1-6 壊れていく身体
今回は、少女が「不思議な薬」の服用に、不安を感じ始めた場面です。
1-6
気づけば、少女は家へ戻っていた。
どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていなかった。
急いで衣装を脱ぎ、自分の粗末な服へ着替える。
その瞬間――祭りで自分がしたことを思い出し、全身を恐怖が駆け抜けた。
もし、義母に知られたら。
もし、衣装を勝手に使ったことがバレたら。
考えるだけで、身体が冷えていく。
義母たちの帰宅までの時間が、ひどく長く感じられた。
夕暮れ過ぎ。
少女は震える気持ちを押し隠しながら、帰宅した家族を出迎える。
だが――
誰も少女に声をかけなかった。
いつも通り、少女の横を通り過ぎていく。
留守番をしていたことを、誰も疑わない。
(……バレて、いない?)
少女は、ようやく小さく息を吐く。
その時――
一瞬だけ、義妹の視線を感じた。
何かを考えるような視線。
だが、それもすぐに消えた。
祭りの翌日。
また、いつもの朝が始まる。
暗いうちに目を覚まし、冷たい床へ足を下ろす。
布を被り、桶を持ち、井戸へ向かう。
昨日の出来事が夢だったように、日常は変わらない。
だが――
身体の奥に、かすかな違和感が残っていた。
疲労感が抜けない。
頭の奥が、鈍く痛む。
それでも仕事は止められない。
止まれば、それだけで叱責される。
薬が切れている感覚もあった。
だが、その日は飲まなかった。
(……少し、怖い)
理由を説明できるわけではない。
ただ、漠然とした不安が胸に残っていた。
祭りの優秀者の噂は、すぐに町中へ広がった。
使用人同士の会話。
市場の噂話。
食卓での雑談。
「今年の舞は凄かったらしい」
「特に、あの優秀者の娘が――」
断片的な言葉が、あちこちから聞こえてくる。
だが誰も、それが少女だとは気づかない。
少女は、何も知らないふりをして働き続けた。
ただ――
義妹だけは、時折じっと少女を見るようになっていた。
何かを確かめるような、迷いを含んだ視線。
少女も、それに気づいている。
だが、何も言わない。
言えば、何かが壊れてしまう気がした。
数日後。
義母の態度は、完全に元へ戻っていた。
「仕事が遅い!」
「役立たず!」
叱責が、再び当たり前のように飛んでくる。
少女は黙って頭を下げる。
慣れているはずだった。
だが――
身体が、ついてこなかった。
頭痛やめまいが、以前より明らかに増えている。
立ち上がった瞬間、視界が揺れる。
耳鳴りで、声が聞き取りづらくなることもあった。
そのたびに作業が遅れ、さらに怒鳴られる。
悪循環だった。
少女は、理解していた。
原因は、あの薬だ。
身体の内側で、何かが変わってきている。
そんな感覚が、日に日に強くなる。
なるべく飲まないようにしようとする。
だが――長くは続かなかった。
強い叱責を受けると、胸が締めつけられる。
呼吸が浅くなり、視界が暗くなる。
その瞬間には、もう物置へ向かっていた。
(……今回だけ)
そう思いながら薬を飲む。
すると、苦しさがすっと引いていく。
呼吸が戻る。
身体が軽くなる。
その感覚を知ってしまえば、もう止められなかった。
しかも今では、毎回三粒飲んでいる。
二粒では、症状が少し残る。
効果の持続も短くなっていた。
最初は十日以上続いたものが、今では数日しかもたない。
その上、切れた時の反動は、どんどん強くなっていく。
少女は分かっていた。
(このままじゃ……危ない)
それでも、止めることができない。
薬が無ければ、日常に耐えられなかった。
そんな頃。
町には、新しい噂が広がり始める。
『祭りの優秀者を、貴族や大商家が探しているらしい』
黒髪。
美しい簪。
気品ある立ち居振る舞い。
断片的な情報だけが、人々の想像を膨らませていく。
大商人の娘。
貴族の隠し子。
王族の血筋。
噂は、勝手に大きくなっていった。
少女は、その話を聞くたび、手を止めそうになる。
だが、すぐに動かす。
聞いていないふりをする。
関係のない話として処理する。
頭の中では、優秀者の男性との舞――あの一瞬が蘇る。
浮かぶたびに、胸が熱くなる。
(あれは、夢みたいなもの……)
(私のことじゃない)
そう思わなければ、平静を保てなかった。
やがて噂は、さらに大きくなる。
『王族まで探しているらしい』
真偽も分からない話だった。
だが人々は面白がった。
少女の胸も、わずかに揺れる。
(もし、名乗り出たら――)
(あの方にも、また会えるかもしれない……)
脳裏に浮かぶのは、優秀者の男性。
初対面の微笑み、舞の最中の真剣なまなざし。
そして、拒絶後の胸の痛みを思い出す。
だが、すぐに全てを押し込めた。
どうせ、誰も信じない。
自分には関係のない世界だ。
食事中にも、その話題が出る。
「どこの娘なのかしらね」
義母が興味なさそうに言う。
「簪も、とても綺麗だったとか」
使用人が補足する。
義妹は、黙ったまま食事をしている。
少女は、何も言わず給仕を続けた。
すると義母が、少女を見て鼻で笑う。
「黒髪だったらしいけど――」
「うちの誰かさんとは、大違いね」
少女の肩が、わずかに揺れた。
だが顔は上げない。
そのまま静かに台所へ下がる。
なるべく早く、義母の視界から消える。
それが、もう習慣になっていた。
一方で――
義妹の態度は、少しずつ変わっていた。
義母に見つからないよう、小さく話しかけてくる。
「……ありがとう」
「それ、手伝おうか?」
以前のような棘がない。
普通の声だった。
時には、義母の気を反らしてくれることもある。
少女は戸惑った。
(どうして……?)
警戒は消えない。
だが、完全に拒絶する気にもなれなかった。
少しずつ、二人の視線が交わる時間が増えていく。
その頃には、少女の身体は確実に壊れ始めていた。
頭痛やめまいの頻度が増え、作業中に屈み込むこともある。
さらに薬が効いている間は、不自然な高揚感に襲われるようになった。
心が軽くなり、身体が浮くような感覚。
笑みが、勝手にこぼれそうになる。
(……おかしい)
少女自身、自分の異常を理解していた。
思考と感覚が噛み合わない。
現実との境界が、少しずつ曖昧になっていく。
ある日――
少女は、義母の大切な壺を割ってしまった。
その日は、特に体調が悪かった。
薬を飲むべきか迷ったが、不安が勝った。
(今日くらいなら、大丈夫なはず……)
そう判断したのが失敗だった。
午後になる頃には、頭痛とめまいが酷くなっていた。
それでも仕事を止めることはできない。
ほんの一瞬、意識が抜けた。
気づけば身体が傾き、反射的に壁へ手を伸ばしていた。
その手が、壺に触れる。
(しまった――)
次の瞬間。
壺が落ちた。
割れる音が、やけにゆっくり聞こえた。
空気が凍る。
少女の全身も硬直した。
気づけば、すぐ近くに義母が立っていた。
「何やってるの!」
怒声と共に、叩かれる。
何度も。
少女は破片の上へ倒れ込んだ。
腕や顔に痛みが走る。
それでも反射的に、頭だけは庇っていた。
そのまま小屋へ引きずられ、閉じ込められる。
食事も与えられなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
気づけば、外は暗くなっていた。
「……寒い……」
身体中が痛む。
薬も切れていた。
頭痛。
吐き気。
空腹。
息苦しさ。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
(もう……どこでもいい……)
(ここじゃなければ……)
その時だった。
少女の手には、いつの間にか袋が握られていた。
飲んではいけない。
そう分かっている。
それでも、頭に浮かぶのは一つだけだった。
(幸せな時に、戻りたい……)
冬祭りの舞台が浮かぶ。
音楽。
あの男性。
意識が重なった感覚。
(もう一度……)
少女の指が動く。
一粒。
二粒。
三粒。
そして――四粒目。
(もう……どうなってもいい……)
少女は、一気に飲み込んだ。
その瞬間――
喉へ、鋭い熱と痛みが走る。
少女は、そのまま床へ倒れ込んだ。
次回【1-7 少女の選択】は、明日7時に公開予定です。
『第1章:少女の章』のラストです。




