えているし。もう、気にしないで」


 エルザが右手を差し出した。アドルフはその指をしげしげと見た。


「あの、本当に申し訳なかった。それと、傷を気にしなくても、好きなんだ。結婚を前提に、付き合ってほしい」


「ありがとう。でも断るわっ」


「え?早っ!さすがエルザ!もうちょっと、考えてくれても良くないか?」


「ごめんなさい」エルザは穏やかに言った。「あなたとはずっと仲良くしていたいけれど、それとこれとは別」


 アドルフは長い沈黙の後、深々とため息をついた。笑うと目尻にシワが寄る——その笑顔は今日は見せずに、ただ静かに頷いた。


「……わかった。でも、縁は切らないでくれ」


「もちろんよ」


 アドルフはその日以来、「親友」として帝国で最もエルザを心配する男になった。エルザが聖女として渡せる魔力がどんどん減り、ヴァイスベルク公爵家が没落し始めた時から、特にこまめに連絡をよこすようになった。

アドルフは「金を送る」とエルザに十七回言ってきて、十七回断られている。今も懲りずに十八回目を計画中だ(エルザはそれをまだ知らない)。



 話を戻そう。


 エルザ・ヴァイスベルクは、帝国で最後の「聖女」だった。


 少なくとも、そう呼ばれていた。


 他の聖女から魔力がでなくなっても、エルザの魔力は枯れないと思われていた。


 三十二歳の今も、その面影は残っている。淡いプラチナブロンドの髪を首筋でひとつに束ね、白磁のような肌に、薄いグレーの瞳。細身の体には、かつて(まと)っていた絹のドレスの代わりに、今は仕立てのよい地味な服を(まと)っている。化粧をほとんどせずとも整った顔立ちだが、その目の下にはうっすらと疲れの影がある。そして右手の薬指に、細い傷跡がひとつ。


 彼女はそれを隠さない。気にしていないから。



 しかし今日のエルザが帝國カフェーに来るまでの道のりは、以前とはまったく違うものだった。


 かつては馬車で来ていた。御者付きの、ヴァイスベルク家の紋章が入った馬車で。母と並んで座り、着いたら扉を開けてもらって降りた。


 今日は一人で、歩いてきた。帝都の屋敷から、三十分かけて。靴の底が薄くなってきているのが、石畳を踏むたびに足裏に伝わってくる。新しい靴を買う余裕は、今のエルザにはない。


 かつてはここで、帝国最高峰の茶葉「黄金霞」を何も考えずに頼んだ。一杯の値段が庶民の一週間の食費に相当するとは、知りもしなかった。いや、知る必要がなかった。


 今日頼むのは「銀露」だ。帝國カフェーのメニューの中では最も安い茶だ。それでも、週に一度だけ自分に許している贅沢だった。


 三十二歳。未婚。魔力なし。財産なし。仕事なし。


 十八歳の頃、これが自分の未来だと言われたら、エルザは笑い飛ばしていただろう。帝国の聖女が、三十を過ぎて独り身で、安いお茶を週に一度だけ飲みに来る女になるなどと。


 しかし現実は残酷だった。



 そのエルザは今日も、帝國カフェーに来ていた。


 帝都の大通りに面した帝國カフェーは、百年の歴史を持つ老舗だ。黄金帝国の貴族文化を象徴する場所として知られ、かつては皇族も足を運んだという。


 カフェーに入ってまず目に入るのは、吹き抜けの天井まで伸びる一本のジャカランダの木だ。

 創業当時、誰かが植えたのだという。

 根は石畳の床を割って深く食い込み、幹は大人が両腕を広げてもまだ足りないほど太い。枝は二階の回廊をくぐり抜けるように広がって、紫の花房を惜しみなく垂らしている。


 散った花びらが赤褐色のビロードの椅子の上にふわりと落ちても、店員は急いで払いのけたりしない。ここではそれも、景色の一部だった。


 アンティークの燭台、壁に掲げられた先代皇帝の肖像画。帝国の誇りを、この場所だけは今もかろうじて保っていた。しかしエルザの目には、いつもあの木が先に映った。何年通っても、変わらなかった。エルザは、帝國カフェーでジャカランダを見ながらお茶を飲むことが、昔から大好きだった。



 エルザがここに来るようになったのは、十歳の頃からだ。


 当時のエルザは、本当に「聖女」だった。


 帝国でも百年に一度と言われるほどの魔力量を持つ子どもとして生まれたエルザは、物心ついた頃から特別扱いされた。魔力省の役人が定期的に屋敷を訪れた。帝国最高峰の魔法師が家庭教師についた。社交界では令嬢たちの中心にエルザがいて、母は「この子は帝国の宝ですわ」と誇らしげに紹介した。


 エルザ自身も、そう思っていた。


 自分が特別であることを、空気のように当然に感じていた。


 それが傲慢と気づかないほど、当時のエルザは恵まれていた。



 失ったものを、数えようとすると、きりがない。


 魔力が最初に消えた。ある朝目が覚めたら、地脈に繋がる感覚がどこにもなかった。

 体の中がからっぽで、指先を動かしても何も起きなかった。

 

 聖女の役割は、単純だった。

 帝国の土地に眠る地脈の魔力を自分の体に吸い上げて、それを帝国の魔法師たちへ渡す。

 言わば、大地と人とをつなぐ管だ。管に徹することが、聖女の務めだった。

 

 だから、誰もエルザに魔法の使い方を教えなかった。

 

 火を起こす方法も、水を操る方法も。

 教師たちはいつも、「余計なことを考えてはなりません」と言った。


 最高峰の魔法師が何人も家庭教師についていたのに、彼らが教えたのは魔力の量を増やす訓練と、渡す技術だけだった。せっかく体に吸い上げた魔力を、エルザ自身が使ってしまってはならないから。

 

 ときどき、指先が温かくなることがあった。

 炉に近づいてもいないのに、ふと手のひらが熱を帯びる瞬間が。

 あるいは雨の日の前、空気の水分が指にまとわりつくような、奇妙な感覚が。

 

 エルザはそれを教師に話したことがあった。


「それは地脈の魔力が体を通っているだけです」と教師は言った。「気にしなくて結構」


 気にしなくて結構。


 その言葉で、エルザは気にしないことにした。

 自分が何かできるかもしれないとは、考えないことにした。


 エルザは、いつだって聞き分けのいい子だった。

 大人の言うことに従い、期待に応え、波風を立てずに微笑んでいれば、いつか聖女として幸せな未来がやってくると信じていた。

 

 今となっては、あの温かさが何だったのか、確かめる術はない。

 魔力はとうに消えた。

 指先が熱を帯びることも、水がまとわりつく感覚も、もうどこにもない。

 


 魔力の次に婚約者が消えた。クラウス・リヒテンハイン。帝国北部の公爵家の嫡男だった。

 エルザの魔力が枯れたと知った途端、手紙一本で婚約を解消した。


 そして、エルザの心の支えだった母が死んだ。


 父は官僚として魔法省で今も働いているが、とても貧乏になった。


 屋敷はかろうじて保有しているが、使用人は一人もいない。


 かつて大勢の給仕やメイドがいたこの屋敷で、今、家事を担っているのはエルザただ一人だった。

 朝早くに起きてかまどに火を入れ、父の朝食を作り、冷たい水で重いモップを絞る。


 けれど、広大な屋敷をエルザ一人で守り切れるはずもなかった。

 窓は曇り、隅には埃が溜まっていく。今はもう、父と自分が使う最低限の部屋と、それらを繋ぐわずかな廊下を維持するのが精一杯だった。

 閉め切られたままの客間や、光の差さない奥の広間は、もはや彼女の生活から切り離された「開かずの間」となりつつあった。


 母の形見のドレスも、祖母から受け継いだ食器も、子どもの頃から慣れ親しんだ書架に並んでいだ本たちも、売れそうな価値のあるものは売った。高価なカップでとってあるのは、一つだけ。薄い白磁に金の縁取りの、小さなカップ。母とここ、帝國カフェーでよく飲んだのと同じ型のカップだ。


 それだけを残した。なぜかはわからない。ただ、手放せなかった。


 三十二歳の自分が、そのカップを使うことはまだない。安い陶器のカップで充分だから。しかし捨てられない。捨てたら——何かが、本当に終わってしまう気がして。



 帝國カフェーの扉を押すと、真鍮の鈴がカランコロンと鳴る。


 その音だけは、変わっていなかった。


 しかし店内に入った瞬間、エルザは眉の筋肉がかすかに緊張するのを感じた。


 見慣れた赤褐色のビロードの椅子。アンティークの燭台。先代皇帝の肖像画。それらは変わっていない。変わっていないのに、何かが違う。


 言葉だ。


 店の奥の席から、流れるように異国の言葉が聞こえてくる。新興連合の標準語——かつて帝国が「属国の方言」と呼んでいた言語だ。それが今、この帝國カフェーの空気を満たしている。


 三人の男たちが奥のテーブルを囲んでいた。テーブルの上の茶器に目が止まる。「黄金霞」だ。帝国最高峰の茶葉。その価格は、一杯でエルザの一週間分の食費に相当する。


 彼らはそれを、何でもないもののように飲んでいた。大きな声で。テーブルを叩きながら。


 エルザは窓際の席に座った。いつもの席。母とよく来た席だった。


 ざらざらとした感触が、胸の奥に広がる。


(妬んでいる)


 自分でわかった。認めたくなかったが、わかった。あの男たちが羨ましい。あの茶葉が飲みたい。そうではなく——あの高価な茶葉を「何でもないもののように飲む」という顔が、羨ましい。何かを失うことを、恐れなくていい顔が。


 かつての自分も、ああだったのだろうか。


 十歳で初めてここに来たとき、石段に座っていた出稼ぎの子どもたちのことを、気に留めたことがあっただろうか。


(やめなさい、エルザ)


 心の中で、母の声がした。


(人の幸福を妬むのは醜いわ。あなたの中に輝くものを磨きなさい)


 わかっています。でも今は、その「輝くもの」が何なのかも、わからないのです。


 魔力が輝くものだと思っていた。家柄が輝くものだと思っていた。婚約者が、ドレスが、聖女という称号が。しかしそれらは全部、なくなった。なくなってみると、最初から自分のものではなかったのかもしれないとさえ思う。


 では、何が残っているのか。


 三十二歳の、未婚の、魔力のない、無職で貧乏な元聖女に——いったい何が残っているのか。

 

 「年齢や環境なんて関係なく、人は何にでも挑戦できるものよ」と簡単にいう人もいるが、エルザにとってそれは嘘のように感じたし、もし仮に本当だとしても、自分にできる自信はなかった。


 (私は、もう落ちぶれていくだけなのだろうか?私の人生って何だったんだろう?)


 母が死んで、もう答えを聞ける人もいない。


 足元から大きな黒い影が這い上がってきて、もうすぐ飲み込まれそう。

 けれどエルザは、その影を振り払うことさえ自分に許さなかった。ただ静かに、聞き分けのいい娘のまま、暗闇に身を委ねようとしていた。

 

 ーーそのときだった。


「お待たせしました」


 明るい太陽のような声と一緒に、銀露が届いた。

 白磁のカップに注がれた、淡い緑に輝くお茶。


 エルザはひとくち飲んだ。


 おいしい。確かに、おいしい。


 なのに今日はなぜか、何も感じなかった。



 カップを両手で包んで、少しの間、ただそこに座っていた。


 窓の外を帝都の人々が行き来している。みんな、どこかへ向かっている。


 エルザはまだ、自分がどこへ向かっているのか、わからなかった。


 ふと視線を落とすと、最初こそ淡い光を(たた)えていた緑の雫緑の雫は、いつの間にか生命力を失い、黄色に濁っていた。

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