01. 出会い
しばらくは毎日投稿頑張りますので、どうかお付き合いをお願いしますm(_ _)m
草の匂いに、血の匂いが混ざった。
その瞬間、僕は自分がとんでもない場所に踏み込んでしまったことを悟った。
ギルドで受けた薬草採取の依頼をこなすため、少し森の奥まで入っただけだった。いつもなら入り口付近で必要な分は集まるのに、今日に限って見当たらず、気付けば普段より随分奥まで足を進めていた。
周囲の木々は鬱蒼と生い茂り、木漏れ日が地面にまだらな影を落としている。虫の羽音と、遠くで鳴く鳥の声だけが響く、静かな昼下がりだった。
短めに整えた髪は、前髪だけ横に流れるように少し長さを残している。額に張り付いた汗で、その一房が重くなっていた。長く伸ばすと邪魔になるからと、母が生きていた頃からずっとこの髪型のままだった。
8等星――冒険者としては最底辺の格付けだ。依頼を選べる立場でもなく、こうして地味な採取仕事を黙々とこなす日々が続いている。それでも、文句を言えた義理じゃない。剣一本で食っていく道を選んだのは、他でもない自分自身だった。
背負子の中身は、まだ半分にも満たない。焦りながら奥へ奥へと足を進めていたことに、僕自身、途中まで気付いていなかった。
誰かと連れ立って依頼をこなす他の新人冒険者たちを、時折ギルドで見かける。笑い合いながら報告を上げる彼らの背中を見送るたび、少しだけ、胸の奥がざわついた。パーティを組む当てもなく、ただ黙々と剣を振るう毎日。それでも仕方がない、と自分に言い聞かせてきた。誰かと一緒にいることに、今さら期待するつもりもなかった。
戻ろう。そう思って踵を返しかけた時、悲鳴が聞こえた。
女の子の声だった。
「――っ、うそ、でしょ……!」
導かれるように、声がした方に向けて自然と足が動き出した。8等星の分際で、と頭の片隅で誰かが笑う。それでも止まらず、さらに走るスピードを上げていく。
茂みを掻き分け、枝に頬を打たれながら、僕は無我夢中で走った。心臓が、さっきまでとは違う速さで打っている。悲鳴の主が無事かどうか、確かめる術はまだない。それでも、足を止めるという選択肢は、最初から頭になかった。
木々の間を抜けた先に、それはいた。
クリムゾンベア。
冒険者ギルドの資料で見た覚えがある。討伐推奨輝度、5等星以上。熊によく似た、赤黒い体毛に覆われた見上げるほどの巨躯が、木々の隙間から差し込む光に反射し、ぬらりと嫌な光り方をしている。盛り上がった全身の筋肉が、毛皮越しにも分かるほど隆起していた。起き上がり後ろ足で立つその姿は、生まれ故郷の森で見た熊とは比べ物にならないほど大きい。
低く漏れる唸り声が、地面を伝って腹の底まで響いてくる。空気そのものが、纏わりつくように重かった。
足が、竦んだ。頭では分かっている。今の自分が敵う相手じゃない。逃げろ、と本能が叫んでいる。それでも、足は根が生えたように動かなかった。
その足元に、聞こえた声の主、一人の少女が倒れていた。脚から血を流しながら、それでも短剣を握る手だけは離していない。
母さんが死んだあの日も、こうだった。何もできずに、ただ立ち尽くすだけだった。
目を閉じれば、今でも思い出せる。届かなかった手。出せなかった声。あの日も、僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。何かを守れるほどの力なんて、どこにもなかった。
その記憶が、頭の隅を一瞬だけよぎる。
「逃げて――!」
僕が言い終わるより早く、クリムゾンベアの前脚が振り上げられる。
少女は動けずにいた。脚の傷のせいか、恐怖のせいか。
助けに入れば、次に牙を剥かれるのは自分だ。頭では、それが分かっていた。逃げるなら今しかない。それでも、目の前で誰かが傷つくのを、黙って見ていることだけはできなかった。
(――駄目だ)
その一言が、強張った体を突き動かした。
僕は少女とクリムゾンベアの間に割り込んでいた。剣を構える。柄を握る手が震えている。
突然の乱入者に、クリムゾンベアが一瞬たじろいだ。振り上げたままの前脚が、宙で止まる。
でも今は、後ろに誰かがいる。
それだけで、震える手に、わずかに力が戻った。
胸の奥で、何かが小さく脈打った。
ドクン、と。
まるで心臓とは別に、もう一つ心臓があるみたいに。
だが、確かめている余裕はない。たじろいでいたのは、ほんの一呼吸の間だけだった。クリムゾンベアの前脚が、再び振り下ろされる。
後ろには少女がいる。避ければ、あの子を守れない。
僕は歯を食いしばり、剣を斜めに構え、迫りくる凶悪な爪の軌道を逸らす。
攻撃を逸らされたクリムゾンベアの一瞬の隙を狙い、袈裟懸けに思い切り剣を振り下ろす。刃が、分厚い毛皮に弾かれる。傷一つつけられないまま、衝撃だけが両腕に突き抜けた。
「あがっ……!」
直後、前脚の一撃が横合いから体を捉えた。受け止めきれず、体が地面を転がる。頭を強かに打ち、額の辺りが熱くなる。
それでも、なんとか立ち上がる。額から流れた血が目に入り、視界の端が赤く滲んだ。
迫る影に、反射的に剣を構え直す。足を踏ん張り、正面からクリムゾンベアを見据えた。
もう一度。今度は薙ぐように、力任せに。それでも、剛毛に守られた皮膚には、浅い筋一つ入らない。
クリムゾンベアの反撃は、運よく致命傷にはなっていない。しかし、振り抜かれた爪が、頬を切り裂いた。焼けるような痛みと共に、生温かいものが頬を伝う。切られた、と理解するまで、一拍の間があった。
それでも、攻撃を止めるわけにはいかない。ここで気を抜いたら僕は死ぬ。もう一撃、また一撃。剣を振るうたび、刃は弾かれ、こちらの体には一方的に傷が増えていく。二の腕を裂かれ、肩を掠め、いつの間にか全身のあちこちが熱を持っていた。
息が上がる。足元がふらつく。それでも、剣を握る手だけは、意地でも離さない。
クリムゾンベアの爪が、また唸りを上げて振るわれる。かろうじて体を捻り、致命の一撃だけはやり過ごす。だが完全には躱しきれず、二の腕に新しい傷が刻まれた。視界が、じわりと滲む。
一体何回、剣を振るっただろうか。数えることすら、とうにやめていた。それでも、剣を振るう腕を止めれば、そこで終わりだと分かっていた。
情けないくらい、何一つ通らない。技術も、力も、足りていない。
ちらりと視線を落とすと、少女は青ざめた顔で、それでも僕の背中をじっと見ていた。何か言いたげに口を開きかけて、けれど、声にはならなかった。
(守らなきゃ。今度こそ。)
ふと、気付いた。クリムゾンベアの動きには、どこか間があった。そもそも、爪の一振りで、僕の頭など容易く弾き飛ばせたはずだ。でも、まだ生きている。まるで――逃げも隠れもしない獲物を、じっくりいたぶって面白がっているかのように。
まだ、殺されていないだけだ。
「――くそっ」
掠れた声が、勝手に喉から漏れた。なんとかしないと。
もう満足したのか、視界の端でクリムゾンベアが体勢を整え直すのが見えた。次で終わる。そんな確信めいた予感が、背筋を冷たくする。
背中で、少女が息を詰める気配がした。守らなきゃ。ただその一心だけが、震える体を突き動かしていた。
柄を握りしめる手に、無意識に力が籠る。握りしめすぎたのか、手のひらに鋭い痛みが走った。じわりとした熱さも、それに混じって伝わってくる。
その熱は、全身にできた傷とは違う、もっと奥から込み上げてくるものだった。
構わず、僕は最後の力を振り絞って剣を横に薙いだ。
刃はほとんど傷をつけられなかった。それでも、剣先が前脚を弾いた衝撃は、明らかに異様だった。まるで巨大な破城槌を叩き込んだみたいに、クリムゾンベアの巨躯が大きく吹き飛ぶ。地面を転がり、木の幹に激しくぶつかって、ようやく止まった。
全身が悲鳴を上げていた。頬の傷はまだ熱く、二の腕からは血が止まらない。耳の奥で、キィンと甲高い音が鳴り続けている。何が起きたのか、僕自身にも分からなかった。ただ、稼げた時間は、思ったよりも大きかった。
「今のうちに、後ろに!」
少女の腕を掴んで引く。彼女は驚いた顔をしていたが、痛みに顔をしかめながらも、僕にもたれかかるようにしてクリムゾンベアから距離を取った。
「あなた、正気?」
「……無茶だった、とは思います」
「無茶どころじゃない、自殺行為だよ。けど――」
少女は、傷ついた脚を庇いながら、それでも小さく息を吐いた。
「まあ、今更言っても仕方ない」
クリムゾンベアが、苛立たしげに咆哮を上げる。まだ終わっていない。
むしろここからだ。
「作戦とかある?」少女が聞いてくる。
「ないです。考えていませんでした」
「だよね」
彼女は笑って、短剣を握り直した。
「なら、二人でなんとかするしかないか」
短剣を握り直した少女の目に宿っていたのは、怯えではなく、不敵な光だった。脚の傷の痛みを堪えているはずなのに、その瞳だけは、微塵も揺らいでいなかった。
その一言に、震えていたはずの手が、少しだけ落ち着いた。
見ず知らずの相手のはずなのに、隣に並ばれただけで、これほど心強く感じるとは思わなかった。ひとりで立ち向かっていた時とは、明らかに何かが違う。
少女が懐から取り出したのは、小さな玉のようなものだった。
「閃光玉。目も耳も、一瞬やられるから――あいつが怯んだうちに!」
言うなり、それを地面に叩きつける。次の瞬間、刺すような閃光と共に耳をつんざく音が弾けた。クリムゾンベアが怯んで後ずさる、その隙を突いて、僕は脚を庇う彼女を背負い、死に物狂いで走った。
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