「第4章 放物線を描く水と水没と」(4-2)
(4-2)
文章を読んでくれている。それが分かっただけでも充分だ。
芳樹はリンクを貼ったwikiを今まさに読んでいるのではないか。
あのサイトに書かれている情報量は膨大で、ちょっとやそっとでは読み切らない。
全部を読み終わってから連絡をくれるかも知れない。淡い期待を抱いて、直人は芳樹とのトーク画面から出た。
今度は晴香の番だ。
芳樹とは別種の緊張を持って、直人は彼女とのトーク画面を開く。
晴香とのトーク画面も芳樹と一緒で返事はなく、自分の文章が最後だった。そして送った文章に既読は付いていなかった。
「……はぁ、」
口からため息が漏れる。芳樹が既読を付いていたから、同じように晴香も既読が付いているかもと自然と期待してしまった。別に片方が見たからといって、もう片方も見るなんて保証はどこにもない。
直人は水のペットボトルを一気飲みすると、その場で大きく伸びをした。
出来る事は全てやった、ココから先はどうしようも出来ない。
晴香にLINEを追撃する事なんて当然不可能。今日中には返事が来ないかも知れないが、明日には来るかも知れない。もしくは明後日の可能性だってある。
いくらでも待つ。
それが今の自分に出来る事だから。
そう結論付けて、直人は立ち上がった。
現在の時刻は午前十一時。外に出る気力はないので、Amazon primeのページに行き、映画でも適当に観て過ごそう。
直人はMacBookを起動して、ウォッチリストに登録していた洋画から適当に映画を観て過ごした。その間、iPhoneはずっとデスクに置いていた。
映画を観終わった直人は空になっていたペットボトルを持って台所へ向かう。
時間は午後一時を超えた。
イスに座って動いていなかったが、段々と小腹が空いてきた。
だが自宅には食材がない。元々、夕方にはスーパーに買い物に行こうと思っていた。少し早くなるだけだ。今の内に買い物を終わらせた方が後々、楽になる。
「よーし、行くか」
直人は自分自身を鼓舞するように呟くと、部屋着を脱いでジーンズとシャツに着替える。部屋の電気を消して出掛ける準備を終えると、玄関のドアを開けた。
「行ってきます」
真っ暗な部屋に向かって、声を飛ばす。当然、返事は返ってこない。ポケットに入れているiPhoneも相変わらず沈黙を守っていた。
マンションを出て、直人は駅前へと歩き出した。スーパーへ行く前にまずは腹ごしらえをしたかった。この感じだと駅前の蕎麦かマクドナルドが妥当だろう。
横断歩道の信号に捕まりながら、昼食を考える。
直人がそんな事を考えていると、ポケットのiPhoneが振動した。
「っ!?」
きた! 突然の振動に体がビクッと反応してしまう。直人はすぐにポケットからiPhoneを取り出してLINEを確認する。相手は晴香からだった。
良かった、返事がきた!
掃除をしたり、映画を観たりして晴香からの返事を忘れようとしていたが、やはりどうしたって完全には消えない。返事が来た事で直人は、それを実感した。
しかし、開いたLINEに表示された晴香の返事を読んで、直人は固まった。
【すいません。私この間、携帯を水没させてしまってデータが全部飛んでしまったんですけど、誰かと間違えていませんか?】
「……はぁ?」
思わず声が出た。横断歩道前の幹線道路を走行する車の音に簡単にかき消される声量だったのに自分の耳にはハッキリと聞こえた。
何を言っているんだ? 直人の頭の中で疑問が浮かぶ。
一瞬、晴香はまだ怒っている可能性を考えた。だがすぐに否定する。
少なくとも直人の知っている晴香は、そういう事をする人間ではない。これまで付き合ってきて、何度も喧嘩はあった。
だけど、その度にちゃんと時間をかけて話し合ってきた。それがこんな形での拒否はあり得ない。
信号が赤から青に変わる。周囲の人々が続々と渡っていく中で直人だけが歩けずにその場で立ち止まっていた。
これは本当に自分を認識出来ていない?
五年以上、付き合った彼氏である自分を?
いくら携帯が水没してデータが飛んだからと言って、記憶までは飛ばない。
そこまで考えたところで、直人の頭に電流が走ったような衝撃があった。
記憶? まさかーー。
その可能性を考えた途端、心臓がゾクッとする恐怖に襲われた。
まるで風邪を引いたように全身に強烈な寒気が走る。
ダメだ、立っていられない。直人はその場にしゃがみ込んだ。そんな状況でもどこか冷静な自分が、誰かに声を掛けられると面倒だと考えていたが、そんな心配とは裏腹に誰も自分に話し掛ける人間はいなかった。
信号が再び、赤になる。
直人は両足に力を入れてゆっくりと立ち上がった。寒気はマシになったが、頭は朦朧としている。とても食事なんて無理だ、一旦家に帰ろう。
直人は体を反転させてマンションまで帰る事にした。
マンションまで戻ってきてエントランスを通ると、丁度エレベーターが一階に降りてきた。中から別の階の住人がやって来る。
いつもなら会釈をするのだが、今の直人は下を向いてやり過ごすので精一杯だった。エレベーターに乗り、部屋の階層のボタンを押す。
吸い込まれるように鍵を開けて部屋のドアを開けた。まだ出発して間もない部屋は出たばかりの空気が残っている。直人は鍵をかけると、電気を点けずにベッドに倒れ込んだ。
ボスっと音を立てて、ベッドが揺れる。
普段、外出着でベッドには乗らないようにしているが、今はそんな事を気にする余裕すらなかった。
横になって目を瞑ると、マットに沈み込んでいく感覚に襲われた。
どこまでも境界がなく無限に地球の底まで沈んでしまうのではないか。そんな錯覚に襲われる程だった。
それからしばらく、直人は目を瞑っていた。不思議と眠気はなく、ただ仰向けになり、目を瞑っているだけだった。




