其の弐
手足を伸ばすという言葉は、心を広げるという意味なのかと思う。
畳に大の字になると静けさの中にも音があることに気がつく。
鳥の声でもない、風の音でもない、何かわからないが音があるのだ。
山が呼吸しているとはこのことかとも考えてみたが、考えることさえ面倒になるほど心がだらしなく伸び切っている。
目をつむってみても、眠るのが惜しくなる。
だから、おりんが、外へ行こうと誘いに来たのが少し腹立たしかった。
「なんにも無い村です」
だったら誘いに来るな、とトオルは思う。
おりんはさきほど通った村の入口まで戻ってから、順番に家々の紹介を始めた。
「ここは、大善さんの家です。村の工事全般の責任者です。隣は長ケ部さん。揉め事の相談役です」
「古い村らしな、みんな昔の役職名みたいなやつが付いてるもんな」
ウマがひとりで納得している。
村の一番高い場所が開けて空き地になっている。そこをおりんは、
「ここが、白旗様です」
と、名所を案内するバスガイドのような手の形を作った。
「白旗様って、神社とか、お地蔵様とかないじゃないか」
トオルが周囲を見回す。
背後が切り立った崖になっていて、杉の木が何本か存在を主張するように立っているだけだ。
「ええ、この舞台があるだけです」
頑丈そうな造りの舞台だ。能狂言のそれとは少し違い、四方から眺めることができる造りになっている。
「あと、こっちが祠です。中にご神体があるとも言われていますけど、誰も見た人はありません。絶対に開けてはいけないことになっています」
切り立った断崖に頑丈そうな石組がある。一枚岩ならば天の岩戸もこうだったかという扉は固く閉ざされ、重厚な雰囲気を持っている。
「この舞台は何に使うの?」
トオルが目の高さまである舞台の分厚い床を手でさすりながら聞いた。
「あのですね……」
おりんが、少し言いにくそうにしている。
「この舞台は年に一度踊りを見せるためのものなんです。その踊りを舞うのが、うちの役目なんです」
「うちって、おりんちゃんの家?」
「そうです。前はおばあちゃんが踊っていました。でもお母さんはお嫁に来ましたから踊れません。もし順番でいけば……」
「順番通りならおりんの役目だったんだ」
ウマが意地悪そうに聞く。
「そうなんです。小さい頃は稽古をさせられました」
おりんの踊りのセンスは知っている。なぜ踊らないかを今この場で聞くのが不憫になった。
「代々女系家族だったんだそうです。だから、男の子が生まれた時はがっかりされたそうです」
「それって、お父さんのこと」
「そうです。悦男という名前は、えっ、男?から付けたと亡くなったおじいちゃんが言っていました」
「踊りが担当なのに、おりんちゃんの家の『鈴木』って普通だよね」
「それはなボン、鈴木という姓は元々神様に縁のある苗字なんだ。稲やご神木を守る係の姓でもあったんじゃないかな。きっとここにはご神木になるような大きな木があって、そこに踊りを奉納するのがおりんの家の役目だったんじゃないかな」
「へえ、そうなんですか」
初めて聞いたのだろう、おりんが珍しくウマを尊敬の眼差しで見ている。
新聞記者だったことをトオルに納得させるウマの説明だった。
おりんの父親の悦男は線の細い色白で、山暮らしには耐えられそうもない風貌の男だった。女系の家では男は丈夫には育たないものらしい。
無関心な母親とは違い、一座でのおりんの様子を事細かに聞きたがり、そして、涼子の推察した通りの牛肉のスキヤキ鍋を挟んで、ウマに酌をするのに忙しそうだ。
遠来の客などこの土地にはない、と久しぶりの同性の訪問を素直に喜んでいる様子が手にとるようにわかる。地酒だと勧める濁り酒の麹の強い香が、飲んでいないのにトオルの鼻をくすぐっていた。
「おりんが残ると行ったらしばらく置いて来い」
座長に言われていた。
どんな役をあてがってみても、売られて来た田舎娘にしか見えないおりんを、邪魔に思ってのことではない。まだ父母が恋しい年頃なのだから、満足するまでいさせてやれという心遣いだったが、その言葉を告げられたおりんは、とんでもないといった風に首を振った。
「帰ります。絶対一緒に帰ります」
「良いじゃないかおりんちゃん、一座もまだ暇だし、久しぶりなんだからゆっくりしていきなよ」
トオルの言葉に、
「嫌です。もうすぐ踊りの始まる季節なんです。だから嫌です。帰ります」
異常なほどに頑なに言う。
「私ね、小さい頃から踊りが苦手だったんです。全然うまくならないことは自分でもわかっていたんですけど、村の人たちはおばあちゃんの跡継ぎだからって期待するし……。だから踊りの季節が来るのが、ずうっと嫌だったんです」
おりんは踊りが役目の家に生まれた不幸を語り始めた。
トオルは、途中から、どこか幼い日の自分に共通する部分を感じていた。「
あの雪之丞の息子だ」と言われ続けた思い出が蘇っていたのだ。
おりんは、それでも舞台そのものへの心の傾きはあったのだろう、年に一度だけ村を訪れていた雪之丞の一座の門を叩いたのはそのためだった。
だがそのとき、雪之丞は交通事故ですでに亡くなっていた。
「わかった、明日一緒に帰ろう」
トオルの一言に、おりんがようやく安心した表情になった。