13話4日目発芽1
2018年9月28日6時45分。
薄暗い部屋に雨森雨音のボイスが響き渡る。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
「う~ん……」
「起きてくださピッ」
カーテンからは外の光がわずかに入り、雀の鳴き声が聞こえる。タブレットの中はいつも雨空なのだが、団地の外は清々しい青空だ。今日もいつもの1日が始まる。
否、4日前の夜から日常ところにより非日常の毎日になっている。降水確率ならぬ、非日常確率は20パーセントくらいだろうか?
昨日、9月27日木曜日はそれほど大きな出来事は起きなかった。大きな出来事と言えば、これまで小学生時代も含め一度も休んだことのなかった駿が学校を休んだくらいだろうか? 他には風邪が蔓延しているらしく、クラスメートの綾野千里も風邪でダウンしたようだが、これは大きな出来事ではない。日常的な出来事である。
「おはよう! 雨森タン♪」
日常の中に非日常が混ざったとしても、日常の習慣は変わらないものだ。楽人はいつものようにタブレットの中の少女に挨拶をする。雨森タンに起こされるようになってから、ずっと欠かしたことのない習慣である。
「……よ」
「壊れたかな?」
ただ、どうもここ2日、3日タブレットの調子が悪い。時々ノイズ混じりの音が入る。楽人はベッドから身を起こしたままの状態でタブレットに耳を当てた。
「ぬぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!」
「ん!?」
突然の女性の叫び声に思わず楽人はタブレットを落としそうになった! 声はタブレットから聞こえたわけではない。団地の外から……というわけでもなさそうだ。となると……? 彼は壁に左耳を当て叫び声の正体を掴もうとした。
「…ら……よ……」
「ん!?」
今度は、か細い女性の声が室内から聞こえてくる。楽人は肩をびくっと震わせた。この声はタブレットから聞こえてくる声か。彼は壁から左耳を離し、恐るおそるタブレットに右耳を当てた。
「……にぃ」
「んん!?」
さらに今度は、別の女性の声が聞こえてくる。
ワケがわからない。楽人はタブレットから右耳を離し、再び壁に左耳を当てようとしたところで気づいた。壁に左耳を当てながら、タブレットに右耳を当てればいいのだ。というわけで、楽人の顔は壁とタブレットに挟まれた。
「おにぃ! ……ってなにしてんの?」
部屋のドアが開き制服姿の風凛が入ってきた。先ほどの「……にぃ」の声の正体は妹の風凛であった。妹がノックもなしに部屋に入ってくる確率は55パーセントくらいかもしれない。と、楽人は心の中であまり意味のない確率の上方修正を行った。
「大変なの! 早く来て!」
「それどころではない」というところだろうか。楽人が何をしていたかなどこれ以上興味を示さず、妹は部屋から出て行ってしまった。あとに残されたのは、妹にベッドから起こしてもらおうと、左手を差し出した兄の空しい姿であった。
* * *
楽人がパジャマ姿のまま、顔も洗わず、一直線で広さ18畳のリビングダイニングキッチンへ向かうと、そこには赤い女神がいた。
リビングダイニングキッチンは横長の部屋になっていて、入り口正面がリビング、右手側にダイニング、その奥にキッチンという造りになっている。リビングからダイニングまでは、バルコニーへつながるガラス戸があり、ガラス戸にかけられたレースのカーテンから太陽の光が差し込んでいる。
リビングのガラス戸のそばで腕組みをし、外を見つめる女性は日の光で神々しく輝いており、楽人に女神を連想させた。
目を凝らすと彼女の横顔には深い古傷が見えるが、その傷は決して彼女の美を損なうものではない。紺色の質素な浴衣、鋭い眼光、古傷……それらの要素が、数々の戦を生き抜いてきた女性武将のような雰囲気を醸し出し、彼女の魅力となっているからだ。
腰まで伸びた赤い髪は乱暴に束ねられ、日の光を浴び輝きを放っている。
可愛いさは微塵もない、近づきがたき美しさを持つ女性であった。
「美しい……」
なので、楽人が思わず、このような当たり前でつまらない感想を漏らしたのも無理はない。
「ああ?」
彼女は楽人の感想が不服だったようだ。
「おにぃ、ねぇ、おにぃ」
楽人は入り口からリビングのソファー越しに窓際に立つ赤い女神を見つめていたので、気づくのが遅れてしまったが、リビングダイニングキッチンの右手側には、妹の風凛と母親の陽莉がいた。
「あのね」
「誰?」
楽人は妹の質問を待たずに赤髪の女性を指差し質問した。
「ほら!」
妹は母親の方を向き「ほら!」と言ったが、妹の「ほら!」の意味がわからない。
「楽人。ぷぷっ、お父さんの……くくっ、顔を……忘れたの?」
母親が笑いをこらえながら要領の得ない質問をしてくる。
「いや」
当然、楽人の答えは「いや」なのだが……ここで疑問が湧いてくる。なぜ母親は笑いをこらえているのだろうか?
どうも母親の陽莉はズレたところがある。トラブルが起きた時に心配事よりも、面白い事ととらえる傾向がある。楽人も母親の血をついでいるのか、そういった『少しズレた楽天家』という面を持っている。だからこそ彼は母親が笑いをこらえていることに嫌な予感がしてしまう。
実は赤髪の彼女が着ている浴衣は心当たりがある。
楽人は背中を、たくさんの殻の持たないカタツムリ的な生き物がはっているような気持ち悪い感覚にとらわれた。
「ごめん、寝てくる」
「おにぃ!?」
兄は踵を返し、自室に戻ろうとした。が――
「おにぃ?」
引き留めようとした妹の方を振り向いた。
「夢……なんだよな?」
「夢じゃないよ!」
「なら痛みを感じるはずだ! 夢じゃないなら、せめて、風凛に引っぱたいてほしい!」
「せめてって何!? 意味がわからないよぉ!」
本当に意味がわからない。自分で自分を引っぱたくのは痛いが、妹に引っぱたかれるならご褒美になるとでもいうのだろうか? そうであるなら、ただのヘンタイである。
「おぃ!」
赤い武人が音も立てず風のように楽人に近づいていた。
「ひぃっ!」
楽人の近くまで彼女が近づいてきて気づくことだが、彼女は楽人より少し背が高い。175cmくらいだろうか? 彼女は楽人の胸倉をつかみ顔を引き寄せる。少し間違えれば口と口とがくっつくくらいの距離である。
「私が……誰だか……わかるか……?」
ゆっくりと、一言ひとこと呼吸をするようにゆっくりと、彼女は楽人に問いかける。この零距離で問い詰められる感覚を楽人はよく知っている。ただ、今回は少し違う。否、大分違う。
「えへっ」
「ぬぅ?」
「チチは……チチはなんて素晴らしいんだ……!」
「父は素晴らしい」特に不自然な言葉ではない。楽人は日ごろから父親を尊敬しているし、素晴らしいとも思っていることだろう。ただ、楽人は父親を「父さん」と呼ぶ。父親を「父」と呼んだのは高校の面接の時ぐらいしかない。しかも、彼女に対して「父は素晴らしい」と言うのも唐突である。
「えへっ」
さらに、彼は気持ち悪い笑みを浮かべている。そう、今、楽人の胸は幸せの絶頂なのだ。
「ぐっ……ぬぅ……!」
彼女はすぐに楽人から離れた。そう、彼女の胸は大きい。楽人の胸倉をつかみ、零距離まで彼を引き寄せれば、プニプニした胸が当たってしまうのだ。
「なんだ、これは……忌々しい……」
彼女はキッチンへ一直線へ歩いていく。
「お父さん?」
母親の陽莉が乳を心配そうに――
否――何を書いておるのだ。
乳ではない!
陽莉は彼女のことを今たしかに「お父さん」と呼んだ。これはどういうことだろうか? 乳ではなく、父とでも言うのだろうか? 乳があるのに。
地の文が混乱している間に、「お父さん」と呼ばれた彼女はキッチンから包丁を取り出した。
「お父さん!」
「なにしてんの!?」
さすがにズレてる陽莉と言えども、包丁を持つ推定藍鬼男性41歳乙守整骨院院長の彼女――長いため以下、藍鬼、または父親、または彼女などと呼ぶ――を見ると心配せざるを得ない。
陽莉が、風凛が、楽人が、彼女のそばへ駆け寄る!
「こんなもの……斬る!」
「そんな! 切腹……切乳になっちゃうよ!」
楽人が叫び、父親の手を掴む。だが、彼女は女性になっても楽人より力が強い! 楽人は押し負け、包丁が藍鬼の胸にジワリジワリ近づいていく。
「セッチチ……? 切……乳……」
意味を理解して風凛の顔が真っ青になる。……がすぐに青くなって固まっている場合じゃないと思ったのか
「イヤーー! 切乳なんて痛いに決まってるよ! やめてー!」
と、風凛が泣きながら悲痛な叫び声をあげる!
だが、包丁は緩まない!
ついに、父親である彼女の胸に包丁が触れる!
と、その瞬間いつもマイペースの陽莉が叫んだ。
大きな声で叫んだ。
両隣の部屋に響くくらいの声で叫んだ。
「お父さん! やめなさいって! あなたオッパイ好きじゃない!」
どさくさに紛れて母親が子供たちの前でヒドイ暴露をする。
「ぉ……!」
赤髪の女神の顔が赤くなる。可愛さを微塵も持ち合わせてないと思われた気高き武神は、しょうもない一言で一瞬のうちに戦闘不能になった。楽人はその隙を逃さず、藍鬼から包丁を取り上げた。まったく抵抗せずフリーズしてしまった彼女から包丁を取り上げるのは、文字通り朝飯前であった。




