第18話
朝。
風月の鐘亭は、今日も忙しかった。
――けれど。
あの時の、ほんのわずかな違和感は、まだ消えていない。
風車の、あの“ズレ”。
確信はない。
でも――忘れられない。
「琥珀!そっちお願い!」
「はーい!」
元気な声が、すぐに返る。
「お客さん、お待たせしました!」
笑顔で皿を置く。
旅人が「ありがとう」と笑う。
そのやり取りに、もうぎこちなさはない。
――馴染んでいる。
完全に、この街の中に。
「……こちらでお会計です」
ラファもまた、落ち着いた声で対応する。
「助かるよ、嬢ちゃん」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
その姿も、もう違和感はない。
――けれど。
ほんのわずかに。
何かが、ズレている気もした。
「琥珀、こっち掃除だよー!」
「え、もう!?」
慌てて駆け寄る。
そのまま勢いよく――
ガシャン!!
「……あ」
皿が、綺麗に崩れた。
一瞬の静寂。
「……やったねえ」
マーレが腕を組む。
「ご、ごめんなさい……!」
「ほら、ぼーっとしてるからだよ」
でも声は、どこか優しい。
「でもね」
少しだけ、笑う。
「前よりずっと良くなってる」
「……ほんと?」
「ああ。ちゃんと見てるよ」
その一言に、琥珀の表情がふっと緩む。
「……へへ」
その横で、ラファが淡々と告げる。
「同様の事故が、過去三日で三回確認されています」
「言わなくていいの!」
「事実です」
「うぅ……!」
くすりと笑いが起きる。
――ここに、居場所がある。
それが、自然に分かる。
⸻
昼を過ぎて、ようやく一息ついた頃。
「さてと」
マーレが二人を呼ぶ。
「今日はよく働いたね」
「はい!」
「……問題なく、業務は完了しています」
「そうかい」
満足そうに頷く。
「じゃあ、今日は少し休みをやろうかね」
「ほんと!?」
琥珀の目がぱっと輝く。
「やった……!」
「ただし」
マーレが指を立てる。
「明日からはまたしっかり働いてもらうよ?」
「はい!」
「問題ありません」
「元気でよろしい」
⸻
「ねえラファ」
外に出ながら、琥珀が言う。
「せっかく休みもらえたしさ」
振り返る。
「街、もっと知りたくない?」
目が、きらきらしている。
「……情報収集は有益です」
「でしょ!」
「ただし、無計画な行動は推奨されません」
「そこは一緒に考えようよ!」
「……了解しました」
「やった!」
⸻
「マーレさーん!」
戻ってくる琥珀。
「この街で、調べたりできる場所ってある?」
「……ライブラリーかね」
「ライブラリー!」
ドワーフのおじいさんも言っていた場所だ!
「昔はよく使われてたんだけどねえ」
少しだけ、遠くを見る。
「最近はあんまり行くやつもいなくなったよ」
「どうして?」
「さあね」
肩をすくめる。
「ただ――」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「必要なやつには、ちゃんと価値がある場所さ」
「……行ってみたい」
琥珀が、小さく呟く。
「いいよ」
マーレはすぐに頷く。
「場所は教えてやる」
⸻
「……あ」
ふと、マーレが止まる。
「いけないね」
「どうしたの?」
「今日、あたし当番だったんだよ」
額に手を当てる。
「せっかく休みやったってのに、悪いねえ」
少しだけ、申し訳なさそうに笑う。
「もしよかったらさ」
「はい」
「ライブラリー、先に掃除だけ頼まれてくれないかい?」
「掃除?」
「ああ」
「建物は当番で手入れしてるんだよ」
「終わったら、好きに見てきていいからさ」
少しの間。
「……やります!」
琥珀が、ぱっと顔を上げる。
「どうせ行くなら、ちゃんとした状態で見たいし!」
「いい心がけだ」
マーレが笑う。
「任せたよ」
「はい!」
⸻
夕暮れ。
ライブラリーの中は、思っていたよりも広かった。
けれど。
「……」
今日は、掃除だけで精一杯だった。
埃を払い、床を整え、
気づけば日が傾いている。
「ふぅ……」
琥珀が、肩を回す。
「疲れたねー」
「労働負荷は平均値を上回っています」
「それ遠回しに疲れてるってことだよね?」
「はい」
「素直だなぁ……」
くすっと笑う。
少しだけ、静けさが落ちる。
「……掃除だけで、夜になりそうだね」
「後日、再訪を推奨します」
「うん」
頷く。
「今度、ちゃんと来よっか」
その声は、少しだけ楽しそうだった。
そして――
「そ、の、ま、え、にー」
にやりと笑う。
「……?」
ラファが首をかしげる。
「お風呂、行こっか!」
「合理的です」
⸻
湯気が、いつもより濃い。
脱衣所に入った瞬間、空気が少しだけ重い。
「……あれ?」
琥珀が首をかしげる。
「なんか、暑くない?」
「……温度が高い」
ラファが短く答える。
中へ入る。
足を、そっと湯に入れた瞬間――
「……っ、あつっ!」
思わず声が漏れる。
「今日はちょっと熱いねえ」
近くの人が笑う。
「最近、火の回りが強い気がするよ」
「風車の調子かねえ」
「さあねえ」
軽い会話。
けれど。
「……通常範囲を逸脱しています」
ラファが、湯面を見る。
「ですが……原因は特定できません」
「ふーん……」
琥珀は、もう一度湯に触れる。
やっぱり、少し熱い。
それだけ、なのか。
⸻
湯気が、ゆらゆらと揺れる。
ほんのわずかに。
違和感だけが、残った。
⸻
静寂。
光の届かない場所。
ゆっくりと、視界が開く。
⸻
世界が、映る。
二つの反応。
⸻
記録。
解析。
異常検知。
――偏差増大。
⸻
一つは、既知。
一つは、逸脱。
⸻
照合。
一致せず。
⸻
修正提案。
――実行。
⸻
……。
実行されない。
権限不足。
⸻
処理、継続。
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視線、固定。
⸻
――離れない。
⸻
微弱な揺らぎ。
検知。
⸻
……。
記録。
⸻
次の休みの日。
風は、穏やかだった。
「今日は、ちゃんと見るんだよね」
琥珀が、少しだけ楽しそうに言う。
「前回は清掃のみでしたから」
ラファが答える。
ライブラリーの扉を開ける。
静かな空気が、流れ出る。
――変わらない。
けれど。
少しだけ、違う。
「……なんだろ」
琥珀が、小さく呟く。
「違和感の継続を確認」
ラファが淡々と続ける。
「うん……」
消えていない。
あの、熱。
あの、ズレ。
それが、ここに来て、少しだけ近くなる。
本棚の一角。
古びた装丁の本が並んでいる。
――ふわり。
月光粒子が、静かに揺れた。
琥珀の視線が、自然とそちらへ引かれる。
導かれるように、一歩。
手が伸びる。
「これ……」
一冊の本を、そっと取り上げる。
ぱらり、とページをめくる。
紙は、少しざらついていた。
「……古いね」
そこに描かれているのは――
今とは少し違う、街の姿。
整いきっていない道。
まだ途中の建物。
人の手で、少しずつ形になっていく景色。
「……作ってたんだ」
ぽつり、と零す。
「現在の街は、後天的に形成された可能性が高い」
ラファが言う。
「最初からこの形ではなかったと推定されます」
「そっか……」
ページをめくる。
――その時。
手が、止まる。
「……あれ?」
写真。
そこに写っているのは、若いドワーフたち。
作業の途中だろうか。
真剣な表情で並んでいる。
その中の、一人に、目が止まる。
「この本、かなり昔のやつっぽいけど……」
指先で、そっとなぞる。
「……これって、おじいさん?」
ラファが、横から覗き込む。
「記録媒体の劣化状態から判断」
「相当以前のものと推定されます」
「……やっぱり」
琥珀は、もう一度写真を見る。
若い。
今より、ずっと。
それでも。
「似てる……」
小さく、呟いた。
――その写真の端。
少し離れた場所に、二つの影があった。
だが、そのことに、二人は気づかない。
「……これも」
ラファが別の資料を取り出す。
広げる。
一枚の地図。
「うわ……」
琥珀が目を見開く。
「この街の外って……こんな風になってるんだ」
道が伸びている。
その先に、小さな印。
さらに先へ。
「……村?」
「複数確認できます」
ラファが答える。
「さらに大きな集落も推定されます」
「こんなに……」
少し見つめて。
ふっと顔を上げる。
「……これも」
「ベルグじいに聞いてみようか」
「情報補完として適切です」
風月の鐘亭。
昼前の、少し落ち着いた時間。
マーレの声。
「ほら、手止まってるよ!」
「あっ」
琥珀が慌てる。
「すみません……」
マーレがじっと見る。
「……何かあったかい」
少し迷って。
「この前の、ドワーフのおじいさん……」
「ああ」
マーレが頷く。
「ああ、ベルグ・ハウゼンさ」
「ベルグ……」
「ま、本人はそんな堅い呼ばれ方は好きじゃないからね」
肩をすくめる。
「“おじいさんでいい”って、いつも言ってるよ」
「……ハウゼンさん?」
「ベルグさん?」
少し考えて。
「……んー」
そして、ぱっと顔を上げる。
「そうだ!」
にこっと笑う。
「おじいさんでいいって言うなら――ベルグじい、だ!」
マーレが、くすっと笑う。
「いいんじゃないかい」
その後も。
琥珀の手は、少しだけ遅い。
「……はぁ」
マーレがため息をつく。
「そんなに気になるならさ」
包みを差し出す。
「これ、持ってベルグじいのとこ行ってきな」
「えっ」
「今のままじゃ、仕事にならないだろ」
ぴしっと言って。
ふっと笑う。
「さっさと行って、すっきりしてきな」
「……はい!」
昼頃。
琥珀とラファは、急ぎ足で通りを進んでいた。
工房の近く。
――ドンッ!!
「うわっ!?」
琥珀の耳がぴんと立ち、尻尾が膨らむ。
「またですね」
ラファが、冷静に言う。
琥珀は一瞬だけ固まって――
「あはは……」
困ったように笑う。
少しだけ、肩をすくめる。
「ほんと、まただね……」
工房の外。
「だから言っただろ!!」
「こんな状態で回すなって!」
「うるさいのぉ!!」
その横で。
一人の青年が、頭を抱えていた。
「はぁぁ……」
工具を持ち、しゃがみ込む。
「……あの」
琥珀が声をかける。
青年が顔を上げる。
「ん?」
「……ああ、あんたらか」
「見ての通りだ」
「また、やられた」
ベルグがぼやく。
「火の流れが妙なんじゃ」
「駆動が安定せん」
青年がため息をつく。
「だからやめろって言ったんだよ……」
「でもやるんだよなぁ……」
工具を持ち直す。
「……直すか」
琥珀が、ベルグを見る。
少しだけ間を置いて。
「……ベルグじい」
ベルグの手が、わずかに止まる。
ベルグが顔を上げる。
「……なんじゃと?」
「えっと」
少し照れながら。
「名前、聞いて」
「おじいさんでいいって言うなら……って」
ベルグは、少しだけ目を細める。
「……ふん」
「好きに呼べばええ」
青年が、くすっと笑う。
「ベルグじい、か」
「いいじゃねぇか」
「そういや、名乗ってなかったな」
青年が立ち上がる。
「ロクス・ヴァレンだ」
「よろしくな」
「よろしくお願いします!」
琥珀が頭を下げる。
「そんな固くならなくていいって」
「困ったら言え」
「だいたい俺がなんとかするから」
ラファが、少しだけ頬を膨らませる。
じっと、その様子を見ている。
「それで?」
ベルグが言う。
「何しに来た」
「……えっと」
琥珀が、少し申し訳なさそうに言う。
「ライブラリーのあと、色々気になっちゃって……」
手に持っていた包みを持ち上げる。
「ここに行くなら、これ持って行けって……」
少し苦笑する。
「お弁当、もらっちゃった」
「……来たか」
ベルグがちらりと見る。
ロクスも顔を上げる。
「お、助かった」
「ちょうど昼にしようと思ってたとこだ」
四人は、一旦工房の中へ入る。
外の騒がしさが、少し遠くなる。
机の上に、
簡単な食事を広げる。
「……うまいのぉ」
ベルグがぼそりと呟く。
ロクスも頷く。
「ほんと、こういうの助かる」
琥珀は少しだけ笑う。
「よかった」
しばらくの、静かな時間。
食事の合間。
琥珀が、ぽつりと口を開く。
「……あのね」
ライブラリーで見たこと。
街の成り立ち。
そして、あの写真のこと。
言葉にしていく。
ベルグは、黙って聞いている。
「……それで」
少しだけ間を置く。
琥珀が、取り出す。
「これも見つけて」
一枚の地図。
ベルグの目が、細くなる。
「……ほぉ」
ゆっくりと、手を伸ばす。
「懐かしいのぉ」
「旅してた頃のもんじゃ」
指でなぞる。
「この道を行けば、村がある」
「さらに先には、大きなところもな」
「ただ」
少し笑う。
「歩くには、骨が折れる距離じゃ」
「……遠いんだ」
その時。
――ぐらり。
小さく、揺れる。
「……っ?」
ロクスが顔を上げる。
遠くから。
――ギィィン。
鈍い音。
「……音?」
その先。
煙が、細く上がる。
誰もが。
同時に。
顔を見上げた。
――。




