Chapter : 9 Grand Tour
最後の一手を、ことりと置いた。お疲れ様と、肩を叩くように。
目の前で彼女はさめざめと泣いた。何度見ても、心が痛む。
もう、十分だった。たった今をもって、航路は完成したのだから。
「泣かないで。……あと一回だけ、やろうよ」
「……本当に?」
ごめん、六花。本当だけど、嘘なんだ。
後ろを振り返る。寂しくなるね、と言いたげに、レイが苦笑していた。
君にも迷惑をかけたよ。あと、もう少しだから。だから、最後までよろしくね。
「ああ。……行こうか」
航海が始まる。終わらない後悔を引っ提げて。
願う未来はたった一つ。それさえあれば、俺は満足だ。
もう二度とこの言葉を口にしないという決意と共に、口を開いた。
「アゲイン――」
二月十一日、朝七時。ベッドの横の窓が、いつものように開かれた。
「……寒い。何度起きても、ここだけは」
「やかましぃ! フタバ警察だー! おふとぅんから離れろーい!」
寝起き第一声を変えるだけで、二葉は千変万化のリアクションを見せてくれる。
逃げずに、いつも通り布団の侵入者を抱擁で捉えた。
「……へっ!? あ、あれっ!? なに、なにこれ、なんなのこれっ!?」
「おはよう、二葉。君は本当に再現性のない女の子だね」
「ひ、人をナントカ細胞みたいに言うのはヤメロ! 離せーっ!」
もがいて、いつも通り逃げられた。相変わらず誘ってくるくせに、攻められると弱い。
「きょ、今日は一体何のつもりっ!? ……って、あれ? 一人くん、髪……」
「昨日寝る前に染めたんだ。……反省の印ってやつかなぁ」
「またなんでそんなこと……。どうせすぐ戻っちゃうよ? てか普通反省はボーズです」
「それでもいいんだけどね。今回、モテなくなったら困るから」
うわぁ、ものすごい疑ってるな。そりゃそうか。……そろそろ読まれるか。
「一人ガードッ」
「……えっ!? あ、な、なんで!?」
「元々使ってないだけで出来たんだ。でも、今日からは使わせてもらうよ。あ、決して二葉のことが嫌いとか、そういうことじゃないから、誤解しないでね」
「えっ、えっ、えっ……? なにこれ、なんでぇ……!?」
『無理っぽいなー。一人さんの信用のなさでロケットが飛ぶ』
そうなんだよね……。自業自得としか言いようがないんだけど。
「理由はちゃんと後で話すよ。だから、二葉。一旦部屋から出てくれないか?」
「えっ、それもなんでぇ!?」
「なんでって、そりゃ……。着替えるから。恥ずかしいだろう?」
二葉ロボ、停止。今まで自分がどんな人間だったか、間接的にわからされる事案。
辛いことではあったけど、コーヒーが美味しいので帳消しにした。
メールを送って、家を出る。さあ、頼むぞ。
「二葉。明日の放課後、空けてくれない?」
「……朝から、なんでフェスティバルだよ。……ごめんね、あのね、明日は」
「部会、やろうよ」
びくっとなって、二葉がまた止まる。瞠目して。
「みんなで、やりたいことがあるんだ。……駄目かな?」
「……うそ。何、考えてるの?」
「ズルはだめ。禁止だよ、それ」
「だって!」
「俺のことを信じられないのはわかる。でも、それ使っちゃダメだ。……本気で、やろうよ」
二葉は、心の強い女の子だ。けれど、何かが壊れることに人一倍弱い子でもある。
欲しい欲しいって叫ぶのに、いざ与えられたら怯むのは、彼女の防衛本能だ。
それがもし偽物だったら、二葉の心は耐えられないから。
「絆、教えてくれるんだろう? ……だったら俺とも、小細工抜きだ」
そんな、と二葉は弱々しく呟いた。ひどいことをしていると思う。
安定剤を取り上げるようなもの。子供を、お気に入りのタオルケットから引きはがすような。
けれど、どれだけ心が痛もうとも、戦わなくてはいけないのだ。
「部会、やろう。みんなで。純粋なやつを。……絆、紡いでみようよ」
「いやだっ!」
二葉は、吠えた。……それでいい。人間が、簡単なものであるはずがないんだ。
「一人くんがそんなこと言うはずないっ! 優しいわけがない! 簡単に奇跡なんて、起こるわけないじゃんっ! ……あたし、信じないからなっ!」
「部会なんて、ぜったい行ってあげるもんかっ!」
二葉は、走り去って行った。……これでいい。へこんでる暇はない。
『一人さん、大丈夫? こんなの、やっぱり……』
「やめないよ。何があっても」
優しさや思いやりなんて、俺にはいらない。受け取ってはいけない。
空を仰いだ。吉川が飛んでいなかった。
何度聞いたかわからない授業。育ち切った頭脳には、児戯にも思える。
けれど、これで最後だと思うと、真面目に受けたいなと思ってしまうのが人情だった。
ふと、蓮の席を見る。空席だった。そのまま携帯の画面に目を落とす。
『了解した。なのでやることができた。学院はサボる。ぼっち飯乙。詳細は部会の後、聞くよ』
お前なら、絶対にそう言ってくれると思っていた。不確定要素が今更来たのは少し驚いたが、出来るならもうリープはしたくない。今は、こいつを信じよう。
ここにきて天命を待つことになるのか。……なんとも皮肉で、嬉しいことだった。
「それでは、本日の授業はここまでとする」
今日は、誰も死ななかった。
屋上へ行く。蓮はいないし、本当は音楽室に直行でいい。けれど、どうしても足が向いた。
ここは高い。冷たい風と豆粒大になった地上の人々が、否応なしにそれを思わせた。
「なあレイ。俺、ここから飛んだんだって。……頭、おかしいよね」
下腹部に喪失感のような何か。冷や汗がついっと背中をつたった。
『世界新王者も引退かー。時は無情だねー』
「……レイもずいぶん皮肉が上手くなったよね」
『何十年仕込みだと思ってるの。現実時間に戻したら、ハブくんなんてとっくに過去過去』
「ははは。今や、違う方のハブさんより強い女が相手だよ。人生ってわからないね」
『そうだね。……わからないから、いいんだよね』
あ。こいつ、また言うつもりだな。
『……わたしのこと、恨んでね?』
「冗談だろ」
君こそ、俺を憎むべきだと思うけどな。
「知恵の果実は、確かに苦いけどさ。それでいいんだよ。コーヒーと同じなんだ」
『……そっか。……ありがと』
「女性はもっと図々しい方が好みだよ、俺は」
『……いっちばん厚顔無恥だった一人さんに言われてもなー』
よし。笑ったな。その顔が、一番好きだよ。
『がんばって、ね。何もできないけど……でも、ずっと見てるから』
それだけでいいさ。他にはもう、何もいらない。
緩んだ俺の唇に嫉妬するように、階下からピアノが呼んでいた。
「よし。行こう」
「相変わらず上手だね。何度聞いても飽きないよ」
「……あー! 来やがりましたね、ミスター失礼」
「……悪かったって。ロボットは俺の方だったよ」
ぴたりと、三柑の手が止まる。眉をひそめてこちらを見た。
「……センパイ、お昼に何か悪いもの食べました? 調子悪いんですか? 髪色まで変っす」
「食べたよ、人の心とかね。あとこれは染めたんだ。人間色に」
「はーいイミフです。よかった、いつものセンパイだー」
謝って、殊勝にしてるだけでこれだ。狼少年ここに極まれりという感じがする。
今日は事故が起きなかったから、三柑が昼食を持っていた。つまり、餌では釣れない。
真正面から向き合って、部会に誘う必要があった。
「お食事中失礼。その便箋だけど、コンサートの招待券だよね」
サンドイッチを気管に詰まらせていた。
「ど、どこから聞きつけてきたんですかっ」
「どうして、コンサートのこと、言ってくれなかったんだい?」
強引な論理で、押し切る。三柑に心を許してもらうには、そういう要素がいる。
この子は好かれたい、踏み込まれたいと誰より願っている。けれど、もし嫌われたらと恐れる心が、自分の主張を許さない。……だから、こっちから手を伸ばしてやらないと。
「……だって。出る気、ないですもん」
「人に聞かれるのが、怖いから?」
「……なんだ。バレてた、んですね」
ごめん。君のデータ全部暗記してる。……弱点も。酷い奴だよね、俺は。
「はい。そうです。……嫌なんですよ、弾くの。聞かれるのは、もっと嫌。だって、貶されるかもしれないんです。……それ、こわいです。知ってる人に聞かれるのは、もっともっと怖いですっ。……だって。もし知ってる人に、自分の音楽、嫌いって言われたら、それは……」
三柑は、押し黙る。ピアノを弾くことさえしない。
「君は、こわがりだもんね。好かれたい、より、嫌われたくない、の方が大きい」
譜面台に置いてある、便箋の中身に思いを馳せた。
「だから得るものがなくても、安全な方に逃げちゃうんだよね。……心って、柔らかいものだから。すぐに壊れるものを、人に晒すのは避けたい。降ってくる優しいものだけ手に入れて、生きてけたらって、そう思うんだよね」
「……そう。そう、なんですっ」
昔の俺なら、ここで抱きしめて終わりだった。でも、それはもう、できない。
「けどね三柑、それ、無理だ。……逃げる者に、何も掴ませてはくれない。ここは」
手を差し伸べる。立てるように。けれど、掴ませてやる気はさらさら無かった。
「人に、好かれたいと思うなら。……やっぱり、血を流さなきゃ」
「無理ですっ! できないんです、そういう病気なんです、わかってるでしょ!?」
「便箋の中身、チケットは四枚だ。……誘おうとしたんだよね。知ってるんだ、俺」
三柑が言葉を失くした。どうして、と言うように。
「コンサートまであと数日だ。やりたくない。本音だろうね。……でも、もう日がないのに、中止になってない。断ってないってことだ。……君は、いつも頑張っている」
「違いますっ! 怒られるのが怖いから、言えないだけです! 勝手に決めないでください!」
「それも本当かもね。でも、別に構わないんだ。俺には」
正面から彼女を見据えた。人が弱いなんて、身に染みて理解している。
「どっちみち、君は弾く。結果が同じなら、過程なんて誰にも見えない。けど、俺はそういう所にこだわりたい。……明日、手本を見せる。それを見て、どうするか決めてくれ」
「手本?」
「部会をやる。俺が主催だ。……見に来てよ。ちゃんと人をやれてるか」
ずっと、三柑は顔を見てくれなかった。やがて、ぽつりと零した。
「センパイ、言ってること、ぐちゃぐちゃです。……何言ってるのか、全然」
ストーブの前なのに、寒そうに両腕でその身を抱えて、三柑は言った。
「ぜったい、弾きませんし。……行くかどうかも、決めてませんから」
「わかった。……今は、それでいいよ」
一発で上手くいかない。遠回りを強いられる。けれど、少しずつ寄れている。
そんな不器用さを愛すると共に、未来をなぞるだけの己の無粋を、強く呪った。
「一人ね。待って、開けるわ」
「うん。ついでに、開けた瞬間抱き付くとかそういうのはナシだよ」
研究室のドアが開く。白衣に眼鏡の不機嫌な美人が、仁王立ちしていた。
「思考様式を晒しすぎたのね。それくらいの役得は……、髪、染めたの?」
「黒には、後二人足りないんだけどね。似合うかな?」
「コンテクストが不明瞭で十全な理解が及ばないけれど、素敵よ。似合ってる」
「ありがと。嬉しいよ。君も、いつも綺麗だよ」
彼女の心の尻尾が、ぶんぶん躍動していた。
少し褒めるだけで、こうだ。……どうして俺は、もっと優しくできなかった。
「一緒に帰らないか。久しぶりに」
「俺のルナティックを治す研究は、進んでる?」
「……ふう。慈善事業ではないと、気付いていたのね」
「君の動機は、いつも一つだ」
帰り道。雪に月光が蒼くて、夜はまるで異世界にいるような気分になる。
「貴方を治すのは、私の為よ。そうして戻った心で、私に心酔してしまえばいいの。……いつか貴方が、私にそうしたように。今度は私が、外の世界を教えてあげるの」
「俺は何もしていない。勝手に奪われて、勝手に君に宿ったんだ」
「それでもいい。……恋の奇跡が、私を救ったことには変わりないのだから」
どうして彼女に、もっと別のものが宿ってくれなかったのだろう。
こんなに美しく、愚直なまでの純粋は、もっと他の者に向けられるべきなのに。
「笑うかしら。……この歳になっても、恋より強いものはないの」
あの日の病室。彼女は語った。
自分の読む物語たちでは、恋は何より強いものなのだと。時に自分より大事だったり、その為に世界が滅んだり、誰かが蘇ったりもする。……そんな理想に、彼女は誰より憧れた。
「笑わないよ。……けど、相手は選ぶべきだった。いつか、魔法を解いてあげるよ」
「私に何かで勝てたら、そうしなさい。あるいはそれこそ、奇跡と呼ぶのね」
今や六花は、地上で一番強い存在になってしまった。
そんな水準に登り詰めても、まだ届かないものがあるのだという。
「……奇跡、ね。駄目なの。何をやっても、雲をつかむようで。……私は、無力だわ。皮肉ね」
知性とは、最も孤独を浮き彫りにするものなのかもしれない。
届かないということさえ、知らずにいれたら幸せなのに。
「……けどね、一人。それでも私は、人間を辞めて良かったと、そう思うの」
「……六花」
「知らなければ良かったなんて思わない。人として死にたかったなんて、微塵も思わない。
……生きたい。いつまでも、あなたと一緒にいたいもの。だから、私はもう諦めない」
どうしてそこまで好きでいられる、と泣き叫んで遮ってやりたかった。
「ねえ、六花。……俺に、隠していること、ない?」
病に侵されていること。俺の未来を、救おうとしていること。
「いいえ、ないわ。……私を知ろうとしてくれるの? 嬉しい。それだけで、十分よ」
この世で一番美しいのは、人のためにつく嘘なのだと、今知った。
「そう、か。……ねえ、六花。明日ね、部会をやるんだ。来てくれないかな?」
「……そう。栢木が、呼んでいるのね?」
「違う。今回は、俺がやりたいって言ったんだ」
「……どういう風の吹き回し?」
「風当りは強いんだよなぁ、みんな。……六花たちと一緒に、やりたいことがある。ダメ?」
「……忙しいの。やらなければいけないことが、あるの」
「午後一、部室だ。少しで済む。息抜きに、おいで」
行く、とは言わなかった。けれど、行かないとも言ってない。
このアキレス腱は、無敵の代償としては大きすぎるなと、そう思う。
「お休み、一人。久しぶりに帰れて、嬉しかった。……ばいばい」
手を振る彼女に、どうしても気持ちが抑えられなくなって、言葉が漏れた。
「なあ、六花。……研究、もう、やめない? 星海祭まで、ずっと一緒にいないか」
「駄目」
跳ね除けられる。そのことに、かつてない程心臓が躍る。
「私に、優しくしないで。……とけて、なくなってしまうから」
何かを堪えるように彼女は笑って、それきり消えてしまった。
六花。それは、雪のもう一つの名前。
「……レイ。俺、ようやくわかった。あの時、君が怒った理由」
ルナティックの間には、愛が実在しない。あってもそれは、只の病気。
こんな悪夢を、一体どうやって納得しろというのか。
「尊いんだよ。……綺麗、なんだよ。なあ?」
『……うん』
「みんな、俺なんかの為に、……押し殺して、言わないで、抗って。……それが、ただの機能で。まがいもの、だって? ……なあ。……誰か、嘘って、……言ってくれよ」
立っていられなかった。尊厳さえも、月に塗りつぶされてしまう。
「どうして特別なんかに、生まれてしまったんだ……」
呼吸を自覚するように。意識するだけで、生きてることは息苦しい。
悲哀を吠える。けれど、月は何も聞き届けてはくれなかった。
翌朝。窓だけが開いて、犯人はたたたっと逃げて行った。
「……喧嘩のやり方が、不徹底だよなあ」
『そういうところが、かわいいよね』
「まあね」
拗れることになってでも、俺が誘って、俺が返したい。それが、けじめだ。
置いてある朝食を摂って、家を出た。やること満載の朝をこなして、部室に行く。
鍵を受け取り、扉を開いた。開始時刻まで、まだ時間がある。
「……寒いんだね、この部屋」
電気も、人の温もりも、何もない。空疎な部屋だった。
「……こんな寒い部屋で、二葉は、たった一人で」
今ならよくわかる。天文部は、部活として死んでいる。
仲良くするための場所じゃない。みんな、他人どころか自分で精一杯だからだ。
心を読める二葉には、誰よりそれがわかってた。けれど、俺に教えようとするために。
怖かったに違いない。……だから、俺に集めさせたんだな。
一番最初の部会。力強く最後に扉を開いた、彼女の勇気を想う。
「どうして、後悔って先にできないのかな……」
「そりゃーセンパイ。読んで字のごとくだからじゃないっすか?」
ころころと、鈴の転がるように明るく、彼女が扉を開く。
「三柑」
「弾きませんからねーだ。……でも、来てあげました。なーんかないんですかね?」
「……ははは。ゼリーなら、買ってあるよ」
「秋山にあって、私にはないの? 甘い展開を所望するわ」
「……君には、ちゃんと後で払うよ。六花」
だから、いつの間にか座ってるのはやめなよ。びっくりするから。
「で、主役は最後にやってくるっと。……いつもより早いな、お前ら」
「ということは、今日の主役はお前じゃないってことだ。蓮」
後ろ手で扉を閉めて、蓮が定位置に座る。互いに目を合わせて、小さく笑った。
それでいい。俺は、お前だけには謝らないぞ。
全員が、定位置につく。残りは、白板の前のリーダーのみ。
「……栢木は?」
「来る。あの子は、来るよ。……誰より、優しい子なんだ」
与えられたものを返し切ることはできないし、過去を消すこともできない。
だから、みんながこれから一人でも歩けるように。精一杯の、償いを。
閉じてあった扉が、弱々しく横にずれていく。みんなの視線が、主役に注がれた。
「……あはは。ほんとに、みんな……、いるんだ……」
二葉は泣かない。泣き落としの絆を無粋だと言える、強い子だから。
「……信じて、いいんだよね?」
「うん。奇跡を起こすよ。……って言っても、信用」「よし」
狼少年に母がいたら、きっとこんな笑顔で許すのだろうなと思った。
「もう、ずーっと信じてあげる! 裏切ったら、呪い殺しちゃうぞ!」
「了解。……よし。これで、六人揃ったね」
「センパイやっぱり大丈夫ですか? みんなで五人しかいませんよ?」
「誤認とかけてんじゃね。は、つまんねー」
『……もう。バカ』
かぶりを振って、後ろを見た。長年連れ添った相棒は、優しく笑う。
「はいはい、うるさいよ。じゃあ、始めようか」
この目に焼き付ける。絶対に劣化しない記憶を持って。
今日だけはこの能力を、素直にギフトと、そう呼ぼう。
「ちょ、ちょっとセンパイ。どこ連れてくんですかー? 自分、呼ばれてて……」
「院長だろ。知ってるよ」
絶句頂き。部会の後、三柑を音楽室に引っ張っていく。道中で話す必要があった。
「あのね、三柑。俺、未来から来たんだ。だから色々知ってる」
「……もー。今度はそういう映画の設定ですか? ストーカーの言い訳にしては」
「今日、三柑は院長から言われる。コンサートに、芸術家の三柑の親が来るって」
ぴたり、と三柑の足が止まった。顔色が消しゴムをかけたように真っ白だ。
その隙に、音楽室の扉を開く。
ぎりぎりまで葛藤してたせいで、鍵を閉め忘れているのを知っていた。
「……どうして、知ってるんですか。親のこと。教官以外、知らないはずです!」
「未来の君に、教えてもらった。……信じられないだろうけど、後で事実だと分かるはずだ」
窓を開く。計算通り、まだ二人は来ていない。三柑と話す時間がある。
「三柑はね、やっぱり親が怖いから。逃げられないのもあって、ピアノを弾くことになるんだ。……でも、無理があって。追い込まれ過ぎて、三柑はコンサートの日、心を壊しちゃう」
俺はピアノの椅子に座る。慣れた手つきで、椅子の高さを変えた。
「……そんな。信じられません。……そんなの、いつもの、ウソです」
「うん。言葉だけじゃ、信じてもらえない。だから、行動で示すことにしたんだ」
屋上の扉が開く音がした。二人が、もうすぐやって来る。
二人に、悲しい約束をさせてはいけない。必ず、どちらかが死んでしまうから。
「……センパイが、助けてくれるんですか?」
「逆だよ。助けない。俺は君に、弾いてほしいからね。……自分の意志で」
指を、鍵盤に滑らせた。よし。今回も、問題なく動く。
三柑の目が、眠りから叩き起こされたようにかっと開かれる。
やっぱり、本当に上手いんだな。ちょっと触ったのを見ただけで、力量がわかるのは。
「三柑にあげるのは、勇気だけだよ。……今から奇跡を起こすから、見ててね」
二葉と六花の話声が聞こえる。三柑も、ずっと俺を見ている。
何度練習しても、手は震える。聴衆は三人だけ、それでもこわい。
けれど三柑は、もっと大きなものと戦う。……自分で言ったんだ。血を流すって。
だったら先輩として、後輩に無様な背中は見せられない。
海に潜るように、意識を鍵盤に沈ませた。身体はもう、覚えている。
自動化した身体に、宿った心を込める。あの日の景色を、もう一度。
「……うそ」
聞いたのは、たった一度きり。それでも、俺は覚えている。忘れられるはずがない。
乏しい心を揺らしてくれた、一番最初の金色の福音だったのだ。
流麗に躍る四肢とは裏腹に、俺の中では不安と願いが泥水のように渦巻いている。
届くだろうか。届いてくれるだろうか。俺は、上手くやれているだろうか?
この想いは、雪の向こうの夜のみなしごに、手を振れているだろうか?
どうか、どうか。
君から貰った心が、小さな君の背中を押す、かけがえのない勇気になりますように――。
「……はい。お粗末様でした」
屋上の声が止まる。……良かった、降りて来てくれるな。後は、三柑に任せよう。
二人が気になって、話にくるよ、と言葉にしようとしたが、できない。ぎょっとした。
濡れた紙みたいに、三柑が両手で顔を拭って、泣いていた。こんなのは初めてだった。
「……ほんと、なんだ。……せんぱい。……三柑、……できる、かなぁ?」
「……できるよ」
これからもずっと、甘い言葉はあげられない。だから最後に、本当のことだけ置いていく。
「時間と意志さえあれば、人はどんなことだってできるんだ」
「やっぱり、ここにいたんだね」
「二月十二日は、特別でね。オレの数少ないこだわりだよ」
島の南端、誰もいない集合墓地。蓮はしゃがみこみ、姉の墓前で手を合わせていた。
立ち上がって、こちらを見る。赤髪が、茜に染まる。夕暮れがよく似合っていた。
「一応聞いとくか。お前はいつ、オレがループしてることに気付いた?」
「言語習得の時かな。お前だけいつも勝手に行動してた。最初は、俺の行動の影響かな、と思ってたんだけどね。何周もやってると、さすがにわかるよ」
「同じ台詞、そっくりそのままお前に返すわ」
お互い様だしな。腐れ縁も、一蓮托生まで来ると笑ってしまう。
「……さあ。お前の計画を、聞かせろよ」
「ああ」
俺は、これからの目論見を全て話した。全てを救い、奴を打ちのめす計画を。
「……それしか、ねぇんだな?」
「ああ。きっと、上手くいく。……そのために、お前の心が必要だ」
「いいぜ。やろう。ぶっ飛ばしてやろうぜ」
そうだよな。お前なら、そう言うよな。……ありがとう。
蓮はふっと笑って、時計塔を見上げた。あの日、あいつはここで待っていた。
「……オレの人生は、オレが主役。だから、本当は譲りたくねぇんだけどな」
「……蓮」
「どうして、オレじゃなくてお前だったのかなぁ」
蓮は、ポケットからチケットを二枚取り出す。ためらいなく受け取った。
「……観に来い。オレの、人生だ」
「絶対に行くよ。……それが、終わったら」
蓮は、煙草を取り出して火を付けた。もう、法律的にもとっくに問題ない。
「ああ。あの日の続きだ。……二月十五日、今と同じ時間。ここに、南の時計塔に、来い」
「そうだね。……約束は、精算しないと終われない」
「今度こそ逆に行くなよ。馬鹿が」
「お前が逆に行ったんだ、馬鹿。……じゃあね。明日は、研究所で」
約束は、人の誇りだと六花は言った。あの時、それをなぞるだけだった自分を恥じる。
夕焼けの道の中、あの日に受けた拳の意味を、噛み締めるように歩いていった。
二月十三日、曇天。
「一人くん。あのね。……その、気を悪くしないんで欲しいんだけどね、……あのね」
「そんなに身構えなくていいよ。部室、誰も来てないかもって言いたいんだろう?」
「……ねぇ。もしかしてあたしのパワー、うつった?」
「そんなわけないだろ。でも、二葉のことは、なーんでもお見通しだよ」
二葉の知見は予測か、観測か。彼女以外には、わからない。
「そー、だよね。だって、三柑ちゃん、こわがりだもん。あんなこと、絶対協力してくれないよ。蓮くんが舞台前に練習抜けるわけないし、柊なんて研究室出ないに決まってるっ」
『二葉ちゃんって、実は一番くればーだよね』
その言い草に、少し笑った。女の子は打算的だから、気を付けろという言葉を思い出す。
現実的で抜け目のない彼女は、きっといい奥さんになれるだろう。
「ちょっと、何で笑ってんのさ! わっかんないんだよ! むかつくー!」
「なんでもないよ。笑いたいから笑ってるんだ」
二葉はぷんすかして、俺の前に出て振り返る。前髪には、髪留めが定位置に。
「あー、気に入らんっ。……けど、あたし、頭下げる。部活、ちゃんとやりたいもん」
そう言って二葉は、ぺこりと頭を下げた。
「お願い、一人くん。またみんなを引っ張って来てよ。できるのは、一人くんだけだよ」
「……わかった。でも、一緒に行けば」「やだ」
大型犬のように愛嬌のある顔で、二葉は浮上と同時に舌を出していた。べっと。
「あたし、みんなを待つのが仕事だから。これだけはね、譲らないんだ。無職はやだよん」
そんな風に優しすぎるから、過労死するんだと言いたかった。
「あ、でも専業主婦なら、無職でもいいよ? ふふふ」
「……君は、凄くいい女だからなぁ。俺なんかには、もったいないよ」
ほら、今に赤くなる。……ああ。これを見るのも、最後か。
「あ、あはは。なーに? 今更気付いたかぁ! 愚か者め!」
本当に、どうして今更気付くかなあ。俺の、愚か者。
彼女はいつも、練習している。この五日間も、その前からも。
心地良い音漏れがする、部屋の扉を静かに開いた。
真剣で、色っぽい。もう、焦燥に憑りつかれてはいなかった。
音が止まる。三柑は手元の白とオレンジ二色の音楽器のボタンを止めて、こっちを見た。
「来ましたね、未来人センパイ。溶鉱炉にどうぞー」
「アイルビーバック。信じてくれるみたいだね。君は素直だから大好きだよ」
「あの曲を弾かれたら、さすがに信じますよ。だって、誰にも教えてないもん……」
ぽろん、と三柑が片手でピアノに触れた。「あの、聞いていいですか?」
「……未来、知ってるんですよね。だったら、その、自分が弾かなくて済む、未来は」
「あるよ。無数に」
「だったら。どうしてセンパイは、自分のこと、守ってくれなかったんですか?」
「優しくない、人でなしだからさ。……自分を守れるのは、自分だけなんだよ。三柑」
「それ、ウソです。センパイは確かにヘンだけど、優しいじゃないですか……?」
縋ってくる気弱な宝物を、つい抱き留めてやりたくなる。……けど、駄目だ。
「違う。俺を、信用するな。……忘れたの? 俺、マイナスだよ。出来損ないだ」
「で、でも! センパイは、他のマイナスの人とは、全然」
「俺、未来で三柑を殺したことがある。憎いとかじゃない。まあいいや、で殺したんだよ」
殺したという険呑な言葉には、臆病なこの子を黙らせてしまう力がある。
「……三柑。駄目なんだ。絶対に安全な人や場所なんて、どこにもない。生きてる限り、人はずっと怖いんだ。……だから。人の中で生きるには、ひとりで立ち向かう力がいるんだよ」
「……どうして。どうしてそんな、いじわるで寂しいことを、言うんですか?」
「そうだね。寂しいことだね。……でも、何もないより、ずっとマシだよ」
譜面台を見つめる。そこには、四枚の祈りがある。
「寂しくても、俺は人がいい。……老害だからね、布教させてよ。自分が好きなものを押し付けたい。『可愛いがり』って言うのかな、後輩?」
「……うざい、ですよ。センパイ。ばか」
ごめんな。こういうやり方しか選べなくて。人間、下手くそなんだよ。
「はーあ。ま、自分も女子なんで、これだけ口説かれたら悪い気はしません。……ん」
片手を差し出される。手の甲を向けられて。
「ほらー。……待ってたんですからね。早くエスコートしてくださいよ、センパイ?」
苦笑して、手の甲に口付ける。相変わらず、甘え方が上手だ。
もう、この子は大丈夫。……あとでもう一回、脅かすことになるけれど。
だけどまあ、それは今のでチャラにしてよね。後輩。
「お前は相変わらず人を待たせる天才だな。二分遅刻だぞ」
「だって、三柑が歩くの遅いんだよ。それに二分なんて今更じゃない?」
「あんたがいらんこと教えるからですっ! 鬼! 悪魔! 死神! 雪白!」
「もっと言ってやれ。特にお前は、遅刻魔ってな」
研究所の門の上では、慈愛の女神のようにレイが見つめる。うん。上手くやるよ。
「で。オレと秋山は、このカメラの前に立ってりゃいいのか?」
「やだやだやだ怖いーっ! れ、練習に戻りますっ! 親より怖いーっ!」
さすがにそれは嘘だろ……。最近ブラックジョークが笑えなくなってきた。
「うん。じゃ、行ってくる。逃がさないでよ、そのすばしっこいの」
研究室の扉を開く。彼女がいつも通りなら、この時点で抱きつかれている。
六花は、屍のように資料の中に埋もれていた。この場所のどこにも、求める答えはない。
それでも、部屋を漁らずにはいられなかったのだろう。
窓のない閉じ切った部屋では、モニターだけが儚い照明となる。
猫背で、かじりつくように六花はパソコンの前にいる。目は虚ろで、髪の毛はぼさぼさだ。
静寂の中、うわ言だけが埃のように溜まっていく。
ない、どこにも、時間が、どこ、どうして、なぜ? ない、時間が、ない――。
ぽんぽん、と後ろから頭を撫でてあげた。こんな時でも、彼女からは爽やかな香りがする。
両目が光を結ぶ。正気が立ち上がる。「か、一人っ?」慌てる彼女が見られるのは、ここだけ。
「君はね、頑張りすぎなんだよ。……俺なんて、死んで当然なのにさ」
六花を元の六花に戻すには、刺激だ。特に、俺のこと。
「……まさか。知って、いたの?」
「まあね。悲劇的運命死のことでしょ。それと、星海祭の親和性のこともね」
非業の運命の女神は、大きな出来事があれば、嬉々としてそれをマイナスの死に結びつける。
「それさ、俺が自分で何とかするから。だから今は、一旦休もうよ」
「いい加減なことを言わないで! 何とかできるわけないでしょう!」
「君しか知らない情報を知ってる時点で、何かおかしいとは思わない? 信用してよ」
六花は、俺マニアだから。知ってる情報量も、周囲に対する頓着も、全部わかってる。
だから、突然レベルが上がった今の俺がおかしいことも、絶対にわかるはずだ。
「お願いに来たんだ。一緒にやろうよ、部活。君がいないと、成り立たない」
「……嫌。どうにかなる、わけがない。部活ごっこにかまけている時間はない。第一、ごっこですらない。わかるでしょう? エゴイストの集団なのよ、私達は。そんな者たちが、あんな目論見の為に、集まるわけがない!」「と、言うと思って、みんなを連れてきたんだ」
慣れた手つきで、六花のパソコン上から、外の映像を呼び出してやる。
『た、煙草吸ってるー! ヤニカスだったんですか!?』
『刺激が欲しくてな……』
「二葉は、部室で待ってる。口では言わないけど、誰より君をね」
「……そんな。一体、どんな手品を使ったというの?」
「何、ただの奇跡さ。この島じゃ、そんなの日常茶飯事だろ?」
最初も最後も、俺は詐欺師。信じ込ませるしか、道はなくて。
「ほら、行こう? このままじゃ、俺は二葉にとられるよ」
一番強い彼女には、力押しが通じない。だから弱点を突くしかない。
「……ずるい。貴方は、ずるい! 私が、いつも一緒にいたいのを知ってて!」
「……うん。俺は、ずるいよ。誰より自分が、一番知ってる」
ああ、誰か。誰でもいい。誰でもいいから、俺を見破れ。……死にたいよ。
ポケットから、彼女を正気へ繋ぎ止める楔を取り出して、言った。
「駄目押し。……君がずっとずっと、望んでいたことだ」
「……私の、望み?」
「来て、くれたら。――明日、デートしようよ」
みんなを連れて行って、部室の扉を開いた。
待っていた二葉が、芽吹くように笑って、花が散るように泣いた。
勇気を出してくれた後輩を抱きしめて、宿敵から顔を隠して。
彼女を、ずっと待たせてしまっていた。
持ってこれたものは、決して綺麗なものじゃない。嘘で塗り固めた、突けば壊れる儚いものだ。
それでも、今、ここに六人揃ってる。部屋はもう、空疎じゃなかった。
「さあ、始めよう。……部活を」
やり返してやる。この島を、せめて真っ白に変えてやる。
「告発を――」
「……おはよ、一人くん」
四日目。二月十四日。白銀の星海祭、その朝。目覚めることができた。
「……おはよう。二葉。……ねえ」
「ん? どしたん? 雪降ってるから、厚着しないとだぞー?」
「毎朝起こしてくれる人がいるのって、幸せなことだね。死ぬまで、気付かなかった」
「寝ぼけてんの? そんなのクラッカーです。今日は大変な日なんだから、早くご飯食べる!」
すごいことを、当たり前だと言ってのける彼女が、凄くかっこいいと思った。
レイと並んで二人、窓の外に降る雪を見つめる。何度繰り返しても、全てが違う雪に思えた。
ぽん、と背中を叩かれる。抱かれるより、それが一番好きなことはもうバレていた。
お互い、もう知らぬことはない。だから最後の方策も、苦笑いで見逃してくれる。
「二葉。作戦のあとのことなんだけど――」
白い雪の中、ルナサイドモールに沢山の傘の花が咲く。午前中でも、人は多い。
「……待たせてしまったわね」
「今来たところさ、って言って欲しいんだろう?」
時間ぴったり。彼女はいつも、約束を守る。
それだけは病魔も侵せない、燦然と輝く彼女の尊厳なのだ。
手を差し出して、エスコート。彼女が寝台の上で願った、小さな憧れを叶えるために。
ずっとずっと、無邪気に笑っていた。はしゃいでいた。
幼き日の彼女が、病院を抜け出して跳ねまわっているようで。あの日のことを想い出す。
私は恋をしてみたい、と言った日のこと。……初めて、口づけをした日のこと。
王子さまのキスで奇跡が起こるなんて、童話だよね。
……でも、俺は王子さまじゃないから。童話みたいに、優しい終わり方はない。
「時間だね。行こうか」
薄暗い照明の中、人は静かに語り合う。ホールの音の響き方は独特だ。
あと数分で、照明が落ちる。金色の少女の、自分との戦いが幕を上げるのだ。
「貴方はやっぱり、いじわるよね。……デートで、他の女の所に連れていくなんて」
「ああ、両方にろくでもないよ。……でも、君の正気を長く留めるには、これしかない」
眼鏡の向こうの、宝石のような瞳が俺を映した。やっぱり君は、眼鏡がよく似合うよ。
外したら死んじゃうなんて、いかにもイチかゼロかの君らしい。
「三柑が、嫌いかい? ……あんまり睨んであげるなよ。大人げないなあ」
「……だって。あの子、弱いのに。弱いから、一人が、構うんだもの。……羨ましいのよ」
「三柑は、君みたいに強くなりたかったって、言ってたよ」
「違う。私は強くない。強い人なんて、いないわ。……強くなりたい人が、いるだけなの」
肘掛けに置かれた年相応の女の子の手に、自分のそれをそっと重ねた。
「だったら、あの子の頑張りも観てあげてくれ。俺とは無縁にできた関係も、二葉のついでに大事にしてくれよ。……他人なんて、ついででいい。でも、捨てちゃだめなんだ」
「……でも、私は」
「君の仕掛けは全部外した。爆弾も作動しない。バックアップの施策も、全部だ」
ぎゅっと、手を握られる。彼女のことだ。ここに連れてきた時点で、露見していることも、あるいは気付いていたのかもしれない。
「その上で、勝負だ。その為に、三柑の両親はここに残しておいた」
「……勝負?」
「三柑が、もしオルギアを起こしたら。途中で逃げたら。君が気に入らなかったら。その場で、三柑を殺しなよ。俺だって見逃す。その後の一切を、君に預けたっていい」
代わりに、と続けて言った。
「もし、三柑が全部やり遂げたら。……あいつを、大事にしてあげるんだ。先輩としてね」
六花の、何より美しい理性につけ込む。約束だけが、彼女を人に留めてくれるから。
手がもう一度強く握られた。肯定と捉える。
歩いてくる。喝采が湧く。猫を被った臆病な鼠が、天井を見上げている。
その手が震えていることは知っている。けれど、震えてたっていい。
ひとりで、頑張るんだ。誰かと一緒にいたいなら。
弱虫が、唇を結ぶ音が聞こえた。それは、魂を込める音。
さあ六花。心を、撃たれろ。
外に出ると、降り落ちてくる六花が綺麗だ。
だからその名を授かった時点で、彼女が美しいことは決まっていたのだろう。
「勝負、俺の勝ちだね」
「……そうね。……ねえ、一体何が起きているの? 記憶が、未来方向にも伸びたの?」
能力進化か。合理的な方針で、即座に正解に近いものを引き当ててくるあたり、流石だ。
「違う。でも、似たようなインチキさ。……三柑を頼むよ。可愛すぎる奴なんだ」
でも、一番驚いたのは。
「…………一人。貴方、死ぬ気?」
こういう非論理的なカンが、一番正解に近いってところか。苦笑を隠せない。
「死ぬのは怖いからごめんだね。……少し、島を出ようと」「私も行く」
「……それは無理だ。ついてこれない場所に行く。何より、君には残ってもらわないと」
「ふざけないで! 私が行けない場所なんて無いっ!」
「俺、君のルナティックを治すよ。……君の症状、大分酷いはずだ。急がないとね」
勘も、頭の回転も、遥かに俺を凌ぐ彼女だ。意味深な発言や俺の超越性は、彼女の中で七割程度の真実を描くだろう。もしかしたら、本当に治せるかもしれないと。そして、
「嫌っ! 返さないっ! 無償の奇跡なんて、どこにもない! 代償があるはずよ! ……そう。そういう、ことね。私を治す代償を、貴方が背負うのね?」
「惜しい。八十点ってところかな」
それだけでも、瞠目に値するけどね。
「ふざけないで! 本末転倒なのよ! あなたがいなければ意味がない!」
「でも、治さなければみんなが死ぬ。……俺には、生きて欲しい人が沢山いるんだ」
「嫌! 嫌ぁっ! 貴方がいないなら、みんなが死んだ方がいい! 私には、あなたしかいないの! あなたがいたから、生きているの! それを、否定しないでよ!」
冷静を欠いた、今しかない。こんな場に計算を持ち込む俺を、好きになんてなるな。
「失恋で、世界が滅びちゃたまらない。……君に好かれるのは、嬉しいよ。でも、君には俺以外だって愛してほしい。それだけの素質を、君は持ってる。……なあ、取引しよう」
「嫌よ! 絶対に聞かない!」
「聞かない場合、明日、君のルナティックは自動的に治って俺は消える。それでもいい?」
これは嘘。けれど、それを判断する材料は与えていない。
「明日の夜。君の研究室で、チェスの勝負をしよう。……君が勝ったら、俺は治療を止める。君のものになろう。最期のその時まで、一緒にいるよ。でも、もし、俺が勝ったら」
無敵の彼女に勝つには。明日、正気で生きていてもらうには。
「俺は君を治す。旅に出るのを、止めさせない。……それでいいね?」
約束しか、ない。
「……わかった。私に、勝てる訳がない。奇跡なんて、起きないわ」
「……ありがとう。……デートは、終わりだ」
「……そんな、だって、まだ、昼間――」
言っている途中で、気付いてしまう。どこまでも、頭のいい彼女だった。
「協定違反だよ、六花。……だから、今から二葉に義理を立てないとね」
「……全部、全部。最初から、仕組んで、あったのね?」
「そうさ。タダより高いものはない。俺は、君を騙したんだ」
今の部室には、島の告発文が並んでいる。インターネットにも同時掲載だ。
俺が繰り返しの末に集めた、島の上層部を一発で破滅させるデータや証拠を、六花が効果的に訴えたもの。蓮の姉のことも、勿論。あいつはもうすぐ、自分の仕事を開始する。
それを、朝から二葉は設営して。俺が指示したタイミングで、ピアノが入った音楽器をスピーカーに繋いで部室から流し、脱出したのだ。
三柑の音楽は人を惹きつける。六花が取り付けた滅び用の連動スピーカーを使えば、それは島中に響き渡る。天文部にて生放送中、という嘘看板もちゃんと付けておいた。
全員と言わないまでも、多くの人がアレを見るだろう。
けれど、この作戦は机上の空論だ。露見した瞬間、畳まれたら終わる。……だから。
「二葉が作った場所を、他ならぬ、君が守るんだ」
この地上で、柊六花に勝てる人間はいない。だから、告発は止まらない。
「……貴方は、この上ない、人でなしだわ」
「だったら! 俺のことなんて嫌え! 殺せよ! 二人して、人生狂わせて何やってる!」
怒りじゃない。ただ、やりきれない。月の魔力は、どこまで悲しいのか。
「……そう。貴方、心が戻ったのね?」
だから、どうしてそこで、笑うかな。君は。……本当に、勘弁してくれよ。
「心があったら、こんな残酷なことするもんか!」
「残酷って、言えるのね。なら、私はそれでいいの。最後まで、協定を守るだけ。私が今日を償えば、あの約束は終わり。……だから、最後に勝つために、ここは引くわ」
「責めろって言ってるんだ! 馬鹿なのかっ!」
「何とでも。最後に勝てれば、私はそれでいい。……また明日ね。絶対、負けないわ」
そう言って、白い景色の中、彼女は消えていった。
雪の中、崩れ落ちる。レイには、絶対に構うなと言ってあった。
「何が、負けない、だよ。……どうして頭がいいのに、そんなに馬鹿なんだ」
俺たち、誰も勝ってない。月に見られた時点で、負けが決まってるじゃないか。
人が踏んで汚れた雪にまみれて、みっともなく泣いた。
誰も嫌ってくれないのが、一番悲しかった。
「うわっ。うわわわ、どしたのこれ、濡れとる! 拭いたげるからじっとしてて!」
二葉のかばんは、何でもでてくる。タオルはもちろんのこと、飴とかも。
「雪にまみれたい気分だったんだよ……」
「そんな気分があって……、ん? んんー?」犬のように嗅ぎ回られた。
「……あんた、デート前によその女と会ったな? ああん? しかも柊っ!」
「君の前世、絶対麻薬犬とかだよ」
「フタバ警察甘く見んなよコラ。インターポールより優秀。嘘ついても絶対バレっぞ」
「……罪を、認めます。ラブコメ的なデートをしました」
「よろしい。断罪。罰としてギネス級のデートを要求します」
「ちょっとそこで休憩してく?」
「宮刑してやろっか?」
「宦官は嫌だ……」
腕を組まれる。柔らかい、いい匂いがした。人をだめにする女だと思った。
「よっしゃ、行くぜ! 全額オゴリね! 今年も月島焼きあるかなー?」
「……なんだか、君といると安心するよ」
「……それさー、あたしに魅力ないってこと? ヘコむんですけど……」
「逆。それが君の魅力だよ」
最後の星海祭を、二葉といつも通り楽しんだ。いつも通りが、一番うれしかった。
跳ねて、笑って、時には拗ねて、また笑って。二葉は、本気で楽しんでいた。
この子は、最後まで俺の運命をおくびにも出さなかった。柔らかい笑顔で、ずっと。
二葉と六花は、よく似てる。そんな二人の間に生まれたものを、尊く思った。
「はじまるね。なんか、わくわくしてきたなー。蓮くんの舞台、初めてなんだ」
「……ああ。俺も、だよ」
それは俺の甘さであり、祈りであり、彼への敬意だ。
未知は、未来を狂わせるかもしれない。それでも俺は、この場を蓮に任せる。
あの時、見返りもなく蓮は応えた。ならば今度は、俺の番。
『只今より、Reaper Leaper――右往左往、開演でございます』
屋外のステージが拍手に包まれる。この物語に、雪は欠かせない。
今日という日に、どうして雪が降ったのか分かった。
「頑張れ。……今は、お前が主役だ」
三人で、真っ白な気持ちで、蓮のステージを見守った。
親友の全てが、そこにある。見ている間、俺は全てを忘れ、観客の一人になれていた。
未来も過去も何もない。ただひとりの、見守る者。世界はその時、蓮の為にあった。
『ふざけるな! ルナティックは、人じゃないってのか!? 俺たちはただ、生きてんだ!』
叫び、心を揺らすもの。それは、血と肉で出来た、人間の叫びだ。
俺はかつて、三柑を天才と言った。その時蓮は、否定した。当たり前だ。
『いいだろう、死神! 魂でも何でも持っていけ! 俺は、抗う! あのふざけた月を、ぶっ壊してやる! ……その為なら、命だって惜しくはないっ!』
奇跡も天才もない。ただ、人が時間に積み上げる想いに、与える名前がないだけだ。
『……ああ。それでいい。死神よ、感謝する。……俺は、生きて、良かったぞ――』
万雷の拍手と涙が、島を揺らした。俺の目にも、それはあった。
「……良かっ、た。……よかった、なぁ」
同じように泣いていた二葉が、俺を後ろから抱きしめた。ぽんぽんと、頭を叩いて。
「そっか。……そっかぁ。…………うん。よかった、ねぇ」
長く生きた時間のこけらを落とすように、俺はずっと泣いたままだった。
星海祭が終わる。白い雪が、全てを覆い隠して。
そして、最後の一日が始まる。
「や、やーやーやー。こ、こんばんはー。お邪魔しまーす」
はずだったのに、もう寝るっていうその前に、二葉が枕持ちで部屋に入って来た。未知。
「な、何しにきたっ! この時間いつも君は寝てるんだよ! 寝てくれ!」
二葉が時計を指差す。見た。ちょうど、日付が変わったところだった。
「二月十四日が終わりました。ということで、漁は解禁なんですな」
「解禁……?」
「一人くん、心、育ったよね。泣いてたもん。……とゆーわけで、協定は終わったんです」
『た、退室してるねー』「ちょっと待て!」「もう、ずっと待ったもん」
視線に、ぬるい温度がある。……ああ、そうか。蓮め。最後の最後まで、ランダム要素!
「ねえ、一人くん。……柊、十歳、病室。フタバ警察は、優秀だよ」
「……それ言われると、弱いよ。どこで知ったんだ」
「あたしには、なーんでもお見通しだったの。……最近は、小癪なことしてくれるけどさ」
くすりと笑った。真っ暗な部屋では、唇に艶があるように見えた。「……だめ?」
俺の、的確に弱点を突くところは、絶対こいつの影響。
「……寝るだけだからね」
「……んふふー」
「寝るだけだからなっ!」




