52 薔薇の会2
十分後、レイラと合流したフィーネは細心の注意を払いつつ離宮の中に足を踏み入れた。
「私と同じ順番で挨拶をしてください」
小声の言葉にうなずく。
まずは王妃殿下から。
歩み寄ると、周囲の視線が集中するのが感じられた。
露骨に見るわけでは無いが、明らかに注視されている。
横目で見たり、聞き耳を立てたり。
試されているような気配がフィーネの身体を硬くする。
(落ち着け。最悪殴れば勝てるから大丈夫。冷静に……)
貴族女性としては明らかに間違っている考え方で自分を落ち着けつつ、フィーネは丁寧に、しかし目立ちすぎないように意識しつつ挨拶をする。
四十代中頃のその人には、普通の人と明確に違う何かがあるように感じられた。
錯覚かもしれないし、こちらが意識しすぎているだけなのかもしれない。
しかし、この人は王妃殿下であり、普通の人とはまったく違う人生を送っているのだ。
(とにかく、粗相のないように)
幸い、貴族社会における礼儀作法についてはある程度経験していたから、無難に合格点の挨拶をすることができた。
続いて、シュトラウス公爵夫人に挨拶をする。
六十代前半のその女性は姿勢が良く、一目で高貴な家の出自であることがわかった。
この場で王妃殿下の次に華やかなドレス。
言葉遣いも丁寧で、余裕と自信が感じられる。
しかし、その目は時折刃物のように冷ややかになった。
それに反応して取り巻きの人たちが、同じように冷たい目を向ける。
過去に何かあったのらしく、ひどく怯えた顔で挨拶している人もいた。
(たしかに目を付けられない方が良い相手ね)
続いてチャンドラー公爵夫人と、ラーソン侯爵夫人、エルネス伯爵夫人に挨拶をしていく。
レイラ様が先導してくれるおかげで、フィーネは滞りなく適切な順番で挨拶をこなすことができたようだ。
周囲のフィーネを見る目にも、『初めてなのにわきまえてるじゃない』という感心の色が混じり始めている。
加えて、クロイツフェルト家の次期公爵夫人という立場もフィーネのことを後押ししているようだった。
下手に手を出して良い相手ではないと認識されているのだろう。
《薔薇の会》は立食パーティーのような形で行われていた。
まずはシュトラウス公爵夫人が貴族女性の力でこの国をより良くしていきましょうと挨拶し、大げさなくらいの拍手が場を包んだ。
(あの人に気に入られれば、この場における地位が上がるから)
皆注意深く周囲の動向をうかがっているのが感じられた。
続いて始まった立食パーティーでもそれは同じで、有力な方の周りには人だかりができ、気に入られようと話しかける姿が見える。
対照的に、誰にも話しかけられずに浮いている方もいた。
「あの窓辺にいる方は?」
小声で聞くと、レイラ様は言った。
「ラドール侯爵夫人です。王太后殿下に気に入られ、長年《薔薇の会》の主導的立場を担っていたのですが、殿下が王宮を離れたことでシュトラウス公爵夫人派閥から追い落とされまして」
「なるほど。そういう経緯が」
少し心細そうだけど、負けることなく気丈に振る舞っている。
アウェーであることがわかった上で来ているところを見ても、負けん気の強い方らしい。
(負けずにがんばってほしい)
心の中で応援する。
他にも、明らかにこの場から浮いている方が何人かいた。
中にはひどく怯えているように見える人もいる。
「あの人は?」
「レンブラント伯爵夫人です。元々は男爵家の方で、数ヶ月前にご結婚なされて《薔薇の会》に参加するようになったのですが、とても緊張しやすい方みたいでシュトラウス公爵夫人への挨拶で少し失敗をしてしまいまして」
「失敗?」
「つまづいて、夫人のワイングラスを零してしまったんです。夫人が着ていたドレスはワインで水浸しになってしまいまして……」
「それはさぞ地獄のような空気になったでしょうね」
「ええ。それはもう……なんとかフォローしてあげたかったのですが、公爵夫人派閥の方に完全に目を付けられてしまってまして」
所在なさげに視線をさまよわせ、一分おきに時計を見つめている。
目元には赤い腫れがあり、腕にはかきむしったような跡があった。
幽霊さんが言っていた泣いたり吐いたりしていた子の一人なのだろう。
どんな様子だったか確認したかったけど、挨拶を終えたところで『気になるものがあるから』と幽霊さんは会場の奥に行ってしまっていた。
(私が心配じゃなかったのか)
唇をとがらせる。
興味があるものを見つけたら、調べずにはいられない研究者気質なところがある幽霊さんだ。
(多分、私の挨拶を見て大丈夫だと判断してくれたのだろうけど)
そう考えると信頼されているみたいで悪い気はしない。
(幽霊さんを実体に戻せるかもしれない魔道具に近づくために、王妃殿下とお話ししたかったのだけど)
しかし、王妃殿下には有力な貴族女性たちが我先にと声をかけていて、落ち着いてお話なんて到底できそうにない。
であれば、宰相様が言っていた悪巧みをしている高位貴族の女性を探ろうと思ったのだけど、そういう人たちも人気があってなかなか声がかけられそうにない。
ラドール侯爵夫人なら話せそうだけど、シュトラウス公爵夫人派閥の人たちから睨まれそうだし。
下手に動くと、今後の情報収集に支障が出る可能性がある。
(仕方ないから諦めてパーティーのお料理を食べましょう。うん、これはやむを得ない判断なのよ。決して私が食い意地が張った貧乏性というわけではなく、自らの幸福を追求する上で理性的かつ合理的な判断で――)
目立たないよう意識しつつ、並べられたお料理を素早く口に運ぶ。
驚きだったのは、誰も料理に興味を持っていないということだった。
こんなに美味しいお料理なのに、みんな視界に入っていないみたいに話すことに集中している。
(信じられないわ。私なんて小箱に入れて持ち帰りたいくらいなのに)
肩をすくめつつ、ローストビーフを食べる。うまい。
不意に聞こえてきたのは、声を潜めて話す貴族女性の声だった。
その会話は小さな声で行われていたけれど、山中で魔物を狩るのを日課にしていたフィーネはかすかな音の響きを聞き取ることができた。
「――しちゃったらどうかしら」
「男爵家の方の癖に調子に乗ってたものね」
くすくすという笑い声が聞こえる。
(男爵家の方ということは、おそらくレンブラント伯爵夫人。公爵夫人に粗相をして浮いている彼女に何かするつもりであるように見える)
元々レンブラント伯爵夫人を疎ましく思っていたのだろう。
(とはいえ、私は正義の味方じゃないし助ける義理もない。今は波風立てずにこの場に馴染むことの方が大切か)
静観することを決めるフィーネ。
ひそひそ話していた貴族女性の一人がワインを手にレンブラント伯爵夫人に近づく。
次の瞬間、真っ赤なワインが伯爵夫人のドレスを濡らした。
「ごめんなさい! 私ったらなんてことを」
わざとらしい演技で言う。
「拭くものを取って来ますわね」
伯爵夫人は撃たれたような顔をした。
空気が一瞬しんと冷えて、すぐに元通りのそれに戻った。
みんな何事もなかったかのように談笑していた。
誰も伯爵夫人に声をかけようとはしなかった。
下手に動けば、公爵夫人派閥の人たちに睨まれる可能性がある。
自分の立場が危うくなるかもしれない。
だから動かない。
助けない。
伯爵夫人はひどく心細そうに見えた。
たくさん人がいるのに、世界中でひとりぼっちでいるよりも孤独であるように見えた。
ああ、気持ち悪い。
全部どうでもいいと思った。
地位とか派閥とか本当にどうでもいい。
「大丈夫?」
歩み寄って声をかける。
レンブラント伯爵夫人は怯えた表情で瞳を揺らす。
何かされると思ったのかもしれない。
「行きましょう。シミになる前に綺麗にしないと」
手を引いて、会場の外に出る。
《薔薇の会》での立場は悪くなったかもしれない。
だけど、そんなことよりずっと大切なものを守ることができたような気がした。






