第一話「彼女。」
夜の教室、窓枠の影を引く月明かり。
色褪せた制服から真っ白な肌がのぞく。
包み込む、仄かな蒼白い光。
唇からあふれる声が、静寂に溶け込んでいた。
***
春の昼下がり。
日差しはまだ高く、校舎は昼休みの賑わいで満ち、
窓から流れ込む風が、甘い花の香りを運んでくる。
「ねぇ、リップ何使ってる?」
「うん、あたしこれ?良くない?いずみはー?」
「私はこれ!色々試したけど、色落ちしにくいし!」
「わたしも一緒一緒ー♪」
凛が身を乗り出して、ポーチを覗き込む。
くすくすと笑い声が重なって、その輪にいるだけで頬がゆるむ。
「あっ、やば部活行かなきゃ、じゃあね!いずみ!」
「うん!じゃあね凛!」
「あたしもー。いずみは部活入んないの?」
「ううん。私はいいかな。」
机の上をばたばたと片付けると、彼女たちはそれぞれの部へ駆けていった。
……さ、帰ろうっと。
ポーチをしまい、学生カバンと着替えの入ったバッグを抱え、ふっと笑みが薄くなる。
やっぱりまだこのままでいたい……けど、もう高二だし。
でもわかってる。私、今しか。今のうちだけ……
「おーい最上!また体育休んだのか?」
「ひゃい!せ、先生すみません!」
声、裏返っちゃった……。うぅ、恥ずかしぃ。
「ごめんなさい!……今日急いでるので!」
「あ!全く、今度は出ろよー!」
「はーい!」
振り向きざまに返事して、駆け足で逃げるように教室を飛び出す。
……用事なんて、ほんとは無いけど。
廊下の向こう、凛とした立ち姿。風紀委員の腕章。
走る姿を見られた私は、誤魔化すように足を緩めた。
「最上さん?走っちゃだめですよ。」
「青野さん!ご、ごめんなさい」
芯のブレない声で、真っ直ぐこちらを見て話しかける。
同い年なのに。どうしたらこんな感じになれるんだろう。
「どうしたんですか?慌てて。」
「ううん、何でもないの!」
「あっ、ちょっと!また走って。もう、気を付けてくださいね。」
急ぎ足でパタパタと廊下を駆け抜け、
下駄箱で両膝を折りながら、カバンで前を隠すように、靴を履き替える。
校舎を出ると風が吹き抜け、スカートの裾がばたばたと靡き、慌てて裾を押さえた。
もう……風強ぃ……。
帰り道、立ち寄ったスーパー。店内は買い物客で賑わっていた。
周囲を見渡して、多目的トイレの鍵をちらりと確認。
表示は、青色。
あ、良かった空いてる、誰にも見られてないよね?着替えないと。お邪魔しま~す……。
鍵を閉めて、ほっと息をつく。リボンをほどき、メイクを落とし、カップ付インナーを外し、スカートを脱ぎ、
バッグから取り出したのは——
男子の制服。
「……うん。」
鏡の前の〝僕〟は、ちゃんと男の子。
着替え終え、前髪を軽く崩し、そっと扉を開け、視線を避けるように、群衆に紛れ帰路につく。
「ただいま〜。」
「あら、いずみ、おかえりなさい。」
顔を洗い、ボイトレにスキンケア。私で居れるための大事な時間。
別に男子が好きなわけじゃない。ただ、まだ私で居たい。
それだけなのに、どうしてこんなに……。
日は茜色に染まっていき、いつものルーティンを終える頃には、夜の帷が降りていく。
机に向かいノートを出そうとカバンを開け、青ざめた。
うそっ⁉︎あれっ?もう置いた?
カバンの中⁉︎……ない。あの時だ、先生が話しかけるから。うぅ、行かなきゃ……ダメだよね。
化粧水も少ないし、どうせなら帰りに買いに行こ。
あー、また着替えなきゃ。
住宅街を抜け、街灯に照らされた商店街に出る。
行き交う人々はまだ多く、雑踏を避けるように駆け、
息を切らし走るいずみは、人混みに紛れた青野の姿には気づかなかった。
青野は目を奪われた。思わず振り返り、足が止まる。
「え?」
ドキッとした。今の男子、誰?うちの制服。
知らない、見た事、ない?誰かに似てる気がする。
気に……なる。
視線の先の男子生徒は慌てた様子で駆けて行き、角を曲がり、雑踏の中に消えていく。
焼きついた横顔。青野の胸に、小さな甘いざわめきを残したまま。
——いずみは校門を抜け、着慣れない男子制服のベルトを直し、校舎へ向かった。
辺りはすっかり暗く、中に入ると、夜の校舎は普段とはまるで違い、小さく喉が鳴る。
湿ったコンクリートの匂いが鼻をかすめ、静まり返った廊下に、足音がやけに響く。
階段を上り二階に着くと、ひんやりとした冷気が肌を掠めた。
ちょっと不気味、お化け出るとか噂あったし。
あれ?なんか寒い?……トイレ行きたくなっちゃう。
今なら、良いよね?誰も見てないし、ついでに今着替えちゃお。
カチャン、と鍵を閉める音が耳につく。
「よいしょ……。」
着替え終えて息をつき、腰を下ろしたその瞬間。ぞわっ、と肌を撫でるような冷気。
「ひゃっ!」
今。確かに、空気が変わった。
『あれ?』
聞こえた。声。耳元でも頭の中でもない、壁一枚隔てた場所からの声。じわりと鼓動が早まり、背中が汗ばむ。
聞いた事ある……。夜の学校に出る幽霊。
絶対、聞こえた。
あぁ……こんな時間に来なければ良かった……。
唇を固く結び、奥歯がカタカタ鳴る。広がった鼓動が耳まで伝わる。
もぅやだ……。呼吸が浅くなり、視界が滲んでいく。
——視界に飛び込んできた白い影。
息が止まる。
声が出ない。
『えー?コレどっちー?ここ男子トイレだよねー?』
甘く高い声、眉をひそめた困り顔。
ドアを通り抜けたまま、じっとこちらを覗き込む。
喋っ、え……?なんか軽い?幽霊だよね?
『えー?なになにこれ、めっちゃかわいーんだけどー?』
浮いたまま、ころころと右へ左へと、興味津々に眺めてくる。
可愛い⁉︎ちょっと嬉し、いやそうじゃなくって!幽霊ってこんな感じなの⁉︎
愛嬌のある仕草に真っ白の肌。
体を包むような蒼白い仄かな光。
色が抜けたように淡い制服。
これって……旧制服?ドア——通り抜けてる。
やっぱり幽霊……けど、怖くない?
いや怖い……何なの……?
『触れない、よねぇ……。でも滅多にないしなんかしたいなー』
人差し指を顎に置き、何か考えている。
『あ、そうだ。』
子供のように、悪戯っぽく、にまっと笑った。
やだ!何する気⁉︎
身構えて、ぐっと唇を噛み締めた。
『いないいなーい……』
え?それって。
『ばぁ!』
変……顔?え、え?…………え?
男子トイレの個室。私の目の前で、
全力のいないいないばあをする幽霊。思考が追いつかない。
『いないいなーい……』
え、待って、もう一回⁉︎無理無理止めて!
『ばぁ!』
——別パターン⁉︎
「……っ、あははは!」
笑っちゃう、無理だってこんなの!
変顔から一転、動きがビクッと止まる。
『うぇっ!なに⁉︎え、見えてる⁉︎』
肩をのけ反らせ、真正面で目が合う。私は息を吸い、吐いて。
「う、うん……見えてるよ?」
固まる幽霊、瞬きすらなく。目は……離せない。
『……えーーー⁉︎マジでーー⁉︎いつからぁーー⁉︎』
真っ白な頬がみるみる赤く染まる。
うぅ……なんかこっちも恥ずかしい……。
「……最初から、かな?」
『ずっとバレてたってことぉーー⁉︎恥ずかしすぎるぅーー!』
幽霊が真っ赤になった顔を両手で隠し、空中でごろごろ転がっている。
……幽霊も赤くなるんだ。ちょっと可愛い?いやこの子、可愛い。
『ゆってよぉーーー!!』
こちらに詰め寄り、目尻に涙を溜め、両拳を握りしめ激しく振っている。
「だ、だって……怖かったんだもん。」
あまりに自然な振る舞いに、いつしか普通に返していた。
胸に手を当てた、まだ心音は落ち着かない。
『もー!……え、ちょい待ちー??……女子?』
首を傾け不思議そうに。
今も頬には薄っすら赤みが残り、どこか幼くも見えた。
「う、ううん。」
『えぇぇぇぇぇ!なになに、どゆこと?』
「えっと……僕、男の子なんだ。」
言うとき、詰まる。
男子がこんな格好、変……だよね。
『あー、聞いたことあるかもー。へぇー?初めて見るわー』
あっけらかんに返す彼女に、自然と力が抜けた。
「あ、あの」
『なになにー?あーし話すの久しぶりだから、なんでも聞くよー!』
〝話すの久しぶり〟
その一言が、静かに刺さる。
——やっぱり、幽霊なんだ。でも、目の前のこの子……あっ。
「ええっと……恥ずかしいから、あんまりじっと見ないでほしい、かも。」
冷静になると思い出す現状。
トイレ中だった……。うぅ恥ずかしいぃ……。
『あ!え!ご、ごめぇーーん!』
ハッと気づき、顔を赤くし、すうっと扉をすり抜け姿を消した。
空気が軽くなり、しん、と静まる個室。ひんやりとした冷気が肌を刺す。
怖い……?
そう思った瞬間、壁の向こう側から。
『ねぇねぇ!話そーよ!終わったら声かけてー!』
「ひゃっ!う、うん」
何この子、自由すぎない?ふふ、なんか、笑っちゃうかも。
流れる水音、衣擦れの音が紛れ込む。
「お、おわったよ?」
声を合図に、ふわりと目の前に現れた。
『チーっす!ねぇねぇ、あーし寂しいから話そーぜぃ!教室でいー?』
目元にピースしながらの明るい笑顔。でも、
〝寂しいから〟
「う、うん。教室?いいよ。」
『帰っちゃヤダかんね⁉︎ちゃんと来てよ?』
ふよふよと浮かぶ彼女を追うようについていき、私の足音だけが廊下に静かに鳴っていた。
足音は厚い床を隔て、階下へ届くことなく消えていく。
消えた足音の下、一階校舎では、
玄関から、青野が静まり返った廊下へと進んでいた。
つい、追いかけちゃった。誰だっけ……あの顔、誰かに、どこかで。ああもう、何してるのかしら私。
風紀委員として?うん、その筈。けど……
あの姿がチラついて、離れない。
二階へ登ると、妙に寒い。教室から聞こえる僅かな声。
混ざった高鳴り。青野は喉を上下し、声を出す。
「……だ、誰かいますか?」
静まり返った廊下からの声に、いずみの肩が跳ねた。
今の声、青野さん⁉︎なんで⁉︎どうしよう、バレたら……
親に連絡とか、この格好で⁉︎
足音が近づいてくる。教室の引き戸が、ゆっくり、開く。
ギギ……。
『なになにー?だれー??』
彼女は呑気な声で、扉の方に耳を傾ける。
「ど、どうしよ……私、親に連絡されたくない……!」
目元が滲むいずみを、彼女がちらっと見て、にやりと笑う。
『ふふ〜、あーしに任せといてっ』
両手をふわりと上げる。
体を包む蒼白い光がほんのり強くなったように見えた。
青野が恐る恐る戸を開き、教室に入りながら辺りを見渡す。
いずみの姿は見当たらず、月明かりだけの暗い教室。
喉が張りつき唾を飲みこむ。
「あのー、だ、誰かいますか?……えっ」
カタ……カタカタ……。
机が……震えてる?勝手に、揺れてる。
窓、開いてない。誰も触れてないのに……?
ぶわっとプリントが宙に浮き上がり、冷たい風が吹き抜けた。
「ひ……っ」
噂、脳裏をよぎる。夜の校舎に女の子の幽霊。姿は、見えない。
「お、お化け……?」
上ずる声、すくむ体。机が一斉に鳴り、プリントが宙を舞う。その一枚が、頬に当たった。
「や、やだぁ!」
悲鳴を残し、振り返って走り出す足音が、廊下を遠ざかっていった。
しん、と静まった教室、舞っていたプリントがひらりと落ちる。すっと彼女の体を包む光が薄くなった。
『どう?あーしすごいっしょ!』
宙に浮いたまま私に向き、胸を張って、腰に手を当てニヤリと笑う。
褒めてと言わんばかりの様子に、私は困ったように笑い、息を吐いた。
「もう……やりすぎだよ。」
でも。
確かに、守ってくれた。
「ねぇ、幽霊、なんだよね?」
『どーみてもそうじゃね?だってあーし浮いてるし!物も浮かせれるよ?ウケるっしょ!』
腹を抱えてケタケタ笑うその仕草は、どこか無理をしてるようにも見えた。
——改めて見るその姿。
白い髪、銀糸のような髪先が靡き、月光に溶け込む。
透きとおるような肌。色を失い、存在を滲ませる制服。
月明かりの教室で、異物のように彼女だけが仄かに蒼く光ってる。
「……綺麗だね」
『え?』
「幻想的。すごく、綺麗。」
ぱちりと瞬きし、彼女の動きが止まる。
『ちょ、ちょっと!いきなり褒めるとか反則なんですけど⁉︎』
背をのけ反らせ、頬を、ほんのり染めて。
「ね、ねぇ。聞いていいかな?」
『つーかあーしも聞きたいし!』
彼女は浮いたままグイッと間合いを詰め、身を乗り出す。
不意の接近に身をよじり、小さく息を整えた。
「う、うん、なに?」
『なんでそんなに可愛いの⁉︎腹立つんですけど!』
「えっ、可愛い?かな?」
指差しながら口を尖らせてる彼女を横目に、思わず両手を頬に添え、口元が緩む。
〝可愛い〟私に向けたその言葉。やっぱり嬉しい。
『照れんなっつーの!え、でもマジで男子なの?』
「う、うん」
『へぇー、不思議ー。』
男子……ちょっと複雑な気分。
彼女は首を傾げると、宙でくるりと回った。
白い髪が月明かりにふわりと広がる。
「君は、いつからここにいるの?」
『あーし?忘れた!たぶん二、三年くらい?わかんね!』
あ。
二、三年。思わず視線が落ちた。
私、馬鹿。この子が普通すぎて。軽く……聞いちゃった。
『だから……ううん。』
『つか女子……じゃないんだよね?いつもその格好?』
くるりと回る勢いのまま、そのままふわっと戻ってきた。
「うん、外では……女の子の格好してるの。」
『マジ⁉︎全然女子じゃん!』
興奮した様子でまた勢いよく身を乗り出した。咄嗟に身をよじる。
ころころ動く。私の中の幽霊ってもっと、こう、思ってた感じと違う?って近い!この子距離感どうなってるの⁉︎
笑っていた彼女のその目に、ふと陰りが落ちる。
『あーしずっと女子に話しかけてたのに話せなかったしさ』
『……もう、諦めてたのに。』
その言葉に息が詰まる。
そっか、この子ずっと……。
逸らした視線に映る月明かりが、異様に眩しく感じた。
『ね、ね!めっちゃ話したいんだけど!いい⁉︎』
両手をブンブンと振り、興奮気味に目を見開いた。
「うん、いいよ?」
『名前!あーし結城美奈!ヨロシク!アンタは?』
目元でピースを作ったまま、その指先をこちらへ向ける。
「も、最上いずみ。」
『名前まで女子みたい!』
「うん。私、気に入ってるの。」
『私?』
「あ。普段、そう言ってるんだ」
顎に人差し指を置き不思議そうな美奈。やっぱり私……変かな。
『いいじゃん!かわいーし!』
屈託のない笑顔がじわっと染み込む。
『つーか……なんであーしのこと視えるの?話せてるし?』
「え?……わかんない。」
『波長?ノリ?ま、いっか!』
なんで見えるんだろう?わからない。
わからない、けど。私、この子に、なんていうか……。
可哀想?違う。ドキドキが入り混じって。なんだろう、コレ。
『あーし、外出れないっぽいんだよね。なんでかわかんないけど。』
〝出れない〟ずっと一人で……?
『ねえ、いつも夜、来てないよね?』
「今日はたまたま忘れ物しちゃって。」
『今日……だけなんだ。』
ぴたりと動きが止まった。
少し考えるように、美奈の顔が曇る。
『ねぇ、いずみって男子が好きなの?』
「ち、違うよ!」
首を振るいずみに、美奈は間を開いて、俯いたまま目線が合う。
『……彼女、いる?』
「いないよ!出来るわけないじゃん。」
食い気味に、少し照れるように笑った。
『……いないんだ、ふふ、そうなんだ。』
『じゃ、じゃあいずみは、好きな子、いる?』
「え?今は……いないけど。」
『今は?』
「う、うん、なんで?」
『なんでも無い……し。好きな子いないってマジ?』
「う、うん。そうだけど。」
『ふーん、そっか。』
ぷいっと顔を背ける美奈、机に座り足をぷらぷらと揺らしてる。
美奈が何かを言おうとして、止まり、そして口を開いた。
『じゃあさ……』
『……その、』
言い淀み、ほんの少し、再び間を置き、向き直って。
『……あーしと、付き合おうよ。』
軽い口調と裏腹にその目は真剣で、恥じらいを残して。
「……へ?」
頭が、真っ白になった。
『彼氏も彼女も出来なさそうなら、お試しってことで?』
にやりと笑い冗談みたいな口調。
——でも。
その奥にある〝本気〟が、少し見えた気がした。
高校二年生の春。
〝僕〟の初めての彼女は——幽霊でした。




