EX 蚊帳の中
――これは神剣と使い手が出会う、ほんの少し前の物語。
「月が綺麗ですね」
古城を望月が照らし、淡い影を落とす。
広々としたバルコニーに設けられたささやかな宴席に、三つの影が月光を浴びていた。
「私とあなたの長い付き合いも、今宵でどれほどになりますかねぇ」
私と、隣に座る長い金髪を三つ編みにした女と、テーブルの向かいに座る金髪をおかっぱ・・・ボブカットにした少女の三人は明かりも点けず暗闇の中で酒を飲んでいた。
視界を照らすのは淡い月明かりのみ。
とはいえこの三人の中で夜の闇を不便にする者もいないだろうが。
飲んでいると言ってもまぁ、本当に飲んでいると言っていいのは隣のうわばみだけで、私と向かいの少女は用意された甘い蜂蜜酒にちびちびと口をつけるだけ。
だというのに隣の女は、市場に出せば目玉が飛び出るような値段のするだろう通好みしそうな強い酒を、一人だけ樽を空にしかねない勢いでがぶ飲みしている。
それでようやくほろ酔いといったところか。
酒が作れるのは人間の知性の証、知恵の女神の供え物にも多い。
隣の女は千年以上も新しい酒ができる度に試し飲みしてきた筋金入りの飲兵衛だ。
窓から覗く美しい蒼月は確かに風情があるものの、その月とお互いの顔だけを肴によくもそこまで呑めるものだ。
今宵は一段と近い気がする月を見上げていた私は、テーブルの周りに視線を戻した。
向かいの少女は女の質問に、律儀に小首を傾げていた。
少女は本当に憶えていないのだろうが、逆に質問した本人は絶対に覚えているだろうから答えてやる義理もないだろう。
「たしか・・・そう、四百年ほどですか」
「長いな。確かに」
隣の女と比べれば長い付き合いではない、否、ほんのわずかばかりの付き合いに過ぎないのだろうが、それでも少女はあまり饒舌なほうではないとわかっていたので、代わりに私が相の手を入れる。
それだけの時間が経てばエルフでも生きてはいないだろう。
自然な存在ならば樹木以外の生物は全て朽ち果て地上に残らないだけの時間だ。
生まれてからまだ数年と経っていない私にはとても計り知れない年月だった。
「貴方を王として夜の国が生まれて、もうそんなに経つんですね・・・・何かに打ち込んでいると、月日とは本当にあっという間に過ぎてしまう」
いかな永劫を生きる神々であろうと、さすがにそう安々とした年月ではないと思うのだが。
シルメリアはそれがまるで昨日のことだったように言う。
夜の国――――血と闘争を好む者が多い魔族の中でも比較的穏健なモノたちが作った王国。
・・・いや、生まれつき他者より強く生まれた人間がそうであるように、力を求めぬ魔族などいない。
あるいはかつて強壮たる支配者だったモノたちは、目の前に座る少女に牙を折られたのだ。
その圧倒的な、絶望的な力に蹂躙され、頭を垂れ命乞いをして。
さもなくば、徒党を組んで権勢を誇り混沌の大陸に覇を唱えるだけの力を持っていたその時代の魔族で、今宵に至るまで月を見上げていられるモノなどいないだろう。
己を意に介さぬ“伝説”が縄張りを素知らぬ顔で通り過ぎようと言うのに、ちょっかいをかけずに居られる獅子などいられようか。
そして許しを乞い、平伏せずして生き帰れるモノなどいられようや。
手を出したそれは自分たちと同じ獅子などではなく、神の鉄槌にも似た天災だというのに。
全てが押しつぶされ、血飛沫の大洪水によって洗い流され、暴力によって平らげられた時代。
そんな時代にごく小さな、領土とも言えないような領土から始まったこの国は、いまやこの地上で他に類のない巨大な国家となっている。
「君臨すれども統治せず。されど其は絶対たる“夜”を頂くモノの王。
名乗りしモノは数知れず、なれども万魔に認められし真祖たり得るは月下においてただ一ツ」
歌うようにシルメリアは言った。
夜の国に伝わる古い民謡の冒頭の一節だ。タイトルは「シエル」。
人間の国の言葉に訳すれば意味は夜、月、そして――
「魔王」
月を見上げる美しく無邪気な少女を見つめながら、シルメリアは小さく呟いた。
「“夜の国に住まう民は夜の国の王と不意に道で出会っても殺されない”。そんなお馬鹿な理由で国民を集められる国なんて、後にも先にもただ一つでしょうねえ」
夜の国の民達が酒の席で己の王を愛でる際に使われる冗句だが、四百年前にはともすると、それはそうではなかったのかもしれない。
「誰が信じるでしょうかねえ。四百年前に暴虐と殺戮の限りを尽くし、千年の永きに渡り魔族の争う地を平らげた魔王。その怪物がたった一柱の神の気まぐれによって生み出されたものだなんて」
シルメリアもまた月を見上げた。
ここには居ない誰かを偲ぶように。
「一度は諦めたはずなのですがね・・・。このような大層な娘まで作って、刺客足り得ると思った少年までわざわざ箱庭の外から連れてきて、結局のところ、未だに私は貴方を殺したいのでしょうか」
自分の作った酒の味でも聞くように何気なく、シルメリアはその剣呑な問いを口にした。
「未練がましいことこの上ない。知恵の神ともあろう者が、自分の心の内さえ答えられないとは、困ったものです」
訥々と語る言葉が、今宵彼女の酒が進む理由なのだろう。
世界を滅ぼし神さえ殺せる力を持った剣が造られた理由は、いつか世界を救うためなどではなく、たった一人の少女を殺すためなのかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。
「娘にそれをさせるのは忍びない。挑んだ者に魔王は情けをかけない。敗れれば娘と再度目見えることはない。けれどそう知りながらこの四百年、私は幾度も娘を造り直してきた。愚かな母親は考えずにはいられない」
手の中で鳴る氷を愛おしげに見つめて、知恵の女神は問うた。
「もし貴女が死ねば、この国は、世界はどうなるのでしょうか」
恐らくはその答えになど欠片ほどの興味もない少女は応えず、そして私などにはその答えを用意できようはずもない問いは、夜の底に吸い込まれるように、何処とも知れぬ闇の中へ消えた。




