虎縞福子
やっとサブタイトルになった人。脳内での福子の声は、常に米倉涼子です。ですが、最近では名塚佳織の声でも脳内で再生されています。よろしくお願いします。
1
諫早市から長崎市内の自宅に戻ってきた虎縞福子。
チリレッドのスポーツカーから降りて、玄関を入る。
モダンな部屋に通り抜けて、さらに奥へと進む。
『研究室』と書かれた扉を開けて、足を踏み入れていく。
自治体に許可を得て設けた自身の研究室だった。
福子のやってきたことは、主に毒。次に疫病。
趣味と実益と近所関係を兼ねて、自室では毒のみ。
部屋中のグラスビーカーや試験管がピカピカしていた。
保管している各種毒のサンプルの入れ物も、同じ輝き。
養父母の代から、漢方生薬で商いをしていた虎縞家。
それは当然、養子の福子にも染み着いていた。
というよりも、毒の研究は彼女自身そのものであった。
『婦人トイレ』と書かれた扉の隣に『保管所』の扉が。
福子はその扉を開けていき、板張りの床に片膝を突いた。
真ん中の板を指先で押して上に引いたら、自動的に開いた。
人ひとり分開いた所に、下へと続く階段を確かめて下る。
扉を閉めて地下室に降りたそこには、大小様々な銃器が。
福子はこう見えて、銃刀法取扱い免許証がある。
ライフルをはじめ、リボルバー式拳銃やサイレンサーなど。
予備の弾丸の弾倉や各種ナイフに小太刀。
あとは、様々なモデルガン。サバイゲームに使用する物か。
基本的に福子の家には神棚は無い。
養父母と義理の妹を祀る仏壇代わりの棚があった。
火縄の猟銃の金具に『虎縞』と彫刻された物が壁に掛けてあり、その下の棚に養父母と義理の妹の遺影と線香と御神酒が供えてあった。虎縞家代々が使っていた猟銃と家族の遺影を見て、福子は想いを馳せていった。
それは今から約百三八年以前まで遡る。
時は明治二十年代。二月。
“彼女”は大阪府の浜に“出現”した。
それはまるで、虎縞家の夫妻に拾われることを知っていたかのごとく。浜を散歩していた虎縞幸兵衛とその妻の虎縞円子は、目の先で生成色の布に包まれて泣き声をあげる、薄い茶色い髪の毛をした人は違う異形の赤ん坊に気づいて、そこまで足を進めていった。夫婦そろって色白で綺麗な卵顔の輪郭をしていて、切れ長な眼差しに高く通った鼻筋をして整った顔立ちに、細身で背の高い二人であった。幸兵衛は杖を突きつつ黒色に限りなく近い濃いグレーの三つ揃いに、同色のシルクハットの下の顔の上唇から左右に細長く生えた立派な口髭の先端部を、人差し指と親指の腹で摘まんで撫でていきながら、我が妻に腕を貸して歩調を揃えて異形な赤ん坊のもとにやってきた。
“ほっほっほっほ”と穏やかに笑い。
「おやー、まあ。これはこれは、ずいぶんと可愛い赤ん坊やのー」
こう柔らかで穏やかな声と口調で、妻の円子を見た。
その円子も、我が夫に呼応するかのように洋服の裾を手で避けながら、膝を曲げて“彼女”に接近して腕を伸ばした。
「本当にの。誰やろか? 浜に置きっぱなしにしたのは?」
そう言うと、円子は異形な赤ん坊を丁寧に抱き上げて、胸元に寄せていった。
「あらー。これは玉のように可愛い子やわあ。この薄い髪の色も、小さく尖った銀色の歯も、ツルツルした白い肌も、全てが可愛いなー」
「本当にのー。玉のように可愛いなあ。名前はあるんやろうか? まだ無いなら付けたいなあ」
「あかんよー。生活に困った母親が一時の間だけ置いただけかもしれへんよ?」
と、円子が眉をひそめて幸兵衛に注意した。
その妻から釘を刺されて。
「そうやった、そうやった。あかんことするところやった」
“ほほほほ”と笑い、納得しながら口髭を撫でていった。
「“ほんま”小さくて可愛い子や。ほんなら、町の孤児院に“しばらく”預かってもらうか。このまま置いとくのは危ない気がするさかい」
「そうやなあ。それがよろしいわ。貼り紙も作って、この子のお母さんの目に止まるようにもしましょか」
「それはええ。それはええ」
「ほな、さっそく行きまひょか」
“ふふふ”と円子は笑って、異形な赤ん坊を“あやし”ながら、再び我が夫と足を進めていった。
大阪市内。町の孤児院。
白髪頭と白髪の口髭の院長に、異形な赤ん坊を診てもらっていた。当てていた聴診器を“彼女”の小さな胸元から外して、眼鏡を人差し指で正していく。白髪の頭髪と髭を持ちながらも、院長の見た目は若々しかった。
「これは見たことありますね。明らかに人ではありませんが、至って健康な身体をしています」
そう、浪花訛りを交えた敬語で先ほど診た分を伝えていった。
この院長の言葉に疑問を持った虎縞夫婦。
椅子に仲良く二人は腰掛けていた。
幸兵衛が代わりに聞いた。
「見たことある言うんわ、この子の何をです?」
「すぐ見せられることですから、ほんの少し待っててください」
虎縞夫婦を制止したあと、院長は立ち上がり柱の電話を掛けていった。ハンドルを片手でクルクル回したのちに、内線が繋がった。
「鰈君。手が空いているなら、今から診察室まで来てほしい」
『了解でーす』
若い娘の声を電話口から聞いて、通信を切った。
「お疲れさまです、院長」
「やあ、お疲れさま。呼びつけて済まないが、こちらのご夫婦の抱いている赤ん坊を見てみてくれないか?」
「あらー。そういうことならエエですよ」
診察室に現れた鰈と呼ばれた若い娘は、切れ長ながらもアーモンドアイでクリッとしていて、黒い眼に銀色の瞳と黒い縦長の瞳孔をして、文字通りのツルツルな白い肌、細く長い首筋には五つの鰓、薄く広めな唇の中には銀色の尖った歯をしていた。細身で身長も高く、ハイカラな雑誌に載っていても不思議ではない美しさを持った若い娘であった。幸兵衛と円子の夫婦と目を合わせて、軽い会釈をしていく。
「うち…………私はここで働いている、鰈右美言います。どうぞよろしゅう」
「おやおや、これはご丁寧にありがとうございます。私は虎縞幸兵衛と言います」
「私は彼の妻、虎縞円子言います。こちらこそ、よろしくお願いします」
三者三様の自己紹介が終わり、右美は腕を伸ばしてきた。
「ではさっそく、その赤ん坊をうちに…………私に見せてください」
「ええですよ。どうぞ」
そう快く円子は右美に腕の中の異形な赤ん坊を渡していった。
女中の腕の中におさめられたその赤ん坊は、口もとを“むにゅむにゅもごもご”として、再び寝息をかいていった。その愛らしさに、右美は思わず頬を赤らめていく。
「きゃあ! 可愛えな! コロコロして白い玉のようや」
「なあ、可愛えですやろ」円子も和む。
「あ、そうやったそうやった。この赤ん坊やけど、うち……私と同じ妖怪の人魚言いますねん」
「分かりますか?」幸兵衛の質問。
「分かるで。黒い“おめめ”に首と肋の鰓に、小さいけど立派に尖った銀色の歯、そして白い肌。間違いなく人魚の特徴ですわ。そして、だいたいが浜に打ち上げられているか放置されているかで、基本『親無し子』なんや」
「どうしてそこまで分かりますのん?」円子の質問。
「それは、うち……私が孤児ですから。私、ここで育ったんです。みんな“ええ”人たちばかりや。パパ……院長たちに拾われて良かった」
このあとから、先ほどの右美の悲鳴を聞きつけた院内の数名の従業員たちや看護士たちが診察室に入ってきた。そして、右美の腕の中で寝息を立てている小さな“彼女”に、たちまち空気が華やいでいった。「うわあ、可愛え」「ほんまや。可愛いなあ」「右美ちゃん。あたしにも抱っこさせて」「右美ちゃん。次は、あたし、あたしな」「小ちゃいなあ」などなど、皆で抱っこして回していったあと、再び鰈右美の腕の中に戻ってきた。
「そういえば、この子どないします? 虎縞さんたちにすぐ引き取ってもらいます?」
と、思い出したように聞いてきた右美の疑問を幸兵衛が拾う。
「もしかしたら、この子のお母さんが一時だけ置いたという場合も考えられますので、しばらくは貼り紙作って里親を探そう思うております」
「うちの考えやと、最初からこの子の親はいなかったと思いますよ? 浜に現れて、あなた方と引き合わせた場合もあります」
「そう言うてくれるなんて、なんや嬉しいですな」
「どういたしまして。ーーーうちは、この子が“あなた方”お二人を選んだんだと、そう考えています」
「ますます嬉しいですな。しかし、しばらくは様子を見ておきますさかい。よろしくお願いします」
と、院長と右美たちに虎縞夫婦ともども頭を深く下げていった。ここまでの下りを見ていた院長は、眼鏡を正して口を開いていく。
「私も虎縞さんたちと同じ意見です。里親が出てくる可能性もじゅうぶんにありますね。念のため、半年間は様子を見ましょう」
「ありがとうございます」夫婦一緒に礼を返した。
「いいえ。こちらこそ、いい機会なので大切に預かっておきます」
「では、よろしゅう」
それから、半年後。
再び大阪市内孤児院。
高梁院長は、虎縞夫婦を再び診察室に招いていた。
幸兵衛と円子の顔を見ながら。
「現れませんでしたね」
「現れませんでしたなあ」
院長の言葉を、虎縞幸兵衛が復唱していった。
書類を数枚、幸兵衛と円子に手渡して。
「先ほど私の認印を押しました。お二人が引き取ってくれるということで了承ですね?」
「はい。私たちは、この子を我が子として可愛がります」
「それは良かった」笑みを浮かべた。
鰈右美から小さい“彼女”を受け取り、抱きしめていく円子。
「種無し、子無し。そう言われてきた私たちの目の前に、半年前この子が現れました。私は福をもらって、今まで以上に幸せです。この子は福と一緒に私たちの前にきました。どんなことがあっても、この先はこの子は私たちよりも長く生きてほしいと思うております」
「そうやなあ。まさに福の子や」微笑む幸兵衛のあと。
「この子の名前、福子や」
「おお、そうか。そりゃええな」
「福の子だから福子。ーーーあんたの名前は、今日から虎縞福子や。お父さんは、幸兵衛。私、母さんは円子。よろしくな、福子」
そう喜んでいく円子の頬へと、人魚の赤ん坊は小さな手を伸ばして触れていった。
2
約五年後。
虎縞家。
邸宅内診察室。
虎縞福子、五歳。
「私、人魚ですか?」
「ああ。間違いない。人魚ですよ」
柳田國太郎。五二歳。
民俗学、地域風俗、民間伝承、そして妖怪研究者。
日本各所の大学や学校を中心にして、講演や授業をして回っていた“先生”であった。彼の数多くの調査と研究からくる統計と特徴により、福子は改めて人魚と断定された。高梁孤児院の高梁院長から國太郎を紹介されて、幸兵衛と円子は彼を自宅に招いていた。書類と診察器を鞄になおしたあと、國太郎は幸兵衛から円子そして福子へと目配せしていき、再び福子を見た。
「近ごろ、妖怪の孤児が出てきていましてね。決して多くはないけれど少ないとも言えない数なんです。それはもちろん、異形な者として扱われ、座敷牢に入れられたりなどしている妖怪もいる。しかしながら、先に挨拶に顔を出してきた高梁院長の鰈君といい、お二人の福子君といい、精神的負担の痕が見られませんのです」
「どういうことです?」幸兵衛の質問。
「幸福だということ。だと私は判断しました」
「そうですか? でもまあ、福子に私から“そう”聞くのは無粋やな」
「そうですな。それは賢明な判断です」
こう断言して椅子から腰を上げる國太郎。
妖怪研究者の彼へと頭を下げていく幸兵衛。
「今日は本当にありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。私も、こうしてヒトとして可愛がられている人魚を見ることができて嬉しいですよ。これからも続けてください。この子のためにも、あなた方のためにも」
「ありがとうございます」
こう礼を述べて、國太郎を見送った。
それから半年が経ち。
母、円子の腹が膨らみを帯びて、人ひとりの重量を体感。
この二ヶ月のあと、実子が誕生。
自宅で産婆に取り上げてもらい、柔かな布にくるまれた我が娘を腕の中で抱きしめていく円子。これを傍らで見守っていた夫の幸兵衛と、娘養子の福子。
「もう、子なんかできへんて思うとったんよ。それが、ほら! 小さくて可愛い子が生まれたんや。それもこれも、福子、あんたのおかげや。あんたが娘になってから、幸兵衛さんに種ができて、私に卵ができたんや。こないな嬉しいことはあらへん」
「そうやな。私も正直ビックリしとる」と、幸兵衛。
「私、今年で三一や。だから厳しいと思うとったんよ。けれど、諦めたくなかった。それは、福子が私たちの娘になってくれたから希望の光が見えたんや。せやから私は再び幸兵衛さんのためにも、福子のためにも、虎縞薬局のみんなのためにも、そして私自身のためにも、希望の光を掴みに行ってみたんや」
「そうやな。私は、三三や。本当に驚きやわ」
今で言う無精子症と診断を受けた幸兵衛。
そして、円子も無卵子との診断を受けた。
夫婦そろって先天性の不妊と言い渡されていた二人。
福子を浜で拾った当時も、二七歳と二五歳。
二人の年齢的に健康な赤ん坊には疑問を持たれていた。
それが。
「問題なしの健康な赤ん坊やで」
「ビックリするくらい正常な赤子ですな」
と、産婆と医者からお墨付きを頂いた。
ニコニコしていた幸兵衛。
「名前は、もう決めてあるんか?」
「ええ。ーーー幸子。この子は虎縞幸子や。福子に続いて、私たち二人に幸福をくれた子たちや。だから、幸子と福子」
そして、娘養子に笑顔を向けた円子。
「あんたの妹やで」
「私の妹!」
福子の黒い眼がキラキラと潤んできた。
腕の中で眠る小さな妹に近づき、手を伸ばして頭を撫でた。
「幸子。私が“あんた”の姉さん、福子や。よろしくな」
「うふふ」
幸子の誕生から約十年が経ち。
市内の学校から帰ってきた福子と幸子。
虎縞福子、十五歳。中学三年生。
妹の虎縞幸子、十歳。小学五年生。
従業員の運転する社用車から降りてきた義姉妹は、気配のする庭の方へと仲良く足を進めていった。すると、乾いた音が連続して二度鳴っていた。遠くの山を景色にして、男性従業員がクレーを二発連射したものを、銃を構えた幸兵衛と円子が白く丸くて平たい“それ”を撃ち落としていた。次のクレーも連射されたとき、虎縞夫婦は合わせて銃撃して、それぞれ二つを宙で四散させた。これら一連の動作を見ていた福子と幸子の義姉妹は、好奇心にたちまち目を輝かせていく。娘二人の帰宅に気づいた夫婦は、笑みを向けた。
「おお、おかえり。学校は、どうやったん?」
「ただいま!」と、声をそろえる虎縞義姉妹。
父の問いを拾いながら、福子が答えた。
「どうってことなかったで。それより、今のなんやったん? めっちゃ格好ええな!」
「なあ! 格好ええな!」義姉に幸子が続いた。
三脚付きの猟銃から身を離した円子は、我が娘たちに声をかける。
「あんたら、コレに興味あるんか?」
「うん」義姉妹仲良く。
この答えに、夫婦は顔を見合せて笑顔になる。
虎縞家地下室。
幸兵衛が、福子と幸子に様々な銃器を見せていった。
それは、猟銃をはじめとしたリボルバー式拳銃まで。
義姉妹ともに惹き付けられて、興奮に瞳を輝かせていく。
「練習用のもあるでの。好きになったら、どれか選んで撃ってみるとええで」
「そや。私も好きで続けてきとる。それが“あんた”たちにも分かって嬉しいなあ」
幸兵衛から円子へと続いた。
当然のように湧いて出た疑問を、福子は投げてみた。
「父さんに母さん。なんでこんなドンパチしよるの?」
「ああ、これか? これはな、漢方薬には葉っぱや花などの植物以外にもな、動物の骨や肉や角などからも精製して私たち人間の悪い所を治すためにあるんやで」
この父親の言葉に。
「そこらの鳥さんたちも撃ってしまうんか?」
「いいや。山から下りてきた鹿や猪や蛇などは、下りてきたら下りてきたで私たち人間と揉め事を起こしてしまうねんな。だからそれの解決のためにやむを得ず撃って対処せなあかんのや。撃ったあとはただ殺すだけやないで。いただきますと手を合わせて、関わった皆と肉やら骨を分け合うんや。そして、その中から私が漢方薬に使う分をもらってくる。無駄がないやろ」
「ないなあ」
「人も獣も神様も対等やさかい」
「せやな」
「だから、父さんも母さんも毎年こういうことが起こったときだけお声がかかるんよ。そして行く。生きて帰ってこれたら“めっけもん”や」
「本当に、ようやるわ」
「私たちのしていることが分かってくれたなら、本題に行こか」
「せやな。いこいこ」
ということで。
「どの銃がエエ? ゆっくり選び」
愛おしそうに娘二人を見ながら、円子は声をかけていく。
いろいろと目移りして、義姉妹は迷っていた。
「私はコレがええ」
「私はこっちや」
福子がライフルを選び、幸子は三脚付きのライフルを選んだ。
これに夫婦は笑顔で見合せて、幸兵衛から口を開く。
「よう選んだ。これから厳しなるで」
「うん」と、義姉妹一緒に返した。
さらに十年の時が経ち。
明治も四一年くらい。
福子、二五歳。
幸子、二十歳。
義姉妹は、銃に対する両親の厳しさを体感していきながらも、現在は遠くの的の中心とクレーを撃ち抜くことまで可能になっていた。この間にも、日露戦争が起こったり、満州鉄道が引かれたり、伊藤博文内閣総理大臣が暗殺されたり、などなどと世間と周辺諸国が慌ただしくなっていた。日露戦争中は、漢方薬などの治療薬を製造販売していた虎縞薬局の虎縞幸兵衛は、政府からの要請で衛生面の担当を任されていた。そして、高梁院長も例外ではなく、帰還兵たちの治療のために孤児院から変更せざるおえなかった。二人の父、虎縞幸兵衛が帰宅した際に洩らしていた。
「新聞と世間とお上は皇軍言うて兵隊さんたちを送り出すけど、実際帰ってきてみたら、心の傷を負うた者たちばかりや。身体の傷は私の薬で治せてもな、心の傷までは無理や」
この時期、柳田國太郎が久しぶりに虎縞家に顔を出していた。
福子の口内や脈を診終えて、検査器具を鞄にしまったあと。
「心と精神に傷を負った帰還兵たちのことは、いまだに新聞にすら出ておりません。秘密裏に治療と記録を取られています」
「秘密にしてはるんですか?」福子の質問。
「勇ましく皇軍として出兵したので、帰還したときは五体満足の兵隊くらいしか写せないんでしょう。そして、心的外傷を負った元兵隊たちは、市内の病院であっても実態は秘密厳守で、表向きは政府と報道機関ともども上手く誤魔化しているんだと思います」
「なんか、兵隊さんたち可哀想やな」
「そのように変わり果てた彼らは当然かわいそうですが、その周りの人たちも悲しんでいます」
「彼らの父さん母さんですよね?」
「それも勿論ですけれど、“近場”で代表的なのが高梁孤児院で働く人魚の高梁右美さんです」
ーーーーー
高梁右美。
高梁孤児院の従業員で、鰈右美から改名した。
見たり聞いたりした柳田國太郎の話しも交ざる。
入院中の峰海晴元二等兵は、もともとは大阪市外で馬鈴薯や大根と人参を生産していた農家の息子で、作物の売残りまたは売り物にならない形の物を親の代からここの孤児院に寄付していたから、その持ち込みの際に受け取りを担当していた高梁右美と言葉を交わすうちに親しくなり、やがてはお互いが好きどうしになって、遂には両者の暇を見合せて付き合うという仲にまでなっていた。そんななか、海晴はロシアに遠征して数年後に日本へと奇跡の生還。それは良かったものの、肝心な当の海晴の様子は、常に顔を強張らせた印象で、手足の痙攣により身体をろくに支えられずに“まともに”歩けなくなっており、歩行機の補助がないと駄目であった。ベッドの上では、戦中を断片的に思い出してしまうのか、時には悲鳴を上げて身体中を大きく痙攣させたり仰け反らせたりしていた。以上、このように変わり果てた海晴を看ていた右美は、彼に変わることのない愛情を抱いていたためか、決して諦めることをしなかった。
「なにが皇軍ですか。なにが世間体ですか。なんで秘密にせんといかんのや? 海晴さんの親御さんにさえ合わせることができないて、あんまりやなかですか。なんで“こそこそ”してまで治療せなあかんの?」
と、黒い眼に涙を浮かべていき。
「海晴さんは何のために戦争に行ってきたんや? こないな姿になるためと違いますやろ? 彼だけやない。ここにおる兵隊さんたちも手の施しようの無いってのは、“うち”だって分かってたんや。ーーー遠征の前にな、帰ってきたら彼と一緒になることを決めていたんよ。だから、だから……、だから海晴さんの面倒はこの“うち”が看ます」
ーーーーー
「そういうことがあって、幸兵衛さんと彼女を含めてあの孤児院は帰還した兵隊たちを秘密裏に献身的に看病しています」
「そうか…...。そら、しんどいですな」
以上の柳田國太郎の話しに、福子は黒眼を潤ませて呟いた。
その隣で泣くのを一生懸命に堪えていた幸子の姿を見た彼女は、そっと我が義妹の手を繋いだ。
3
年月は飛んで。
第二次世界大戦。
大東亜戦争。
昭和二十年。
上京していた虎縞福子は、部品工事で労働中に大空襲にあった。
地元の大阪市での虎縞薬局の引継ぎを義妹の幸子が受けていた。
なので、福子は毒と疫病に関する学問と研究をするために、東京都へと移住していた。このとき、長崎市から上京してきた宮帝螺リエと太刀銀と摩周ヒメと龍宮紅子と海淵海馬と磯野マキとその妹のカメといった以上の陰洲鱒町の女たちと知り合い、仲良くなっていた。そんななか、福子は研究や学部の学費を工場稼ぎをメインとしていなかった。では彼女はなにを主な収入源としていたかと言うと、敵兵を銃撃で仕留めるという依頼を受けていた他にも、危険が及んだ地区の敵兵を退けて安全地帯にするといった仕事も請負っていた。福子は敵兵の姿を知っていたが、敵兵は福子の姿を知らないまま日本は敗戦を迎えた。その敗戦直後、同じ種族、つまり人魚である志田杏子とも知り合い二人の美しい人魚は仲良くなって東京都で一緒に生活するほどにもなった。昭和後期に入って、摩周ヒメの“つて”で福子と杏子はともに長崎市の螺鈿島の陰洲鱒町に移住することとなる。しかし、平成中期は教団が行う生贄の儀式に辛さを覚えてーー同時に限界もきていた。ので、ーー島から市内に住居を移して福子と杏子は各々の生活を新たにしてきた。
虹色の光の点滅とともに、自身の出生を見た次に、今まで生贄として犠牲になってきた虹色の鱗の娘たちの他に龍宮龍子とも夢の中で会ってきた。龍子とは初見であったが、彼女は福子に親しく接してきてくれた。その夢で、黄肌有子と海淵真海と再会した福子は、涙を流して泣いた。夢の中の限定ではあったが、涙が初めて出た。見ていた夢の中で、彼女は有子と真海を力いっぱい抱きしめて大きな声を上げて泣いた。年甲斐のないと自覚しながらも、自身の気持ちを素直に表したかったから福子は“そうした”。友達の愛娘を二人を、協力を強いられていたとは言え、みずからの手で二人の死に加勢したことと同じだ。そのようにしている福子の頭へと、有子と真海の手が優しく乗せられて「私たちは帰ってくる」と声をかけられたところで彼女は会社の医務室のベッドの上で目を覚ました。
傍らで見守っていた新島光が、福子の回復に安堵すると、おもむろにスカートのポケットからピースを取り出して、ピン!と指で箱を弾いて一本出すと、これを口に咥えて片手で箱を所定のポケットに入れていきながらも一方の片手で白衣の胸ポケットからライターを取り出していくという、実にスムーズな動きと流れを見せていったのちに、煙草に火を点けてその味を堪能しだした。ただし、この場にいたのは新島光だけではなく、同じ製薬会社研究部の女子研究員が三人ほど同席していた。愛しい煙草の煙を実に美味そうに吹かしていったあと、光が話しかけてきた。
「おっはよー。良かったよ、福子になんにも無くて。私たち心配したけれど、診査結果は異常なしだってさ」
「ありがとう……。私、寝てた?」
後輩の女子研究員から渡されたタオルで、福子は汗ばんだ顔と胸元を拭きながら、自分の状況を確認していった。二口目を吸って吐いたあと、光が答えていく。
「そう。あなたの銀色の瞳がね、虹色に点滅して光ったあと、そのまま倒れて気絶しちゃったんだよ。もー、ビックリ。この子たちと一緒に医務室まで運んで、今まで付きっきり」
「そうなのね。みんな、ありがとう」
「いいってことよ」
やや黄ばんだ白い歯を見せて、光はニコッとした。
じぶんの右手を数秒間見たあと、再び友達や同僚たちに目を向けた福子が、決意を述べていく。
「私、やることができたから、しばらく休みを取りたいの」
「分かった。じゃ、会長と社長のところに行こう」
光はそう言って携帯灰皿でこね繰り回して煙草の火を消して入れると、福子に手を差し伸べた。
そうして、今に至る。
福子は緑茶色の紙で巻いた太さ一ミリの長細い西洋タバコをよく味わったあとにアルミ灰皿で“こねくり”回して火を消したのちに、養父母の形見のライフルと猟銃はそのままにして、クローゼットを開けてハンガーに掛けてある防弾チョッキを選んでいき、決めたひとつを取り出して準備に入っていった。




