第一部 金井戸の少年――三好雲仙との出会い
第一章 金井戸の夏
嘉永五年七月。備中国賀陽郡服部村金井戸。現在の岡山県総社市にあたるこの土地は、夏の日差しを受けて、田畑も山野も濃い緑に包まれていた。
朝から蝉の声が途切れることなく聞こえている。水路を流れる水は陽光を反射してきらめき、生まれたばかりの石亀がおおきなあくびをしている。そのほとりには草が生い茂っている。田の向こうには、なだらかな山並みが連なり、空には白い雲がゆっくりと流れていた。
服部村の一角に、紺屋を営む矢吹家があった。屋号は「天満屋」。代々、染め物を商い、この地方ではよく知られた家である。
庭先には藍を仕込んだ甕が並び、そこから独特の匂いが漂っていた。染め上げた布が庭先に干され風に揺れると、濃淡の異なる藍色が重なり、陽の光のなかに深い青を浮かび上がらせた。家の内外では、職人や商いに携わる者たちが忙しく立ち働き、威勢のいい声から日々の暮らしは滞りなく営まれているのが分かる。
七月五日、その矢吹家に良吉の三男が生まれた。名を熊治という。
物心がつく頃になると、熊治は家の者たちに、少し変わった子どもだと思われるようになった。
ほかの子どもたちが集団で遊びに興じている間、熊治は一人で庭の片隅にしゃがみ込んでいることが多かった。手には細い枝を持ち、地面にカリカリと何かを描いている。誰が呼んでも、すぐには返事をしない。目の前の何かに気を取られると、周囲の声が耳に入らなくなるらしかった。
「熊治は、また何をしているのです」母が尋ねる。
長兄の竹次郎は、さして気にも留めずに「知らん。さっきから、あそこに座ったままだ」と答えた。
二男の修平も、続けて庭の隅を指さした。
熊治は、地面に向かって何度も枝を動かしていた。
「熊治」母が呼びかけても、振り向かない。
近づいてみると、熊治は庭に咲いた花を見つめていた。風が吹くたびに細い茎が揺れ、花は右へ左へと傾く。風が止めば、しばらくして元の姿に戻った。
熊治は、その動きを飽きることなく何度も眼で追っていた。
「何をしているの?」心配した母が傍らにしゃがみ、尋ねた。
「描いてる」
「何を?」
「あの花」
母は熊治の指さす先を見た。庭には、ほかにも同じような花が咲いている。
「花なら、そこにもあるでしょう。どうして、わざわざ遠くの花を見ているの?」と足元の花を指さした。
熊治はすぐには答えなかった。しばらく花を見つめてから、ようやく口を開いた。
「同じじゃないから」
首をかしげる母には、その言葉の意味がよく分からなかった。
同じ庭に咲く花である。種類も大きさも、さほど違いはないように見える。けれども熊治には、それぞれが異なるものとして映っていた。
風が吹けば姿が変わる。陽が陰れば、花びらの色合いも違って見える。朝と夕方では光の向きが変わり、雨に濡れれば、また別の表情を見せる。
花はそこに咲いているだけなのに、同じ姿のままではいない。
幼い熊治にとって、その変化は不思議であり、見過ごすことのできないものだった。
やがて熊治は、紙を欲しがるようになった。
家で商いに使った紙の切れ端や、書き損じの紙、備中売薬の包装に使われた紙など、白い部分が
少しでも残っていれば、そこに何かを描いた。紙の大きさも、質も、さして気にしなかった。
描く場所さえあれば、それでよかったのである。
描いたのは、庭の花や木、鳥、虫、石亀、蛙。家の者たちの顔や、屋根の形、遠くの山々。田畑
の向こうに見える備中国分寺の五重塔や、土地に点在する古墳群も、熊治の目に留まるものすべて
が題材だった。
とりわけ、丹頂鶴や鷺など、この地方で目にする鳥を好んだ。
鳥が首を伸ばす瞬間、羽をたたむ仕草、川辺を歩くときの足の運び。じっと見ていると、鳥は一
つの形にとどまってはいなかった。首を傾け、羽を動かし、時には一瞬のうちに飛び立ってしまう。
熊治は、その姿を紙の上にとどめようとした。
「また熊治が紙を使っている」
「画ばかり描いて、何になるのだ」
兄たちは、ときに呆れたように言ったが、熊治には答えようがなかった。画を描くことがただ好きで、それで何が得られるのか、自分でも分かっていなかったからである。
ただただ、ひたすら描きたかった。
筆を持ち、紙に触れる。筆先に墨を含ませ、動かすと、そこに黒い線が生まれる。濃くすれば力強くなり、薄くすれば遠くにあるもののように見える。水を含ませれば墨は滲み、筆の水気を減らせば、乾いた鋭い線が残る。熊治は、まだそれを技法と呼ぶことを知らなかったが、筆と墨には、目に映ったものを紙の上に別の姿として現す力がある。そのことを、幼いながらに感じ始めていた。
金井戸の夏は、いつものように過ぎていく。
天満屋では人々が働き、藍に染められた布が風に揺れていた。村では田畑の仕事が続き、季節が移れば、花も草木も姿を変えた。
熊治は、その変化を見つめていた。
自分が何を求めているのか、まだ言葉にはできない。それでも、目の前のものを見つめ、描き留めようとする心だけは、確かに彼のなかに育ち始めていた。
第二章 天満屋の息子
矢吹家は、紺屋として商いを続け、暮らしにも余裕のある家であった。屋号の天満屋は、地域の人々にも知られており、家には商いを支える職人や、染め物を扱う者たちが出入りしていた。
長兄の竹次郎と二男の修平がいる熊治は三男であるので、家の将来を担う立場について兄たちとの関係や家の事情によって定まっていくことになるが、幼い熊治の関心は、そうした家業の先行きよりも、目の前の草木や鳥の姿の方が大切だった。
家業を営む家に生まれた者には、いずれ商いを覚え、家の仕事を支えることが期待される。日々の暮らしを成り立たせるには、品物の仕入れや職人の手配、客との応対など、覚えなければならないことがいくつもあった。
しかし、熊治が熱心に取り組むのは、帳面をつけることでも、染め物の商いを覚えることでもなかった。
庭の花を見つめ、川辺の鳥を追い、紙が手に入れば筆を執る。描き終えた画を眺め、思うように描けていなければ、また別の紙に描き直した。そんな息子の様子を父の良吉は、しばらく黙って見守っていた。
ある日、熊治が庭先で画を描いていると、良吉が背後に立って「何を描いている」と聞いた。
「鷺」と熊治が答える。
「どこにいる?」周りをみても鷺が見当たらないので父は再度尋ねた。
「川」
「川にいる鷺を見て描いたのか」
「うん」良吉は、熊治の手元を覗き込んだ。
紙には、鳥が一羽描かれていた。まだ幼い手によるものだけに、形は整っていない。脚の長さも、胴の大きさも、実際の鷺とは違っている。それでも、首の曲がり方には、どこか生き物らしい動きがあった。
良吉は、しばらくその画を見て「……好きなのか」と聞いた。
熊治は顔を上げ父を見上げて「何が?」と一言いう。
「画が」という父に熊治は、少し考えた。
そしておもむろに「好き」それだけだった。
父は、さらに何かを尋ねることも、画の出来を評することもしなかった。紙を取り上げることもなく、そのまま静かに立ち去った。
熊治は、父が何を思ったのか知らない。ただ描いているところを見られたことをそれほど気に留めることもなく、再び鷺の画に目を戻した。
その日を境に、家の者たちが熊治の画をことさらに止めることはなくなった。良吉が何かを言ったのか、それとも、もともと家の者たちも、熊治の熱心さに折れたのか。それは定かではない。いずれにせよ、熊治は画を描き続けることができた。
成人した熊治は「紫竹園」という字名を名乗るようになった。そして交友関係も
広がっていった。例えば明治十二年(一八七九)に漢学者で教育者の西薇山と面識
をもった。薇山とは、その後も交流が続き、明治十六年(一八八三)には「題鐵石
翁畫山水之文」という色紙を贈られており、それには「博 矢吹雅兄之一粲。西薇
山」と署名されている。
そして画の方の関心はますます深まっていった。初めのうちは、目にしたものを
そのまま紙に写すだけで満足していた。
しかし、描くことを繰り返すうちに、できないことが少しずつ見えてきた。
鳥を描いても、どこか生きている姿とは違う。木の幹を描いても、実際に目の前
にある木のような力強さが出ない。遠くの山を描けば、近くの山と同じ様な大きさ
になってしまう。
なぜ、同じものを見ているのに、画にすると違ってしまうのか。
どうすれば、鳥の動きや木の幹の力を表せるのか。どうすれば、山の遠近や空気の広がりを紙の上に生み出せるのか。
自分で考えても、答えは容易には見つからなかった。
目に映ったものを写すだけでは、足りないのかもしれない。描くためには、何かを学ばなければならない。自分の知らない方法があり、それを身につけた者たちがいるはずだった。
そう考えるようになった熊治は、画を本格的に学びたいと思うようになった。
その願いが、やがて彼を備中国真金へと向かわせることになる。
真金には、四条派の絵師、三好雲仙がいた。
岡本豊彦の系譜につながり、優れた画技を持つ絵師として知られた人物である。熊治はまだ、四条派という流派がどのような歴史を持ち、どのような画法を伝えてきたのか、十分には知らなかった。
それでも伝え聞く雲仙の噂から、そこに自分の知らない世界があることは分かっていた。
自分がこれまで描いてきたものと、雲仙が描くものとの間には、埋めるべき隔たりがある。その隔たりを越えたいという思いが、熊治の胸の内で、次第に強くなっていった。
画を描くことが好きだというだけでは、もはや満足できなかった。
なぜ描くのか。どう描くのか。そして、画によって何を表すことができるのか。
答えを求めるためには確かめるしかない。熊治は新たな一歩を踏み出そうとしていた。
第三章 画の道を開いた師匠 三好雲仙
備中国真金。現在の岡山市北区吉備津にあたるこの土地は、古くから吉備津神社の門前として知られていた。 熊治が師と仰ぐことになる三好雲仙の画塾は、そこにあった。
雲仙は、四条派の絵師である。岡本豊彦や古市金峨の系譜につながり、門下でも優れた力量を持つ者として知られていた。人々から「法橋三好雲仙」と呼ばれることもあった。「法橋」はもともと僧侶に授けられる僧位の一つだが、近世には、優れた絵師に与えられる称号としても用いられていた。
熊治にとって、四条派という名は、これから学ぶべき画の世界を示すものだった。
四条派は、松村呉春を祖とする画派である。呉春は文人画の大家・与謝蕪村に学び、その没後、円山応挙のもとで研鑽を積んだ。蕪村の文人画が持つ情趣と、応挙が重んじた写生の精神。その双方を取り入れ、独自の画風を築いたとされる。
自然をよく観察し、対象の形や動きを捉えること。そして、ただ形を正確に写すだけではなく、そこに画としての品格や趣を生み出すこと。四条派の画法には、熊治がこれまで独力で試みてきたことを、より深く追究するための手掛かりがあるように思われた。
三好雲仙は、文化九年に備中国真金で生まれた。名を安平という。幼少期にどのような経緯で画を志したのか、詳しい記録は残されていないが、やがて岡本豊彦や、その門人である古市金峨のもとで学び、絵師としての技量を磨いていった。
古市金峨は、岡本豊彦の門下にあって、画法を伝える重要な役割を担った絵師である。雲仙はそのもとで修業を重ね、山水や人物を描く技術を身につけた。山の稜線や岩肌、樹木の枝ぶりを見極め、それぞれにふさわしい筆遣いを選ぶ。人物を描くにも、顔立ちや衣服の形を整えるだけでは足りない。姿勢や線の強弱、墨の濃淡によって、その人物が画面のなかに確かな存在感を持つように描かなければならなかった。
そうした修業を積み重ねた雲仙は、やがて古市金峨の門下でも高く評価されるようになった。岡本金波、難波玖嶽、大守峨山らとともに、一門の四天王に数えられたとも伝えられる。
また、雲仙の画業を語るうえで、東海道への画行脚も見逃せない。画行脚とは、各地を巡りながら制作や揮毫を行い、自らの画技を世に示す旅である。旅先で目にする山河や宿場町、人々の暮らしは、絵師にとって新たな題材となる。画譜や手本から学ぶだけでは得られない、実際の風景を観察する機会でもあった。
雲仙がどのような経路をたどり、どれほどの期間を旅したのか、詳しい記録は伝わっていない。それでも、東海道を巡った経験は、彼の名を広める一因となった。備中に暮らしながらも、その活動は土地の内側にとどまらなかったのである。
雲仙の画業を今に伝える作品の一つに、岡山県総社市井手の極楽寺に伝わる六曲屏風がある。明治十四年の作とされるこの屏風は、複数の面を連ねて一つの画面を構成する形式である。個々の景物を描く技量だけでなく、広い画面全体をまとめる構成力も求められる。
長年にわたり修業と制作を重ねてきた雲仙が、どのような境地に至っていたのか。その作例は、彼の画業を考えるうえで貴重な手掛かりとなっている。
熊治が雲仙のもとを訪ねようとした頃、日本は大きな変化の只中にあった。江戸幕府の時代が終わり、明治という新しい時代が始まっていた。身分制度が改められ、政治や経済の仕組みが変わり、人々の仕事や暮らしにも影響が及んでいた。
美術の世界も例外ではなかった。西洋から新たな技法や考え方が流入し、絵画のあり方が改めて問われ始めていた。そうした時代のなかでも、雲仙は自らが学んだ画法を携え、備中の地で制作を続けていた。
熊治が師の画塾を初めて訪れた日のことは、後年になっても忘れがたい記憶となった。
玄関の土間で来訪を告げると、弟子と思われる者が現れ、取り次いでくれた。熊治は式台に腰を下ろし、沓脱石で履物を脱いだ。高名な絵師の画塾である。履物をきちんと揃えることにも、自然と気を配った。
案内された部屋の障子が開く。
ふっと、墨と印泥の匂いが鼻をかすめた。
壁にはいくつもの掛軸が掛けられ、床には、制作の途中なのか、表装される前の画が広げられていた。
山水。花鳥。人物。
熊治は、思わず足を止めた。
自分も同じような題材を描いてきたはずだった。山を見て山を描き、花を見て花を描き、鳥の姿を紙に写そうとしてきた。けれども、目の前にある作品は、自分が描いてきたものとは明らかに違っていた。
何が違うのか、すぐには言葉にできない。
形の正確さだけではない。筆の運びだけでもない。画面には、目に見えるもののほかに、何かが存在しているように思われた。
紙の上に風が吹いている。
花の周囲には、目に見えない空気の広がりがある。枝の先には、まだ描かれていない空間が続いている。鳥は、今にも羽ばたきそうな気配をまとっていた。
熊治は、一枚の花鳥画から目を離せなかった。
「何を見ている」背後から声がした。
振り向くと、三好雲仙が立っていた。
「花を……」それ以上、言葉が続かなかった。
「花だけか」雲仙は、熊治の視線を追うようにして画を見た。
熊治は戸惑いながらも、もう一度、画面に目を向けた。
「……枝があります」
「それから?」
「葉があります」
雲仙は、すぐには答えなかった。熊治が何を見つけるのか、待っているようだった。
しかし、熊治には、師が求めている答えが分からない。
やがて雲仙は、穏やかに口を開き「すぐに分からなくてもよい。だが、画を見るときは、描かれているものだけを見ていてはいけない」と言った。
熊治は、雲仙の顔を見つめた。「では、何を見るのですか」
「描かれていないものだ」
その言葉は、熊治にとって、すぐには理解できないものだった。
描かれていないもの。
紙の上にないものを、どうして見ることができるのだろう。
花の周りの空気。枝の向こうにある空間。鳥が飛び立つ前の静けさ。そうしたものも、画のなかにあるというのだろうか。
熊治には、まだ分からなかったが、その言葉だけは、心に残った。
やがて熊治は、三好雲仙の門に入ることになる。
それは、単に画の技術を習うためだけの入門ではなかった。これまで自分が見てきた世界を、別の目で見直すための出発点でもあった。
第四章 筆を学ぶ
画塾での修業は、熊治が想像していたよりも地道で、厳しいものだった。
筆を持ち、墨をする。紙を広げ、師匠の画を手本にして描く。それは岡本豊彦門下の技術習得方法で、豊彦が、その師呉春の画を徹底的に模写したという逸話からきている。雲仙の画塾もそれを踏襲していたのだ。
描き終えれば師の画と見比べ、違いを確かめる。うまくいかなければ、また描く。
華やかな作品が生まれるまでには、他人の目に触れることのない地道な反復であったが、師の画を模写することは、画法を学ぶための基本だった。形を覚えるだけではない。筆をどの角度で運ぶのか、どの程度の力を加えるのか、墨をどれだけ含ませるのか。線の始まりと終わり、筆を止めるところと抜くところ。その一つ一つを、繰り返し描くことで身につけていく。
熊治は、何度も何度も失敗した。
「力が入りすぎている」雲仙に指摘されるたび、熊治は筆を持ち直した。
「はい」
「筆を握るな」
「握ってはいけないのですか」
「筆は握り込むものではない。動かすものだ」
言われたとおりに力を抜いてみる。すると今度は線が弱くなり、思うような形にならない。強く描こうとすれば線が硬くなり、柔らかくしようとすれば頼りなくなる。
頭では理解したつもりでも、手はすぐには従わなかった。
熊治は、悔しさを覚えることがあった。
これまで自分なりに画を描き、周囲からも熱心さを認められてきた。自分は画を描くことが好きだし、ほかの者よりも長い時間、紙に向かっている。その積み重ねがあれば、いずれは上達できると思っていた。
だが、師のもとで学び始めると、描く時間の長さだけでは埋められない差があることを思い知らされた。
自分は、見たものを描いているつもりだった。しかし、実際には、対象の形を自分の知っている範囲で処理していただけなのかもしれない。
ある日、熊治が梅の枝を描いていると、雲仙がその紙を手に取った。
「これは何だ」
「梅です」
「そうではない」
熊治は、返す言葉を失った。
「梅を描いたつもりで、梅という名前を描いている」
その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
熊治は、紙に描かれた枝を見つめた。幹があり、枝が伸び、そこに蕾がついている。形だけを見れば、梅に見えないこともない。
しかし、師はそれでは足りないと言う。
「名前ではなく、梅を描きなさい」雲仙は、それ以上の説明をしなかった。
熊治は、紙を見つめ続けた。
梅とは何か。幹や枝、蕾や花の形を描けば、それで梅を描いたことになるのだろうか。花には香りがある。早春の梅には、まだ寒さの残る空気があり、冬から春へと移り変わる気配がある。
枝の曲がり方も、蕾のつき方も、木によって違う。同じ梅でも、日当たりや風の当たり方によって、その姿は異なる。
そうしたものを見ずに、ただ梅という名前から思い浮かべた形を描いているのではないか。
熊治は、改めて梅の枝を見た。
今まで見ていたつもりのものが、実は十分には見えていなかった。そのことに気づくと、目の前の枝が、以前とは違って見えるような気がした。
画を学ぶことは、筆遣いを覚えるだけではない。自分の見方そのものを問い直すことでもあるのだ。
修業の日々のなかで、熊治は一人の若者と親しくなった。
中島左馬蔵である。
二人は互いの画を見せ合い、時には遠慮のない批評を交わした。
「お前の山は暗い」熊治が言うと、左馬蔵はすぐに言い返した。
「お前の鳥は明るすぎる」
「鳥だから明るいんだ」
「そういう問題じゃない」
互いに譲らず、描いた画を前に言い争うこともあった。けれども、翌日になれば、昨日のやり取りなど忘れたかのように、また並んで筆を執っていた。
同じ師のもとで学んでいても、二人の目のつけどころは異なっていた。自分では気づかなかった欠点を、相手の言葉によって知らされることがある。反対に、相手が見落としていたものを、自分の指摘によって気づかせることもあった。画を学ぶということは、孤独な営みである。
自分の描いたものが良いのか悪いのか、どこを直せばよいのか。それを一人で判断するのは容易ではない。師の指導は欠かせないが、同じように学ぶ者との交流も、また別の意味を持っていた。
左馬蔵は、熊治にとって、競い合う相手であると同時に、画の道を歩む友となっていった。
後に左馬蔵は中島雲哉と号する絵師となり、熊治とは長く交流を続けることになる。互いの人生がどのように展開し、どれほど長い付き合いになるのか、この頃の二人には知る由もなかった。
ただ、目の前には紙があり、筆があり、学ぶべきことが山ほどあった。熊治は、昨日より少しでもよい線を引こうと、再び筆を執った。
続く。。。




