60 光の先に
この存在は私が絶対にこの世から消さないといけない。
フィーネは魔法式を展開する。
誰の声も聞こえていない。
誰も見えていない。
脳を焼く怒りと衝動。
一面に展開する魔法式。
世界が白く染まる。
無数の稲妻が《黄金卿》に殺到する。
対して、《黄金卿》は魔法を起動することさえしなかった。
炸裂する轟雷。
地鳴り。
大地の強震。
白いもやのような煙がたちのぼる。
床材には黒い跡が残っている。
何かが焼けたような臭いがする。
フィーネは荒い呼吸を整える。
「そんな魔法で私を倒せると思ったか?」
息を呑む。
巨人に殴り飛ばされたかのような衝撃。
後方の壁にたたきつけられる。
破砕する地下の壁材。
口から漏れた唾液に、赤いものが混じっていた。
(なにこの魔法……)
フィーネが知らない魔法だった。
原理も魔法式構造もまったくわからない。
(重力を操作してる……?)
もやの中から現れた《黄金卿》の身体には傷ひとつついていなかった。
強い圧力にフィーネの身体がきしむ。
息ができない。
声にならない声が漏れる。
「お前たちは魔法の深淵を知らない。現代魔法などこの程度のものだ。」
《黄金卿》は言う。
「愚かしい……愚かしすぎて反吐が出る。無知で思い上がった愚民ども。魔法の表層しか知らないくせにすべてを知れるなどと勘違いしている。お前たちの魔法など無価値で取るに足らないものだと言うのに」
うんざりした表情で首を振る。
「私が生きていた頃の魔法は、はるかに高度で美しかった。お前たちには到底理解できないだろうがね。ただひとつ、あいつの魔法だけは美しさからほど遠いものだったが」
嫌悪と侮蔑に満ちた顔で続けた。
「あんなものはあってはならない。私が理解できない魔法などあってはならないのだ。徹底的に汚し、貶め、この世界から抹消しなければならない。あんな魔法など絶対に――」
フィーネがひとつの魔法式を起動したのはそのときだった。
身体が重力魔法から解放される。
地面に降り立ったフィーネは不敵に目を細めて言った。
「ありがとう。貴方が嫌がることを教えてくれて」
放たれた水の大砲は《黄金卿》の身体を跳ね飛ばした。
蹴られた石のように転がって静止する。
「なぜその魔法を……」
青白い顔でつぶやく夫人。
「私は《黎明の賢者》の一番弟子だから」
フィーネは言う。
「その人の魔法については誰よりもよく知ってるの。それが貴方の魔法より美しいってこともね」
「ちょうどいい。ここで証明してやる。あいつの魔法など私の足下にも及ばないということを」
怒りに目を剥く《黄金卿》。
二人の魔法が交錯する。
(幽霊さんが教えてくれた中でも、あの人の本質に近い魔法を――)
思い出されたのは過ごした時間のこと。
魔法を教わった日々。
二人で過ごした思い出がフィーネに力をくれる。
《黄金卿》の魔法はフィーネが見たこともないほど高度で力強い。
だけど幽霊さんの魔法は、その魔法の力を的確に削ぎ、取り込んで自らの力として逆用した。
幽霊さんの魔法が力を増す。
フィーネはすぐそばに幽霊さんがいるのを感じている。
(私の血の中に幽霊さんがいる。背中を支え、守ってくれている)
同時に、《黄金卿》だったものがどうしてそこまで幽霊さんを敵視するのかもわかったような気がした。
相性が悪すぎるのだ。
酸素を含んだ風を受けた火がその勢いを増すように、幽霊さんの魔法は《黄金卿》だったものの魔法を分解して自分の力にする。
どんなに力を強くし、叩き潰そうとしてもそれを利用してさらに幽霊さんの魔法は力を増す。
一人なら絶対に勝てなかっただろう。
だけど、今の私は大切に思ってくれた人に支えられている。
「なぜだ……なぜ……」
拮抗していたバランスが崩れ始める。
シオンにもらった魔力で使う幽霊さんの魔法は、《黄金卿》の魔法を跳ね返し、吹き飛ばした。
蹴られた小石のように転がり、静止する《黄金卿》。
「私はすべてを捧げていた。あいつより必死で努力した。悩んでいた。才能もあった。なのに、なぜ……!」
「貴方がどんな思いをして、何を経験をしたのか私にはわからない。でも、多分勝とうとしたのがいけなかったのよ。貴方は彼を誰よりもうまく支えられた。その意味で、貴方たちの魔法は最高の相性だった。勝つことにこだわる必要なんてなかったの。だって相手の力を引き出し、伸ばし、支えることができる。それって、単純な強さ以上に価値のあることだから」
しかし、フィーネの言葉は《黄金卿》だったものには届かなかったようだった。
「許さない……絶対に……!」
憎悪に満ちた表情を残して《黄金卿》だったものは消失した。
夫人の身体から力がすっと抜けて、眠っているような安らかな表情になった。
(いけ好かないやつだったわ)
彼が幽霊さんにしたことを思い出して唇をゆがませてから、深く息を吐く。
無事終わらせることができたのだ。
弟子として、幽霊さんの敵を討つことができた。
あとは、幽霊さんの指示通り特級遺物の暴走を止めればすべてが終わる。
(シオン様は大丈夫かしら)
幽霊さんの解析が終わるまでどのくらいかかるのだろう。
一度見に行ってもいいだろうか。
考えていたそのとき、フィーネの背後で何かが動いた。
それは人の身体だったが、その動きは獣のようだった。
速度に身体がついていっていない。
筋肉と腱を裂け飛ばしながらフィーネに向けて疾駆する。
「――――!」
反射的に魔法式を起動するフィーネ。
しかし、その何かの周囲でも魔法式が既に展開している。
交差する二つの魔法。
相殺しきれず一気に押し込まれる。
まばゆい光の奔流の先に見えたのは貴族男性――エルネス伯の顔だった。
「まさか……!」
「自らを霊体化し、他者の精神を破壊して成り代わる魔法。当然エルネス伯も私の支配下にある」
《黄金卿》は、口元を激しく歪ませて笑みを浮かべる。
「私に勝ったと思ったかあいつの弟子。ここまでは想定の範囲内だ。魔力も多くは残っていないだろう。私の魔法があいつの魔法に対して相性が悪かったとしても、この魔力量の差は覆せない。そして、なんという幸運だろう。私はここで希少な価値のある優秀な魔術師の肉体を得ることができる」
フィーネは背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
この人は私の精神を破壊し、肉体を自分のものにしようとしているのだ。
「楽しみだよ。あいつの魔法が私のものになる。最大限有効に活用させてもらう。傷つけ、破壊し、損なわせ、あの余裕ぶった笑みを絶望に変えてやる」
負けられない。
絶対に負けちゃいけない。
幽霊さんの魔法を傷つけるために使わせてはいけない。
しかし、フィーネの魔力はそのほとんどが失われている。
均衡が崩れ始めた。
交差する二つの光の奔流。
その交点が少しずつフィーネの方へと近づいていく。押し込まれていく。
高熱が出てるみたいに重たくなる身体。
かすむ視界。
喉が渇いた。
最後に何かを飲んだのはいつだっただろう。
ああ、意識が朦朧としてきている。
瞬間、光の奔流がフィーネの身体に直撃した。
衝撃と共に身体が宙を舞う。転がる。
白くぼやけた視界の中を、《黄金卿》がゆっくりと近づいてくる。
「死後の世界があるのなら、そこであいつに伝えてくれ。これからもっとたくさんの人間がお前の魔法の犠牲になる。全部お前が悪いんだ、と」
フィーネのすぐそばでかがみ込み、その頭に向けゆっくりと両手を伸ばす。
振り払おうとするが身体が動かない。
あの両手が頭に触れれば、私の意識は失われてしまう。
シオンさんとクロイツフェルト家はどうなってしまうのだろう。
次期公爵夫人がこんな怪物になってしまったとしたら、想像もしたくないようなひどい状況になるのは明らかで。
何より、身につけた魔法のすべてが利用される。
幽霊さんに死ぬよりもつらい思いをさせることになる。
そんなの絶対にいけないのに。
懸命に意識をつなぎ止めるフィーネ。
しかし、展開しようとした魔法式は形にならずに霧散した。
「終わりだ」
指先がフィーネの額に触れる――その刹那だった。
まばゆい光がすべてを染め上げる。
何の魔法なのかわからない。
その原理がフィーネには理解できない。
ただ、ひとつ明らかなことがあった。
この魔法は本当に――嫉妬してしまうくらいに美しい。
「残念だけど、死後の世界では会えないんだ」
透明の壁がフィーネを外の世界から守るように広がっている。
光の先に立っていたのは一人の魔術師だった。
ふわふわとした長髪。
ひだまりみたいにやさしい声。
「まだ生きてるんだよ、僕は」
その姿に、フィーネは泣きそうになる。
いる。
実体がある。
影がある。
言葉の響きが鼓膜を揺らしている。
離宮の地下に保管されていた三種の神器の一つ――星月夜の杖。
幽霊さんを実体に戻すことができるそれは持ち去られ、他の魔道具とともにこの場所にある。
暴走させるために起動していたそれを使って自分にかかっていた呪いのような魔法を解除した。
――だから今、幽霊さんが生きて目の前にいる。