4話7日目音の荒波
その日、淵川警察署はあわただしかった。
0時から現時刻14時までの間、定期的に不可思議な通報が入っているからだ。
「朝、知らない女性がベッドで寝ていた」「父親だと名乗る10代くらいの女性が家に入ってきた」などの通報にとどまらず「突然女性になってしまって、どうしたらいいかわからない!」とヒステリックに泣き叫ぶ電話さえあった。
まったくもってどうしていいかわからない!
……と思っているのは警察も同じである。
早馬正義の所属する生活安全課も「音狐田高等学校佐藤少年少女化事件」に翻弄されていた。学校の職員室ほどの大きさの部屋で電話の音が朝からずっと鳴り響いているのだ。
「早馬さんったら、なーんで黙っちゃってたんですかぁーっ!?」
電話の音より大きな声をあげ、金井チカは上司の早馬正義に問い詰めた。「なんで黙ってたんですか!」といったキツイ問い詰め方ではなく「なーんで黙っちゃってたんですかぁーっ!?」という風変わりな問い詰め方をしているが、これは彼女らしい言動である。
金井チカは美少女ではない。
……失礼。語弊がある表現になってしまった。年齢は20代~30代。「何歳に見えますかぁ~?」と質問されたら「20代前半くらいかな?」と答えておくのが無難であろう。美少女というよりは元気なお姉さんといった女性なのだ。
そんな彼女が早馬正義を責める理由は、正義の息子、早馬駿が女の子になっていた件についてだ。
9月28日に大山に「女性になりますよ」と意味深なことを言っておいてなにも説明をしていなかった早馬正義のことを、金井チカは問い詰めていたのである。
椅子に座り話し相手を見上げている早馬正義と、正義の前に立ち頬を膨らませプンプンしている部下の金井チカの構図は「上司と部下の立ち場が逆転しているのでは?」と思わなくもない構図だがこれは仕方のないことなのだ。9割プラス1割ほど早馬正義が悪いであろう。そこに正義はあったのか。
と、まぁ劣勢な状況の正義であったが、しかし、ここは毅然とした態度で臨まないといけない。
警視の大山がどういう訳か人生初めての無断欠席をしている今日、生活安全課のトップは警部の早馬正義なのだ。
「息子が女性になった、性転換手術を行ったわけではなく、ある日目を覚ましたら息子が女性になっていた……と数日前、まだ誰も女性化していない段階で言って金井さんは信じてくれますか?」
早馬正義は、目の前で「うぅ~」と唸り声をあげている部下のポメラニアン、もとい、金井チカをなるべく刺激しないように極めて冷静に、紳士的に説得しようと試みた。
「それは……その……でも場合によるじゃないですか!」
どんな場合だろうか。こういう時、早馬正義は無言で考え込んでしまう。
周囲は電話の音やパソコンを叩く音や仲間の悲痛な叫びといった「音の荒波」が立っているが、彼だけは2秒、3秒、4秒……と沈黙の深海へと深く深く潜っていった。早馬正義は理屈で物事を考える。一方、金井チカは感情を言葉にする。そもそも理屈でないことを理屈で説得しようとしているので、彼女の心を打つ言葉が出てくることはないのだ。
この沈黙を破ったのは金井チカ……ではなく、生活安全課にコケそうな勢いで入って来た同僚であった(ちなみにチカは「うぅ~?」と疑問形の唸り声をあげながら前のめりに早馬正義の顔を凝視していたところであった)。
「早馬さん! 署長が呼んでます! 第二会議室です」
「ん? あっ、ああ! すぐ行く!」
「助け船か?」と正義が考えたかは定かではない。とにもかくにも、早馬正義は、さっと立ち上がり、90度ぴったしに腰を曲げ、金井チカに謝り、キュッと革靴の音を鳴らしつつ180度回転し、早歩きで生活安全課から去っていったのであった。
* * *
淵川警察署は外見はオフィスビルと遜色のない外見だが、中身はというと今時のオシャレなオフィスという訳ではない。公務員の職場というのは簡素なものである。
プロジェクターにホワイトボード、飾り気のない長机に椅子を並べれば会議室の出来上がり。ここ第二会議室も例に漏れず、よくある公務員の会議室であった。机の上には1台のノートパソコンに1冊の手帳。そして、ペン。椅子には2人の人物。署長とパソコンを扱う若い職員の2人だけが座っている。
署長は60前後だろうか? 白髪交じりの中肉中背。勿論美少女ではない。人は見かけによらぬというが、署長はというと見かけの通りパソコン操作が苦手なようで、隣にいる眼鏡をかけた男性にパソコンの操作を任せているようだ。
眼鏡をかけた男性は――いい加減しつこいと思われるかもしれないが――美少女ではない。
「お疲れ様です。早馬さん」
眼鏡をかけた男性が、たった今会議室へと入ってきた早馬正義に向かって一礼した。
それに対して正義は「ああ」と一言返しただけで、そのまま署長の正面の椅子へ座る。几帳面な正義にしては随分と乱暴な対応であるが、それだけ気心のしれた間柄なのだろう。
「やぁ……ははっ、大変なことになっているね」
署長はハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。10月である。室内で汗をかくほどの室温はない。ただ、芝居ではなく本当に汗を拭っていた。この汗は緊張によるものであろう。
「キミも大変だろう。大山君が――」
「署長、どのようなご用でしょうか?」
正義は署長の話を遮った。
「失礼を承知の上で……今は世間話をしている場合ではありません」
大山が休みを取っているという話が世間話に当たるかどうかはさておき、正義は話の核心に早く迫りたいのであった。こうしている間にも淵川市のどこかで誰かが美少女になっているかもしれないのだ。
正義はてっきり、第二会議室で美少女化について全体会議を行うのではないかと考えていたのだ。
今日の一日は普段の一日とは違う。今日、誤った選択をすれば一生後悔する結果になりかねない。否、もうすでに誤った選択をしているかもしれない。時間はもう14時を過ぎている。不確かで信じられないような情報を世間に発信すべきか、或いは混乱を避けるため今はまだ世間への公表はすべきではないのか、署としての方針はどうするか? 警視庁の方針はどうなっているのか? 確認すべきことは山ほどある。
そんな状況で「そうなんですよぉ~。大山さんが休んでしまって大変で大変で」などという会話は無用ということだろう。もっとも、そう言った理屈の通じない相手、金井チカにはたじたじであったが……
「あ、ああ、そうだったな。ははっ……」
署長は無能ではない。すぐさま隣の若者へ目配せをし、会議の趣旨を説明するように促した。
「では、本題へ」
パソコンを操作していた男はプロジェクターにパソコンの画面を映した。そこにはホワイティブロンドの髪をした10代くらいの女性が映し出されていた。ただ、彼女を観て「今回の美少女事件の被害者か?」と感じる者は少ないだろう。見栄を張るわけでもなく、自然体のままブランド物の服を着こなし、緊張もせずに落ち着いた視線をモニターに向けている。
「はじめまして、早馬正義さん。私は公安第七課第一公安捜査部のリリィ・キャンベルと申します」
リリィと名乗った女性は、ホテルかマンションの一室にいるようだ。早馬正義は黙っていた。相手が自分の名前を知っており、わざわざ会議室へ呼んだのだ。名乗る必要はないと考えたのであろう。
「さて、早馬さん。単刀直入に早馬駿くんの話を聞きたい」
リリィはさきほどの自己紹介とは打って変わってざっくばらんな口調になった。
金井チカのような感情をぶつける話し方ではなく、署長のように回りくどくもない。こういう相手の方が話が早い。早馬正義はそんな目で彼女のことを見ていた。




