前編 ルーメン、高級ホテルにて
ルーメン有数の高級ホテルのコンパニオンとして働いている私は、今日も退屈な仕事の途中だった。
制服を着て、たくさんのお金を落とすお客様のお見送りをする。
今日はセンパイから「大切なお客様がたくさんいらっしゃるから気を付けてね」だなんて言われてしまって、うわぁ嫌だな、めんどくさいなと思いながらも良い子に「はーい」だなんて返事をしたのも先ほどのことだった。
気づかれないように小さく欠伸をして、下のほうで腕を組んで伸びをして、大ホールに入って行ったたくさんのお客様を見送る。その扉の脇に立って、用伝えがあったらすぐに動けるようにする。めんどくさいけど、これもお金様のため。
この仕事が終わったら、私は三〇連ガチャが引ける。と自分に喝を入れる。
つまらない仕事に、爪先が動こうとするのをなんとか耐える。センパイがそんな私を見て、ちょっと顰めっ面になる。そんなセンパイの顔を見て自分の眉間を人差し指でとんとんと触ると、彼女は大きなため息を吐いて、少しだけ表情を緩めた。
その時だった。
絶叫。断末魔。悲鳴。それらが私たちの立っている扉の向こうから響いてくる。まるでホラー映画の中のエキストラが一〇〇人、二〇〇人いるほどの、恐ろしい音圧だった。
慌てて扉を開こうとするも、鍵をかけていないはずのその扉は開かず、ガチャガチャと不快な音を立てて微かに動くだけだった。
センパイが私に「マスターキー持ってきて! すぐ!」と言って、彼女は扉を叩いて安否の確認をしている。
誰も、応えていないように見えるそれに、一抹の不安を感じる。
私がシフトに入っている時にこんなこと起きないでほしい、勘弁してほしいと混乱する脳を抱えたまま必死に走る。
何分が経過したのかすら分からないほどの体感時間。きっと時間にすればたった数分。
マスターキーを手にセンパイのいる扉の前へと戻ると、そこには廊下を覆うほどの赤が広がっていた。その、妙に生臭い鉄の臭いの液体が私のエナメルの靴に届く。それが、血液だということに、気づいてしまう。
扉に密着した先輩。
「……センパイ……?」
思わず声を掛けるも、彼女は何も答えない。そこでようやく気が付いた。
センパイの背中から妙に冴え冴えとした銀色の“何か”が生えている。
赤を纏ったそれは、ゆっくりと扉の方へと入っていって、センパイを置き去りに消えた。その何かで扉に縫い付けられていたセンパイは、銀色の何かが消えた途端に床へと力無く崩れ落ちる。
思わず駆け寄って声を掛けるも、センパイは何も答えてはくれない。ここに残っていたのが私だったら……恐ろしい想像に、ゾッとする。
思わず後ずさった私は、背中に小さな衝撃を受けて思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「大丈夫ですよ、驚かせてしまってすみません。私は捜査官という職業に就いている者です。先ほど、そのホールの中の方から通報があって駆け付けたんです。中に、入っても良いですか?」
私とさして年齢が変わらないだろう彼の言葉に、私は震える体で、手で、彼に手の中の鍵を渡す。
彼はそれに微笑んで、「ありがとう」と一言残して扉へと向かった。
「恐ろしい想いをしたなあ。大丈夫さ。これは、夢だ。明日にはいつも通りの日々がきみを待っている。
夢の中だが、頼み事をしても良いかい。この場所に誰も近づかないようにしてほしくてな。夢だとしても、犠牲が出ることは良くないだろう。きみもここから逃げてくれ。良いかい」
彼の後ろに立っていた金髪に碧眼の青年の言葉に、幾度も首を縦に振る。その隣にいた、両手を前に整えて立っている長いしっぽの、私の知らない何かの獣人だろう青年が私を見つめる。どこか、笑っているような表情をした獣人だった。
恐怖で声も出ない私に、彼らは微かな笑みを浮かべて男性の後ろへと着いていく。立ち尽くしたままの私に、片目をそのブラウンの髪で隠した獣人の青年が「なるべく早く頼む」と声を掛けて、私は慌ててその場を去った。その瞬間、何か硬いものをぶつけ合うような、妙な音と絶叫が聞こえたことは気のせいだと、きっと気のせいだと信じて。
センパイは生きているし、私は夢を見てる。きっとこれはただのなんともない夢で、でもあまりに怖かったから、もしかしたらおねしょくらいはしてるかもしれない。一人暮らしだからおねしょしたことを誰にも揶揄われなくて良いかな。
良いことなんて、それくらいだけど。
取り留めのないことを脳内でいくつもいくつも考えながら、急いで立ち入り禁止のポールを大ホールに向かう廊下に立てる。
妙に現実感のある悪夢が本当のことにならないことだけを祈って、私はそのポールの前に立つ。
結局、それから一、二時間後に、赤い鉄錆のにおいのする液体を頭からかぶった二人の青年を連れた男性が私のほうへと歩いてくる。思わず後ずさった私は悪くないと思う。絶対に悪くない。この間映画サブスクで観た最悪のホラー映画のようだった。
「怖い想いをさせてしまってごめんね。あの大ホールには政府からの掃除業者が入るから、あなたが入る必要は無いので。そして、それについては私のほうからホテルの支配人さんに話をしておくから。君はもう上がってもらっても大丈夫だよ」
男性の言葉に、私は呆然としたまま頷いて、ふと好奇心が勝って男性の後ろを見てしまった。
大ホールから運び出される、首の無い人間。肩から下が無くなった男の子、鼻から上が吹き飛ばされたような女性に、……その瞬間、私の意識は黒に塗りつぶされた。
床に敷かれた絨毯が、私の体を優しく包み込んだところで意識が途切れる。
好奇心はハーフリンクをも殺す。私の頭の中の辞書にはその言葉が赤丸に二重線が引かれて、「あ」行の前に置かれることになった。
翌日、何が起きたのか、大ホールにはテロリストが現れてお客様の多数が亡くなられたと報道された。
私のセンパイも、その被害者の一人になってしまった。唯一その状況を見ていた私は、口を閉ざして、目撃者を探し出せなかったマスメディアは私に話を聞くことも無く、この事件は目撃者存在無しということで、すぐに世間から忘れられることになった。
でも、あれがテロリストなんてものじゃないことは私が一番良く知っていた。あんなのが、テロリストの所業であって良いはずが無い。何者かなんていうのは分からない。でもきっと、そうじゃなかった。
結局、国家公務員を目指していた私はその事件が、彼が名乗った“捜査官”という職業があまりに恐ろしくて、一般的な人が言うだろう“普通”の仕事に就職して、OLをして、時々セクハラなんかにも遭遇したりして、そしてごく普通の男性と結婚をして、私は普通の主婦になった。
あの事件から一〇年が経過した頃、テレビで“冒険者”と“捜査官”が取り上げられていた。
『冒険者という職業は本当に必要なのか?』
様々なコメンテーターが冒険者や捜査官という魔力生物を使役する職業に対して苦言を呈している中、天才子役とも言われている小学生の男の子が「僕は捜査官に助けられたことがあるので、彼らにはそのままいてほしい」と言って、それを中心にまた議論のような、罵倒が始まる。
「冒険者は、必要よね」
食器を洗っていた私の言葉に反応した旦那と、私もまた議論になりそうだ。
あの血の惨劇から一〇年が経った。
それでも、私は未だに思い出す。
あの日の血の臭いを、センパイの胸を貫いていた白刃を、私を安心させようと「これは夢だ」と言ってくれた彼らの姿を。
私は、きっとずっと忘れられないままだろう。




