16話4日目発芽4
「はい」
ベンチに座る早馬駿にスポーツドリンクを差し出す。
「サンキュー」
笑顔で受け取った駿がペットボトルのキャップを開け、スポーツドリンクを差し出した主に疑問を投げかける。
「あのさぁ、乙守ってジュースおごってくれんの初めてだよねー?」
「え!? そ、そんなことないよ!」
スポーツドリンクを手渡した主、乙守楽人はお茶のキャップを開けつつ、駿の隣に腰掛けながら反論した。
「じゃ、いつおごってくれた?」
「え? っと~、小学生の時かな?」
「小学生のいつだよ」
「覚えてないよ」
「納得いかない……乙守ってオレがか……オレの顔を見ておごったでしょー!」
駿は口を尖らせた。
「そんなことはないけど……今なんて言いかけた?」
「なにが?」
ややイラつきを表に出した様子で駿は聞き返した。わざと不快な表情を浮かべているようにも思える。余計なことを聞くな、とでも言うかのように。
その駿の表情を見て、楽人は気持ち悪い笑みを浮かべた。この笑みはススキの笑みではなく、トムソンガゼルの笑みでもない、蛇がヒヨコを狙うかのような笑みである。
「今さぁ、『オレが可愛いから』って言いかけた?」
「なっ!?」
ヒヨコは隣にいるのが蛇だと気づき、思わず飛び跳ねた。ただ、残念なことにヒヨコは飛べないのだ。ベンチから立ち上がるのが精々である。
「おおおおおおまえなぁ!」
もう駿はただの女の子である。公園でベンチに腰かけている制服姿の楽人と、ベンチから立ち上がりパーカーに黒帽子の姿で慌てている駿のことを、何も知らない第三者が見たら、カップルの微笑ましい光景だと思ってしまうだろう。
「早馬って女の子なの? 身体も」
「はぁ、なんだよそれ!」
彼女は空を薙ぎ払うかのように手を大きく横に振った。反動でパーカーが大きく舞い、白いTシャツがあらわになる。
一瞬。本当の一瞬であったが、Tシャツの上から胸の膨らみが見えた。
ゲームの達人は1フレーム――60FPSの場合1/60秒――の時間を感じ取ることができるという。例えば、特定の1フレームの間に入力すると発生するバグを100パーセントに近い確率で再現できるのだ。
乙守楽人はゲームの達人ではない。彼は美少女ゲームやソーシャルゲームを嗜む程度のプレイヤーであり、シビアな入力を求められるゲームのスキルはそれほど高くない。
だが、この日、この時、この瞬間だけ彼はゲームの達人と同等の目を持った。
ジップパーカーの影から白いTシャツが現れ、胸の辺りにぷっくりとした張りのある小さな山が見える。元々は男性の早馬駿のTシャツなので、そこそこサイズに余裕はあるはずだが、それでも胸の形がわかる程度には胸の辺りが膨らんでいた。
「うっ」
早馬駿は、蛇のぬめるような視線が胸にまとわりついている不快感を覚え慌てて胸を隠した。
「ブラジャーしてないの!?」
「してるわけないよぉ!」
両手で胸を隠しながら、目を「><」の字にして彼女は否定した。
ガバッ!
ジョギングコースを挟み、向かいのベンチで寝ていた会社員が勢いよく起き上がり、こちらを凝視している。心なしか目が血走っているようにみえる。
楽人と駿は会社員の方を見た。駿はベンチに座り、不安そうにパーカーでTシャツを隠す。
「……」
「……」
アニメ的な表現がこの世にあるならば、会社員を怪訝そうな目で見る楽人と駿の後頭部に一粒の汗マークが表示されていたであろう。
会社員は平静を装いゆっくりとベンチに仰向けになり、再び眠りについた。彼は会社に行っているのだろうか? と、余計な詮索をしても仕方のないことである。
「はぁ……」
2人は同時にため息をついた。あまりにも同時だったので、思わず顔を合わせる。
「ぷっ、あははっ」
「早馬は可愛いよなぁ」
「な、ななな、何を言い出すんだよぉ!」
「当たり前のことを言っただけじゃん。えへっ」
ゾゾゾという効果音をもちろん聞くことはできないが、駿の背筋がゾゾゾと波打った。
「オ、オレはなぁ!」
ブゥーブゥー♪
駿は何かしら言いかけたが、携帯電話が鳴ったため着信表示を見た。
ピッ♪
そして、電話を切った。
「無視無視」
「おじさんから?」
「まさかぁ、おふくろだよ」
駿が「まさかぁ」と否定した理由はわからない。駿の父親からは電話がかかってくることがないのであろうか、または、駿の父親だったら電話を無視することはできなかったのだろうか。
「抜け出してきちゃってさ。ほら」
早馬駿はベンチに座りながら足を前に出した。濃紺のジーンズの先に汚れた靴下が見える。彼女は靴を履いていないのだ。
「黙って来たの?」
「家から出るなってさ」
「えっ……?」
楽人は少し驚いた様子であったが、状況を理解したようだ。ヒヨコを狙う蛇の目から、プレーリードッグを労わるトムソンガゼルの目へ変わっていく。尚、プレーリードッグとトムソンガゼルは生息地が異なる上に、実際に野生のトムソンガゼルがプレーリードッグを労わるかどうかは定かではない。
「そういえば、早馬って女の子になっちゃったんだよな……」
今更である。
今更であるが、別にふざけた様子はない。楽人はお茶を飲み考え込んでいる。
「……」
駿は楽人のことをちらりと見、彼と同じようにスポーツドリンクを飲み、考えこむように黙ってしまった。
2人が静かにしていると、小鳥たちの鳴き声や、芝生の草切れを運ぶ風の音、ジョギングをする人の足音といった様々な音が聞こえてくる。
空に浮かぶ小さな雲が太陽を隠し、再び太陽が顔を出す時に――
「「あ、あのさ」」
ほとんど同時に視線を友人に向け口を開いた。2人は恥ずかしそうに俯いた。「こういうのって彼女とのシチュエーションだよね」と、2日前に言ったことを思い出しているのかもしれない。今日は男性と女性なのだ。意識したくなくても意識してしまう。
「父さんが……父さんも女の子になってた」
先に口を開いたのは楽人であった。
「うん……」
駿は小さく頷いた。
「驚かないんだ」
「電話をした時家にいたじゃん」
「あっ」
2人の会話はこれだけで伝わるのだ。乙守楽人が遅刻確定の時刻に家にいるということは、病気、もしくは何か普通ではないことが起きていたということになる。2日前に父親と早馬駿の声が変わり、今日、駿と同様に普通ではないことが起きたならば、楽人の家で何が起きていたかは自ずと想像がつく。
駿はスポーツドリンクを一口飲み、話を続けた。
「朝、最悪だったんだよぉ……オレが早馬駿って信じてもらえるのに1時間かかってさ。……実の息子なのに」
「そっか……」
再び、2人は黙り込む。
ブゥーブゥー♪
再び駿の携帯が鳴る。
「おふくろ……親父に電話しやがった」
「出ないの?」
「うぅ……」
「なぁ、出た方がいいんじゃないの?」
「うぅ~ん……」
「誘拐されたと思われたらどうするんだよ」
「誰が」
苦笑いしながらも、スマホを真剣な眼差しで見た。
ピッ♪
「もしもし……」
どうも母親からの電話は無視できるが、父親からの電話を無視し続けるのは勇気がいるようだ。駿は父親と通話を始めた。
「ああ、大丈夫だよ。……うん。……公園」
彼女は楽人の方をちらっと見て人差し指を口元に当てた。「静かに」という仕草である。
「うん、一人。……は? なんで家の中にいなくちゃならないんだよ。……恰好がなんだって? ……心配? 親父は心配なんかしてないでしょ! 世間体を心配しているだけでしょ! ……もう切るよ? ……警察? 知らないよぉ!」
ピッ♪
駿は強引に通話を切った。心配そうな目で楽人は駿の横顔を見たが、駿は地面をじっと睨みつけ楽人の方を見向きもしない。
「早馬……」
「くそっ!」
駿はまだ中身の入っているペットボトルを地面に叩きつけた。ペットボトルはスポーツドリンクを苦しそうに吐き出しながら芝生を2転、3転と回転しジョギングコースへと転がった。
乙守楽人はフクロウが豆鉄砲を食ったような顔で目を見開きフリーズしている。駿はようやく楽人との方をちらりと見た。楽人は何も言えず、2回瞬きをするのが精いっぱいであった。
「……ごめん」
彼のリアクションで彼女は冷静さを取り戻したのか、ボソリと呟いたのち、ベンチから立ち上がり、ジョギングコースに転がっていたペットボトルを拾い上げた。
「はぁ……」
駿は肩を落としベンチに腰を下ろした。
(なにこれ、気まずい)
駿にかける言葉が見つからない。
口を閉ざす駿も口元が波打ち、目が泳いでいる。彼女も気まずさを感じているのかもしれない。
だが、お互いどうすればこの気まずさを打破できるのかわからない。楽人はスマホに助けを求めるかのように、スマホを起動した。「ちょっとスマホに用事があるから会話をしていないだけだよ?」という言い訳を心の中でしていたかどうかは定かではない。
メッセージアプリを開いた時、今朝自宅で見たメッセージを思い出した。
「は、早馬、そういえばさぁー、これ」
気まずい空気を明るい調子で消し去ろうとした楽人は、結局声が裏返ってしまい、ぎこちない話し方になってしまった。ただ、そこは重要ではない。駿もこの空気が続くのは本意ではないようだ。
「エ? ナニナニ?」
彼女もぎこちなく答え、公園の澄み切った青空のような空気を目指し、奮闘する。幸か不幸かぎこちない空気はすぐに消え去ることになる。目の前の画面には恐ろしいメッセージが表示されていたからだ。
「これって……」
早馬駿の表情は瞬時に曇った。楽人はぎこちない空気を消し去るのに成功し、駿は青空のような空気を目指すのに失敗した。




