船出③
千熊丸の眼の前には鳴門の海が広がっている。陽の昇る刻が遅くなり、そして沈むのが早くなっている季節であった。千熊丸はそんな季節でありながらも着物を汗ばませながら、港にやってきた船に乗り込んだ。
「阿波ともこれでお別れだな」
千熊丸は思わずそうこぼした。まだ昇りきっていない朝日が鳴門の海をきらきらと照らしている。
「そう気を落とされますな。これも三好家の嫡男としての務めでござる」
長政は諭すようにそう言った。二人のでこぼこした長い影が甲板にかかっている。
「霧が出てまいりましたな」
船は朝霧のなかを出発した。眩しかった朝日が霧でほんの少し和らいでいた。船頭は朝だというのにしきりに声を上げている。その声は荒れ狂う獣が叫んでいるようだった。
霧がある中でも、阿波の陸地が徐々に離れていくのがわかる。千熊丸は船から身を乗り出す自分が小さくなっていくのを感じていた。
堺に着いたのは陽が西に傾き始めた頃であった。多くの船が波止場に止まっている。田舎を走り回ってばかりいた千熊丸にはそれが初めての光景であった。
そんな賑わいを見せる堺の町を通り抜け、千熊丸一行は六郎の御座所引接寺に着いた。四条道場を名乗るにふさわしいその荘厳な外観は、田舎者の千熊丸を驚かせるには充分であった。
「よくぞ参られた。中でお待ちくだされ」
千熊丸と長政は白髪の混ざる僧に促され、広間に入る。千熊丸は見たことのない調度品に目を輝かせた。
「千熊丸殿。此度の渡海、御屋形様は大層お悦びでござる」
周聡と名乗ったその僧はおおらかに笑いながら千熊丸の顔を覗いた。千熊丸は調度品から目を移し慌てて頭を下げる。
「父も戦支度を済ませ次第、すぐに参じると申しております。上屋形様に置かれましてはいましばらくの辛抱であります故、どうぞ気長に……」
「はっはっはっ。千熊丸殿。拙僧は御屋形様ではありませぬぞ。そう肩に力を入れず、気楽に参りましょう」
千熊丸は顔を恥ずかしそうに赤らめ、目線を下げる。心配そうに千熊丸を見つめる長政を見て周聡は微笑んだ。
「大和守はまるで父御のようだな。心配せずともお主のようなものがおれば、英邁な君に育とうよ。六郎様はちと我儘になってしまったが……。噂をすれば参られたぞ」
周聡のその言葉とともに迫る足音は大きくなる。乱暴ともいえる足音が止み、余裕のある澄んだ声が広間に響いた。
「面を上げよ」
千熊丸と長政が顔を上げると、そこには二人の男がいた。
「三好筑前守が嫡子、千熊丸でございます。父も直に参ると申しております故、いましばらくご辛抱くださいますよう、お願い申し上げまする」
六郎は千熊丸の言上に目を細めた。気高く見えるその顔が高くから千熊丸を覗いている。
「細川六郎である。此度の渡海、誠に大儀であった。ま、あれだ。ゆるりと過ごすがよい」
「はっ」
そう続けて、千熊丸は頭を下げた。
「して、千熊丸殿。直に、とはいつかな?」
六郎の横に控えていた男が千熊丸に尋ねた。千熊丸は顔を曇らせる。
「ああ、お初にお目にかかる。三好越後守政長でござる」
政長と名乗ったその男は、六郎とは対照的に大きく目を見開いて千熊丸を見つめた。
「戦支度が済み次第ということ。父は各地の国人にも兵を出すように求めております」
言葉に詰まりながらも、千熊丸はできるだけ堂々と答えた。思えば、父がどれほどの兵を集めているのか、元服もしていない童に尋ねるなど、どうかしておるのだ。
「池田城に籠る池田筑後守(信正)殿からも援軍を請う使者が来ておる。高国勢は浦上何某とやらを味方につけておるのだから厄介じゃ。筑前守殿に早う渡海するように話をつけられよ。千熊丸殿のような童が来られても役には立たぬのだから。」
政長のその言いようはどこか焦りを含んでいるようだった。千熊丸は唇を噛む。自分が元服をしていれば、このように侮られることもなかったのだ。
「越後守殿、そのような脅しはならぬぞ。筑前守殿は今も海の向こうで御見方を募っておるのだ。文句があるのならお主が高国勢を追い払えば良いではないか」
今まで口を閉じていた周聡が語気を強めて政長に言い寄った。政長は口をつぐんだ。六郎もその様子をその冷ややかな目で見つめている。
「千熊丸殿。越後守殿はこう言ったが、我らがそなたを蔑ろにすることはない。ご案じなさるな」
周聡のその口調は柔らかいものであった。周聡は六郎や政長のように父のことを嫌っているわけではないのだ。千熊丸はこの堺にも自分たちの味方がいると胸をなでおろした。
「ご配慮かたじけのうございます」
そう言って、千熊丸は広間を後にした。それまで肩に入っていた力がすっと抜ける。ふと振り返ってみた光景はやはり阿波とは違うのだった




