序文
星の美しい夜。
夏にしては空気が澄み又、都会から離れた海辺の町である為星空がとてもよく輝く。
そんな星空を眺め、老人と彼の飼い犬、一人と一匹は静かな浜辺をのんびりと歩いていた。
夜の散歩としては贅沢なくらいだ。
美しく輝く星月は海に反射し、天地の灯りが踏み出す歩みを危なげないものにする。
押し寄せては引き返す潮騒は、静寂より寧ろ静かである事を意識させた。
「なぁ、カクや。気持ちのいい散歩だなぁ……」
――くぅ〜ん。
老人の呟きに応えるように、犬……カクが彼の顔を見上げ一鳴きする。
老人はこの町が好きだった。海以外の観光資源は無く、若い人間も少ないからか活気もあまり無い。それでも、静かに流れる時が、穏やかな人々との生活が、余生を過ごすには余りある幸せだった。
静かな波と心地よく足の沈む砂浜は、何処までも続く気がして時をただただ永く感じさせた。
が、その永い時の流れは唐突に終焉を告げた。
――パンッ!!
と、響く破裂音。一度で終わることはなく、二度三度、四度五度。
しかし、老人の様子は落ち着いたもの。
そう。この突然の音は今に始まったことではないのだ。
「またあの悪ガキ共か……」
と、老人が見やる先。地で弾ける光、天へと走る光、光、光、光。
つまり、花火である。
常に人が溢れる大きな観光地ならば夜に花火に興じる者も多く居よう。
しかし、静寂がウリであるこの地には些か不釣り合いか。
いや、そもそもこの海にて花火は禁止されている。
老人は光の元に走り、そして怒鳴る。
「くぉらぁぁぁッ! クソガキ共ッ! ここは花火は禁止だッ!」
鬼も斯くやとばかりの形相で、火元にいる者、少年達へと迫る。
しかし。
――ヒュウッ!
と、何かが笛の様な音を立て、老人の足元へ突き刺さる。
――キャンッキャンッ!
その何かに驚き犬が飛び上がる。
犬に気を取られ、動きを止めた老人の足元へ、二度三度、鋭い音を立てるソレが突き刺さる。
「うぉぉッ!?」
彼自身もソレに驚き、腰を抜かす。
「なんじゃ!?」
尾を丸め、老人に擦り寄る犬を抱き寄せると、彼は辺りを見回す。
と、すぐにその正体に気づく。
ロケット花火。
鋭い音で一直線に飛んで行く花火の一種。通常、空に向けて放つものであり、当然人間に向ることは許されない。
――ハハハッ! バーカ!
――くたばれ! ジジイ!
遠くで老人を侮蔑する声が響く。彼らは老人にロケット花火を打ち、怯んだ隙に逃げ出したのだ。
「くぅ……ッ! なんちゅうガキ共じゃ! カクや、怪我はないか?」
――くぅ~ん……。
緩やかに尾を振り、犬が老人を見上げる。無事のようである。
やれやれ、と腰を叩きながら老人も立ち上がる。どうやら、彼も無傷のようだ。
*
これは余談であるが、少年たちの行為によって老人は怪我をすることはなかった。では彼らは何の罪も犯していないことになるのか?
当然、否。
これで老人が怪我をすることがあれば当然、傷害罪に問われる所。目にでも当たれば失明の危険すらある。
しかし現実に怪我をしていない。
ではどうなるか。暴行罪が適用されるのだ。
暴行とは傷害に至る為の条件であり、結果傷害へと至る事が無くても傷害に繋がる危険があれば暴行罪が成立することがあるのだ。実際に、高速道路にて危険な幅寄せを行った事が暴行罪に問われた判例(裁判所で争われた事例。その後の似た事例で参考にされたりする)が存在する。
軽い気持ちで行った事が十分に犯罪行為となってしまうものだ。
他人を害するかもしれない行動を起こす時は十分に考えてもらいたいものである。
*
立ち上がった老人は、犬の粗相を処理する為のビニールを取り出すと花火の残骸を拾い上げ始める。こんなことがあるだろうと、余分に、大きめのサイズを持って来ていた。
海は多くの人間が利用するが、それに比例して捨てられるごみなどは増える。一体どれだけの人間が自らの出したごみを持ち帰るだろうか。来る時よりも綺麗に、とはよく言ったものだ。
ごみを拾う手を止めた老人は「ふぅ」と溜息を吐くと海を眺めた。
「何時か海神のバチが当たるじゃろうて……」
老人の見やる海は潮騒を奏でるのみ。
美しき水面は、暴虐なるソレを内包しているとは感じさせること無く、波間に月光を湛えていた。
*
若く、足も速い少年たちは、既に老人から遠く離れていた。
軽く肩で息をし、互いに顔を見合わせると下卑た声で笑い合う。
「見たかよ! あのジジイ!」
「マジで爆笑モンだったな!」
「犬も一緒に慌ててやがったな!」
彼ら位の年代ならば善悪の区別くらいは付くであろう。しかし、それを理解できぬ幼き時より、心の生育を止めてしまう者は往々にして存在するのである。
「次また腰抜かしたら海に放り込んでやろうぜ!」
「あぁ、mytubeに動画上げね?」
「はははははっ!」
結果何が生じるのか。
その可能性すら想像もできぬ人間が後々にソーシャルネットワーキングサービスなどを通じて最終的に制裁を受ける、とは稀に聞く話ではあるが、そんなものは氷山の一角に過ぎない。
憎まれっ子世にはばかる、とは成程、真理であるか。
――海ヲ
「は? 何だよ?」
と、一人が何かを耳にし、近くにいた仲間を振り返る。
「あん? 何が」
「いや、今さ」
――……共
「……」
「おい」
「あぁ……」
次第に、その場にいた全員がそれに気付く。
即ち、『声』
どこか遠くから、しかし囁く様な近くから、厳かな声が彼らの耳に響く。
それは子供のようで、老人の様。男の様で、女の様。
いや、そもそも音ではなく文字を伝えられているような、不思議な感覚。
彼らは誰からともなく押し黙る。
――……愚カ者共
「……?」
――海ヲ穢ス、愚カ者共
まるで、ラジオのチューニングが合っていくように、次第に明瞭になっていく声。
と、一人が海の異変に気付く。
「おい……あれ……」
操られるようにユラリと持ち上がる手、伸ばされた指の先。
ただ静かで美しいだけであった海が、一つの異変を生み出していた。
「? 何だ……?」
彼らが見やる先、海面から何かが『ぬるり』と伸びていた。ソレは滑らかに、水面をすべる様に移動、否、近づき、その全容を晒す。
「っあ……!」
一人が、悲鳴にならぬ悲鳴を上げた。
――裁キヲ
竜。
一言で言うなれば、正に、竜。
深い青を湛える鱗はまるで、菫青石のように見る角度により輝きを変え、頭部にそびえる二本の角は月長石が如し、月の様に白い輝きを放っている。
しかし。
その竜は美しいだけの存在ではなかった。
捲れ上がった口角からはおぞましき牙が覗き、その瞳には慈悲の欠片も感じられぬ程の怒りを燃え上がらせていた。
――裁キヲ、受ケヨ!
漫画やゲームにしかいないと思っていた生物が実在する筈がない。彼らは皆、そう思っていたし、それは万人に共通する常識である。
しかし、その常識が崩れ去った時、人とはこうも脆いものなのか。
きっと映画の撮影だ。
きっと何かの幻だ。
きっと夢を見ているんだ。
誰しもがそう思い、そう思いつつも、身じろぎ一つ出来なかった。
「あ……ん゛!」
横合いで、奇妙な声がする。
ふと、そちらに目をやると、上半身を無くした仲間が腰を落としていた。
はて? これは誰だったか。
「ぴっ!!」
今度は反対で甲高い悲鳴? が聞こえる。
胸から上が遠くへ飛んでいくのが見える。あぁ、一瞬だったがあれはケンタだ。
この様な光景が自分を除く人数分行われた時、ふと気付く。
目の前に、赤い、とても真っ赤な何かが見える。いや、それだけではない。生暖かい風を感じる。
「あ……」
その赤が竜の舌だと、風は竜の吐息だと、気が付いたとき。
バクン、と。
竜の顎は閉じられた。
画して少年たちは、海より来たりし海色の、怒りを受けて浮き世を去った。
*
「あ……あぁ……あぁぁぁ……!」
ただ一人この光景を遠方より見て生き残った老人は、震える腰を引きずりながら、尻尾を丸める犬と共にほうぼうの体で逃げ帰った。




